短冊に願いを
＜2＞
翌日の七夕は、あいにくの曇り空だった。
「空、曇っちゃった……。星が全然見えない。これじゃ、織姫と彦星は逢えないね」
「まあな。でも、だからといってお前が暗い顔してたら、また衛にバカにされるぞ。それに、みんなで作った星があるじゃないか」
そう言って、笹飾りのあちこちでちかちか瞬く折り紙の星を指差す義童に、瑠羽は笑顔で頷きを返した。そして群青の空に凛と映える笹飾りを見上げた。昨日、子供たちと一緒に作った輪飾りに混じって、色とりどりの短冊がはためいている。
「瑠羽は、どんな願い事を書いたんだ？」
「えっ……そ、それは内緒」
「ふ…ん、ま、だいたい見当はつくけどな」
「なぁに？ 義童。今なんて言ったの？」
「なんでもねえよ」
ふいとそっぽを向く義童を暫し見つめていた瑠羽だったが、再び笹飾りを見仰いだ。あの短冊には、二つの願いが書かれている。
ひとつは、心の比較的表層部にあるもの。もうひとつは、願いというむしろ欲望に近い。それは───
「瑠羽！ お客様がいらしたわよ！」
先生の声に振り向くと、そこにいるはずのない人がいた。
「りょ……きさま……」
仕事帰りなのかきっちりスーツを着込んだ遼牙が、梅雨の湿った温気を寄せ付けぬ清冽な微笑みを浮かべていた。
「会合が早めに終わって、少し時間が空いたんでな」
そしてゆっくり瑠羽に近づくと、隣で七夕飾りを見上げた。
「立派なものだな。みんなで作ったのか？」
「は、はい……みんなで作ったの……折り紙で、わっか作って……」
まだ驚きを消化できず、ほわほわした口調で答える瑠羽を、遼牙は愛おしげに見つめた。
「はーい、みんなー。遼牙さまからの差し入れのスイカよぉ」
七夕飾りに興奮していた子供たちも、冷たいスイカの誘惑に呆気なく落ちた。みな歓声を上げながらテラスに駆け寄ったが、瑠羽はその場に留まったまま。
「瑠羽はスイカが嫌いなのか？」
遼牙の問いに楚々と首を振つつも、スーツの袖をきゅっと掴む。瑠羽の『傍にいたい』という秘めやかな想いを汲み取った遼牙は、小さく頷いて優しく肩を抱いた。
そんな二人を遠巻きに眺めていた義童は、内心の疼痛をこらえるように唇を噛んで背中を向け、テラスへ戻った。
「なんだか……夢みたいです。七夕の日に逢えるなんて。織姫さんと彦星さんに悪いな」
「はは、確かに。今夜は雲がかかっているからな。天の川を渡るのは難しそうだ」
遼牙の軽口に、瑠羽もようやく落ち着きを取り戻した。ふふっと笑みを返してから、下を向いてもじもじしつつ、
「あ、あの……今日はどうして……」
「どうしてって、瑠羽に泣かれてしまっては、来ないわけにはいかんだろう」
瑠羽は弾かれたように顔を上げ、真っ赤な顔で抗議する。
「僕っ、泣いてなんていません！」
「うん？ 泣いただろう？ 昨夜の電話の後で」
まるでその現場を見ていたかのようにあっさり指摘され、瑠羽は何も言い返せず項垂れた。ややあって、
「ごめんなさい、お仕事忙しいのに僕の我がままで……」
「謝るのは私の方だ。ここのところ忙しくて連絡もできなかった上、せっかくお前の方から誘ってくれたのに断ってしまって」
その言葉に勇気を得た瑠羽は、こわごわ視線を重ね、
「僕、もう二度と逢えないんじゃないかと思って……」
「なんだ、ずいぶん大袈裟だな。織姫と彦星に笑われるぞ」
遼牙はきっと、たった一カ月と思っているのだろう。確かに、多忙な企業人にとって一カ月など、あっという間に過ぎてしまう光陰なのかもしれない。
でも遼牙に逢えない一日一日を心の中にそのまま溜め込んでしまう瑠羽にとって、ひと月は心を押し潰すほどの重みを持っていたのだ。それにもう一つ、瑠羽の気持ちを沈ませていることがあった。
「そ、それに、遼牙さまてば最近ちっとも───」
その時、テラスからわあっと歓声が上がった。子供たちはみな空を指差している。何事かと思いつられて夜空を見上げてみると、
「あ、空が……」
「雲が晴れたようだな。星が出てきた」
「はい。これで織姫も天の川を渡ることができますね」
瑠羽が「よかった」と呟けば、それに同意するように子供たちが夜空を祝福する。昨日は天文学の知識で七夕伝説を一蹴した衛少年も、嬉しそうに笑って天の川を見上げていた。
すると無邪気な祝福に返礼するかのように、一陣の風がひゅうと舞った。その風に七夕の笹飾りが煽られ、数枚の短冊が取れてひらひら落下した。
「ああ、せっかくの短冊が……」
遼牙は足下に落ちた短冊を拾い上げて、何気なく目を通した。そしてふっと目を細め、
「『遼牙さまのお仕事が、これ以上忙しくなりませんように』か。全く、私もそう願いたいところだ」
遼牙の手の中にある短冊が自分のものだと気づいた瑠羽は、遼牙が裏を見る前に取り返そうと慌てて飛びついた。が、
「あっ、だめ！ 見ないで！」
瑠羽が叫ぶと同時に、遼牙は裏返して見た。そして驚いたように目を見開くと、短冊をそっと背広の内ポケットにしまって、瑠羽の肩を抱いた。
「まだ時間はある。散歩でもしようか、瑠羽」
二人は無言のまま連れ立って歩き、施設の中庭に着いた。その中央にある小さな東屋に腰を下ろすと、遼牙はポケットからさっきの短冊を取り出した。
瑠羽はびくんと身じろぎ、このまま消えてなくなってしまうのではないかというほど小さくちぢこまった。
遼牙はそんな瑠羽に労わりの眼差しを投げかけてから、短冊へと視線を移す。紙の裏に小さな文字で書かれた、瑠羽のもう一つの願い。
『遼牙さまが、またキスをしてくださいますように』
瑠羽が気にしていたとは、と遼牙は独りごちた。二月十四日のバレンタインデー。瑠羽が『愛情』と『情熱』の意味を持つ薔薇のチョコレートに乗せて、愛を告白してくれたのもこの場所だった。甘美な薔薇とともに、瑠羽の唇と舌を存分に味わったのも。
あの時はただ瑠羽が愛しくて、そんな己の感情に酩酊したまま深い口づけを繰り返した。だが口腔を犯すような口づけは、次の段階へ進もうとする欲望の導き手となる。
それは情と本能の自然な流れなのかもしれないが、遼牙には危険な媚薬以外の何ものでもなかった。
養父の許で受けた虐待による心身の傷が、ようやく少しずつ癒えかけてきたところなのに、その上に新たな“傷”を付けるような真似は、絶対に慎まねばならない。たとえ、愛の名のもとであっても。
だから遼牙はそれ以来、瑠羽との身体的な接触を極力避けるようにした。もちろん、キスも自制した。
しかしそれ以外はこれまで通り振る舞っていたのだ。この程度の“ささやかな”変化を、瑠羽が察知するとは思っていなかった。
「ごめんなさい、ヘンなこと書いて、僕……」
消え入りそうな声で謝罪する瑠羽に、遼牙は真摯な声で応えた。
「いや、謝るのは私の方だ。配慮が足らなかった」
「はいりょ？」
ちょっと首を傾げ、くるんと見開いた蜂蜜色の瞳で見上げてくる。この愛らしい仕草、無防備な眼差しがどれほど男の業を狂わせるか、瑠羽はまだ知らない。いや、おそらく一生理解することはないだろう。
瑠羽はこれからますます美しく、艶やかに成長する。そんな己に一番無頓着なのは、瑠羽自身。きっと意識せぬまま甘い蜜を振りまいて、飢えた男たちを否応なく惹き付けてしまうに違いない。
「キス、してほしいのか？」
遼牙の媚毒めいた問いかけに、瑠羽は腰をもぞもぞさせつつもこっくり頷いた。
「分かった。では、ここにおいで」
そう言って遼牙が手を差し伸べると、瑠羽は悦びに瞳を輝かせた。まるで、神秘の光源を瞳の奥に宿しているかのように。それを見ただけで遼牙はたまらないような気持ちになってしまう。
瑠羽は遼牙の膝の上に座って腰をひねり、両手はちょっと迷った挙げ句首に巻き付けた。しかし大胆さを見せたのはそこまで。さすがに恥ずかしいらしく、顔は遼牙の胸元に押し付けてしまった。
「しようのない子だ」
遼牙は顎に指を掛けて上を向かせた。そのまま顔を斜めに傾けて近づけ、唇を閉じたまま軽く触れ合わせた。
「んっ」
聞き逃してしまいそうなほど控え目な喘ぎが、唇をかすめる。思わず強引に舌を挿し込みそうになるが、まずは久しぶりの柔らかな感触を味わうのが先だと思い直し、舌先を左右に滑らせて唇を舐めた。
それは比喩も思い付かないほどふんわりと丸みを帯びて、つやつやしている。それから可愛い歯を舌でひとつひとつ撫でていると、焦れたような舌先につんつんとつつかれた。遼牙は思わず笑みを浮かべ、それを大胆に搦め捕った。
「あん、んっ……」
先刻より糖度を増した喘ぎが舌に伝わり、極上の甘さを感知した。舌の表面をこすり合わせると、唾液の菲膜がとろりとろりと溶け合って痺れるような快感を生み出す。
拙い動きながらも舌をうねらせて必死に応えようとする瑠羽が可愛くて、腰を抱く手につい力が入ってしまう。すると瑠羽は尻をふるふると左右に揺らしたが、それはいやいやをしているようでもあり、ここもいじめてとおねだりしているようにも思えた。
限界を察知した遼牙は理性を手繰り寄せ、まずは密着した唇を離した。それから絡まった舌をぬるりとほどき、滴る唾液を吸い取る。
下半身は痛いほど反応していたが、呼吸を乱している瑠羽の背中をさすってやるだけの余裕はあった。
「これで、願い事はひとつ叶ったな。もうひとつの方は、私ではなく鴇津に言った方がいい」
瑠羽は官能に濡れたとろんと危うい眼差しを向け、
「遼牙さま……また、してくださいますか？」
「ああ、そうだな……」
私が理性を保てるまでは。遼牙は続く言葉を、口づけの甘い余韻に微睡む舌の上で転がした。
施設の玄関で瑠羽に別れを告げ、遼牙は車の待つ外門まで歩いていた。すると木の陰から男が突然現れ、遼牙の行く手を遮った。
「君は確か、さっき瑠羽と一緒にいた……」
「義童といいます。この施設の出身で、今は自立して働いています。かつては瑠羽のホームブラザーでした」
「そうか。瑠羽の兄代わりだったんだな」
答えながら遼牙は、この義童という男が内に秘めた感情を見抜いた。彼にとって瑠羽はすでに弟ではない。いや、もしかしたら彼は、瑠羽を弟と思ったことは一度もないかもしれない。
「あなたのお陰で、瑠羽は以前の笑顔を取り戻すことができました。感謝します。ただ、」
義童は青年らしい真っ直ぐな言葉を使った。
「これ以上、瑠羽を振り回すのはやめてください」
「振り回す？」
「はい。あなたにとってはちょっとした気まぐれ、生活の余興のようなものでも、瑠羽は真剣なんです。真剣にあなたを……愛している」
遼牙は眉間に皺を寄せ、私も真剣に愛していると言おうとした。しかしそれに先んじて義童が口を開く。
「あなたには、婚約者がいます」
「…………っ」
義童の言う通りだった。たとえ本意でないとはいえ、自分には結婚を約束した女性がいる。愛しているのはお前だけだ、しかし他の女性と結婚するなど、瑠羽が理解できるはずがない。
「君の……言う通りだ。しかし私はっ……」
続く言葉が、遼牙の口から出ることはなかった。
いつの間にか空には雲がかかり、祝福を受けた星の瞬きは消えていた。
（Fin）
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