４.
始めから終わりまで、厳かで張り詰めた空気に貫かれた式典とは対照的に、祝宴の会場である大広間は、温かく家族的な雰囲気に包まれていた。
それは、国王と王妃の人柄によるところが大きい。夕凪より２０才近く年の離れた国王は、式典中の厳格な表情から一転、にこにこ笑いながら大広間を歩き回り、来賓が寛げるよう自ら様々な指示を出した。
そして日が完全に落ち、華やかに着飾った来賓が姿を見せ始めると、宴用の低い玉座の前に王妃と並んで立って、一人一人に心のこもった挨拶と謝辞を述べた。
そして広間が半分ほど埋まった頃だろうか、突然、ざわついていた空気がすーっと凪いだ。と同時に得も言われぬ芳香が、国王夫妻の許に届いた。
香水や香料など、人工の匂いではない。天の園がそのまま降臨したかのような、甘くてどこか懐かしい花々の吐息。
その醺香と、それを運んできた薔薇の精の美しさに酔い痴れた夕凪は、目の前の遼牙を無視してぼーっと見入った。
「紫衛那国王、遼牙です。紫衛那の国民を代表して、お祝いを申し上げます」
遼牙はにこやかに笑ったつもりだったのだが、苦笑めいたものになってしまった。夕凪の耳に自分の挨拶が届いていないのは確実だったから。
遼牙の挨拶に合わせて、その隣、半歩ほど退いたところに立っていた薔薇の化身、瑠羽は、ふわりと微笑んだ。
こういった場合、酒姫は決して言葉を発してはならず、ただ美しい微笑みを返すだけというのが慣わしだった。しかしその一瞬が酒姫の実力の見せ所。どれだけ優雅で美しい笑みを返すかによって、価値が決まると言っても過言ではないのだ。
ゆえに酒姫の教育では通常、鏡の前で笑う練習が重要視された。しかし鞘葉はそれをしなかった。本当に高貴な人々、気高き魂を持った人々には、どんなに練習しても作りものの笑顔だと見抜かれてしまうと分かっていたから。
笑顔には、その者が持つ真の優しさ、朗らかさ、温かさがにじみ出るもの。ならば瑠羽の笑顔には、教え込まなくても自然と輝きが宿るに違いない、と。
鞘葉は正しかった。夕凪に返した瑠羽の微笑みは、他の酒姫が見せる型通りの“優雅な笑み”とは明らかに違っていた。
瑠羽は心から笑っていた。本当に嬉しかったのだ、夕凪に会えて。
―――この方が、遼牙さまの叔母上さま……
彼女については、ここへ来る前から遼牙に色々聞いていた。父の兄弟の中で唯一、自分の王位継承を後押ししてくれた人。影道であることを恥じるなと叱咤激励し、幼い頃から何かにつけて守ってくれた人。
そして今、目の前で凛とした立ち姿を見せる件の女性は、遼牙の言葉通り、優しさと強さを併せ持つ気高き月の女神のように美しく、遼牙と同じ輝く黒瞳にじっと見つめられて、瑠羽の胸は高鳴った。
それは夕凪も同じだった。本物の親愛のこもった微笑みを返されて、感動の余り胸が熱くなった。彼女はその感動を素直に表した。
にっこり笑って腰を少し屈め、
「るーちゃん、来てくれて本当にありがとう。城での滞在、ゆっくり楽しんでね」
さすがに瑠羽は驚いた。こういった公の場で、しかも王妃が酒姫に声を掛けるなんてあり得ない、前代未聞の珍事なのだ。
しかし夕凪にとって、酒姫に声を掛けちゃいけないなんて無意味なしきたり、形骸化した作法に過ぎなかった。
「あ……」
瑠羽は言葉を返してよいのか分からず、思わず遼牙を見上げた。すると遼牙は穏やかな表情で小さく頷いた。
「こちらこそ、お会いできて本当に嬉しいです」
瑠羽は真っ赤な顔でもじもじしながらも、きちんと言葉を返した。そしてもう一度、はにかむように微笑んだ。
―――なんて可愛いのかしらっ。遼牙にはもったいないわっ
夕凪が悶えているうちに、二人の賓客は薔薇の香りと共に去っていった。
「遼牙さま、杯を……」
「うむ」
宴が始まってからも、二人は変わらず注目の的だった。
紫衛那王の美貌は皆のよく知るところであったが、その隣に薔薇の裾を広げて座り、かいがいしく世話をする酒姫の天衣無縫の美には圧倒されるばかり。
ある者は目を剥き、ある者は口許を緩め、ある者ははぁーっと溜め息をついて見入っていた。
瑠羽の薔薇の衣裳は、広大な薔薇園に咲き誇っていたルビーティアーズと呼ばれる品種のみで作られていた。その名を裏切らず、濡れたような光沢と真紅の色彩で観賞者を惹き付ける女王然とした花だった。
瑠羽の衣裳を盗んだ侍女と鞘葉は、それを薔薇園から摘んで長持ちするよう特殊な細工を施した上、ひとつひとつを細く丈夫な糸で繋いだ。そうして、この世に二つとない薔薇のドレスが出来上がったのだった。
しかし、＜薔薇の中の薔薇＞、＜真紅の女王＞の異名をとるこの花も、瑠羽のみずみずしい素肌の引き立て役に過ぎなかった。
露わになった肩と腕は蕩けるような艶を帯びて、薔薇の紅が映ったのかたちこめる酒気に酔ったのか、ほんのり薄紅色に染まっている。
遼牙の衣服の乱れを直そうと動くたびに、裾から見え隠れする無防備な素脚は細くしなやかで、列席者の目を否応なく惹き付けた。
蜂蜜色に輝く髪は緩くまとめてアップにし、薔薇の花弁を散らして飾っている。そして耳には遼牙からの贈り物、トパーズのイヤリング。
他の酒姫に比べれば極端に少ない装飾品ではあるが、全て鞘葉の如才ない計算によって瑠羽を引き立てるために選び抜かれたものだった。
しかし、今宵集った高貴な人々の羨望と溜め息を一身に集めている二人だったが、その表情は何故か硬く強張っていた。瑠羽は、さっき夕凪に見せた笑顔はどこへやら、こわごわ遼牙を見上げて悲しげに肩を落とした。
それもそのはず、瑠羽が新しい衣裳を着けた時には必ず「瑠羽、綺麗だよ」と褒めてそっとキスを落としてくれるのに、さっきからほとんど口を利かず何の感想も言おうとしない。
着席してからも余り瑠羽の方を見ようとはせず、いつものように膝の上に呼ぶこともしない。隣に座らせて時折杯を突き出し、酌をさせるだけだった。
これが異国のしきたりなのかな、とも思ったのだが、主人の膝の上で脚をしどけなく崩して座り、胸に凭れかかって酌をしている酒姫の姿もちらほら見える。
つまりしきたり云々ではなく、遼牙がいつものように振る舞うのを拒絶しているだけなのだと分かって、瑠羽の胸はちくりと痛んだ。
そしてもう一つ、瑠羽を萎縮させているものがあった。夕波姫の視線。宴の席で人の憎悪や嫉妬を受けるのには慣れていたはずだったが、遼牙の従妹である彼女からの険しく尖った視線は、瑠羽に相当のダメージを与えた。
衣裳を盗むよう侍女に指示したのは、瑠羽のような者は今宵の宴に相応しくないという考えからであろう。にもかかわらず、こうしてのこのこと出てきて遼牙の傍に座っているのだから、怒りの視線を向けられるのは当然なのだ。
もしかしたら、遼牙もそう思っているのかもしれない。置いてきたら淋しがるだろうからと、無理をして連れてきた。そしてこんな、似合いもしない美しい薔薇の花を身にまとって―――
「………っぅ、ぇ…………」
＜ルビーの涙＞の上に、本物の涙がひと粒、ふた粒と降りかかった。真紅の花弁をころころと滑り落ちる涙の雫は朝露のようで、広間の照明を跳ね返してちかちかと瞬いた。
もちろん遼牙は大慌てで、見るに耐えないほどおろおろと蒼褪めて訊ねた。
「どっ、どうしたのだ、瑠羽。気分が悪いのか？ どこか痛いのか？」
しかし瑠羽はふるふると首を振って、
「りょ…きさま……ごめ、なさい……僕みたいな子が………」
「瑠羽？ 何を言っているのだ」
俯いたまま片手でこしこし目をこすると、真紅の薔薇がぼんやり霞んで浮き上がって見えた。あんたみたいな子を飾るために咲いたんじゃないのよ、と非難されているようにも思える。
「こんな……似合わない衣裳を着て、高貴な方ばかりの席にのこのこと―――」
「瑠羽ッ、いい加減にしなさい。私の正式な酒姫であるお前が宴に出て何が悪い。それにいつ、誰が似合わないなどと言ったのだ」
大声ではなかったが、傍にいる瑠羽にはその苛立ちと怒りが十分に伝わってきた。びく、と肩を震わせたものの、しかし萎れることなくきっと顔を上げ、
「じゃあ、どうしていつもみたいにお膝の上に呼んでくださらないの？ いつもみたいに……瑠羽、綺麗だよ、って言ってくださらないの？」
「る、瑠羽……」
紅く潤んだ目の縁から、新たな涙がぽろぽろと零れ落ちた。それを拭おうともせず、
「僕、知ってるもん。遼牙さま本当は、僕のこと連れてきたくなかったんだ……」
遼牙は思わずがっくり肩を落として、「お前という奴は…」と呟く。しかし何とか立ち直って、瑠羽の目尻をそっと撫で、
「綺麗だと言わなかったのは、余りの美しさ、艶やかさに言葉を忘れてしまったからだ」
これはホント。
「膝の上に呼ばなかったのはな、せっかくの薔薇の花が潰れてしまうと思ったからだ」
これは嘘。じかに感じる瑠羽の温もりに、抑えていた欲望が暴発するのではと恐れたからだ。しかしもちろん、瑠羽は遼牙の言葉をそのまま信じる。
「あの……じゃあ、ぴったりくっつかないから………だめ？」
潤んだ瞳で上目遣いに見つめられて、遼牙が拒絶できるはずもない。「全くお前は…」と今宵二度目のぼやき。
「だって……遼牙さまのお膝の上がいいんだもん………」
ここまで言われれば、恋人冥利に尽きるというもの。遼牙は思わず目尻を下げて、「ほら、来なさい」と両腕を広げる。
瑠羽はまさに綻ぶ、といった表現がぴったりの表情で喜びを表し、ドレスの裾を気にしながら膝の上にちょこんと座った。
「遼牙さまぁ、遼牙さまぁ」
「なんだなんだ、瑠羽」
「ふふ」
瑠羽は「なんでもないですぅ」と答えて、遼牙の胸に頬を寄せた。嬉しくて嬉しくてたまらない。もちろんその気持ちは、遼牙にも伝わっていた。ほんのり色づいた頬を指でつついて、
「他の酒姫を見なさい、瑠羽。お前みたいにべそべそ泣いてる酒姫がいるか？ みんなにこやかに笑って酌をして―――」
再び瑠羽の瞳が潤み始め、「やっぱり酒姫失格なの…」と呟く。浮かれついでにちょっとからかうつもりで言っただけの遼牙は、慌てて頬を撫で、耳たぶにちゅっとキスをして宥めた。
「冗談だよ瑠羽。私が悪かった。瑠羽は素晴らしい酒姫だ」
瑠羽は口をへの字に曲げて涙をこらえ、うんうんと頷く。遼牙はほうっと息をついて、花を潰さないよう優しく抱き締めた。
そんな二人の、思わず失笑が漏れそうなほどのあまあまあつあつぶりを、夕凪は半ば感心、半ば呆れて眺めていた。
―――人間、変われば変わるものね。あの遼牙がねぇ……
どんな侮辱を受けても、どんな困難を課せられても、どんな称賛を与えられても感情の揺らぎを見せず、整いすぎた美しい笑みの鎧で跳ね返すばかりだった遼牙が、瑠羽の前ではおろおろしたりあたふたしたり、怒ったり、切なそうに眉をたわめたり、嬉しさを隠しきれずにやにやしたり、くるくると表情を変えるのだ。
今もすぐ目の前で、薔薇の花を崩さないように真剣な顔で裾を直しながら、もっと身体を密着させようと悪戦苦闘している遼牙を見ていると、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
涙腺が弱くなったのは年をとった証拠だわ、と肩を竦めつつも、それを抑えようとはしなかった。影道であるという宿命に必死の形相で対峙していた遼牙の痛々しい姿が、涙と共に記憶の中から流れ出て消えてしまえばいい、そんな想いも込めて。しかし、
「あの薔薇は、城の庭園に咲いていたものではないのですか？ それを勝手に摘んでドレスにするなんて、礼儀に反しているのではなくて？」
広間に響く、鋭い非難の声。その発生源は夕波姫。非難の矛先は、もちろん瑠羽である。
「あ…あの……」
瑠羽は何と弁明してよいか分からず、ただ項垂れた。
「礼儀に反してなどいませんよ。事前に聞いて、私が許可を出したのですからね」
「嘘です。そんなことあるはずがない」
夕凪の弁護に、夕波は間髪入れず噛み付いた。しかしそれがまずかった。夕凪は眉を吊り上げて、
「何故貴女に分かるのです」
「あっ……」
衣裳を盗まれるというアクシデントにより、ドレスを新しく拵えねばならなかったという事情を知るのは夕波だけ。
「夕波…貴女、何かやらかしましたね。あとでゆっくり話を聞かせてもらいますよ」
自ら墓穴を掘った形の夕波は、悔しそうに項垂れた。その隣で夕凪はにっこり笑って、
「失礼なこと言ってごめんなさいね。るーちゃん、とってもよく似合ってるわ。花たちもきっと、喜んでいることでしょう」
思わぬ言葉に真っ赤になってもじもじしながらも、「ありがとうございます」と答える瑠羽。その耳に唇を寄せて、
「ほぅら、ご覧。誰が似合わないなどと言った？」
からかうように囁く遼牙。瑠羽は「もぅっ、だからごめんなさい、って…」とぷっくりふくれたと思ったら、「ふふ」と嬉しそうに笑って遼牙を見上げた。
―――ああ…可愛いっ、可愛すぎるっ
遼牙はすでに、下半身を宥めるのを諦めていた。
それから、半ばヤケになった遼牙は膝の上の瑠羽にちょっかい出しまくり。そして、瑠羽がくすぐったそうに身体を動かすたびにふんわりとたちのぼる匂い、瑠羽の甘い肌の匂いと薔薇の吐息が混交した天上の芳香をうっとりと味わっては、欲望の燠火に自ら油を注いだ。
時間が経ってきたせいか、ほんの少しずつだが花びらが落ち始めていた。瑠羽の動きに合わせてはらはらと舞い落ちる真紅の花弁はどこか頽廃の香りを漂わせ、しかも、紅く潤んだ花びらは瑠羽の秘部を連想させて、遼牙の背筋に甘い疼きを走らせた。
「あっ……」
突然、遼牙が瑠羽の胸に手を伸ばした。そして花の隙間に指を差し込む。
「や……りょうきさま……」
そのまま素肌を愛撫するかと思いきや、呆気なく指を抜いた。その指は一枚の花弁を摘まんでいた。遼牙はそれを杯に落とす。
「お前の肌に触れた花びら、味わうとしよう。さあ、瑠羽」
瑠羽は頬を染めつつも、花びらの上に酒を注いだ。瑠璃色で微かな気泡が立っている酒の中をひらひらと泳ぐ真紅の花びらは美しく、遼牙はそれを暫し眺めていたが一気に飲み干した。
「ああ、こんな旨い酒は飲んだことがない」
「本当……？」
「もちろん。瑠羽の味がしたぞ」
「やだ……その言い方、なんかえっちです………」
遼牙はにやにや笑いながら、「それはどういう意味だ？」と問い詰める。瑠羽は赤くなって口ごもっていたが、遼牙の首筋に顔をうずめて唇を這わせ、
「遼牙さまのも、味わいたいな……」
そして顔を上げ、半開きの唇から濡れた舌をちらちらと垣間見せた。
遼牙は後になってこの場面を思い出し、あの時よく暴発しなかったものだと己れの忍耐力を自画自賛したりした。
「る…う……」
遼牙は本気で焦り始めていた。だいたい、もう三晩も瑠羽の素肌に触れていないのだ、愛を交わしていないのだ。その状態でこの媚態。
一体この酒宴はいつ終わるのだ、それまでどうやって我慢したらいいのだ、誰かどうにかしてくれ〜〜と胸の内で虚しく叫ぶ。が、その魂の叫びを察知してくれた人がいた。
「遼牙、もう部屋へ戻った方が良さそうですね。長旅と式典で疲れたのでしょう、顔色がよくありませんよ」
夕凪が、いかにも心配そうに眉をたわめて告げる。遼牙ははっと顔を上げて彼女を見たが、余りにわざとらしい表情のお陰でその本心を覚ることができた。
「確かに疲れてはおりますが、しかし宴はまだ途中で……」
「気にすることはありません。もう少し城に滞在してくれるのでしょう？ 今夜はゆっくり休んで、また明日付き合ってくださいな」
遼牙は深く頭を下げた。正直、この時ほど夕凪に感謝したことはなかった。
「ではお言葉に甘えて退席させていただきます」
遼牙は不安げに蒼褪めている瑠羽を促して立ち上がり、会場を去った。いかにも疲れた感じに足を引きずりながら。
本当はスキップしそうなほど浮かれていたのだが。
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