BEYOND
5.
「紫衛那国王、遼牙………まだ信じられないわ。お前をこうして手に入れることができたなんて……」
闍弥は深い感慨を込めて呟くと、遼牙の顎に指をかけて上を向かせた。そしてこちらをじっと見返す黒曜石の瞳に、自分の顔を映す。黒く輝く虹彩に映った顔は、明らかに欲情していた。
「武器を奪われ、身体を傷め付けられ、四肢を鉄鎖で拘束されようとも、その瞳の輝きに僅かな翳りも怯えも生じない。きっと死の間際までその輝きが失せることはないのでしょうね。誰よりも美しく気高き獣………」
闍弥は芝居がかった抑揚を込めて歌うように言葉を紡ぐ。そして柘榴色に濡れた唇を舐めてさらに湿すと、遼牙の唇にねっとりと押し付けた。さらに舌を這わせ、たっぷりと唾液を塗り込めて味わう。
もちろん遼牙は微動だにせず、表情を冷ややかに凍結させたまま闍弥の好きなようにさせた。ようやく離れた唇は、名残り惜しいとばかりに唾液の糸で繋がっている。闍弥はそれを舌先で舐め取ると、
「少しは感じなさいよ。不愉快な男ね」
そう言って妖艶に笑ってみせた。もちろん遼牙からの反応など端から期待していない。笑みを深めて、
「もう少し私と遊びましょ。お前の大事な人が戻ってくるまでね」
ここでようやく、遼牙の顔に表情らしきものが浮かんだ。眉間に淡い皺を寄せ、
「瑠羽をどこへ行かせたのだ」
「そんな危険な場所へは行かせないからご安心を。我々にとってあの子は大事な手駒なのよ。ねぇそれよりも、今はあの子のことを忘れて。たまには女の身体も味わってみたいと思わない？」
闍弥は媚びを含んだ声で問い掛けながら、遼牙の襟元を大きく肌蹴た。首から胸にかけての、彫像の如き優美なライン、筋肉の陰翳を貪るように眺めると、下腹の辺りが妖しく疼き出す。
逞しい、精悍な、などという在り来たりな表現には収まらぬ危険な美しさをも秘めたその身体には、先刻の拷問で与えられた苦痛の痕が生々しく残っている。
ある部分は爛れて引き攣り、ある部分は皮膚が裂かれて赤黒い血の塊がこびりついて、甘美な頽廃の匂いを漂わせていた。
闍弥はゆっくりと唇を這わせ、血の苦味を反芻する。爛れた皮膚に歯を立てると、不動を保っていた身体がびくりと揺れた。それでも呻きひとつ漏らさない。
闍弥は静かに狂喜した。腕を切り落とす時、この男はどんな声をあげるのだろう、どんな歪んだ表情を見せるのだろう。そして弱々しく鼓動を繰り返す心臓に熱した杭を突き立てた時、どんな断末魔の悲鳴を上げるのだろう。
いや、まだだ。もっともっと心も身体を傷め付けて、不屈の気高き魂が壊死してゆくさまを眺めるのだ。
闍弥はその凄惨な血の饗宴を想像しながら、ゆっくりと唇を滑らせる。しかし何を思ったか途中でぴたりと止めて顔を上げた。
「この傷……かなり深いわね。致命傷だったでしょう。正面から深く切られたようね」
胸から腹にかけて斜めに走る刀痕をすいと指でなぞり、
「ふ…ん……この痕から見ると、相手は大した手練でもないわね。何故ためらったの？」
お前に答える必要などないと言わんばかりに、遼牙は冴えた視線を向けるのみ。すると闍弥はくくっと笑って、
「あの子に似てたから、かしら」
「…………」
沈黙は何より雄弁な答え。闍弥は不審げに眉根を寄せて遼牙を見つめる。やがて口を開いたが、先刻までの軽薄な口調は消え、真実を求める重みで微かに撓んでいた。
「分からない……お前ともあろう者が……。私は嘗て、戦場で二度お前に遭遇している。その頃は私もまだ、一師団の司令官に過ぎなかった。初めての交戦時、私は戦うお前の姿を見て慄然と立ち竦んだ。
そう、お前はまさに狂える軍神。獰猛で残酷で美しい猛禽の如く、嬉々として血を浴びていた。それが今は……」
闍弥の表情が徐々に険しくなる。尖った視線で遼牙を射抜き、
「こうして易々と獄に繋がれ、辱めを受けているとは。信じられないわ」
すると遼牙の唇がついと吊り上がった。そしてたった一言、
「私もだ」
「なん…ですって？」
「私も未だに信じられないのだ。自分にこんな幸福が待っていようとは」
「幸福？」
笑みの形に吊り上がった唇に、喜びの色が添えられる。遼牙は心の底から満ち足りた表情で、
「私は幸せだ。お前が遭遇した頃の私は、敵を殺すことに何の迷いもためらいも持っていなかった。しかしこの傷を受けた時、私はためらった。戦場でも人間らしく在ることができた。愛することを忘れずにいることができた」
「だから幸せだと？」
「そうだ」
「あの子のせいでこうして捕えられ、血を流し、国王としての誇りを踏みにじられたというのに？」
遼牙は喉の奥で笑いを転がし、
「私はもはや国王ではない」
その言葉に何を感じたのか、闍弥の表情に険しい閃が走った。
「この黴臭い地下牢で、拷問の末の惨めな死が待っているとしても？」
遼牙は不敵な笑みを浮かべて、闍弥を見据えた。そして先刻監視役の男に告げたのと同じ言葉で答えた。
「私は死なない」
揺るぎない意志で裏打ちされた言葉に、闍弥は思わず息を呑んだ。しかしすぐに口許を歪めて、
「愛しいあの子を取り戻すまでは死ねないってわけね？ でもどうかしら。あの子、無事に帰ってくるといいんだけど」
遼牙はあくまで冷静だった。瑠羽を味方に引き入れた以上、そう簡単に死なせるようなことはしないだろう。しかし、やはり気にはなる。
「危険な激戦地へ送ったのか？」
「いいえ、そういう意味では大して危険ではないわ。侵略の標的は、極東の小国だから」
その瞬間、遼牙の眉がぎりぎりと吊り上がった。
「まさか、貴様………」
「ごめんなさいねぇ、後から気付いたの。そういえばあの子の愛する人は紫衛那の王様で、あの子自身も紫衛那で暮らしていたんだったなあって」
「瑠羽を……紫衛那への侵略軍に参加させたのかッ！」
抑えていた激情が一気に吹き出した。遼牙の身体から放射される怒りの熱にうっとりと灼かれながら、闍弥は「そうよ」と愉しげに答えた。
「潜在する魔力を吸い上げて攻撃力に変換する科学兵器、魔導器。それを装備させて紫衛那への侵略軍に放り込んでやったわ。
初めは頑なに首を振って拒絶したけれど、では大事な王様の腕を切り落として運ばせましょうと言ったら、喉が千切れそうな悲鳴を上げて私にすがり付いてきたの。最初から大人しく言うことを聞いていればいいものを」
そして立ち上がって遼牙を見下ろし、
「もう現地に到着してると思うわ。さぁて、今頃どんな活躍を見せてくれているか楽しみ―――」
「何故だ？」
遼牙の問いに言葉を遮られ、不審を隠そうともせず眉間に深い皺を刻んだ。
「何故そこまで瑠羽を苦しめる？ あれを紫衛那への侵略軍に参加させたところで、戦略上の利益があるとは思えん。参加したはいいが、委縮してまともに戦うこともできないだろう。お前たちにとって、もっと有効な利用法があるはずだ」
目の前の女に対する怒りの感情が薄れたわけではないが、意志と理性の力で何とか抑え込んだ。
怒りに我を忘れている場合ではない。瑠羽を救うためにも、まずはこの女の思惑を探ることが必要だ。
「高度な魔法になればなるほど、詠唱時の精神状態や感情などが影響すると聞く。お前のやり方は、ただ瑠羽を苦しめるためだけの―――」
遼牙は口を噤んだ。闍弥がねっとりと嗤うのを見たからだ。
「まさか……それがお前の目的なのか？」
「それ、とは？」
「瑠羽を苦しめること、だ」
答えつつも、自分がおかしなことを言っている自覚はあった。闍弥がそこまで瑠羽を憎む理由などあるはずがない。しかし闍弥はあっさり「そうね」と返し、
「あの子だけじゃない。私はねぇ、全ての神聖高位魔族が憎くて憎くて仕方がないの。あの子個人には何の怨みもないわ。ただ風の一族の長であるがゆえに、私はあの子を苦しめて絶望の奈落まで追い詰める」
「なるほど、羨望の裏返しか。どんなに努力して翡衛城に尽くしても、お前は神聖高位魔族にはなれない。憐れな女だ」
本音を引き出すため、わざと挑発的な言葉を叩き付けた。そのツケは大きく、闍弥は鉄製の鞭で遼牙の身体を打ち据えた。
しかし遼牙の目論見は成功した。闍弥は俯いたまま肩を激しく上下させたが、やがてこもった笑いを漏らしながら顔を上げ、
「そう……お前の言う通り………どんなに努力しても、命を削って翡衛城に尽くしても、神聖高位魔族にはなれない。父上だって分かっていたはず………」
「父上……だと？」
身体を鮮血に染めながら、遼牙は静かに訊ねる。闍弥は微細な血管が網の目のように走る眼球をギロリと剥いて、
「そうよ。愛すべき愚かな男。どれほど働いても、武勲を上げても、ある一定の位階までしか叙されない。何故ならその上には神聖高位魔族がいるから。彼らは生まれた時から父の頭の上にいる。そして命の価値も、比較の対象にすらならない。
なのに父は彼らに仕え、危険な激戦地では楯となって彼らを守った。将官になったばかりの若造が無茶な命令をしても、黙って従った」
「当然だ。それが下士官の務めだ」
遼牙の冷静な指摘を鼻で嗤い、
「お前も所詮はあちら側の人間。部下が自分のために命を落としても、何とも思わないのだろう。生まれながらにして地位を約束された人間などそんなもの。父は私が幼い時、戦場で命を落とした。否、無駄死させられた」
闍弥はかちりと歯を鳴らした。苦い記憶を噛み砕くように。
「指揮官としての経験が乏しい癖に、無茶な作戦を立てた上官がいた。神聖高位魔族のお坊っちゃんだ。そのせいで部隊は孤立し、どこに敵兵が潜んでいるか分からない。緊張は極限に達し、いつ誰が恐怖に壊れてもおかしくない状態だった。
このままでは自滅すると危惧した指揮官は、周囲の偵察を行うことにした。しかし志願する者などいない。そこで父は自ら申し出て、部隊を離れ偵察を行ったのだ」
闍弥は苛立ちを隠さず、遼牙の前をせわしなく往復する。やがてぴたりと足を止め、言葉を続けた。
「間もなく無謀な行為のツケは回ってきた。敵兵に見つかり瀕死の重傷を負いながら、父は地面を這って仲間の許に戻り、危急を知らせた。このままその場に留まっていれば、敵の大群に見つかるのは時間の問題だったのだ。
父の知らせを受けた部隊はすぐにその場を離れることにしたが、その時……重傷の父を置き去りにしたのだ」
ぬらぬらと輝く瞳は、怒りより寧ろ悲しみが勝っているように見えた。
「父はその功により勲位が三つも上がったけれど、父を見殺しにした上官には及びもしない。父は最後まで神聖高位魔族に踏み付けられ―――」
「愚かなのはお前だ、女。お前の父は戦場において、自らが為すべき任務に忠実だった。そして多くの仲間と上官を救ったのだ」
遼牙の指摘に虚を衝かれた闍弥は、驚きも露わに見返した。
「私には分かる。お前の父は見殺しにされたのではない。自分を置いて逃げるように諭したのだ。重傷を負った自分がいたら足手まといになる、だから構わず早く逃げてくれ、と」
「………黙れ」
「お前は何故、そんな父を誇りに思わぬのだ。お前の父は初めから、勲位勲章の類いなど眼中にはなかったのだろう。ただ種族の繁栄と平和維持のために戦っていた、本物の武官だったのだ」
「黙れぇッ」
般若の形相で鞭を振るう闍弥を、遼牙は憐れに思った。この女も羅叉と同じ。事実を受け入れるより他ない、誰を憎んでも虚しいだけと分かっていながら、感情の暴走を止めることができないのだ。彼女はきっと、心から父を愛していたのだろう。
「神聖高位魔族！ 私はこの腐った種族、翡衛城にはびこる害悪を根絶やしにすると誓った。そのため女としての幸せも誇りも捨て、この地位までのし上がってきたのだ！」
「なるほど。そんなお前には、生まれながらに人の上に立つ宿命を負わされた者の苦悩など分からんだろうな」
「はッ、くだらないことを―――」
「部下が自分のために命を落としても何とも思わない、だと？ ふざけたことを言うな。部下の犠牲によって命を取り留めた者は、その重みを背負って生き続けねばならぬ。言葉で言うほど生易しいことではないぞ。自責の念に耐え切れず、自ら命を絶った者を私は何人も知っている。しかし、」
黒い虹彩がきりきりと縮んでゆく。まるで、瞳の中の一点に闇が凝縮するかのように。禍々しくも妖しい変容に、闍弥は言葉を失う。嘗て戦場で見た＜狂える軍神＞が、そこにいた。
「しかし何を言っても無駄だろう。憎しみに喰い尽くされたお前の心には届かん。それより、私にはやらねばならんことがある。もう一度訊く。瑠羽を紫衛那に行かせたのだな？」
闍弥は怯えを隠すため、けらけらと実のない嗤いを浴びせて、
「そうよ」
「では、ここにはいないのだな？」
「ええ。残念ね」
遼牙は口端を吊り上げて昏い笑みを返し、
「では、もうここにいる必要もなくなったな」
そう言って両手の拳に力を入れ、静かに精神の集中を図ろうとした。その時、地下牢の頑丈な扉が外から破壊された。現れたのは―――
「よお、王様。助けに来たぜ」
瓦礫の向こうに羅叉が立っていた。
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