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４.
「るう、るーう」
いつの間に寝入ってしまったのか、目覚めたら陽はすっかり落ち、部屋の外も中も森閑とした闇に呑み込まれていた。
何故か胸騒ぎを覚えた義童は、声を振り絞って瑠羽の名を呼ぶ。しかしあの愛らしい姿が扉からちょこっと顔を出し、「なぁに？ 義童」と声をかけてくれることはなかった。
「くそっ、どこにいるんだ、瑠羽っ」
義童は毛布をはね除けて寝台を下りようとする。しかし傷の痛みと体力の消耗は如何ともし難く、「うっ」と低い呻きを漏らして床に膝をついた。
「何やってるの、義童！」
物音を聞き付けた沙那が部屋に飛び込んできた。「ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」と有無を言わせず寝台へ戻そうとする。しかし義童は添えられた手を厳しくはね付けて、「瑠羽はどこだ」と問い詰める。
「ちょっとお使いに行ってもらってるの。もうすぐ戻ってくるはずだから心配要らないわ」
「お使い？ こんな時間にか？ 何故下男をやらせなかった」
「みんな自分の仕事で手が塞がってたのよ。お医者様のところへ薬を取りに行っただけだから………」
その答えを聞いて義童は激高した。
「あんなところまで一人で行かせたのか！ 外灯もろくにない、人通りも少ない道を一人で。沙那、お前は何を考えているんだ。瑠羽は……王の酒姫なんだぞ。万が一のことがあったら―――」
「なによ！ じゃあ私が行けばよかったんでしょッ。いいわよ、今から行ってやるわ。どうせもう遅いのよ―――」
義童は瞠目したまま表情を強張らせて、沙那に詰め寄った。
「もう遅いとは、どういう意味だ……」
沙那は胸の奥で舌打ちをする。しかし努めて表情には出さず、
「もうとっくに先生の家に着いてる、ってことよ」
「……沙那、正直に答えろ」
義童の気魄に、沙那は一瞬たじろいだ。その時、
「義童、先生がお見えになったわよ。わざわざ薬草を届けてくださって―――」
聖羅が、扉の向こうから声をかけてきた。
「沙…那……」
義童は呼吸するのも苦しそうに胸を大きく上下させて、すっかり蒼褪めた沙那を睨み据える。
「お前……瑠羽に何をした………」
沙那はがたがたと震え出した。やがてその震えが全身に回ったのか、歯をカチカチいわせながら義童に噛み付いた。
「瑠羽、瑠羽、瑠羽！ いつも瑠羽のことばっかり！ 義童がそんなだから、だからあたしはこうするしかなかったのよ！」
「沙那！ 早く言え！ 瑠羽に何をしたんだッ」
「あたしは何もしてないっ。ただ、審問官に頼まれた通りに―――」
義童は絶望的な悲鳴を上げた。
「審問官だとっ！ なんて、なんてことだ……」
頭を掻きむしりながら項垂れる義童を、沙那は猫撫で声で宥める。
「し、信頼できる筋からの確かな情報を得たって彼らは言ってたわ。それに基づいて調べる必要があると。だからねぇ、彼らに任せておきましょうよ。いくら審問所でも、王の酒姫に無実の罪を着せるようなことは―――義童？」
苦痛に顔を歪めながらも、義童は立ち上がって力強い歩みで部屋を横切った。そして扉を開けて威厳に満ちた声で言い付ける。
「馬を用意しろ！ 今すぐだ！」
そしてクローゼットから外出用の服と外套を出すと、無言のまま着替え始めた。
「な、何をしているの、義童っ」
「これから紫衛那城へ行く。そして王に会って瑠羽の窮状を訴え、救ってくれるよう懇願するのだ」
「むっ、無理よ、義童。そんな身体で……」
沙那の言葉は正しかった。まだ完全に塞がっていない傷は無数にあり、ずっと寝たきりだったせいで筋力も著しく低下しているはず。
現に、ただ着替えただけですでに義童の息は上がっていた。沙那は行かせまいと扉の前に立ち塞がる。しかし、
「瑠羽は俺の命だ。あれを喪ったら俺は生きていけん……」
ふらふらとよろめきながら、沙那の脇を通り抜けて部屋を出て行った。
―――饗宴の始まりだ
ギメルと名乗った審問官がそう告げると同時に、薄闇に包まれていた部屋に杏色の灯りがともった。それは闇を払拭するほどの明度はないものの、部屋の様子が何とか分かる程度の明るさをもたらした。
瑠羽は怯えながら、部屋を見回した。灯りが頼りないせいか、どのくらいの広さなのか分からない。ただ自分が寝かせられている寝台の周りに、黒い影が複数立っているのが気配で分かった。
１１人の審問官。彼らの表情は見えないが、微かに呼吸が荒くなっていることから、どうやら興奮状態にあるらしいと窺える。
そして何より強く感じるのは、この部屋に充満する空気の、異常なまでの湿り気。肌にねっとりと絡み付く生温かい湿気には、生理的な嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
その時、何処からかぎち、ぎち、と嫌な音が聞こえてきた。と同時に寝台がカタカタと揺れる。
瑠羽は恐怖の余り起き上がって逃げ出そうとした。もちろん逃げられるとは思っていない。しかし頭が考えるより早く、身体の方が危険を察知して動いたのだ。が―――
「ひッ……ぃやあああぁぁ………」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。あっという間に寝台に押さえ付けられて、僅かな身動きもままならないほどきつく拘束された。
瑠羽の抵抗を容易く奪った“それ”は、さらに勢いづいてしゅるしゅる擦音をたて、瑠羽の身体めがけて今にも飛び掛らんとうねうね動いている。
“それ”は、死した湖面のような腐緑色をした、薄気味悪い触手のようなものだった。
「ひぁ……や、やだぁ……あああぁぁ………」
理解の範疇を超えた化け物を目の前にして、瑠羽は喉の奥で悲鳴を上げてぶるぶる震えた。
「誘惑と快楽の天使、マステマ。我らが父……」
ギメルがうっとりと呟くと、再びぎちぎちと壁が軋むような嫌な音が聞こえてきた。
瑠羽は唯一自由になる首を動かして、音のする方へ視線を送る。涙の靄でかすんでよく見えないが、必死に目を凝らしてみると、壁にぼうっと浮き上がる巨大な天使の像が見えた。しかも、あの腐緑色の複数の触手は、その像から生えているのだ。
瑠羽は未知の恐怖に耐えきれず、意識を手放しかけた。その時、触手が瑠羽の服の隙間から入り込み、素肌の感触を確かめるように身体中を這い回った。
その表皮にはびっしりと繊毛が生えており、しかも乳首のぷっくりと膨れた先端や首筋などを執拗に撫でてくるものだから、瑠羽は思いがけず甘い声をあげて腰を跳ね上げた。
「おやおや。まだまだこれからだというのに」
ギメルは情欲の灯った掠れ声で囁くと、ちろと唇を舐めた。腐緑色の触手は暫し瑠羽の肌を撫でていたが、突然狂ったように激しく動き始め、瑠羽の服を無残に引き裂いて投げ捨てた。
周囲から、ほう、という熱い溜め息が湧き上がる。寝台の上で触手によって拘束された裸体。まろやかな白い肌はところどころ薔薇色に潤んで、得も言われぬ芳香を漂わせている。
こくり、と唾液を嚥下する音が複数聞こえた。湧き上がる欲望を呑み込む音が。
淫獣の本性を露わにした触手は、瑠羽の敏感な部分を本能で覚ったのか、執拗な愛撫を始めた。
しこりを帯び始めた胸の突起に吸い付き、先端から分泌される白く濁った粘液をぬるぬると塗り込める。あっという間に紅く色づいた果実に食欲を刺激されたのか、まるで齧りつくかのようにまとわり付いては、押し潰したりこすり上げたりした。
「い……いやぁ…ん……はっん…………」
恐怖と羞恥と快楽に絡め取られた瑠羽は、膝をぴったり合わせたままくねくねと腰をよじった。すると、これまで大人しく瑠羽の足首に巻き付いているだけだった触手が突然動き出し、瑠羽の脚を大きく開かせた。
「やっ、やだぁっ」
羞恥が勝った瑠羽は、脚を閉じようと抵抗する。しかしそれを嗤うかのようにさらに激しい愛撫を与え、粘液を滴らせる。そして瑠羽の唇をこじ開けて、その口腔を犯し始めた。
「うっ………ぐ……ぅん……っふぅ…………」
上顎をざらざらとこすられ、舌を絡め取られる。やがて瑠羽の口腔は、触手が分泌する粘液でいっぱいになった。
それは、そのおぞましい形態からは想像もつかないほど甘く美味な甘露。瑠羽は余りの苦しさに耐え切れず、それを飲み干した。
しかしそれは、決して飲んではならぬ禁断の媚薬であったのだ。瑠羽はすぐにそれに気付いた。しかしもう遅い。
「あ……ああっん………やあ……あ、ああああああぁぁ………」
鳩尾の辺りから、無数の小さな蟲がざわざわと這い上がってくるような、途轍もない、おぞましき快楽。
瑠羽の半身はびちびちと跳ねながらあっという間に勃ち上がり、露わにされた蕾は誘惑するかのように艶かしい蠕動を始めた。
「何と淫らな。この幼さで」
ギメルはへらへらと淫笑を漏らしながら、触手に翻弄されて悶える瑠羽に近寄った。そして勃ち上がったペニスの根元にリングをはめると、再び元の傍観者に戻った。
勢いづいた触手は、紅くふくれて涎を垂らす瑠羽の半身に巻き付いてさらなる刺激を植え込む。それと同時に、蕾の入口、その襞をぬちゅぬちゅと音をたててこすり上げる。
「いっ、いやあっ、やめてやめてやめてぇ………」
快楽に麻痺しかけた瑠羽の頭が、きりきりと音をたてて冴え渡った。そこは、絶対に犯されてはならない場所。そこは、遼牙さまがいつもいつも優しく愛してくださる、遼牙さまだけの――――
「ひぃっ……い…やああああぁぁぁッ………」
瑠羽の一途な想いを嘲笑うかのように、化け物はためらうことなく一気に貫いた。
「かっ、開門を！ 頼む、王への面会を―――」
三角旗のはためく槍で胸を押さえ付けられた義童は、痛みをこらえて必死に訴えた。
「俺の名は義童。今お預かりしている酒姫の瑠羽に、一大事が起こった。何としても王のお力を借りねばならぬ、そうお伝え願いたい。頼む、頼む」
「今何時だと思っている。王は寝所だ。すでにお休みになられている」
衛兵の言葉に、義童はカッと目を見開いて激しい怒りを露わにした。
「闇の者が暗闇に乗じて活動するのは当然の理。時間など糞喰らえだッ」
そして、一瞬たじろいだ衛兵を睨み付け、
「今ここで俺を通さなかったせいで瑠羽に取り返しのつかないことが起こったとしたら、あんたら、王からどんなお咎めが下されるか………」
紫衛那王の酒姫に対する寵愛ぶりは彼らの耳にも届いていたから、義童の言葉には説得力があった。目配せを交わすと、一人が城内へ伝達に行き、ほどなく戻ってきた。
「義童とやら、許可が下りた。ついて参れ」
義童はほぅと息をついた。しかしまだ気を緩めることはできない。すぐに王へ会わせてもらえるはずがないと分かっていたからだ。
案の定、通された部屋で待っていたのは紫衛那王ではなく官房長の鴇津であった。
「あなたは……」
「お久しぶりでございますね。それにしても、戦場で重傷を負ったはずのあなたが何故ここに―――」
「王に会わせてください。あなたでは駄目だ」
鴇津の言葉を遮って、義童は熱を込めて訴える。
「王はもうお休みに―――」
「瑠羽が大変なんだ！ あなたまでそんなことを仰るのかっ。頼む、助けて、助けてくれ……」
義童は床に爪立てて、苦しげな嗚咽を漏らした。その時、
「鴇津、私が聞こう」
威の何たるかを知り尽くした、深みと光沢のある声。義童はゆるゆると顔を上げた。
「ああ……」
紫衛那王、遼牙。開墾地で視察しているところを二度ほど遠巻きに眺めたことはあったが、こんな間近で拝謁するのは初めてだった。
義童はほんの一瞬だが、切羽詰った状況を忘れてその尊顔に見入った。
美しい。男を美しいと感じたのは、彼で二人目であった。
「義童よ、私が紫衛那の王、遼牙だ。ここには私とこの鴇津以外誰もいない。教えてくれ。瑠羽に何があった？」
そう言われて義童は初めて気付いた。自分を連れてきた衛兵たちは、部屋から姿を消していたのだ。王が、自分を信じてくれた証であろう。
「瑠羽が…審問所に連行されました」
「なんっ………」
「まさか………」
遼牙と鴇津は二人同時に声を上げ、同時に絶句した。
「俺が、俺がついていながら……申し訳ありません」
遼牙は大股で義童に詰め寄り、荒々しく胸を掴んで引き上げた。
「どういうことだっ、何故、どうやって瑠羽が―――」
「俺の…幼馴染みが審問官に丸め込まれたようです。彼女に言われて、夜使いに出た瑠羽はそれっきり……」
義童は、痛みと疲労に朦朧としながらも、必死に舌を動かして説明した。
「馬鹿な……いくらなんでもやり方が無謀だ」
「仰る通りで。何の疑わしき証拠もなく、王の酒姫を連行するなど……」
義童は沙那が言っていた言葉を思い出した。
「審問官は、信頼できる筋からの重要な情報を得たと。それに基づいて調査すると言っていたそうです」
義童の言葉を聞いた二人の顔が、きりきりと凍結した。
「信頼できる筋……まさか、妃殿下―――」
「くっ…うぅ……」
言葉にならぬ呻きで怒りを露わにする遼牙。しかしぐっと嚥下して、
「それを追及するのは後回しだ。まずは瑠羽を救出するのが先決……」
遼牙は唇を噛み締めて、虚空を凝視した。瑠羽を助ける方法を探しているのだろう。義童は祈るような気持ちで遼牙の策を待った。
常識的に考えれば、一旦審問所内に連行された者を力で救い出すのは不可能だった。審問所内はいわば神の領域。如何なる強大な権力も、地上のものである限り干渉は許されない。たとえ王であっても。
須らく天と地を統べる神の前にあっては、地上の王など幼子も同然なのだ。
しかし遼牙は、不可能を可能にする。しなければならない。口許に尊大な笑みを浮かべて力強く頷いた。まるで、囚われの瑠羽に安心しろと言い聞かせるかのように。
「あれを、使いますか」
鴇津が、囁くように訊ねた。
「ああ、使おう。我々の切り札を」
少しの逡巡もない口調で答えると、義童に向かって「瑠羽は必ず奪い返す」と静かに言い置いた。
義童は礼を言おうとしたが、張り詰めていた神経の糸に何とか支えられていた身体に限界が訪れた。その場に倒れ伏し、ぜいぜいと喘鳴を漏らす。
「どうした、義童っ」
腕を伸ばして助け起こした遼牙は、はっと息を呑んだ。外套に隠れて見えなかったが、服のあちこちに血が滲んでいる。そして何より感じるのは、濃厚な臭気。久しく忘れかけていた戦場の臭いが、義童の身体には染み付いていた。
「お前……よくこんな身体でここまで………」
遼牙は鴇津に命じて、寝台を整えさせた。しかし、
「陛下……俺のことは構わずに、早く、早く瑠羽を………」
身を灼く激痛のさ中でも、ひたすら瑠羽を想い続ける義童。ああ、瑠羽はこの男の深い愛に包まれて育ったのか―――
「義童よ、お前に感謝する。そしてこれ以上の無理はするな。お前に何かあったら瑠羽が悲しむ。全て私に任せておけ」
そしてまだ見ぬ敵に挑むように宙を睨んだ。
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