BEYOND
9.
眠れ、眠れ、かわいい坊や
眠れ、眠れ、花の褥に―――
なんて……きれいな声……。それに……とても懐かしい。僕は……僕はこの歌を知っている……
聖なる天使の守護を受けて
久遠の時に夢を刻む―――
ずっとずっと昔……僕がまだ生まれる前……お母さんの胎内にいた頃……聴いていた……ような………
やがて坊やは眠りから覚め
母の瞳に笑顔を咲かす―――
そうだ……僕は世界の内側で微睡みながらずっと考えていた……どうしてお母さんは泣いているのだろう、泣きながらお歌を歌っているのだろう、と………
瑠羽、瑠羽、起きなさい。瑠璃の彼方はもうすぐそこですよ―――
瑠璃の彼方……種族間の憎しみも戦争もない……平和な世界……お父さんの愛した……美しき理想…郷…………
「んっ………」
こんなに安らかな目覚めは久しぶりだった。瑠羽はほぅっと甘やかな息を吐いて、無邪気な仕草で目をこする。そしてごく自然な流れで隣に手を伸ばし、愛しい温もりを探した。
が、はたと手を留めてこくんと喉を鳴らす。ようやく気付いたのだ。最愛の人と離れ離れになって久しいことを。
「あ……ああ………」
嘆きの形に開いた唇は震え、そこから悲しみのアリアが溢れようとした時だった。手をきゅっと掴まれ、
「目が覚めましたか？」
子守唄を歌っていたのと同じ声が、優しく鼓膜を撫でる。瑠羽は大いなる驚きと僅かな確信をもって、声のした方へ顔を向けた。
「あなた……は………」
美しい女性だった。彼女を形容するこれ以外の言葉を見つけることができない。しかし美貌以上に胸を打つ何かを、その女性は湛えていた。
優しさとか慈愛とか、そんな在り来たりの言葉では表現しきれない、もっと濃密で切実で深い、今にも爆発しそうな激しい鼓動が、陶器のような皮膚の下で脈打つのを瑠羽は確かに感じた。そう、彼女は今、荒れ狂う感情を必死に抑え込んでいるのだ。
「瑠羽……私は……あなたの………」
彼女がためらいがちに切れ切れの言葉を紡いだ瞬間、瑠羽は目の前の女性が誰であるか分かった。
「お母…さん……？」
「………っ」
「お母さん、でしょう？」
目が覚めた時に感じた僅かな確信が、大いなる確信へと変わる。瑠羽はゆっくり起き上がり、双眸に涙を溜めて真直ぐ見据えた。
「今の子守唄……覚えています。僕がまだ夢見るだけの存在だった頃、いつもこの歌を聴いていました。“眠れ、眠れ、可愛い坊や 眠れ、眠れ、花の褥に”―――」
そして瑠羽ははっきりと呼びかけた。疑問形ではなく、確かな想いを込めて。
「お母さん……お母さんっ」
琴悠に、何ができただろうか。ただ黙って抱き締める以外に。
「瑠羽！」
何と説明したらいいだろう、どうやったら自分が母親であることを信じてもらえるだろうと、琴悠は懸命に言葉を探していた。しかし言葉は必要なかった。離れ離れだった空白の時間をあっという間に飛び越えて、魂と魂が直接結び付いたのだ。
「お母さぁん……」
これまで幾度も胸の内で呟きながらも、実際に口にしたことは一度もなかった切なる呼びかけ。そしてこれからもないだろうと思っていた。しかし、
「お母さん、お母さぁん……」
繰り返すたびに、きゅっと力を込めて抱き返してくれる。瑠羽は嬉しくて、何度も何度も母を呼んだ。
「瑠羽……ごめんね………」
瑠羽の柔らかな髪に顔をうずめながら、琴悠は力なく震える声で謝罪を告げた。僅かな言葉に込められた想いの深さ。
瑠羽は母の胸に涙を染み込ませながら、首を振った。もちろん謝罪の拒否ではなく、謝罪など必要ないという意思を伝えるために。そして感謝の言葉を捧げた。
「お母さん……ありがと……僕を一生懸命守ってくれて……」
「瑠羽……」
「お母さんのお陰で、僕は紫衛那国でとても幸せな毎日を送ることができました。界淵さまは、まるで本当の子供のように僕を可愛がって下さいました。そして義童も、本当の弟のように大事にしてくれました。そして―――」
瑠羽はゆっくりと顔を上げ、瞬きもせず琴悠を見詰める。その瞳の奥では、昏い絶望とそれを封じ込めんとする意志が鬩ぎ合っていた。
琴悠は思わず息を呑む。ああ、この子は今も闘っているのだ。愛する人を喪うのではないかという不安や絶望に負けないように。
「それ以上に、遼牙さまは僕を愛して下さいました。海よりも深く、空よりも澄んだ愛情を惜しみなく与えて下さいました。なのに、なのに僕はっ………」
母と逢えた感動の温かい涙が、苦い涙へと変容する。それはまるで瑠羽を責めるかのように、伝う肌をぴりぴりと灼いた。
「遼牙さまを……見殺しにしてしまったのっ……もし僕のせいであの方が………ああ……あの方が殺さ………」
その言葉を、瑠羽はとても口にはできなかった。暗く陰鬱な地下牢で焼けた鉄の棒を押し当てられ、苦痛にのけぞる遼牙の姿が脳裏に蘇る。
心臓を握り潰されるような苦しさに襲われ、その光景を必死に掻き消そうとしながらも、そういった紛れもない現実を直視できぬ自分の甘さ、弱さに怒りと嫌悪を感じた。
「……瑠羽は、その方を愛しているのね？」
「はいっ」
琴悠の問いから僅かな間もおかず、揺るぎない答えを返す。
「誰よりも？ 瑠羽を育ててくれた人や、血を分けた親よりも？ あなたの周りにあるあらゆる輝かしいものよりも？」
二度目の問いはさらに踏み込んだものだった。そしてこの問いには、今は琴悠にしか分からぬ重大な意味が含まれていたのだが、もちろん答えは同じだった。
「はい、誰よりも」
問い自体が持つ重みをねじ伏せるかのように、瑠羽ははっきり言い置いた。琴悠は満足げに頷いてすっと片手を上げ、黙って瑠羽の背後を指差した。
その滑らかな動きに誘導されて、瑠羽は振り向く。涙で視界が霞んでいるせいで、そこに立つ人の輪郭も背景に溶け込んでぼんやり滲んでいる。
しかし、瑠羽に分からぬはずがない。どんなに霞んでいても、ぼやけていても、たとえ暗闇に埋没していたとしても、瑠羽の目ははっきりと捉えることができる。その優雅な姿を。愛する人が放つ輝きを。
「りょ…き……さ……ま………」
生まれたての子馬みたいによろよろと立ち上がった瑠羽は、意志の伝達経路が混乱しているのかそのまますとんと座り込んでしまう。しかしすぐさま立ち上がり、涙を振りまきながら駆け出した。
「遼牙さまぁぁぁぁっ」
喉の奥から愛しい名を絞り出し、腕を広げて待っている遼牙の胸に飛び込んだ。遼牙はよろめきながらもその身体をしっかり受け止め、傷の痛みも忘れて強く強く抱き締めた。
「うあ………あ、ああああああああ……………」
瑠羽の言葉にならぬ呻きは、魂から直接滴り落ちる感情の精髄。遼牙はそれを全て受け止め、心身の奥深くまで浸透させた。
「瑠羽……無事でよかった………」
遼牙の心からの呟きに触発され、瑠羽もようやく言葉らしい言葉を発した。
「遼牙さまぁ……ごめんなさい、ごめんなさぁい……ぼくのせいで………」
瑠羽が何を言わんとしているかすぐに察した遼牙は、抱き締める力を少し弱めて背中をあやすように撫でた。
「謝るのは私の方だ。お前に辛い思いをさせてしまった」
「遼牙さま、僕っ―――」
「私の命を救いたければ、翡衛城に加担しろと脅迫されたのだろう？ そしてあろうことか紫衛那国に……。瑠羽、苦しかったろう」
瑠羽はゆっくりと首を振り、涙で覆われた瞳を真直ぐ向けて、
「僕……できませんでした……。紫衛那への侵略軍には参加したけれど、でも魔力を向けることは……できなかった………」
くしゃりと顔が歪み、目尻に溜まった涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。瑠羽は拭うこともせず、肩を上下させながら“罪”の告白を続けた。
「ごめんなさい……僕、捕えられている遼牙さまを見殺しにするようなことをっ……」
あとは言葉にならず、苦しげにしゃくり上げる。すると遼牙はふわりと笑って瑠羽の頬を撫で、
「瑠羽、それでいいんだよ」
瑠羽は大きく目を見開いた。戦闘のさなかに見た幻影そのままの、遼牙の言葉、笑顔。
「でも……でも僕っ………」
「瑠羽、自分を責めてはならん。お前のしたことは正しかったのだ。脅迫に屈して故郷に刃を向けるなど愚の骨頂。必ず後悔しただろう」
「でも、そのせいで遼牙さまは酷い仕打ちを受けて……いっぱいお怪我を………」
「うん？ 心配は要らん。あの程度の傷、すぐに治る―――」
何かに気付いたのか、遼牙は途中で言葉を呑み込んだ。そして不審げに眉根を寄せる。
「どういうことだ？ 本当に痛みが消えてしまった」
その通りだった。ついさっきまで神経にしっかり爪立てていた灼けつく痛みが、きれいさっぱり消えている。
試しに腕をまくり上げてみる。鉄製の鞭で打擲されどす黒く鬱血していた肌が、元通りになっていた。
「これは一体……」
「瑠羽の力だよ」
ゆっくりと二人に近づきながら、真朱があっさり種明かしをした。隣の羅叉も頷き、
「さっき瑠羽が抱き着くと同時に治しちまったみたいだな。エノク語の開錠もせず一瞬であの傷を治すんだから大したもんだよな」
真朱の種明かしを補足する。遼牙は「そうか…」と感慨深い呟きを漏らし、瑠羽に向き直った。
「瑠羽、ありがとう。もうどこも痛くないぞ」
自分で自分の治癒行為に驚いていた瑠羽は、遼牙から感謝を告げられあわあわしてしまう。が、きゅっと抱き着いて首を振り、
「僕の力ではありません。ルヒエル様のお力です……」
「そうか……。では感謝を捧げよう。お前の守護天使聖ルヒエルに」
遼牙は神妙な声でそう言って、瑠羽の頭上を見詰めた。
「色々あったが、何とか丸く収まったな。瑠羽、無事で何よりだ。救出が遅くなって済まなかった」
真朱の言葉に瑠羽は淡く微笑んでみせた。しかしすぐに表情を引き締めて、
「あの、真朱……僕のお母さんが……」
「ああ、俺も驚いた。まさか彼女が生きていたなんて」
「じ、じゃあもしかしたらお父さんも……」
瞳を輝かせて可能性にすがる瑠羽に、真朱は何と答えてよいか分からなかった。
確かに自分は父親たちの死を確認していない。記憶の封印を解くため赴いた混沌の谷から帰還しなかった、イコール死んだと勝手に結論づけただけだ。瑠羽の言う通り、もしかしたらどこかで生きているかも―――
「いいえ、それはありません。緋鞘と颯舞が死んだのは厳然たる事実です」
微かに見え始めていた光の道を容赦ない言葉で断ち切ったのは、他ならぬ琴悠だった。緩やかな歩みで近づく彼女に、真朱は本心を打ち明けた。
「俺もついさっきまではそう思っていた。しかし琴悠、俺は二人の死を確かめたわけではない。ただ、混沌の谷から戻ってこなかったというだけだ。ということは―――」
「いいえ、真朱。二人は記憶の封印を解く前に、神の策略によって死に至ったのです」
余りに確信的な物言いに、真朱は眉をひそめずにはいられない。僅かに強張った声で、
「何故、そこまで断言できるんだ」
「何故って？ 私は知っているからです」
「何を」
「全てを」
柘榴色の虹彩に、鋭い閃が走る。真朱は目を細めて視線を尖らせ、琴悠の顔を射抜いた。しかし琴悠は動じることなく、闇色の視線を受け止める。
触れたら火花が散りそうなほど張り詰めた空気は、しかし、長続きしなかった。琴悠はふっと息を吐き、
「あなたがそう思うのも当然かもしれませんね。全ての答えはここ、水晶の森にあります」
真朱ははっと顔を上げ、琴悠が指差した方角を見詰めた。そこには、まるで天を貫かんとする意志を秘めているかのような奇岩がにょきにょきと生えていた。
「……分かった。では、俺たちをそこへ案内してくれ」
「ええ、もちろん案内いたします。でも今夜は休みましょう。やっと再会できた瑠羽と紫衛那王に、水入らずの時間を過ごさせてあげないと。それに、」
琴悠はこれまでにないほど強い眼差しで真朱を見詰め、
「あなたにも少し休息が必要です。いいですね？」
真朱は何も答えず黙って顔を背け、不自然に見えないよう両手をそっと上着の中に隠した。すでに指の半分以上が紫色に変色している手を。
「そうだな。俺も少し休みたいし。今夜はゆっくりしようぜ」
羅叉は明るい声で割り込んで、真朱の肩をがっしり抱いたのだった。
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