BEYOND
6.
崩れた扉の向こうから現れた羅叉は、憎悪を剥き出しにして睨み付ける闍弥になど目もくれず遼牙に笑いかけた。
「これはこれは。ずいぶん派手にやられたな。でもその方が男前が上がってるぜ」
楽しげにそう言いながら、足で瓦礫を掻き分ける。闍弥は頬を引き攣らせて無理に笑みを拵え、
「やっぱり生きていたのね。羅叉」
「あ？ やっぱり、なんて負け惜しみ言ってんじゃねえよ。本当は心臓が飛び出るほど驚いてるくせに。
ま、そりゃそうだよな。地の一族の粛清にお前が送り込んできた兵士たち、なかなかのものだったぜ。特にあのふざけた科学兵器の威力は大したものだった。もし俺一人だったら正直ヤバかったな」
羅叉はそう言って、思わせ振りにちらと背後へ視線をやった。闍弥は眉間に険しい皺を刻んだまま、つられて羅叉の背後を見る。
「こいつがいてくれなかったら、全滅は免れなかっただろうな」
「ずいぶん素直だな。気味が悪い」
背後から現れた黒衣の青年は揶揄めかした口調で応えると、羅叉の隣に並んだ。
「何者だ、お前は」
闍弥の誰何に答えたのは羅叉だった。芝居がかった口調で、
「火を司る大天使ハスマルの守護を受けし、偉大なる神聖高位魔族の生き残り、真朱だ」
「神聖高位魔族………火の一族は全て滅んだはずよ………まさか………」
闍弥は自分に言い聞かせるように呟いて、限界まで見開いた目で貪るように真朱を見る。その表情を支配しているのは、純粋な驚きだった。しかし突然くしゃりと顔を歪めると、けたたましい笑い声を上げた。
「あはっ、あははははははっ…………まさか生きていたなんて。族長が異端に寝返り、翡衛城の粛清を受けて惨めに滅んだはずの火の一族が」
上ずった声で愚弄すると、勝ち誇った笑みを浮かべて真朱を見返す。対して真朱は沈黙を保ったまま、静かに凪いだ瞳を闍弥に据える。
「お前、前族長の息子ね？ 異端の思想にかぶれて一族を死に追いやった挙句、古代の記憶を解放するなんて夢物語に取り憑かれた愚かな男」
遼牙は小さく呻いた。この女、封印された記憶のことを知っていたのか。
「息子も連れて出たということは知っていたけれど、まさか生きていたとはね。つまりお前は、守るべき民を失った憐れな族長ってわけね。みっともないったらありゃしない。所詮神聖高位魔族なんてその程度の―――」
「黙れ！ 闍弥！」
空気の質感が一瞬で変わった。威の何たるかを知り尽くした真朱の一喝が、ぴりぴりと肌を灼く。普段は穏やかな瞳が徐々に燻朱の翳りを帯びてゆく。余りの威圧感に遼牙ですら息を呑んだほどだ。
「黙れ。貴様、誰に向かってものを言っている。如何にも、俺は大天使ハスマルの守護を受けし火の族長。成り上がりの指揮官風情に愚弄される謂れはない」
「な…んですって………」
「確かに俺には統べるべき民はいない。しかし俺はこれまで一度たりとも神聖高位魔族、火の一族としての誇りを忘れたことはない。自らを賤しんだことはない」
ああ、彼は生まれながらの王なのだ。高貴な魂が命ずるまま、いつ如何なる時も己を律して行動する。遼牙はふっと息を吐くと、傍らで硬直している闍弥に静かに告げた。
「お前の負けだ、女。足下を見るがいい」
闍弥はのろのろと視線を落として足下を見た。と同時にカッと目を見開いた。
「退いてる……私が………」
「そうだ。お前は真朱が見せた神聖高位魔族の矜持と威光に対する畏れから、自ら後退したのだ。お前の負けだ。彼は生まれながらの王なのだ。どう足掻いても彼の上には立てん」
「……うるさい」
怒りと屈辱が闍弥の血管を駆け巡る。尤も、怒りの大半は自身へ向かうものだったが。
「うるさいうるさいうるさい！ はっ、私の負けですって？ これでもそう言えるのかしら」
闍弥が手にしていた鞭を軽く振ると、ガシャッと音を立てて剣に変形した。それを遼牙の喉元に宛てがい、引き攣った笑みを浮かべる。
「異端に寝返った神聖高位魔族。お前たちを帰すわけにはいかないわ。アム・アザゼルとシェアールが平和共存していた古代の記憶を解放する、ですって？ そんなことはさせない。我々はシェアールより優れた種族なのよ！ 今も昔もこれからも！」
「やはり。翡衛城も古文書『瑠璃の彼方』の存在を把握していたんだな。でももう遅えよ。誰も俺達を止めることはできない」
羅叉の自信に満ちた言葉を奥歯で噛み砕き、刃を遼牙の喉に押し当てる。しかし真朱も羅叉も、当の遼牙も冷静だった。
「やめとけよ。お前一人でどうしようっていうんだ。そんなことをしても無駄だ」
しかし闍弥は笑顔を保ったまま、
「さっき、中央塔の本部へマー・レーを送っておいた。大勢の兵士がここへ駆け付けるのも時間の問題ていうわけ。それまで時間稼ぎができればいいのよ。さあ、どうする？ ここで紫衛那王の首が飛ぶのを見るか、それとも大人しく捕ま―――」
言葉は途中で消えた。いや、消えたのは言葉だけではない。遼牙の背後の壁も轟音と共に崩れ、消えた。
壁に嵌め込まれて手足を縛めていた鉄枷は外れ、身体の自由を取り戻した遼牙はゆっくりと立ち上がった。その後ろには―――
「なに……これはっ………」
立ちこめる砂塵の向こうから、研ぎ澄まされた刃の如き銀色の両翼を持つ生き物が現れた。
「ドラゴンの亜種？ 何故こんなところに………」
闍弥の惚けた呟きに呼応するように、突然現れた銀色の生き物は大きく翼を広げた。そして遼牙の身体を包み込み―――
「これは………すげえ………」
羅叉も思わず声を上げる。ゆっくりと、ゆっくりと、まるで恋い焦がれていた遼牙の身体に蕩かされるように輪郭を失い、銀色のリキュールとなって吸い込まれていった。
後に残されたのは崩れた瓦礫の山と、凛乎たる佇まいでこちらを見据える遼牙のみ。
「龍舌刀には複数の形態がある」
遼牙は誰にともなくそう言って、指を一本立てた。
「所有者の血肉と同化し、“鞘”に収まっている状態の第一形態。身体から分離し、武器化、即ち剣となった第二形態」
指を立てながら淡々と説明を継ぎ、さらにもう一本追加して、
「そして霊体化した第三形態。恐らくこれを所有者以外で見たのは、お前たちが初めてだろうな」
「だから……私が剣を奪っても平然としていたのね。その気になればいつでも呼び寄せることができると」
「そうだ。たとえ海の底に沈めようとも地中深く埋めようとも、軽く念じるだけで召喚できる。ただ、その時機を間違えば瑠羽に危険が及ぶことになる。それだけが恐かったのだ」
「何て男………」
闍弥は戦慄を隠そうともせず呟くと、怯えた眼差しで遼牙を見詰めた。
機会はいくらでもあった。そう、当人の言う通り、ちょっと念じるだけで龍舌刀はその本領を発揮し、ここにいる者の首をいとも容易く刎ねただろう。なのに遼牙は、どんな拷問や辱めにも沈黙と不動を守り、淡々と耐えたのだ。
恐るべきはその精神力。それを支えているのが瑠羽という存在への愛情なのかと思うと、愛するということの底知れぬ力に脅威すら感じる。
愛は人を弱くする、目的達成には邪魔なだけと信じていた闍弥だったが、ここに至って思い知った。生半可な男が振り翳す愛と、今目の前にいる男が胸の奥で密かに、激しく燃やしている燻朱の焔とは全く異質のものなのだと。
「闍弥様！ ご無事ですかっ？」
異変を察した下士官たちが駆け付けた。瓦礫を飛び越えて中に入った瞬間、予想もしていなかった光景に息を呑む。
「こ、これはっ……まさか、羅叉様？！」
魔導器の餌食になって伽羅の都とともに息絶えたはずの羅叉を、誰もが驚愕と戦慄をもって呆然と見詰めた。さらに、
「き、貴様っ……どうやって……」
頑丈な石壁に繋がれ処刑を待つだけだった遼牙が、千切れた鎖を手足からぶら下げて平然と立っている。しかも、その身体を縛めていたはずの石壁が跡形もなく崩れ去っている。遼牙は不敵な笑みを浮かべ、
「さあな。壁に聞いてくれ」
「ふざけるな！！」
血の気の多い一人が叫びながら剣を振り上げて飛びかかったが、遼牙は手首に残っている拘束の痕、すなわち鉄の枷で剣を受けた。ガシッと重い衝撃音とともに火花が散り、男は情けない悲鳴を上げて剣を取り落とした。
遼牙はそれをすぐさま拾い上げ、悠然と構える。全ての動きが洗練されており無駄がなく、彼の戦場での功績がただ龍舌刀によるものではないことを示していた。
「やめとけ。何人かかっても無駄だ。この王様は倒せねえよ」
羅叉はそう言って、遠慮もなくずかずかと闍弥の面前に進み、早口で告げる。
「状況判断の早いお前のことだ。疾うに決着がついているのは分かってるよな？ 今ここにいる三人は、翡衛城を破壊できるほどの力を持っているし、そうすることに何のためらいも感じない。ま、面倒臭えからしないけどな。それに、俺たちにとって翡衛城などもうどうでもいい」
その言葉を裏づけるように、羅叉は冷めた目で室内をちらと見回した。そして再び闍弥に戻し、
「このままお前が色っぽくウィンクでもして見送ってくれれば、俺たちは何もせず帰る。が、兵士を集めて全面戦争しようってんなら……」
羅叉は微かに背中を震わせ、ゆっくりと羽を広げた。と同時に体内から放射される彼の魔気が、闍弥の肌を灼く。羅叉はちらと唇を舐め、
「お前の大嫌いな神聖高位魔族の力、嫌というほど見せてやるよ」
彼女にとっては屈辱的な言葉だったが、どうすることもできない。せめてもの矜持で唇を吊り上げて嗤笑の形を作り、
「相変わらず嫌味で傲慢な男ね。さっさと出ていって。あ、そうそう」
闍弥はさらに笑みを深めて毒々しい光沢を添え、
「あの子、風の族長ね、魔導器の実験台にしたの。今ごろ極東の紫衛那とかいう国で戦闘に参加してるはずよ」
最後に一撃を食らわせて何とか優勢を取り戻そうとした闍弥だったが、羅叉の「知ってる」という素っ気ない答えに打ち崩された。
「神聖高位魔族への憎悪に侵されたお前が考えそうなことだ。心配しなくていいぜ。強力な助っ人が現れたんだ。瑠羽のことは彼女に任せてある」
「彼女、ですって？」
「ああ。今に分かるさ。早く知りたいのなら、東北の塔の地下獄を確かめてみるといい。面白いことが分かるぜ。じゃあな」
羅叉は一方的に言い置くと、真朱と遼牙を促して悠々と立ち去った。が、何を思ったかぴたりと足を止め、振り返って闍弥を見詰め、
「お前、いつまでこんなことを続けるつもりだ？」
「……どういう意味よ」
「誰を怨んでも仕方がないと、お前だって分かっているはずだ。こんなことをしても父親は喜ばないということも」
闍弥はカッと目を見開き、血走った眼で羅叉を睨め付けた。鬼女の如き形相に兵士たちは竦んだが、羅叉はただ憐れみを込めて見返した。闍弥の表情には怒りや憎悪より寧ろ、哀しみが色濃く影を落としていたから。
「お前に……何が分かる………」
「分かるさ、俺には。お前の苦しみも、親父さんの哀しみも」
羅叉はそう言って自身の左目をそっとなぞり、
「お前の親父さん、泣いてるぜ」
確信的な口調で告げると、ひらりと身を翻して先を行く二人の後を追ったのだった。
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