２.
「あのぅ……鴇津さま。舞踊団の方たちはもうお帰りになったのですか？」
瑠羽の方から珍しく会いに来てくれたと思ったら、意外な問いを掛けられて、鴇津は大きく瞬きをした。そして一拍おいてから、
「いえ、まだ城内に滞在されていると思いますが」
瑠羽はぱっと顔を輝かせて、
「本当に？ ああ、よかったぁ。あの、踊り子の方にお会いするにはどうしたらいいんですか？」
鴇津は今度は思い切り眉を顰めて、
「踊り子に会ってどうするのですか」
まさか瑠羽が踊り子に懸想するとは……いや、あり得ない……あり得ない？ そんなことはなかろう。瑠羽だってこれほどの美貌の持ち主とはいえ、これまで比較的真っ直ぐ育ってきた普通の男の子なのだから。しかしだとしたら厄介なことだぞ―――と、鴇津は様々な対応策をシュミレートし始めた。
これは鴇津の癖というか習い性で、勝手に先の先まで考えて憂慮して、結局空回りしてしまうことが度々あったのだ。この完璧な男の、唯一の欠点ともいえよう。
「踊り子の方に聞きたいことがあって」
「は？ 聞きたい…こと、ですか？」
瑠羽は仄かに頬を染めて頷く。
「教えてくれるって約束をしたんです。でもゆうべは時間がなくて」
「何を、教えてもらおうというのですかっ」
鴇津の剣幕に瑠羽はたじろいだが、さらに頬を紅潮させて俯くと、「鴇津さまには恥ずかしくて言えません」と答えた。
瑠羽は、酒姫の仕事について今さら教えてもらうだなんて、恥ずかしくて言えないという意味で答えたのだが、最初の前提からして間違っている鴇津の頭は、全く別の意味に捉えてしまった。
「瑠羽っ、あなたは、自分の立場や役目というのが分かっているのですかっ」
「もちろん分かってますっ。だから夜のご奉仕について教えて………あ、あや〜」
慌てて口を閉じたがもう遅い。鴇津の耳は、瑠羽の口には似つかわしくない言葉を敏く聞き付けた。
「夜の、ご奉仕ですって？」
瑠羽は仕方なく、恥を忍んで打ち明ける。
「はい。ゆうべ踊り子の方に言われたんです。酒姫のくせに、夜のご奉仕もしていないのか、って。けれど僕、どんなことをすればいいのかすら知らなくて……。遼牙にさまにお訊ねしても、お前にはまだ無理だ、の一点張りで………」
「それで……その踊り子に教えてもらおうと思ったのですね」
鴇津は思わず額の汗を拭う。全く、このお子様に振り回されてしまった。いや、勝手な想像を膨らませた自分も悪いのだが。
瑠羽はこくん、と頷いて、鴇津を縋るように見上げた。
―――お前にはまだ無理、か。そろそろ我慢の限界でしょうにねぇ……
昨晩の宴。きっと遼牙は誰とどんな会話をしたか覚えていないに違いない。口許はいつもの、憎らしいほど穏やかな笑みを湛えていたが、双眸は激しい欲望に灼かれてぎらぎらとぬめるように輝いていた。
きっと、あの優雅な長衣の下では、先端まで欲望を滾らせた彼の半身が、鋼の硬さで勃ち上がっていただろう。鴇津は、ある意味尊敬しますねぇ、と他人事のように呟いて、眼前の瑠羽を見つめた。
お前には無理だと言われて、たぶん昨夜は泣いたのだろう、目のふちは赤く染まって微かに潤んでいる。それすら余りに無防備な媚態だと言わざるを得ない。この脆さや健気さは色気と表裏一体で、どれほど男の情欲を揺さぶるか、この子供は分からないままそれをまき散らしているのだ。
それだけではない。瑠羽は来た時より少し背も伸びて、手足のしなやかさは増し、栄養状態がいいせいか毎日香油で磨いているせいか、肌の輝きは目を見張るほどだった。美貌については今さら言うまでもなく。
そして、鞘葉を筆頭にした侍女たちの策略。昨夜の装いなどはまさに、彼女らの目論見通りの効果をもたらしたといえるだろう。
それでも頑なに、瑠羽はまだ子供なのだからと手を出そうとしない遼牙は、果たして聖者なのか臆病者なのか―――
「分かりました、瑠羽。後でその踊り子に会わせて差し上げましょう」
「本当に？ あ、ありがとうございますっ」
鴇津は一瞬で結論を出した。この子の深い愛情に気付こうとしない遼牙様は臆病者だ、と。少し荒療治が必要かもしれない。
「あっ、あんた……ゆうべは悪かったわ」
「いえ、あの状況では仕方ないです。それで、あの……」
「分かってる。“夜のご奉仕”でしょ？」
瑠羽は熱を込めて頷いた。しかし娘はひらひらと手を振って、
「あのねぇ、そんなに気負わなくていいのよ。簡単なことなんだから。夜一緒に寝る時にね、裸になって、王様を温めて差し上げるの。それだけよ」
「は、はだか…ですか？」
「そう。裸。下着一枚も着けてちゃダメ。あんた、何のために毎日毎日高価な香油で肌を磨いていると思ってるの？」
「あっ……そのために………」
「そうよぉ。そうやって磨いたあんたの柔らかくて滑らかな肌で、王様の身体をあっためてあげなさい」
ああそういえば―――と、瑠羽は家にいた頃を思い出した。
一緒に寝た時、義童はいつも自分の身体をぎゅっと抱いて温めてくれた。裸ではなかったけれど、薄い夜着越しの肌の温もりは心地よく、一日の疲れがすーっと消えていくような感覚に癒された。あれを今度は僕が、遼牙さまにして差し上げるんだ。
「分かりました。あの、本当にありがとう。僕頑張るねっ」
瑠羽はにっこり笑って娘の手を強く握ると、浮かれた足取りで去っていった。
「……あれで本当に良かったの？」
踊り子は呆れたような困惑したような表情で、柱の陰に隠れていた鴇津に念押しした。
「ええ。完璧です」
「何だかままごとみたいな関係なのね。おたくの王様と酒姫って。妾、色んな国を訪問しているけど、こんなの初めてよ」
「恋愛というものは十人十色。二人が幸せならそれでいいではないですか」
踊り子はようやく笑顔を浮かべて、
「あんた、官僚のくせに詩人みたいなこと言うのね。この国って面白いわね。来る前までは、辺境の小国だと思って馬鹿にしてたけど。文化レベルは高いし、王様は美形だし、詩人みたいな官僚はいるし。それに…あの酒姫も、嫌いじゃないわ。一生懸命で、純粋で」
「使節団から頂戴した、慇懃なご挨拶よりずっと嬉しいですね」
鴇津はそう言うと、恭しく一礼した。
その夜、就寝の時を瑠羽はわくわくしながら待っていた。湯浴みの最中、香油で磨かれるのは好きではなかったし、いつものぼせてしまいそうになるから早く終わって欲しいなあと思っていたのだが、これも遼牙のため、夜のご奉仕のためだと思うとちっとも苦ではなくなった。
「どうされたのですか？ 今日はご機嫌がよろしいのですね」
鞘葉はにこにこしながら、瑠羽の腕に指を滑らせた。すると、瑠羽の肌はしっとりと細やかに輝き出す。
「うん、あのね……僕、やっと夜のご奉仕をして差し上げることができるの。だから嬉しくって」
秘密にしていようと思ったのに、嬉しくてつい打ち明けてしまった。でも、鞘葉にならいいだろう。
「……そうでございますか。それはそれは」
鞘葉は奉仕する手を一瞬止めたが、何事もなかったかのようにすぐ再開した。
「どきどきするなあ。早く夜にならないかなあ」
無邪気に笑う瑠羽にさすがに不審感を抱いた鞘葉は、穏やかな声で、
「瑠羽様、夜のご奉仕ってどんなことなさるのですか？ 鞘葉に教えて下さいませんか」
「え、鞘葉さんも知らないの？」
瑠羽はちょっと得意気に胸を反らすと、耳許に口を寄せて、
「あのね、裸になってね、それでぎゅっと抱き締めて、遼牙さまの身体を温めて差し上げるの。毎日香油で磨いているのは、そのためなんだよぅ」
「まぁ、そうだったのでございますか。ではこれまで以上に念入りに磨いて差し上げないと」
「うんっ」
鞘葉は、瑠羽に気付かれないように溜め息を漏らした。一体誰が、こんなことを吹き込んだのかしら。遼牙様もお気の毒に………
その夜の瑠羽は、大袈裟ではなく眩しいほどだった。遼牙は思わず目を細めて、そのしどけない寝着姿に見入った。
「瑠羽…さあ、おいで」
発した本人にしか分からぬほどの微細な震えを伴った声で瑠羽を呼ぶと、いつものように両手を差し伸べた。それに応えて瑠羽はゆっくり寝台に近づいたが、あと少しで遼牙の手の届く所で急に止まって、腰の細いベルトに手を掛けた。
「瑠羽……？」
やはり遼牙の前で全裸になるのは、それが大事なお務めとはいえ恥ずかしい。それにこんな貧相な身体でちゃんと温めてあげることができるのか……そんな後ろ向きな思いが一瞬瑠羽の頭を駆け巡ったが、すぐに振り払ってベルトをしゅるしゅるとほどいた。そして、息を呑む遼牙の目の前で、身体を包んでいた寝着をすとん、とすべり落とした。
ああ、瑠羽の裸身。それは月光に照破されて暈然と耀き、白銀の肌の上に、耳たぶや胸などところどころ紅く灯った血色の花が蠱惑的で、遼牙の眼を醺然と酔わせた。もちろん、股間を飾る小さな桜色の半身も。
「遼牙さま……あの、夜の、ご奉仕を………」
「瑠羽……」
遼牙はごくりと喉を鳴らすと、いつもの優雅な所作からは想像もつかないほどの乱暴な手つきで毛布を払い飛ばし、瑠羽に飛び掛ろうとした。
が、その瞳の奥に微かな怯えが瞬くのを目にして、自分がすべきことを思い知った。遼牙は腹の底にぐっと力を入れると、
「瑠羽、まだ分からんのか。誰に吹き込まれたかは知らんが、お前には無理だと申しているのに。私の言うことがきけないのならもういい。私は一人で寝る」
「りょ、遼牙さまっ」
遼牙は寝台に戻ると、瑠羽に背を向けてしまった。
「遼牙さまっ、あなたのお身体を温めて差し上げたいのです。酒姫の務めを………」
「うるさい」
「あ………」
瑠羽はその場にぺたんと座り込んで泣き出した。しかし遼牙は、昨夜のようにその胸に呼び寄せることはしなかった。昨夜とは状況が違う。もし今そんなことをしたら……遼牙はそこまで、自分の理性に信を置いてはいなかった。
瑠羽は苦しそうにしゃくり上げながら、脱ぎ捨てた寝着を拾い上げて身に着けた。そしておそるおそるベッドに潜り込む。遼牙は咎めもしないが、こちらを向こうともしない。遼牙さまはもうお休みになってしまったんだと考えた瑠羽は、音をたてないようにそっとすり寄って、寛い背中にぴったりとくっついた。
温めて差し上げるはずの自分が、逆に温もりをもらっている、そんな苦く切ない思いを噛み締めながら。
翌朝、瑠羽が起きると隣に遼牙の姿はなかった。いつもは瑠羽が淋しがるからと、起きるまで待っていてくれるか、起こしてくれるかのどちらかだったのに。
―――やっぱり、怒っていらっしゃるんだ……
何がいけなかったのか、何が不満だったのか分からない。単純に、こんなぎすぎすした身体に抱き締められても、気持ちよくないと思っていらっしゃるのかも。そっか、僕じゃだめなんだ………。
その時、寝室の扉が鳴った。そして鴇津が入ってきた。
「瑠羽、どうしたのです。一人で」
「鴇津さまぁ……ぼく………」
鴇津は思わず舌打ちをした。どうやらこの様子では、遼牙の理性が勝ったようである。あの方はどこまで聖人君子を気取るおつもりなのか。人間臭い激情を、なぜ瑠羽にぶつけてみようとしない。この子なら喜んで受け止めてくれるに違いないのに。
「僕じゃだめなんです。僕じゃ………」
「瑠羽、そんなことはありませんよ。諦めないで」
「でも……でも………」
鴇津は瑠羽の肩を抱いて、寝乱れた髪をそっと梳いてやった。その時、
「鴇津、こんな所で何をしている」
聖人君子のお出ましだ。鴇津は不愉快そうな表情を隠そうともせず、
「瑠羽が起きて来ないので、心配で見にきたのです」
「何を心配することがある」
「いえ、別に。あなたには関係のないことです」
遼牙は目を吊り上げて鴇津を睨む。明らかに寝不足の、腫れたまぶたが痛々しいと言えなくもない。
「瑠羽、いつまで寝ているのだお前は」
「あっ、申し訳ありません……」
瑠羽は飛び上がって謝ると、震えながら平伏した。自分の前では二度と平伏するなと言われていたにもかかわらず。
しかし遼牙は顔を上げよとは言わず、そのまま瑠羽に向かって申し付けた。
「よいか瑠羽、今夜から私は一人で寝る。やはり誰かと一緒だと……熟睡できないのだ。嵐も当分は来ないであろうし、もう一人でも大丈夫だろう？」
「えっ……で、でも、あの………」
驚いて顔を上げた瑠羽の、追いすがるような視線が痛い。しかし遼牙は厳しい表情を崩さず、
「なんだ、言いたいことがあるのか、この私に」
「遼牙さま……この部屋の、隅っこでもだめですか？」
「…………」
「邪魔はいたしません。話しかけたりもしません。ただ同じ空間にいて、同じ空気を感じていられればそれでいいんです。それだけで、僕―――」
「だめだ。ちゃんと自分のベッドで寝なさい」
「わかりました――」
瑠羽は、遼牙の寝台に持ち込んだお気に入りの大きな枕を抱えると、ぺこりとお辞儀をして自分の部屋へ戻っていった。
「……お前か、鴇津。瑠羽に妙なことを吹き込んだのは」
「妙なこととは何でございましょう」
鴇津のこういう物言いには慣れている。遼牙は自らを宥めて、
「酒姫の閨務めについてだ」
「おやおや、瑠羽がそんなことを。で、いかがだったのでございますか？」
「するわけなかろう！」
遼牙はとうとう声を荒げた。何故分からないのだ、あの子はまだまだ―――
「あの子は子供だ」
「子供ではありません」
遼牙は鼻で笑った。
「断言するのだな。何を根拠に……」
「あなたを愛していると、瑠羽ははっきりそう申しました」
「な、何を……。大体、愛の意味が、愛とは何か、あの子に分かるのか？」
「では、あなたには分かるのですか？……いやいや、これは失礼いたしました。我が紫衛那が誇る、賢帝の誉れ高き遼牙様に向かって。あなたには分からぬことなどないのでしょうね」
鴇津は突き刺すような口調でそう言い置くと、遼牙を正面から見据えた。たいていの諍いを曖昧な微笑みで流してしまう鴇津にしては、珍しい激しさだ。
「私には分からぬことだらけで。ただ、分からぬことを分からぬまま受け入れる術に長けているとは自負しております。曰く、“愛を定義しようとしなければ、愛を知るのは容易い”」
「お前は詩人ではないのだぞ」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします。ちょうど昨日、詩人みたいな官僚だと、ある女に言われたばかりで」
鴇津は頭を下げると、いつもより少し大股で遼牙の居室を去った。
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