１.
鴇津の後ろに続いて、瑠羽はひたすら歩いていた。紫衛那城は余りに広く、どこをどう通ってここまでやってきたのか分からない。それは、遼牙との再会を間近にして舞い上がってしまったせいもあるだろうが。
広い中庭に面した柱廊は壮麗な女人像柱（カリアティッド）で支えられ、ヴォールト天井に敷き詰められた金銀七宝のモザイク片は陽光を反射して、眩いばかりの煌きを注ぐ。
瑠羽は思わずぼーっと天を見仰いだ。界燕の屋敷も広大且つ壮麗ではあったが、規模が違いすぎる。これからここで生活するのかと思うと、湧き上がるのは喜びよりも不安の方が大きかった。
自分を見下ろす女人像柱も、どこか嗤っているように見える。あら、なによこの子、こんなみすぼらしい子供が、なんで王のおわします宮殿を歩いているの……。
「瑠羽、どうしました？」
前を歩いていたはずの鴇津が、瑠羽の前で腰を屈めて顔を覗き込んでいた。
「な、なんかびっくりしてしまって……。何もかもが想像を超えているので」
「気後れしてしまいましたか？」
労わるように優しく訊ねる鴇津。瑠羽は素直に頷いて、
「はい。図々しくここまで来てしまいましたが、よく考えてみれば、僕みたいな子がちゃんとお務めを果たせるのか……」
鴇津はめっ、と叱ってみせると、
「瑠羽、“僕みたいな子”なんて卑屈になってはいけません。それは、あなたを選んだ遼牙様をも貶めることになるのですよ」
しゅん、と萎れてしまった瑠羽の頬に手を添えて、鴇津は今度は優しく語りかけた。
「大丈夫。深く考えることはありません。瑠羽、酒姫（サーキイ）の仕事とは何なのか、知ってますか？」
「えと……酒宴の席でお傍に付いて、お酌をする仕事です」
「そう、それだけなのですよ。何も心配する必要はありません」
瑠羽は「でも……」と言葉を濁して鴇津を見つめると、
「でも、色んなお作法とかあるのでしょう？ 僕、本当に何も知らないのです。もし失敗したら、遼牙さまにまで―――」
「遼牙様はね、瑠羽、あなたの純真で素直なところがお気に召したのです。辛い出生にも拘わらず、明るく真っ直ぐ生きている。そんな瑠羽だからこそお傍に置きたいと思ったのですよ。だからあなたはそのままで。何も恥じることはありません。大丈夫」
鴇津の言葉で全ての不安が払拭されたわけではないが、こうして心から励ましてくれる人が傍にいるという事実に、瑠羽は勇気づけられた。「はい」と力強く頷くと、再び柱廊を歩き出した。
そしてようやく、行き止まりに大きな扉が見えた。嵐の雲間より突き出た神の手が、洪水から逃げ惑う人間を救う場面が、繊細な浮彫りによって描かれている。陸離たる芸術性を湛えた豪奢な扉に、瑠羽は思わず溜め息を漏らした。
鴇津がノッカーで扉を叩くと、重く鈍い響きが鼓膜を震わせた。そして―――
「遼牙様、瑠羽をお連れいたしました」
すると奥から、「ここへ」という声が。それだけで、瑠羽の胸はどきん、と大きく脈打った。
広間を抜け、王の座所へと入る。そこには、象牙の長椅子に寛いだ格好で座った遼牙が、瑠羽の到着を今か今かと待ち構えていた。
「鴇津、ご苦労だったな」
遼牙は優雅な所作で立ち上がり、一歩、二歩と歩み寄った。以前逢った時とは全く異なるゆったりとした長衣を身にまとい、長い黒髪を無造作に下ろした遼牙は妖しいほど美しく、瑠羽には別人のように見えた。
いや、それは出で立ちのせいだけではなく、この豪奢な居室のせいもあろう。金の星がきらめく青い天井は、一角獣が左右に顔を出した見事な意匠の柱頭を持つ列柱が支えている。紫檀のテーブルも縞瑪瑙の花瓶も、全てが瑠羽の眼にはまぶしく、それらを背景に堂々と佇立する遼牙も、近寄り難い威光を放っていた。
「瑠羽、近くへ来なさい」
上質のびろうどを思わせる艶やかな声で名を呼ばれた瑠羽は、喉の奥からこみ上げる熱いものを抑えるのに必死だった。少しでも気を抜いたら、きっと泣き出してしまう。
「瑠羽、どうしたのだ」
僅かに苛立ちが灯った声で、再び呼ぶ。瑠羽はびくん、と肩を震わせると、おそるおそる近づいた。だが顔を上げることもできず、まるで罰を待つかのように俯いたままだった。
「顔を上げなさい」
遼牙は今度は、苛立ちを隠そうとはしなかった。何故こんなに怯えているのだ。そんなに私が……恐いのか？
瑠羽はそおっと顔を上げた。目の前にいるのは、逢いたくて逢いたくてたまらなかった人。手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに、何故か眩暈がするほど遠くに感じられた。
しかし瑠羽はすぐに思い直した。それで当然なんだ。だってこの方は王様なんだから。自分などに手が届くはずがない。
「……私のことを、忘れてしまったか？」
意表を突く遼牙の問いかけ。瑠羽は驚きの余りすぐに応えることができず、僅かな間をおいて首を大きく振った。忘れない、忘れられない、忘れるはずがない！ 自分に注がれた優しい微笑みを。あの寛い胸の温かさを。
瑠羽は縋るように遼牙を見つめた。今すぐにでも、その胸に抱きついて叫びたい。逢いたかった、あなたに逢いたかった、もう一度抱き締めて欲しかった、と。でも―――
「お召しいただいて、ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、一生懸命がんばります………」
それは遼牙が聞きたい言葉とはかけ離れていた。酒姫の仕事など二の次、三の次。ただ、清らかな耀きを放つ笑顔で傍にいて、この宮殿内での砂を噛むような生活に潤いを与えて欲しかったのだ。
遼牙は美に餓（かつ）えていた。宮殿には、華美なものは溢れるほどある。美貌を誇る女も多く、遼牙さえその気になれば日替わりで睦言を楽しむこともできる。しかしそれらは全て内に空虚を抱えており、遼牙の鋭敏な感受性には、触れるどころか見るだけで、その空虚が伝染するように感じられたのだ。
「瑠羽……」
だが瑠羽の美しさは光と温もりに溢れており、ほんの僅かな時間接しただけで、遼牙の心に光の亀裂を走らせた。そっと頬を撫で、華奢な身体を抱き締めた時のあの悦び、胸の高鳴り！ それが再び味わえると思っていたのに………
「……そうか。では、部屋に案内させよう。そして早速だが、３日後に開かれる酒宴で私の酒姫を務めてもらう。これは内々での夕食会のようなものだから、堅苦しく考えることはない。分かったな？」
「み、３日後ですか……はい、がんばります………」
消え入りそうな声でそう告げると、頭を下げて逃げるように鴇津の許へ戻った。不安の余り、思わず鴇津の腕をぎゅっと掴む。それを目にした遼牙の顔に、一瞬険しい閃が走った。
「鴇津っ、瑠羽を部屋へ連れていけ。そして宮殿内を案内してやれ。私はこれから、目を通さねばならぬ書類がある」
遼牙は、彼には珍しく刺々しい声でそう言い放つと、早く出て行けと言わんばかりに手を振った。鴇津は黙って頭を下げると、瑠羽の肩を包み込むように抱いて、
「ではお部屋に案内しましょう。それから、中庭を散策しながら一緒に食事でも。瑠羽、お腹空いたでしょう？」
そして遼牙にちらと一瞥をくれると、部屋を出て行った。
「鴇津のやつ……」
目を通す書類などないことを知っているはずなのに。瑠羽が来たらまず、一緒に中庭を散策するつもりだと言っておいたはずなのに。
「く、そぉ……」
人前では絶対に吐かぬ荒れた言葉と、絶対に見せぬ激しい感情をまき散らして、遼牙は二人が出て行った扉を怨めしげに睨んだ。
「あの、遼牙さま、何だか怒っていらっしゃったような気が……」
外へ出た瑠羽は、鴇津におそるおそる訊ねた。この前逢った時に見せてくれた優しい微笑みは影すらなく、尖った口調で部屋から追い出されてしまった。
しかし鴇津は何故か浮き立った様子で、愉しそうに肯定する。
「そうですね。確かに怒っていらしたようです」
「やっぱり……僕がお仕事の邪魔をしてしまったから。それとも、気付かないうちに何か不作法な振る舞いをしてしまったのかも……どうしよう………」
鴇津は、今度は笑って否定した。
「いいえ、遼牙様は瑠羽に怒っていたのではありません。私にお怒りになっていたのです。いい兆候です。あの方はこれまで、感情を押し殺して面てに出さないように努めてこられました。それはご自分の身を守る手段のひとつだったのです。しかしそれが習い性となってしまい、今では感情を素直に表現できなくなってしまった。全てを内に溜め込んで、作られた微笑みで覆って……」
鴇津は、真剣な面差しで話を聞いている瑠羽の頬を撫で、
「だから、これでいいのです。ああ、瑠羽が来てくれて本当によかった。感謝します」
深く一礼した。
「さあ、ここが瑠羽の部屋です。入って」
そこは、遼牙の居室にも引けを取らぬほどの豪奢な部屋だった。
金や七宝が象眼された細い脚が美しい寝椅子には、ふかふかのクッションが幾つも置かれて、主の身体に優しい微睡みを捧げようと待ち構えている。微細な彫刻が施された枠に嵌められた青銅の鏡、ガラスの水差し、七宝焼きの手箱。縞瑪瑙の花瓶には、ふくよかな馥りを漂わせる花々が活けられている。
しかし瑠羽にとって何より嬉しかったのは、中庭に面した広いテラスが付いていることだった。見れば、小鳥やリスなどがのんびりとひなたぼっこをしている。
瑠羽はそうっと近づいてみた。どうやら人間に慣れているらしく、逃げる気配も見せない。鴇津の方を振り返ると、嬉しそうににっこり笑ってみせた。
「気に入っていただけたようで、よかったです」
この心尽くしの部屋には、遼牙の瑠羽に対する愛情が溢れていた。テラスを通って中庭に出られるようにしたのも、自然の草花を愛する瑠羽のためを思ってのことだった。
そしてここは、遼牙の居室と続き部屋になっていた。瑠羽が一人で淋しい思いをすることがないように、時間のあるときはなるべく声を掛けて一緒にいたい……遼牙の密かな願望でもあったのだ。
「では暫く寛いでいてください。後で中庭を散策しましょうね」
部屋を出ようとした鴇津に、瑠羽は慌てて声を掛けた。
「あ、あのっ。遼牙さまは３日後って仰いましたけど、たった３日でちゃんとできるようになるのでしょうか……」
「おやおや、瑠羽はまだそんなことを気にしているのかな。大丈夫ですよ。酒姫はね、にっこり笑ってお傍に付いていればいいのですから」
「は、はい………」
瑠羽の不安ももっともではあるが、鴇津の言葉は紛れもない事実だった。酒姫とは、いわば権力者の装飾品、宝石や衣装と変わらぬ役目を担っているのだ。
酒宴の席で彼らは、自分が連れている酒姫の美しさを密かに競い合った。どれだけの美貌の姫を傍に侍らしているかによって、自らの力を誇示するのだ。
ゆえに酒姫は、選りすぐりの美少年、美少女が任命される。そして酒宴での奉仕だけではなく、主人の身の回りの世話や、閨で性の相手も務めるのが習わしだった。
もちろん、瑠羽はそこまでは知らない。ただ、宴の雰囲気を壊さぬよう、ひっそりとお酌をするだけだと思い込んでいた。
遼牙はこれまで、専属の酒姫を持ったことがなく、酒宴の際には、その都度給仕をしている侍女を適当に選んで酌をさせた。妻に対する配慮がそうさせたわけではない。遼牙たち夫婦の間には、そういった心の交流は皆無だった。心だけではなく、身体の交流もなかったが。
遼牙が酒姫を持たなかったのは、選ぶのが面倒だったからだ。それに、酒宴の席で始終傍に付いていられるのは、ただうっとうしいとしか思えなかった。
それが瑠羽に出逢って変わった。社交辞令やお世辞の応酬、そして権力誇示の場である酒宴の息苦しさを、瑠羽なら和らげてくれるかもしれない。傍にいて、あの純真な微笑みを浮かべてくれるだけで、不愉快な酒宴も少しは楽しく感じられるかも……。
それでもやはり、瑠羽を呼び寄せるには躊躇があった。家人から引き離して、この閉ざされた環境に押し込めてよいものか。王専属の酒姫ということで、何かと注目を浴びることになろう、それがあの子を怯えさせやしないか。そして最も基本的なこと、瑠羽は自分の傍にいるのを嫌がりはしないか、と。
結局遼牙は、己れの欲求を優先させることにした。審問所から守るという恰好の口実もあったし、もし瑠羽が家に帰りたがったら、その時は引き止めず帰してやればいいのだからと自分で自分を宥めて、瑠羽を酒姫に任命したのだった。
「おおい、瑠羽ぅー、来たんだな。俺のこと覚えてるか？」
中庭の東屋で、鴇津と共に遅いお昼をしていると、瑠羽の名を呼びながら大男が駆け寄ってきた。
「あっ、燠亥さまぁ」
瑠羽も嬉しそうに大きく手を振って応えた。燠亥は弾む息を抑えて、
「なんだよ、俺も誘ってくれれば良かったのに。冷たいなあ。あれ？ 王は一緒じゃないのか」
「遼牙様は、大事な“お仕事”中です」
鴇津はそう言うと、遼牙の部屋の方にちらと一瞥をくれた。きっと、どこかの窓からこの光景を眺めていることだろう。“我ながら意地が悪いですねえ”と胸の内でしみじみ呟くものの、仲間に入りたいなら自分からやって来ればいいのだとあっさり打ち消して、燠亥に席を勧める。
「お、悪いな。それにしても瑠羽、また逢えて嬉しいぜ」
燠亥は早速チキンに手を伸ばしながら、瑠羽に向かって笑いかける。瑠羽は切なそうに眉をたわめて、
「あ…ありがとうございます。そんな風に言ってもらえるなんて……僕………」
驚いたのは燠亥だ。どうしたんだ？ と心配そうに顔を覗き込む。
「遼牙様がね、瑠羽に冷たいんですよ。先ほども、ご挨拶もそこそこに部屋から追い出されてしまって。いくら仕事が忙しいからと言ってねえ―――」
「なぁんだとっ。まったく、どうしたんだ遼牙はっ。瑠羽が来るのをあんなに楽しみにしていたのに」
怒りの余り、“遼牙”と呼び捨てにしていることに気付かない燠亥。どうやら、すぐ沸騰する男のようだ。しかしその激しさの奥には、労わりや優しさがしっかり息づいている。燠亥は身を乗り出して、
「きっと虫の居所が悪かったんだろうな。うん、腹が減ってただけかもしれないぞ。遼……王は、瑠羽が来るのを本当に待ち望んでいたんだ。あの瑠羽の部屋、あそこは王が親しい友人などを招いて歓談するための部屋だったんだが、瑠羽の部屋にするために潰して改装したんだぞ。しかも、家を離れた瑠羽が寛げるように自ら細かい指示を与えて」
燠亥はチキンにかじりつくと秒速で呑み込んだ。そして、
「だからな、そんなに縮こまっていることはないんだ。王に呼ばれたから来てやったんだ、ぐらいの気構えでいてやれ」
「はい、燠亥さま、ありがとうございます」
「よしよし」
燠亥は手を伸ばして瑠羽の頭を撫でようとした。が、その手はぴしゃりと鴇津に撥ねられた。
「そんな脂まみれの手で可愛い瑠羽にさわらないでください」
「ううぅ、…すまん」
瑠羽は思わず声をあげて笑った。鴇津も燠亥も、その宝玉を転がしたような響きにうっとりと聞き入った。瑠羽の笑い声は、中庭を吹き抜ける風に乗って遼牙の耳にまで届いていた―――
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