Childhood's End
15話
「あの……もうしばらくはここで様子を見ていた方がよろしいのでは？」
和泉はそう言って、屈強な外見とは不釣合いな繊細さを感じさせる眼差しを、今退出した部屋の扉に送った。しかし鴇津は悠然と笑って首を振り、
「和泉さん、そういうのは野暮というものですよ」
「野暮、ですか」
「そうそう。ここから先は二人だけの世界ですからね。それが甘い薔薇色の世界になるか、苦い鈍色の世界になるかは遼牙様のお心ひとつです」
「なるほど。我々が関知するところではない、と。分かりました」
どうやらこの和泉という男、人心の機微にも長けているようだ。もっとも、毎晩遼牙の分の夕食を作って待っている瑠羽を見ていられず、雇い主に意見するくらいなのだから、もともと心優しい性質なのだろう。瑠羽が彼に少なからず心を許しているのも、そういった内面に触れたからに違いない。
「さ、参りましょうか」
「はい」
二人の男は連れ立って、遼牙の家を辞した。瑠羽の涙が一刻も早く晴れるようにという願いは残したまま。
「私は……養父失格だな。迷惑をかけないよう頑張るなどと、言わせてはいけないのに」
長い沈黙の末にまず出てきたのは、自責の言葉だった。
「何もしなくていい。頑張らなくていい。瑠羽はただここにいてくれるだけでいいんだ。健やかで笑っていてくれれば、それでいい」
続けて、本音がすらすらと出てくる。そんな遼牙を見つめる瑠羽の目には、あからさまな驚きが張り付いていた。遼牙は思わず苦笑する。
「ちゃんと、言葉にして言わねばならないこともあるんだな。すまなかった。私の気持ちは、今告げた通りだ。ホームへ戻ってほしいなんて、露ほども思っていない。ただ……半ば強引な形で引き取ってしまったから、迷いがあったことは事実だ。これでよかったのだろうか、瑠羽は幸せなのだろうかと」
「遼牙さま……」
「そんな迷いが、お前を不安にさせてしまったんだな」
実際、遼牙の抱えている迷いはもっと複雑だった。瑠羽に対してどう接するべきか、婚約者のことをどう伝えるかなど、うやむやのまま先延ばしにしていることが多い。瑠羽が不純物のない愛情を真っ直ぐ捧げてくれるから余計に、そういった己の曖昧さが際立ってしまう。
「遼牙さま、僕は本当に幸せです。だから、これでよかったのかなんて考えないでください」
言葉の勢いに押されるように、瑠羽が身体を寄せてきた。その動きが甘い香りを運ぶ。瑠羽の肌に由来するものだろう。
遼牙は無意識のうちに深呼吸して、その薫香を孕んだ空気を肺腑いっぱい吸い込んだ。内側から満たされるような感覚に、しみじみとした歓喜が湧き上がる。この温かな感情に導かれるまま、遼牙は瑠羽を抱き寄せた。
「ひゃっ……りょ…きさま……」
予期していなかったのか、瑠羽は驚きの声とともに遼牙の上に倒れ込んだ。それを受け止め膝の上で抱きかかえると、瑠羽は困惑しつつもきゅっとしがみついてきた。
「……こうして触れ合うのは、久しぶりだな」
「はい……」
施設の中庭、月明かりにしっとりと濡れた東屋で最後に抱き合ったのは、どのくらい前のことだろう。普段意識することがないよう、努めて記憶の底に抑え込んでいたけれど、今再び抱き合ったことで、途切れた時間の端と端が自然と繋がってゆくのが分かる。
長かった空隙は、どこかへ消えてしまった。まるで、最初からそんな空隙などなかったかのように。ずっとこうして抱き合っていたかのように。
そのまま心地よい沈黙にどれほど浸っていただろう。やがて瑠羽がおずおずと口を開いた。
「……避けられているのかなって思ってました」
「うん？」
「お忙しい方だというのは分かっていたけれど、まさかここまでとは思っていなかったんです。だから、もしかしたら避けられているのかなって。僕の存在が、何かの邪魔になってるのかなって。でも」
瑠羽はいったん言葉を切って遼牙の顔を見上げると、ちょんと首をすくめて小さく笑い、
「でもすぐに、そんな自分の僻み根性が恥ずかしくなるんです。遼牙さまが掛けてくださる優しい言葉には、本物の思い遣りがたくさん詰まっているじゃないか、本当にお忙しい方なんだから仕方ない、って。でもやっぱり、一日にほんの数分しかお顔を見ることができないのは淋しくて……」
「そうか……」
淋しいけれど、淋しさを感じていることを気取られてはならない、そんな葛藤があったのだろう。遼牙は宥めるように頭を撫で、
「色々と悩ませてしまったようだな。悪かった」
謝罪の言葉に、瑠羽は弾かれたようにピンっと背筋を伸ばし、
「いえ、そんなっ。遼牙さまはちっとも悪くありません！ それに、遼牙さまにも迷いがあったということを知ることができましたし。もう変な風に考えたりしません。遼牙さまが今以上に忙しくなってお顔を合わせることができなくなっても、避けられてるとか嫌われてるとか、そんな卑屈なことは考えません。何があっても、僕にとってここにいることが幸せなんだと断言します」
「今以上に忙しくなるのは、ご免蒙りたいがな」
遼牙は苦笑混じりで本音を漏らし、瑠羽の頭に軽いキスを落とした。
「そういえば、瑠羽、私のために毎晩夕食を用意してくれていたそうだな」
「えっ？ あ、あの……はい。すみません……」
みるみるうちにしおれてゆく瑠羽に、遼牙は「なぜ謝る？」と優しく訊ねる。瑠羽はこわごわ見上げて、
「だって、頼まれてもいないのに勝手なことして……。それに、正直ちょっと意地になってたところもあります。遼牙さまが早く帰ってきて食べてくださるまで作り続けてやるんだ、って」
率直な物言いに、遼牙は思わず声をあげて笑ってしまった。なぜ笑われたのか分からぬ瑠羽は、きょとんと目を開けて首を傾げる。
「遼牙……さま？」
「いや、すまない。瑠羽にもそういう頑固なところがあるのだな」
「うう……ごめんなさい」
「謝る必要はない。お前の気持ちに気付かず、仕事を優先させていた私にも非はある。それに、和泉も喜んでいたしな。栄養バランスがいいお陰で最近体調がいいと」
「そ、それならよかったです……でも、」
口ごもりつつ、瑠羽がそろそろと手を伸ばしてきた。途中、白い指先は惑うようにひくんと震えたが、やがて遼牙の緩んだ襟元にそっと触れた。
「でも、やっぱり遼牙さまに食べてもらいたいな、って……」
遼牙は、その華奢な手を包み込むようにぎゅっと握り、
「それだけか？」
「え？」
「私にしてもらいたいことは、それだけか？」
瑠羽はぱたぱたと音が聞こえそうなほど大きな瞬きを繰り返してから、かあっと頬を赤らめた。しかし目は逸らさず、
「た、たまに……ぎゅっとしてもらいたいです」
「あとは？」
「あとは、え、えと……」
瑠羽はまるで助走をつけるようにひゅっと息を吸い込んで、言葉とともに一気に吐き出した。
「キスをしてほしいです。大人のキスを……」
羞恥がまさったのか、欲求とは裏腹に俯いてしまう。そして頭をぐいぐい押し付けてくる。遼牙は喉の奥で笑いを転がし、
「痛いぞ、瑠羽」
「ごめんなさぃ……」
「それに、これではキスができない」
遼牙の言葉に、瑠羽の身体は見事に硬直した。膝の上でカチコチになり、徐々に体温を増してゆく身体をあやすように揺らしていると、ようやく瑠羽が顔を上げてきた。
「遼牙さま……」
期待と羞恥の狭間で揺らぐ蜂蜜色の瞳にいつもの無邪気さはなく、代わりに誘うような妖しい艶を帯びていた。
いや、それは遼牙の主観にすぎず、瑠羽にそんな思惑はないだろう。甘い蜜に誘われる虫のように、遼牙が勝手に引き寄せられるだけだ。
「あ……」
顎に指をかけてくいと上向かせると、軽く閉じられていた唇が無防備な綻びを見せた。ぷっくりとした曲線とともに、柔らかそうな質感も強調され、遼牙は無意識のうちに軽く喉を鳴らす。
触れて、舐めて、食んで、吸いたい。それは果たして、愛欲なのか性欲なのか食欲なのか。いずれにしても危険な欲望には変わりなく、遼牙はいったん躊躇した。一線を越えないために、これまで何とか抑え込んできたのではなかったか。その時、
「……っ、瑠羽」
綿菓子のように甘くふんわりとした吐息が遼牙の唇にかかり、そして間をおかずしっとりと温かなものが触れた。まさか瑠羽の方から仕掛けてくるとは思ってもいなかった遼牙は、情けないことに呆然となった。
瑠羽は瑠羽で、自分のしたことに自分で驚いているようで、耳まで赤く染めて恐縮している。
「ご、ごめんなさいっ」
遼牙を不快にさせてしまったと思ったのか、切羽詰った声で謝罪を叫ぶと、瑠羽は膝の上から飛び降りようとした。遼牙は頭で判断するより早くその腕を掴み、逃がさないとばかりに拘束する。本能的な所有欲が、理性を完全に駆逐した瞬間だった。
「あ、うっ…ん、んふぅ……」
ぼんやりとだが理性が戻ってきた時には、遼牙の唇は瑠羽の柔らかなそれを食むように、揉みしだくように吸っていた。いや唇だけではない。舌も根元からまさぐり、巻き込むようにして吸い上げる。
深い角度で重なり合った唇の隙間から、グチュグチュと水っぽい音が滴り、唇を軽く離したりまた押し付けたりするたびに唾液が弾ける。そうして瑠羽の口腔を犯しながら、遼牙は己の欲望が制御不能の危険域にまで達しようとしていることをうっすら悟った。
自分もオスである以上、これまで性欲と無縁だったわけではない。だがそれは、理性でいかようにもコントロールできる程度のものだった。いわば、欲望の上澄み。社交としての性交に必要な程度の欲望だった。
しかし今、下腹部からじっとりと湧き上がる不穏な熱は、そういった“対外的な”性欲とは質も激しさも異なる。無意識や本能と直接繋がっているごく私的な欲望。制御どころか、その正体すら掴めない。明らかなのは、この領域が騒ぐのは初めてだということだ。
「は…ふっ、ふぅん……」
時折聞こえる瑠羽の吐息は、遼牙に全てを預けきっていると言わんばかりに甘えた響きを湛えていた。予告なしの荒っぽさに怯える気配もなく、ただうっとりと無防備をさらけ出して求められるもの全てを与える。
不思議なことに、そんな愛情と信頼を見せ付けられると余計に遼牙の独占欲は高まった。もっともっと縛り付けて、これを自分だけのものにしたい。誰の目にも触れさせたくない。
森の奥にひっそりと建つ大きなお城に閉じ込めて、大事に大事に慈しむ。そう、まるでファンタジーの国の王様が、愛妾を囲うかのように───
「りょ…きさま……ずぅっと、おそばにおります……」
「ああ、傍にいてくれ。愛しているよ、瑠羽……」
かつて夢の中で幾度も繰り返し囁いた台詞が、口づけの余韻に痺れる遼牙の唇から自然とこぼれた。たかが夢、されど夢。遼牙はようやく、夢の自分と現実の自分の合致に正面から向き合うことができた。
「……いきなりすまなかったな。驚いたろう」
遼牙はそう言って、ぽわんと開いたままの濡れた唇を宥めるように軽く吸った。瑠羽ははっと我に返ったように目を瞬かせて、
「いえ、あの……う、うれしかったです……」
舌を吸われすぎたせいでうまく回らないのか、瑠羽はとろんとした幼い声で率直な気持ちを告げた。
「うれしくて、どきどきしました」
そしてわずかにためらったのち、
「また、してくださいますか？」
「瑠羽は欲張りだな」
からかい混じりに応えてから、瑠羽がごめんなさい、と言う隙を与えず、
「もちろん、いつでも。それから、少なくとも週に一度は一緒に夕食をとろう。私も、瑠羽の手料理を味わいたい。和泉にばかりいい思いをさせるのは癪だ」
正直、問題は何も解決していない。婚約者のこともいずれ伝えねばならないだろうが、瑠羽を傷つけずに伝える巧い方法は見つかっていない。
けれど、と遼牙は思った。これ以上瑠羽に淋しい思いを強いるわけにはいかない。自分は瑠羽の安全を保持するためと同時に、瑠羽を幸せにするために引き取ったのだから。そして瑠羽の幸せとはすなわち、
「僕ぅ……しあわせです。週に一度も、遼牙さまとお食事できるなんてっ……」
少しでも長く、“大好きな遼牙さま”と一緒にいることなのだから。
（Fin）
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