Childhood's End
10話
静寂がこれほど重苦しいものだと、瑠羽は初めて知った。
ホームでは、年長者には個室が与えられたけれど、廊下をばたばた走り回る足音や子供たちの喚声、泣き声、笑い声は途切れることなく室内に侵入してくる。だから個室に一人でいる時も、完全な静寂というものを味わったことはなかった。
しかし今、この新しい家で、瑠羽は初めて経験する全き静寂に潰されまいと喘いでいた。余剰空間が大きい分、静けさの重量も比例して増すのだろうか。そんな茫漠とした考えをくゆらせながら、瑠羽は真っ白なソファにぽつんと座り、夜の帳で真っ黒に塗り込められた窓を眺めていた。
鴇津の運転する車でこのマンションに送ってもらったのが、今日の昼すぎ。ぴかぴかの新築マンションは二重三重の堅牢なセキュリティ機能を備え、ICカードキーとかバイオメトリクスとか、聞き慣れぬ言葉に瑠羽は軽いめまいを覚えた。
そんなくらくらした状態で部屋に入ると、また別種の驚きが待っていた。室内にひと通りの家具は揃っていたのだが、生活臭が皆無だったのだ。聞けば、瑠羽を引き取るに当たってわざわざ引越しをしたらしい。
ならば生活臭がないのも納得できるが、自分のためにここまでしてもらって、嬉しさより申し訳ない気持ちが先行して瑠羽はひたすら恐縮するばかり。
前のマンションはセキュリティが万全とは言えなかったんです、瑠羽が恐縮する必要はありませんよと鴇津は笑って宥めてくれたのだが、こういう特別扱いを平然と受け入れられるほど図太い神経は持ち合わせていなかった。
しかも遼牙は、瑠羽のために家政婦を雇うつもりのようで、それだけはやめてくださいと鴇津に懇願した。自分のことは自分でできますと真剣に訴える瑠羽に、鴇津は困ったように眉根を寄せたが、ここは譲ることはできなかった。
ホームで培った自立精神は、瑠羽にとって誇りであり、環境が変わっても自分は自分であることの証でもあった。
孤児院の出身であることを恥と感じ、ひたすら隠そうとする子もいる。その気持ちももちろん解るが、瑠羽はその事実を幸せな子供時代の記憶と結びつけて、堂々と掲げていこうと思っていたのだ。
拙い言葉ながらも、瑠羽はそんな自分の気持ちを鴇津に伝えた。それはきちんと伝わったようで、鴇津は理解を示してくれた。しかし瑠羽専属の運転手を付けることだけは、安全面から受け入れるよう諭されたのだ。
そして自室に荷物を運び込み、部屋の簡単な説明を受けた。ついでに初めて見るIHヒーターの使い方も教えてもらったところで、鴇津は申し訳なさそうに肩をすくめ、そろそろ会社に戻らねばならないと言った。
自分を送るために仕事を中断して来てくれたのかと、瑠羽も申し訳なさから萎縮してしまったが、二人同時に縮こまっているのが何だか可笑しくなり、顔を見合わせてぷっと吹き出した。それでようやく緊張もほぐれ、瑠羽は笑顔で鴇津を見送ったのだった。
それから瑠羽は、ひたすら遼牙の帰りを待った。夜になると鴇津が手配してくれたのか、ケータリングが来てご馳走を運んでくれたが、大きなダイニングテーブルに並べられた色とりどりの皿は、むしろ瑠羽の食欲を減退させた。一人ぼっちの食事というものに耐性のない瑠羽にとって、黙って食べ物を詰め込むのは苦行に等しかったのだ。
瑠羽はほとんど口をつけぬまま、丁寧にラップでくるんでしまった。遼牙が帰宅したら一緒に食べられるかもしれないと、ほのかな期待に胸を膨らませつつ。
しかし、遼牙が帰宅する気配はなかった。すでにホームの消灯時間を過ぎていたが、もちろん瑠羽は遼牙が帰るまで眠るつもりはなかった。
早く会いたい、そしてぎゅっと抱き着きたいという欲求で甘く痺れる身体を持て余しつつ、瑠羽はひたすら遼牙の帰りを待ち続けたのだった。
「まったく……」
運転席の鴇津は、まだぶつぶつ言っている。遼牙はしばらく知らんふりを決め込んでいたが、あまりにしつこいのでさすがに言い返した。
「仕事だったのだから仕方ないだろう」
「資金集めのくだらないパーティーに、こんな時間まで付き合うようなお人好しでしたっけ」
「ロビー活動の重要性をしきりに説いていたのは、どこの誰だ」
「何事にも優先順位というものがあるでしょうが。瑠羽は今日、新生活の第一歩を踏み出したのですよ。たった一人で住み慣れたホームを出て、新しい環境に飛び込んできたのです。期待以上に不安が大きいでしょう。なのにあなたときたら……。こそこそ逃げ回っていないで、いい加減に覚悟を決めたらどうですか」
「逃げ回ってなどいない！ それに、覚悟を決めるとはどういう意味だ」
「答える気も起きませんね」
鴇津らしくもない投げ遣りな口調だった。どうやら彼は、本気で憤っているようだ。しかし遼牙は気づいていないふりを通し、実務的に言葉を継ぐ。
「そもそも私が瑠羽を引き取ったのは、鷺沼製薬やそのバックにある組織から瑠羽を守るためだ。深い心の交流や、家族の絆を求めてそうしたわけではない」
瑠羽の代理母が書いた手紙を、鴇津にだけは読ませた。遼牙のように涙こそ流さなかったが、昏い眼差しを手元の便せんに一心に注ぐ顔には、繊細な哀しみが薄い膜のように張り付いていた。
そうして読み終えた鴇津は便せんを封筒に戻し、遼牙に返すと、全て理解したと言わんばかりの淡い笑みを浮かべて、早急に手配いたします、とだけ言ったのだ。
人間の兵器化などという爛れた狂気に、間接的にせよ関わることは危険だと反対するかもしれないと思ったのだが、予想に反し鴇津はすんなり受け入れた。
しかし瑠羽を引き取ることに対し理解を得られたのはよかったが、どうやら鴇津は、引き取った以上は瑠羽の想いに応えるべきだと考えているようで、遼牙の冷淡な態度に不満をくすぶらせていたのだ。
今日も、瑠羽の待っている部屋にできるだけ早く帰るよう再三促してきた。なのに遼牙が毒にも薬にもならないような政治家の資金集めパーティーに出席したものだから、苛立ちを隠せないでいるのだ。
「そうですか。それならそうと、はっきり瑠羽に言うべきでしょうね。瑠羽を引き取ったのはいわば慈善活動の一環で、特別な想いなどない。家族だとも思っていない。そもそも自分には婚約者がいて、本当の家族は彼女と築くつもりなのだから、と」
「…………」
ひとつひとつの言葉が、ぐさぐさと胸に刺さる。しかしこれは、いずれ自分が瑠羽に言わねばならぬことなのだ。そう思うと余計に重みが増して、遼牙はたまらず深呼吸をした。そんなことをしても、胸の奥につかえたものが吐き出せるはずもなかったが。
それから鴇津は、それまでの饒舌から一転して口をつぐみ、遼牙の新しい住居へ、瑠羽の待つ住居へ車を走らせた。
車内には、非難の色濃い沈黙が充満している。確かに、こうなった以上は覚悟を決めねばならないのかもしれない。しかし、瑠羽の想いを受け入れるかきっぱりはね付けるか、どちらが瑠羽にとっての“幸せ”なのか見極められないままこの日を迎えてしまったというのが、偽りなき実情だった。
瑠羽に早く逢いたい、だが逢うのが怖い。そんな、安っぽい恋愛ドラマの主人公のようなアンビバレントな感情を持て余している自分に、嗤笑を禁じ得ない遼牙だった。
「ずいぶん遅くなってしまったな」
時計を見ると、十一時を少し過ぎていた。鴇津の言う通り、今日ぐらいは早めに帰宅するべきだったかもしれない。“逃げ回っている”などという意識はむろんなかったが、そう言われても仕方ないだろう。
車を降りて鴇津と別れ、地下駐車場から直通エレベーターで上がる。1フロア全て、遼牙の部屋だった。エレベーターを降りると、すぐ目の前に大きな観音開きの扉が現れた。
インターフォンを鳴らそうか一瞬迷ったが、もう寝ているかもしれないと思いそのまま鍵を開けた。
「……ただいま」
試しに小さな声で言ってみる。が、返ってくるのは静寂ばかり。やはり寝ているようだなと、安堵と落胆の入り混じった独白をくゆらせつつ靴を脱ぐと、愛らしいとしか形容しようのない足音がぱたぱたと近づくのが聞こえた。そして、
「おかえりなさいっ」
その瞬間、視界が明るくなったのは錯覚ではない。蜂蜜色に輝く瞳や髪、いや、その存在そのものが光源となって、薄暗い玄関ホールを優しく照らしたのだ。
遼牙は思わず目を細め、舞い降りたという表現が何より似合う美しい少年に見とれた。
「瑠羽……」
情けないことに、自分の声はふるえていた。ぴったりと着込んだ実務家の鎧は、あらゆる感情の乱れを吸収して表出を防ぐ防塁の役割も果たしているはずだった。なのに今、遼牙は、感動を無防備にさらして呆然と立ち尽くしていた。
こんな遅い時間まで放っておいたというのに、迎えに出てきてくれた瑠羽の顔に咎めるような色はなく、純粋な喜びに沸いている。真っ直ぐ見上げてくる瞳は愛慕の情を湛え、その奥にほんのわずかだが甘えるような揺らぎを見つけた時、遼牙は愛しさから危うく抱き締めてしまうところだった。
防御力は著しく低下しているものの、実務家の鎧はまだ辛うじて存在意義を保っていたらしく、すんでのところで感情的な行動を抑制したのだ。
「え、えと、遼牙さま。これからよろしくお願いいたします」
親しき仲にも、と思ったのだろう、瑠羽はぴっと背筋を伸ばして一礼した。それで遼牙もようやく我に返り、「こちらこそ」と返して笑みを向けた。
すると瑠羽の頬はみるみるうちに上気し、薔薇色に染まってゆく。瞳もとろりと潤み、その艶めかしい変容に脅威を覚えた遼牙は、瑠羽の脇を素早く通り抜けてさっさと部屋に入った。
広いリヴィングには、まるで瑠羽の存在証明であるかのような甘い香りが漂っていた。しかしよくよく気をつけてみれば、それは普段遼牙が使っているボディシャンプーの香りだった。
瑠羽の肌を媒介しただけで鼻孔をとろかす芳香に変じてしまうのかと、遼牙はしみじみとした驚きを反芻した。
「あの、上着を……」
遼牙が上着を脱ぐと、瑠羽がすぐさま両手を差し出した。それがあまりに自然だったので、遼牙は思わず渡してしまった。受け取った瑠羽は大事そうに抱えて、「ハンガーに掛けてきます」と言ってリヴィングを出ていった。
それを見送った遼牙はソファに座り込み、軽く頭を振る。何だろう、この不思議な心地よさは。まるで、ずっと前からこうして一緒に暮らしていたかのような自然な安らぎが、心身を支配している。これに溺れてしまえれば、どんなにか幸せだろう。
しかし、と遼牙は自戒した。自分が瑠羽を引き取ったのは、ただ瑠羽を危険から遠ざけるためなのだ。かつて何度も夢に見た、愛を囁き合うような甘い関係を築くためではない。
「遼牙さま、あの、お食事は……？」
声を掛けられてふと顔を上げると、戻ってきた瑠羽がちょんと首を傾げて立っていた。手折られる痛みも知らない谷間の百合のような風情に、胸の奥の繊細な部分がざわつく。が、もちろん面てには出さず、「いや、いい」と素っ気なく首を振った。
「食べてきたから大丈夫だ」
「そう、ですか……」
瑠羽は目に見えてしゅんとしおれてしまった。と同時に、そのお腹から空腹を告げるくるくるという音が聞こえた。遼牙はつい眉根を寄せ、
「なんだ、食べていないのか。鴇津が手配したはずだが」
「あ、はい。でも、あの、食欲が湧かなくて……」
真っ赤になって俯く瑠羽を前に、さすがの遼牙も自責を覚えずにはいられなかった。
「私が帰ってくるまで待っていてくれたのか」
「……すみません」
「なぜ謝る？」
「こんな風に待っていられたら、迷惑でしょう？」
窺うようにそう言ってこわごわ顔を上げると、また空腹を告げる音が鳴った。瑠羽は耳まで赤くなって、さらに小さくちぢこまる。
「……仕度をしてくれるか？ 食事をしながら、これからのことを少し話そう」
遼牙の言葉に、瑠羽は初めぽかんと口を開けるばかりだった。が、驚きの種子から喜びの花が咲くのに時間はかからなかった。文字通り顔を輝かせ、
「はいっ」
反動で飛び上がらんばかりの勢いで頷くと、キッチンに駆け込んでいった。どうやら、調理器具の使い方や食器の場所はすでに把握しているようで、数分もしないうちに食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「遼牙さまぁ、どちらで召し上がりますか？」
「ん、ああ。ダイニングに行くよ」
「はぁい」
テーブルにつくと、サラダやパスタが小皿に盛られて並べられた。食べてきたという遼牙に配慮して、少量ずつ取り分けてくれたのだろう。
「お飲み物は？」
「そうだな。白ワインが冷えていたはずだ」
瑠羽はこくこく頷いて、ボトルを抱えてきた。さらに、グラスを三つほど出して、
「白ワインてどのグラスで飲むものなのか分からなくて」
遼牙は思わず口元を緩め、
「律儀だな。どれでも構わないよ」
「でも、一応決まりがあるのでしょう？」
瑠羽の真剣さにつられて、遼牙も真面目に答えた。
「この大きいのは赤ワイン。細長いのはフルートグラスといって、シャンパンなど発泡系の酒を飲む時に使う。この脚が少し太いのが白ワイン用だ」
瑠羽はいちいち頷いてから、白ワイン用のグラスにとぽとぽと注いだ。そしてにっこり笑うと、
「不思議ですね。こうして遼牙さまにお酒を注いで差し上げるの、初めてじゃないような気がします」
遼牙は何も言葉を返せなかった。まさに今、同じことを思っていたからだ。
「僕、とてもしあわせです」
そう言う瑠羽の笑顔は眩しすぎて、遼牙は直視することができなかった。
BACK TOP 遼牙＆瑠羽INDEX NEXT