Childhood's End
13話
遼牙の忙しさは、瑠羽の想像を遥かに超えていた。引き取られて一週間が経とうとしていたが、その間一緒に食事をとったのは初日の夜一回きり。瑠羽は毎晩二人分の夕食をこしらえたが、それが遼牙の口に入ることはなかった。
余った分は丁寧にラップをかけて冷蔵し、翌日の朝と昼に食べる。何度か、弁当箱に詰めて和泉に渡したこともあった。和泉は恐縮しながらも受け取り、翌日には空の箱をきれいに洗って返してきた。とても美味しかったです、との感想付きで。
そんなすれ違い生活の中でも、遼牙は必ず一日一回、何か変わったことはないか、体調はどうだ、必要なものは足りているかと声を掛けてくれた。
気にしてくれるのはもちろん嬉しいが、むしろ瑠羽は遼牙の身体が心配だった。働き盛りではあるのだろうが、たまには息抜きでもしないとストレスが溜まって悪影響があるのではないか。そんな不安を口にすると、遼牙は決まって「もう慣れてしまった」と笑う。
あまりしつこく言って遼牙を疲れさせてしまっては元も子もないから、瑠羽は表面的には納得してみせるのだが、本心はいつ倒れてもおかしくないのではないかとハラハラしていたのだ。
瑠羽はいつも、遼牙が帰ってくるまで眠らずに待っていた。ベッドの中で耳を澄ませ、玄関の方へ意識を集中させる。そして帰宅の気配を感じると、今日も遼牙さまはご無事だったんだとほっと気を緩め、睡魔が支配するに任せる。
瑠羽がここまで心配しているとはつゆ知らぬ遼牙は、とうに眠っているだろうと思い、瑠羽の寝室の前で「おやすみ」と小さな声で囁くのだった。
しかし、遼牙の多忙さに対する瑠羽の感情はそういった“健全な”ものばかりではなかった。初日の夜にしてくれたしっとりと優しいキスをまたしてほしい。いや、それだけでは物足りなく思っている自分の存在を、瑠羽は自覚していた。
バレンタインデーや七夕の夜に交わした深い口づけを、与えると同時に奪うような甘い暴力性に満ちた交わりを、瑠羽は心の深層部で切に欲していたのだ。
しかし初日の夜以来、遼牙は瑠羽に触れようともしない。勇気を出して瑠羽の方から手を伸ばしても、触れる寸前ですっと離れてしまう。
それも、いかにも避けていると言わんばかりの態度ではなく、美しい微笑みを維持したままごくさりげなく一歩さがる感じだったから、嫌われているのかいないのか、迷惑がられているのかいないのか、瑠羽には判断がつかずどうしてよいか分からなかったのだ。
結局瑠羽は、密な触れ合いを求めて火照る肌を持て余しつつ、そんな自分が途轍もなく淫らで卑しい生き物のように思えて、恥じ入るように肩をすぼめるしかできなかった。
夏休みもあと少しで終わるというのに、照りつける日差しは真夏の激しさを保っていた。遼牙を見送った瑠羽はクーラーの効いた部屋で一人、とうに終えた宿題を見直して無聊を慰めていた。新学期が始まれば生活に慌ただしさも戻り、こんな退屈とは無縁になるだろう。
「あ、そろそろお昼の仕度しようかな」
独り言がすっかり日常化して久しかった。瑠羽は「昨日の残り物は……」と呟きながら、冷蔵庫の中を物色した。
その時、聞き慣れぬ電子音が鳴った。瑠羽はちょんと首を傾げてしばし考えてから、それが携帯電話の着信音であることをようやく思い出した。めったに鳴ることはなかったから、思い出すのに少し時間がかかってしまった。
もしかして遼牙さまからかも、とひとときでも甘い幻想に浸れればいいのだが、妙なところで現実的な瑠羽は、心躍らせることなく相手を確かめた。
「あ、祐太君だ」
学校で唯一親しく接してくれる山白祐太からの着信だった。ここ数日、和泉と遼牙としか言葉を交わしていないため、級友と気安く会話できるのは嬉しかった。
「もしもし、祐太く───」
『瑠羽か？！ お前っ、なんだよ！ ホームを出たんだって？！ なんで俺に教えてくれないんだよっ』
「あ、あの、えと……」
『義童先輩から聞いて初めて知ったんだぞ！ 水くさいにもほどがあるぞッ』
これはとにかく謝らないと収まらないだろう。瑠羽は「ごめんっ」と短い謝罪に気持ちを込めて送った。どうやら思いは通じたらしく、祐太は『お、おう』と言って追及をやめた。
「急に色々決まっちゃって。新しい生活にもまだ慣れなくて。学校が始まったらちゃんと話そうと思ってたんだ」
『そっか。まあ確かに急だったみたいだよな。義童先輩もそう言ってた』
義童の名前が、心の繊細な部分に切なく響いた。しかし努めて平静を装い、
「義童は元気？ ホームを出てからずっと会ってないから……」
『ううーん……瑠羽が心配するから、訊かれたら元気にしてると答えろって言われたけど、なんかけっこうへばってるみたいだった』
「具合が悪いの？」
『いや、身体じゃなくて精神的に参ってるって感じ』
「そか……」
俺と一緒に暮らそうと差し伸べられた手に背を向けて、遼牙のもとに来た。駄目だ、行くなと引き止める苦しげな声が、まだ耳の奥に残っている。
『あ、それでさ。先輩に映画のチケットもらったんだよ。学校が始まる前に、瑠羽を誘って二人で行ってこいって』
祐太はそう言って、有名なファンタジー小説を実写化した映画の名前を口にした。瑠羽も気になっていた作品だったから、反射的に「行くっ」と答えてしまった。
『よっしゃ。俺は今日ヒマなんだけど、瑠羽は？』
「あ、うん。大丈夫……」
若干トーンダウンしたのは、一人で勝手に出かけないように、という遼牙の言いつけを思い出したからだ。
でも、とすぐに考え直す。祐太と一緒だから一人ではないし、ちょっと映画を見るだけだから問題ないだろう。こんなことで和泉を呼び出すのも申し訳ない。
『瑠羽？ おい聞いてるのかよ』
「あ、ごめんごめん。それじゃ、学校の前で待ち合わせよっか」
『おう。じゃあ、二時に校門の前でな』
久しぶりに敬語以外で会話して、少し心が軽くなったような気がする。瑠羽は届くことのない感謝を義童へ送ると、簡単なランチを済ませて部屋を出たのだった。
さらさらと、川のせせらぎのようなピアノが心地よいラウンジだったが、彼女が演奏に耳を傾けている様子はなかった。かといって、本を読んだり壁に掛かっているアート作品を眺めているわけでもない。
彼女、諏訪内美奈子はゆったりとしたソファに浅く腰かけ、真っ直ぐ前を見ている。いや、“見て”すらもいないのかもしれない。黒い瞳は双つの奈落として、ただそこに在るだけ。
以前はこの瞳と近いものを自分も持っていたような気がするが、今あらためて見ると湧き上がるのは親近感ではなく戦慄だった。
『似たもの同士だった、でしょう？』と過去形であることを強調した鴇津の言葉が思い出されたが、遼牙は敢えて頭から追い払って彼女に近づいた。
「待たせてしまって済まない」
淡々と詫びつつ彼女の向かいに腰を下ろすと、柘榴色の唇がわずかに吊り上がった。
「構わないわ。どうせ時間を持て余している身だから。それより、あなたの方は大丈夫なの？ ずいぶんお忙しくしているようだけど」
「まあいつものことだ。たまには息抜きしないとな」
お仕事ばかりでお身体は大丈夫ですか？ たまには息抜きしてください───心から心配していることが分かる不安げな目で見上げ、真剣な声で訴えかけてきた瑠羽のことが思い出され、自然と頬が緩んでしまう。
そういった“本物の”感情に、美奈子は敏感だった。自身と縁遠いものだから、“異物”として目に付きやすいのだろう。どこまでも続く無感動の凪に、小さなさざ波が生じたようなものだ。
「どうなさったの？ ずいぶん……嬉しそうね」
美奈子の指摘に、遼牙はハッと息を呑んだ。君に逢えたからに決まっているだろう、と他の女性相手ならごまかせただろうが、美奈子にそんな甘い言葉が通用しないのは百も承知。遼牙は素早く心に蓋をして、いつもの表面だけ磨き抜かれた美しく皮肉な笑みを向けた。
「面倒な残務処理を全て鴇津に押し付けてきた。今ごろ泡食ってるだろうと思ったら、愉快な気持ちになった」
「まあ、悪いひと」
どうやら、うまくごまかせたようだ。遼牙はほっと安堵したがもちろん面てには出さず、今後彼女の前ではより慎重に感情を制御せねばなるまいと自分に言い聞かせた。しかし、
「孤児院から引き取った子とは、うまくやっているの？」
作為のタイミングではないだろうが、遼牙は動揺せずにはいられなかった。いったん呼吸を整えてから、「ん、ああ」とわざと曖昧な返事を返し、
「うまくやるも何も、忙しくてほとんど顔を合わせることがない。まあ、しっかりした子だから生活の面では特に心配していない」
「ずっと放っておかれてるのね。可哀想に。養父失格じゃなくて？」
「それ以上に、婚約者失格でもあるが」
「あら、自覚があるのね」
美奈子は面白がるようにそう言って、同じ軽い口調で痛烈な一言を放った。
「あなたの慈善趣味の犠牲にされた子供は悲劇ねえ。施設にいた方がまだ幸せだったんじゃないかしら」
遼牙を傷つけようという黒い意図がないことは分かっている。彼女は思ったまま、感じたままを言っているだけだ。
しかしその無邪気な言葉の刃が、時に相手に大きなダメージを与えるということを想像できるほど、彼女は大人ではなかったし、他人とのコミュニケーションに慣れていなかった。
「………っ、」
施設にいた方がまだ幸せだった、それは遼牙もひそかに思っていることだ。それが心の表層に浮かび上がってくるたびに、瑠羽を守るためにこうする必要があったのだと呪文のように繰り返し、己を納得させていたのだ。
「そう……かもしれんな。しかし、他人を犠牲にすることには慣れている」
なんて言い種だろうと自分でも思うが、美奈子はこの“率直な”物言いが気に入ったようだ。楽しげに唇を吊り上げ、
「あなたらしいわね。さ、そろそろ行きましょう。久しぶりに笑ったら、お腹が空いてきたわ」
これが、彼女にとって“久しぶりの笑い”だったらしい。普段どんな生活を送っているのかと寒々しい感慨に襲われたが、遼牙は表情を変えず頷いて立ち上がった。そしてエレベーターで最上階のレストランへ向かう。案内されたのは個室ではなかったが、間仕切りのお陰でプライバシーは保たれる。
「完全な個室より、こっちの方が落ち着くわ。個室はちょっと息苦しくて」
「気に入ってもらえたならよかった」
遼牙は食前酒を注文してからメニューを開いた。どうやらこの店は、デザートも豊富らしい。美奈子も「あら」と声を上げ、
「美味しそうなタルトね」
「食事の後にしなさい」
「親みたいな台詞」
美奈子の揶揄から、遼牙は思いついた。そうだ、たまには……。
「すまん、ちょっと電話してくる」
「鴇津さんへの労い？」
「いや、家にだ。君に養父失格だと言われたからな。たまにはお土産でも買って、父親らしさを演出してみようかと。フルーツタルトとチョコレートタルト、どちらがいいか聞いてくる」
「いいアイデアね。ここでお掛けになったら？ 私は構わないわ」
瑠羽との会話を、彼女に聞かれるのは抵抗があった。“本物の感情”に敏い彼女の前で、瑠羽への想いを悟られないよう振る舞えるだろうか。
しかしここで固辞して席を立つのも不自然だ。遼牙は「ありがとう」と返し、携帯電話で自宅の番号を呼び出した。しかし、
「……誰も出ない」
また和泉と買い物に行っているのだろうか。それにしては遅い時間だ。暗くなってからは極力外出しないようにと、少し強く言っておかねばなるまい。遼牙はそんなことを考えながら、瑠羽の携帯番号を呼び出した。すると電源が落とされているらしく、留守番電話センターに転送された。
背筋から脳天にかけて、ひやりとした冷たいものが駆け上がる。そんな尋常でない気配を察したのか、美奈子が怪訝そうに窺う。
「……どうなさったの？」
「いや……」
遼牙は上の空で応えながら、素早く和泉の携帯にかけた。
『はい』
「和泉、瑠羽と一緒か？」
『いえ。今日はご自宅には伺っておりません』
「何だとっ」
その剣幕で、和泉は事態を悟ったようだ。遼牙の命令を聞くより早く、『すぐご自宅に行ってみます』と言って電話を切った。遼牙は再び家の電話を鳴らしたが、やはり誰も出ない。
「くそっ、一体どこへ行った」
「夏休みだし、お友達とどこかへ出かけたんじゃ……」
「こんな時間まで帰ってこないのはおかしいだろう！」
苛立ちと不安をそのままぶつけてしまってから、相手が美奈子だったことや、ここがレストランであることを思い出した。
「すまない。つい……」
遼牙は慌てて取り繕い、表情を見られないよう顔を背けた。もう遅かったが。
「…………」
美奈子は何も言わなかったが、注がれる視線の密度から、彼女の驚きと不審が十分伝わってくる。遼牙は己の失策を悟ったが、数分後に和泉からの連絡を受けると、それどころではなくなった。
『瑠羽様はお出かけになったようです。外出用の靴がなくなっています』
「GPSは駄目だな？」
『はい。携帯の電源を落としたままのようです』
「位置情報の履歴追跡は」
『できますが、少々時間がかかります』
「分かった。すぐにやってくれ」
遼牙はもはや焦りと不安を隠さず、素早く立ち上がった。そして美奈子の顔を見ることなく、
「引き取った子に何かあったようだ。すまんが、今日の食事はキャンセルさせてくれ。埋め合わせはいずれ」
早口でそう告げて店を出た。その後、ウェイターがたまらず声を掛けるまで、美奈子は空の席をじっと見つめ続けたのだった。
BACK TOP 遼牙＆瑠羽INDEX NEXT