１.
「瑠羽、ちょっと足を貸してごらん」
空が明るみ、明けの明星が瞬く頃になってようやく“お仕置き”から解放された瑠羽は、その余韻である甘いだるさに身も心も浸りきっていた。
しかし遼牙の言い付けは忠実に実行する。さっき着せてもらったばかりの薄い夜着をめくって、遼牙の前へそっと足を差し出した。すると遼牙は、瑠羽の両足首に細い輪を嵌めた。
よく見れば、その輪はさらに微細な金の鎖で繋がっている。
「りょうきさま、これなぁに？」
眠気と倦怠感のせいで、いつもより舌足らずな口調で訊ねる瑠羽に、遼牙は優しく目を細めて答えた。
「足枷だよ」
甘い声にこれほど似合わぬ単語もないであろう。しかし遼牙はうっとりと、瑠羽の足を繋ぐ金属の輪を眺める。
「あしかせ？」
瑠羽は聞き慣れない単語に、きょとんとした表情で聞き返す。いや、足枷なら知っている。が、あれは奴隷や罪人が逃げないようにするための道具のはず。
でも、と瑠羽は思った。でもいいや、僕は遼牙さまのどれいみたいなものだもん―――遼牙が聞いたら、イケナイ妄想を膨らませてしまうに違いない、瑠羽の独り言。
「そうだ。ほら、見てごらん、ここに小さな鍵穴がある。そしてその鍵は私が持っている。つまり瑠羽、お前の脚を開くことができるのは、私だけなのだ」
両足を繋ぐ鎖は、瑠羽の歩幅ぐらいしかない。確かにこれなら、そういう目的で瑠羽の脚を開くことは不可能だろう。
「これからも、今回のようなことが起こらぬとも限らない。私も気をつけてはいるが、始終監視しているわけにもいかんしな」
瑠羽はようやく、遼牙の言わんとしていることが分かった。改めて、自分の足首に嵌められた拘束具をじっと見つめる。
「嫌か？ 瑠羽」
瑠羽はふるふると首を振り、
「いいえ、逆です。何だか嬉しいの。これを見てると、自分は遼牙さまのものなんだって実感が湧いてきます」
「お前はまた、そういう可愛いことを言って私を煽る……」
勝手に煽られているだけなのだが。遼牙は瑠羽を抱き上げて膝に乗せると、細い足首に指を這わせた。流麗なアラベスク文様が彫り込まれた金の輪が、白い足によく似合う。
瑠羽はくすぐったそうに身体をくねらせて、甘えた表情で遼牙の首に腕を回し、
「でも、燠亥さまとかけっこはできなくなっちゃったなぁ」
「いいではないか。お前ももう少し淑やかになるだろうから」
瑠羽はしゅん、としおれて、「だってかけっこ楽しいんだもん」と呟いた。
「冗談だよ、瑠羽。お前はそのままでいいのだ。この足枷も、私が傍にいる時は外してあげるから。かけっこでも木登りでも、好きなだけやりなさい。ただし、怪我をしないようにな」
「はぁい。くるみちゃん、よかったね。これからも一緒に木登りできるよぉ」
瑠羽は嬉しそうにはしゃぎながら、遼牙の膝の上でくるみちゃんとじゃれ合っている。遼牙は苦笑を漏らして、
「どっちが子猿だか分からんな」
「もおっ、遼牙さまひどいっ」
「キキッ」
何故かくるみちゃんまで怒っている。遼牙は笑いを噛み殺して、横を向いてぷっくりむくれている瑠羽を宥めにかかった。その時、
「遼牙様、鴇津です。よろしいでしょうか」
「ああ、入れ」
寝室の扉を開けて軽く一礼し、寝台に近づくその様子だけで、ただごとではない事件が出来したのだと分かる。
鴇津は朝の挨拶も忘れてせかせかと用件を述べた。
「遼牙様、たった今白鷺宮から伝達が参りました。妃……鷺の宮様がこちらへお戻りになる、と」
「なんだと？」
遼牙の額に、にわかに険しい翳が差す。
「理由は？ 用件は？ 今度は何を所望しているのだ」
「いえ、それが何も。ただ、一両日中には戻るので部屋の仕度を、と」
「またお得意の気紛れか。振り回される人間の身にもなってみろ」
瑠羽は二人の遣り取りを聞きながら、言いようのない不安に囚われた。
理由ははっきり分からない。ただ、自分の肩に置かれた遼牙の手が、時折神経質そうにぴくぴく動いていること、そしていつもはこうした遼牙の苛立ちを穏やかな笑みで流してしまう鴇津が、同様の苛立ちを隠そうともしないことなどが、繊細な瑠羽の心に暗い不協和音を響かせたのだ。
しかし、さすがに二人は瑠羽の怯えに敏感だった。遼牙は腕の中で小さく震える背中を優しく撫でた。鴇津はいつもの淡い笑顔に戻り、
「朝から大声で喚き過ぎたようです。瑠羽がほら、びっくりしてしまって。大丈夫ですよ。ちょっと厄介なお客様がみえるだけですから」
遼牙はゆっくり首を振り、
「鴇津、本当のことを言って構わんぞ。瑠羽には……全て話した。妃のこと、婚姻のこと。この子は全て理解してくれた。何も、気を使う必要はない」
「そうでしたか……」
鴇津は深い感慨を込めて頷くと、瑠羽に向き直った。
「では、もう隠す必要はないのですね。瑠羽、もうすぐ、別宅にお住まいのお妃様がこちらに戻られるのです」
「お妃さまが……」
瑠羽は不安げに遼牙を見上げた。身体をひねった拍子に、足枷の鎖がシャララ、と鳴った。鴇津は今初めて瑠羽を縛める拘束具に気付いたのか、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに口許を緩めて二度、三度と頷いた。
「そうです。どのくらいここにご滞在になるかは分かりません。気紛れな方なので、来てすぐあちらへお戻りになる可能性もある。いずれにしても、瑠羽、」
鴇津は瑠羽の前に跪いてその小さな手を取り、
「あなたは何も気にする必要はありません。何も。周りに振り回されず、これまで通りただ遼牙様を見て、遼牙様のことを考えていればそれでいいのです。できますか？」
「鴇津さま、僕にはそれしかできないのです。他のことは何もできないの……」
瑠羽は恥ずかしそうに答えると、遼牙の胸に縋った。
「瑠羽……」
遼牙は切なそうに眉をたわめて、瑠羽の髪に額にまぶたにキスを落とす。
瑠羽はその、ささやかにして極上の贈り物を、目を閉じてうっとりと受け取った。そして、
「遼牙さま、鴇津さま、僕は大丈夫です。でも……ひとつだけ訊いてもいいですか？」
「なんだ？ 瑠羽。何でも訊きなさい」
「ぼく……お傍にいてもいいの？」
おそるおそる訊ねる瑠羽を、遼牙は乱暴に掻き抱いた。
「馬鹿者！ 何を遠慮することがある。言っただろう、あれとの婚姻は文書の上でのみ成り立っているに過ぎん。私の…私の花嫁はたった一人、お前だけだ」
「遼牙さま……」
「おやおや、プロポーズですか？」
呆れたように茶々を入れる鴇津をぎろと睨んで、再び瑠羽を見つめ、
「それに、あの女にだって私への愛情などないはずだ。巫女の宿命として粛々と受け入れているだけ。可哀想な女だとは思うが、同情というのは愛情の対極にあるもの。
瑠羽、私たちの間には何もない。本当に何もないんだ。仕方ないことだが」
淡々と告げる遼牙が何だか痛々しくて、瑠羽は涙を抑えることができなかった。「仕方ない」と諦めるまでに、一体どれほどの痛みを乗り越えてきたのだろう。
瑠羽は鴇津の言葉を思い出した―――あの方はこれまで、感情を押し殺して面てに出さないように努めてこられました。それはご自分の身を守る手段のひとつだったのです―――
言われた時には分からなかったことが、今なら分かる。悲しみに押し潰されないように、心を硬い鎧で覆ってしまったのだ。愛を求める叫びも同様に。そうするしかなかったのだ。
「遼牙さま、遼牙さまぁっ」
瑠羽は同じ激しさで遼牙を抱き返した。
「だいじょうぶ、僕がいます。だから、そんな辛そうなお顔しないで……」
「瑠羽……」
この人を守りたい、瑠羽は初めてそう思った。自分には何の力もないけれど、いつも守ってもらってばかりだけれど、でも―――
ふと視線が合った鴇津は、瑠羽を勇気づけるように力強く頷いた。彼には、瑠羽の決意が伝わっていたのだ。
「私はこれで……」
鴇津はそっと告げると、寝室を後にした。
宮内には、いつもと違う緊張感が漂っていた。妃である鷺の宮（さぎのみや）妃殿下が到着したのだ。
遼牙は、公務を理由に迎えには出なかった。が、その夜には知己を集めてささやかな歓迎の酒宴を開くことにした。二人きりで会って言葉を交わすよりも、大勢が集う席で顔を合わせる方が、お互いの気詰まりも緩和されるだろうと考えたからだ。
それに、酒宴ならば隣に瑠羽がいてくれる。あの愛らしい笑顔を見ていられれば、多少の不興にも耐えることができよう。
―――それにしても、何故今ごろ突然帰城するなどと……
遼牙にとって、それが不可解だった。女の気紛れで片付けていいものか……。しかし唯一鴇津だけは、彼女の帰城の理由に気付いていた。本当の気持ちに。
「ね、鞘葉さん。お妃さまってどんな方なの？」
宴の仕度に精を出す鞘葉に、瑠羽はおそるおそる訊ねた。鞘葉は薄い笑みを浮かべて、
「私もよく存じ上げないのです。こちらへお戻りになることはほとんどございませんでしたので。ただ、一つ申し上げるとすれば、瑠羽様が気になさるような方ではないということ。今まで通り、遼牙様のことだけに心を砕かれればよいのです」
鴇津と全く同じことを言う鞘葉。しかし口調は柔らかいものの、言っていることは鴇津より辛辣かもしれない。この国の王妃を指して、取るに足らない人物だと切り捨てているのだから。
当然ながら、瑠羽はそこまで思い切ることはできない。
「でも、王妃さまなんだもの。ちゃんとご挨拶はしなくちゃ」
「ああ、瑠羽様。申し訳ございません。そう思われるのも尤もでございますね。でも、今回だけは鞘葉の言うことを聞き入れてくださいまし。何を言われてもどんな態度を見せられても、気にしないで遼牙様だけを信じて。宜しいですか？」
母のように慕っている鞘葉からここまで言われては、頷かざるを得ない。瑠羽は素直に「はい」と返事をして、鞘葉の選んだ衣装に袖を通した。
宴席は整えられ、あとは主役を待つばかり。しかしやはり、いつもの宴の空気とは違う何かが、たちこめる酒気に混じって漂っていた。
その原因は言うまでもなく、たった今広間に登場した不在の妃、白鷺（しらさぎ）にあった。
彼女は、アンチモンでくっきりと縁取った目を見開いて、しずしずと歩みを進める。が、髪や頸、腕などを飾る宝石がじゃらじゃら音をたてるせいで、何とも仰々しい行進のようだった。
彼女は、確かに美しい。しかしその美しさは、白鷺の名からはかけ離れた、腐敗寸前の果実が見せる頽廃美だった。
白鷺は用意された席に腰を下ろすと、「皆様、お久しゅう」とよく通る高音で放った。その感情のこもらない挨拶を受け、大臣その他の公達らは一斉に頭を下げるとご機嫌伺いを始めた。
「お久しぶりでございます。相変わらずお美しくていらっしゃる。まことに―――」
「鷺の宮様には、ご機嫌うるわしく、私もお会いできて光栄に存じます―――」
が、全ての美辞麗句をうるさそうに手で払うと、斜め前に座る鴇津に目をやり、
「鴇津、王はまだですか。今宵は私が主賓ではないのか？」
鴇津は恭しく一礼し、
「まこと、仰る通りで。しかし陛下はつい先ほどまで公務に勤しんでおられましたゆえ、いま暫くお待ちいただければと」
「はっ、何の公務だか。便利な言葉ですこと」
広間の空気が最高に淀み始めた時、瑠羽を伴った遼牙が姿を現した。
皆が一斉に息を呑む。この二人の不仲は公然の秘密であったし、何より、今までとは状況が違う。そう、遼牙の隣には瑠羽がいるのだ。しかもその瑠羽は……
列席者は、二度息を呑んだ。いやでも目につく瑠羽の足枷。その生々しい所有の記号は、男たちの胸に淫らな妄想を吹き込んだ。
そして今宵の瑠羽の装い。身内ばかりの席だからと、遼牙は特に鞘葉に何か注文をつけることはしなかった。ただ、いつものように瑠羽の美しさを存分に引き出してくれ、とだけ言い付けた。鞘葉が選んだ衣装は―――
羽根。白い羽根を隙間なく張り合わせたふわふわの生地で作られたドレスだった。
露出を抑えろとは言われなかったため、肩と腕は剥き出しのまま、胸元から裾まで緩やかな広がりを持つシンプルなデザインのものだったが、純白で繊弱な羽根が瑠羽の可憐な美貌を引き立たせ、見る者に得も言われぬ感動をもたらした。
ドレスの丈は短めで、すらりと伸びた脚の先には金色の枷。それが動くたびにシャララ、と微かな妙音をたてる。それに聞き入りながら、鴇津は思わずほくそ笑んだ。
―――やりましたね、鞘葉
そう、瑠羽はまるで、広間に舞い降りた白鷺のようだった。つまり瑠羽こそが白鷺。妃に相応しい寵愛を得ているのだと、暗黙の裡に知らしめているのだった。
もちろん、瑠羽にそんな意識はない。ただ、今まで見たこともないようなふわふわの生地が楽しくて、時折くすぐったくて、くるくる回ってはきゃっきゃとはしゃいだ。が、さすがに広間へ入ってからは、神妙な態度で遼牙の後に楚々と続いた。
遼牙はいつも通りの恬淡とした歩みで席に着き、そして、いつも通り瑠羽を膝の上に乗せてその腰に腕を回した。
瑠羽はちょっと驚いたものの、普段通りにしていなさいという遼牙の言い付けを思い出し、寛い胸にぴったりと身体を寄せて抱き付いた。
遼牙は瑠羽の頭を優しく二度撫でる。そして光沢のある声で「待たせたな」と皆に告げた。列席者が頭を下げるのを確認すると、
「白鷺、元気そうで何よりだ」
「お陰様で。王におかれましても、最近は特にご機嫌がよろしいようで」
粘っこい口調で答えると、瑠羽をちらと見て馬鹿にしたように笑ってみせた。
しかし遼牙は、片方の眉をほんの少し吊り上げただけだった。彼女のこういう物言いには慣れている。いちいち相手にしていたら神経が磨滅してしまう。
遼牙はさっさと彼女から視線を外すと、杯を取った。瑠羽はすかさず薔薇色の酒を注ぎ、遼牙をそっと見上げた。すると、優しい眼差しにぶつかる。大丈夫だよ、瑠羽。心配しなくていい―――雄弁な眼差しに、瑠羽もそれ以上に雄弁な微笑みで返す。はい、遼牙さま。僕がお傍にいます―――
そんな温かなコミュニケーションに、白鷺はほんの一瞬だったが燃えるような一瞥を投げつけた。
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