Childhood's End
第11話
よほど空腹を我慢していたのだろう、瑠羽はその華奢な外見からは想像もつかないほどの健啖ぶりを見せた。
ほうれん草でも練り込んであるのか、緑色の平打ちパスタをじっと眺め、これもスパゲティなんですか？ と首を傾げる。
それはタリアテッレというパスタの一種で、他にもさまざまな太さ、形態をしたパスタがあるんだよと教えると、目をくるんと見開いて頷く。と思ったらフォークに巻いて、口の中へ。そしておいしいですぅ、と言ってにっこり笑う邪気のない振る舞いに、遼牙もつられて笑顔になってしまう。
ワインを飲みながら瑠羽ととる食事は、この上なく楽しいものだった。美食に慣れた舌にとって、レンジで温め直した食事が美味しいはずはないのに、これまで食べたどんな高級料理より美味に感じられる。
人間の感覚なんて曖昧で信用ならないものだと呆れつつ、そういった感覚の揺らぎこそが人間らしさなのだともちろん分かっていた。食事というのは何を食べるかより、誰とどこでどんな空気の中で食べるかの方がずっと重要なのだ。
とはいえ、今後もこのような寛いだ食事が毎回できると思われるのも困る。遼牙は釘を刺すことも忘れなかった。
「これからは私を待っていないで、ちゃんと決まった時間に食事をとるようにしなさい。いいな？」
すると瑠羽は淋しそうに睫毛を伏せたが、「はい…」と素直に頷いた。その消沈ぶりが痛ましくて、遼牙は思わず声を掛けてしまう。
「……早く帰宅できた時は、一緒に食事をしよう」
「は、はいっ！」
さっきの返事から一転、弾けるような笑顔で返し、きらきら輝く瞳を向ける。全身全霊をかけて慕っています、と言わんばかりの真っ直ぐな眼差しに圧倒され、遼牙はたまらず目を逸らした。そして軽く咳払いして体裁を整え、
「今後の生活についてだが、まず瑠羽は、自分の安全を第一に考えること。一人で勝手に出歩くことは、当分の間は慎んでもらいたい」
「えっ？ そこまでしなくても……」
予想通り、瑠羽は驚きと戸惑いを露わにした。ことの深刻さを伝えるため、遼牙は鹿爪らしい顔つきと厳粛な声で、
「暴力的な手段で連れ去られそうになったのは、ついこの前のことだ。彼らの素性や目的がはっきりしない以上、油断はならない。そもそも私が瑠羽を引き取ったのは、そういう不逞の輩から守るためだ。分かったな？」
「はい……分かりました」
しぶしぶ、といった感じだったが、ともかく納得したようだ。
「それから鴇津に聞いたが、家政婦は必要ないと？」
「はい。自分のことは自分でできます。ホームでも、ずっとそうやってきました」
ここはホームではないぞ、という言葉が喉元まで上がってきたが、遼牙は押し戻した。瑠羽が、ホームで培った自立の精神に誇りを持っていることを、鴇津から聞いていたからだ。
「そうか。しかし今はまだいいが、夏休みが終わって学校が始まったら、食事の仕度や家事をするわけにもいかんだろう」
「いいえ、できます。料理はもちろん、お部屋の掃除も、遼牙さまの分のお洗濯も僕がします」
「待ちなさい。私はそんなことをさせるために瑠羽を引き取ったわけではない」
遼牙が少し慌てて宥めると、瑠羽はくすりと笑って、
「もちろん分かってます。僕がそうしたいだけなんです」
晴れやかな口調でそう言って立ち上がり、遼牙の隣に浅く腰かけた。そして膝の上に両手を置いて軽く身を乗り出す。二人の距離は縮まり、遼牙は我ながら情けないと思いつつもうろたえる。
「な、なんだいきなり」
「遼牙さま。またこうしてお逢いすることができて、本当に嬉しいです。夢のようです」
素朴な言葉に込められた心情が、遼牙の胸を強く打った。肌と肌の触れ合いはどんな軽いものでも理性をとろかす媚毒を含んでいるから、慎まねばならないと自戒していたはずなのに、遼牙の手は吸い寄せられるように瑠羽の頬へ伸びていった。
そのささやかな愛撫を瑠羽はうっとりと受け入れる。やがて再び口を開き、
「あの夜、遼牙さまからもう会わないと言われた時、これは罰に違いないと思いました」
「罰、だと？」
「はい。僕はあの当時、遼牙さまがお忙しいのを分かっていながら、会いにきてくれないことに不満を抱いてました。そんな自分勝手でわがままな僕に、神様が罰を下したのだと。織姫と彦星のように一年に一回であっても、二度と会えないよりずっとずっと幸せだと、あの時僕はようやく気づいたのです」
「瑠羽……」
「本当に……つらかった。身体の半分が、どこかへ行ってしまったかのようでした。遼牙さまからさよならを告げられてからの数日間、何をしていたのかまともな記憶がないんです。だから、今のこの状況がまだ信じられなくて……」
瑠羽の言葉や吐息には、危うい熱がこもっていた。それが遼牙に伝播するのに、時間はかからなかった。
「ほんとに……夢みたい……」
言葉通り夢心地で呟く珊瑚色の唇に、遼牙は己の唇をそっと重ねた。理性の叱責を受けて我に返ったのは、その柔らかな感触を存分に味わった後だった。
「りょ…きさま……」
濡れて甘い光沢を放つ唇が、わななきながら名前を紡いだ時、遼牙は瑠羽を引き取ったことを心から後悔した。
第一日目からこの体たらく。一体どれだけ自分を律すれば、この蜜花の誘惑を斥けることができるのか。
「……話は終わりだ。ずいぶん遅くなってしまった。瑠羽も、そろそろ寝なさい」
今さら保護者ぶった口調を繕ってどうするつもりだと自嘲が浮かんだが、遼牙は鹿爪らしい顔を何とか維持した。
瑠羽はキスに酔ったのかとろんとした目をしていたが、遼牙の言いつけに素直に頷き、食器の片付けを始めた。遼牙はグラスに残ったワインを一気に飲み干し、軽く頭を振ってから立ち上がった。
「あ、お風呂ですか？ どうぞごゆっくり」
「ん、ああ」
瑠羽の言葉に生返事を返し、遼牙はダイニングを後にした。身体の芯にともった微熱を散らすため冷たいシャワーを浴びたが、それはなかなか消えずしばらく居座り続けたのだった。
翌朝。遼牙はゆうべ見た夢の残滓を引きずったまま目覚めた。どんな夢だったのか詳細は覚えていないが、甘い倦怠感が身体のあちこちに残っており、それを振り切るのに時間を要した。
これでは先が思いやられると己の不甲斐なさを腐しつつ、遼牙はいつもより手早く身支度を整えた。そしてリヴィングに移動すると、真夏のひまわりも色褪せるような瑠羽の笑顔に迎えられた。
「おはようございます！ 今日も暑くなりそうですね」
「あ、ああ。おはよう。ゆうべはよく眠れたか？」
遼牙の気遣いに、瑠羽は嬉しそうに頷いて、
「はい。ベッドがあんまりふかふかなんで、ちょっとびっくりしました」
そう言って目をぱちぱちさせる瑠羽に、自然と口元が綻んでしまう。
「気に入ってもらえたならよかった。家具類は取り敢えず必要なものだけ揃えておいた。部屋のインテリアは、瑠羽の好きなようにして構わない」
「じゃああの……花とか緑とか飾ってもいいですか？」
「ああ、もちろん。自分の部屋だけでなく、ここも好きなようにしてくれ。このままではあまりに殺風景だからな」
遼牙はもともとインテリアに凝る趣味はなく、家具も必要最低限のものさえあれば十分だった。ただ寝るために帰ってくるようなものだから当然といえば当然なのかもしれないが、そんな荒んだ生活を瑠羽にさせるつもりはない。
ホームの建物は決して立派ではなかったが、敷地は緑に溢れ、部屋にはいつ訪れても季節の草花が飾られていた。そんな環境で育った瑠羽にとって、この部屋の無機質さは冷たく感じられたに違いない。
「花でも緑でも、もちろんそれ以外でも、欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい」
「えっ？ そ、そんなこと……できません」
瑠羽は驚きを隠さず、ぷるぷると首を振る。が、予想外の反応に驚いたのは遼牙も同じだった。
「できない、とは？」
「だって、そこまでしてもらうわけには……」
過分なことだと言わんばかりに恐縮する瑠羽に、遼牙は噛んで含めるように説明した。
「いいか？ 私は瑠羽の養父になったんだ。子供のために何でもしてあげようとするのは、親として当然のことだろう」
言ってから、遼牙は己の失言に気づいた。瑠羽は、悲哀と自嘲の混じり合った暗い笑みをさっと閃かせ、
「それを……当然と考えない親もいます」
遼牙は否定せず「確かにそうだな」とさらりと返した。続けて、
「しかし私は違う。親としての務めをきちんと果たすつもりで引き取った」
その時、瑠羽は何か言おうと唇をふるわせた。そして出てきたのは「お気持ちは嬉しいです」という言葉だったが、本当に言いたかったのは違う言葉であると、その憂いを帯びた表情が物語っていた。
晴天の朝にはふさわしくない重く淀んだ空気が、二人の間を満たしてゆく。それが飽和状態を迎えようとした時、キッチンで甲高い笛のような音が鳴り響いた。
「あっ、お湯が沸いたみたいです」
慌ててキッチンに駆け込む瑠羽を見送りながら、遼牙は安堵の溜め息を禁じ得なかった。白々しい言葉を重ねる自分に対する嫌悪感が、限界に達しようとしていたのだ。そんな遼牙の葛藤に気づいているのかいないのか、瑠羽はひょこっと顔を出して、
「朝食の仕度ができてますからどうぞ」
「朝食……？」
「はい。買い出しに行ってないので簡単なものしか用意できませんでしたが」
瑠羽は当然のようにそう言って、ふわりと笑った。遼牙は困惑を隠せず、
「いや、私は朝は食べないんだ」
「ええっ？ 何も食べずにお仕事に行かれるのですか？！」
瑠羽はまず驚いて、それから心配そうに眉をたわめ、最後に淋しそうに眉根を寄せた。その表情の変化を目の当たりにして、遼牙は困惑が罪悪感に変わってゆくのを抑えられなかった。
「先に言っておくべきだったな。すまない」
「いえ、そんな……。僕が勝手に用意しただけですから」
瑠羽は謙虚な答えを返したが、やはり淋しさは拭えぬようだった。遼牙は時計を確認してから、
「まだ時間はある。コーヒーでももらおうか」
「はっ、はい！」
刷毛をさっと走らせたかのように、表情の色彩が変わった。自分の態度や言葉ひとつで暗くなったり明るくなったりする瑠羽を見ていると、くすぐったいような喜びと同時に畏怖にも似た感情が湧き上がる。
瑠羽に対し、自分がどれほどの影響力を持っているのかをあらためて思い知り、遼牙は身が引き締まる思いだった。
瑠羽の後に付いてダイニングに入ると、長きにわたって無縁だった光景が迎えてくれた。清涼な日の光を浴びた朝食のテーブル。コーヒーカップからたちのぼる湯気、こんがり焼けたパン。
遼牙の脳裏で、幼いころの情景が瞬いた。もう二度と味わうことのできぬ幸せだと思っていたものが、今、遼牙の目の前にあった。手を伸ばせばすぐ届くそこに。
「コーヒーにお砂糖とミルクは入れますか？」
「あ？ あ、ああ……いや、どちらもいらない」
惚けた口調で返す遼牙に、瑠羽はにこにこ笑って頷いた。そして遼牙の前に淹れたてのカップを置き、自分のには砂糖とミルクをたっぷり入れてテーブルの向かいに座る。
「こんな……寛いだ朝は久しぶりだ」
遼牙の口から、自然と本音が漏れた。すると瑠羽も同意するように笑って、
「僕も、こんな静かな朝は久しぶりです。ホームにいた時は、朝は戦争でした。なかなか起きてこない子供たちを叩き起こして、仕度をさせて学校へ送り出して……」
「そうか……」
瑠羽は、ホームで年長者として子供たちの世話をしたり勉強を教えたり、教師やスタッフの手助けをしていたのだ。そう考えると、遼牙よりずっと生活能力は高いのかもしれない。
「ああ、そろそろ行かねば。鴇津がうるさいからな」
空になったカップを置いて立ち上がると、瑠羽もすかさず立ち上がり、
「鴇津さまに、昨日はお世話になりましたとお伝えください」
こういう律儀でしっかりしたところを見せられるたびに、あの聖チチェリアの家で瑠羽が受けた教育の素晴らしさに感じ入ってしまう。遼牙は意識せぬまま姿勢を正し、「分かった。必ず伝えよう」と応じた。
瑠羽は「よろしくお願いします」と言うと、遼牙を見送るため玄関まで出た。そしてはにかむように微笑んで、
「遼牙さま、いってらっしゃいませ」
「ん、ああ。行ってくる」
素っ気ない返事は照れ隠しだと自覚している。部屋を出て地下駐車場直通のエレベーターに乗り込んでも、最前に見た瑠羽の微笑みの残像が瞼裏から消えることはなかった。
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