BEYOND
23.
「真朱っ？！ 真朱、どこに行くのっ」
さっきまで瑠羽たちがいた場所にふわりと降り立った真朱は、岩山をちらと見上げて安心させるように柔らかく笑ってみせた。そして暗黒の霧が迫る谷の入口に正面から向かい合うと、静かに目を伏せた。
「真朱っ、戻ってきて！ そこにいたら危ないよっ」
岩山の頂上から身を乗り出して叫ぶ瑠羽を、遼牙は強く引き止めた。
「瑠羽、彼は今、精神の集中を図っている。邪魔をしてはならん」
「集…中……？」
遼牙の言葉を裏付けるように、真朱の頭上に顕現した光輪が眩いほどの白光を放ち始めた。
「ああ……真朱が……天使に……」
「あれが真朱の＜光態＞だ。凄い……アム・アザゼルではない私ですら皮膚を突き刺すような魔力を感じる。恐らく……上位呪文を唱えるつもりだろう」
「そ、そんなっ。だってそんなことしたらっ……」
瑠羽が再び身を乗り出そうとした時、ついに谷の最奥部まで死のガスが到達した。しかし真朱は身じろぎひとつせず、低い声で呪文を詠唱する。
闇の貴婦人ベイバロン 冥界の賢者アブラメリンよ
古の盟約に基づき我召喚す
アー・レン・レー・ヴォー・デー
紅の恩寵 不滅の燃焼を我が前に示せ
「駄目だ！ 間に合わな―――」
次の瞬間、遼牙の叫びを遮るように轟音が谷を揺らした。
「きゃあああっ」
「瑠羽！」
突然の爆風に、瑠羽の身体は岩山から吹き飛ばされそうになった。遼牙はすんでのところで腕を掴み、胸の中に抱き込む。そして薄く目を開けて状況を見極めんとした。
「こ、これはっ……」
ほんの数秒前と視界は一変していた。地獄の業火、決して滅えることのない浄化の炎と見紛う紅蓮の壁が立ち上がり、堕天使アザゼルを苦しめた暗黒の霧を防いでいた。
いや、近づくのを堰き止めているだけではない。次々と到達する霧は悉く上空へ送られ消えてゆく。
「そうか。炎が生む上昇気流でガスを上空へ……」
視界を染め上げる炎の威容に、遼牙はただ畏怖を覚えるばかりだった。炎の一族、その頂点を担う＜炎帝＞の真の力は、神すら寄せ付けないというのか―――
「真朱っ、もうだめ！ もうやめて！！」
瑠羽の叫びに頬をはたかれ、遼牙は我に返った。そして素早く下方に視線を送る。
「真朱っ……」
“あれ”が真朱の身体とは信じ難かった。大きく広げた闇色の羽が、端からゆっくりと崩れてゆく。魔力を放射している手は、腕の付け根まで真っ黒に染まっていた。遠目から見ても、真朱の身体が崩壊の一途を辿っていることが分かる。
「まそお……もうやめてぇぇぇぇ………」
哀訴で唇を震わせつつ、力なく頽れる瑠羽。対して遼牙は両の拳を握り締め、何もできない自分を呪いながら、たった一人で神の妨害に立ち向かっている真朱を見守った。
瑠羽のように「やめろ」とは言えなかった。神の憑代たる腐蝕性のガス。これを堰き止めねば自分たちの命はないのだ。
神の力は無限だが、憑代には限界がある。然り。次々と押し寄せる暗黒ガスは悉く上空へ送られ、そして終に尽きた。
「真朱、もういい！ 死のガスは全て消えた。もう大丈夫だ。早く魔力の放出を止めて―――」
遼牙が全て言い終わらぬうちに、炎に変化が生じた。それまでは整然と壁を形成していた炎が、制御を失ったかのように暴れ始めたのだ。
「真朱ッ！」
このままでは真朱自身も炎に巻き込まれてしまう。遼牙は岩山を飛び下りて助けに向かおうとしたが、ますます激しさを増す炎に煽られ思わず呻く。
「遼牙さま！」
「瑠羽、来るなッ」
熱風にじりじりと肌を灼かれつつも、遼牙は態勢を立て直して再び真朱の許に向かおうとした。すると轟音とともに炎の柱が立ち上がり、遼牙に闘いを挑むかのように鎌首をもたげた。そして火の粉をまき散らしながら猛然と襲い掛かる。
「遼牙さまぁぁーーーーっ」
赫赫たる大蛇が遼牙の身体を今にも呑み込もうとした瞬間、まるで見えざる手に引き戻されるかのように炎の触手が引いた。しかし状況が好転したわけではなく、炎は尚も暴走して燃え盛っていた。
「真朱、お前……」
炎の中で真朱がゆっくり振り返った。そして二人に笑いかける。穏やかで、知性的で、どこか憂いを含んだいつもの真朱の微笑。
「それ以上近づくな。この炎はもはや、俺の魔力では制御不能なんだ」
「なん……だと？」
「遼牙を襲おうとした炎の触手を押し止めるのが精一杯だった。あれ以上の制御は、俺に残された力では無理だ」
恐るべき事実を淡々と伝える真朱。彼の内にあるのは燃える意志だろうか、それとも冷めた諦念だろうか。
「俺にできたのは、上位＜アイティール＞から不滅の燃焼を召喚することだけ。でも、それで十分だ。神の企みは潰えた。遼牙、瑠羽、さあ、先を急げ。封印の壁はすぐそこだ」
瑠羽は顔を舐める熱気も忘れ、大きく目を見開いて首を振る。
「なに……言ってるの？ 真朱も、真朱も一緒に行くんだよぉぉぉ」
「俺はもう駄目だ。本当は、こうして立っていられるのも不思議なくらいなんだよ」
その言葉を証明するように、真朱はゆっくりと膝をついた。羽はすでに半分が崩れ、辛うじて残っている部分も醜く爛れている。
「いっ、いやだ！ いやだいやだいやだいやだっ」
悲壮な叫びを繰り返しながら真朱に近づこうとする瑠羽を、遼牙は渾身の力で引き止めた。この華奢な身体のどこにこれほどの力が潜んでいたのかと思うほど、瑠羽の抵抗は激しかった。
「瑠羽、駄目だっ……ここでお前が死んでしまったら、記憶の封印は誰がっ……」
分かっていた。こんな説得など何の力も持たないことを。目の前で起きている悲劇、惨劇には、高邁な目的より人を動かす力がある。
斯く言う遼牙ですら、今にも真朱を助けに行こうとする自分自身を抑えるのに難儀しているのだから。
「瑠羽、頼む、分かってくれっ……」
それでも遼牙は必死に瑠羽を止めた。すると、炎の中から再び真朱の声が。
「瑠羽……聞いてくれ。俺はずっとお前に嘘をついていた。この死病を運命として受け入れていると。でも本当は……嫌だった。病で死ぬなんて、炎の一族の矜持が許さない。だから―――」
制御を失った炎が天龍のごとくうねり、空を駆け巡る。もはや真朱の姿は見えない。それでも声だけはしっかり二人の耳に届いた。
「だから俺は……自身の炎に焼かれることを選ぶ。運命に対する……最期の抵抗だ……」
「まそおーーーーーッ」
「瑠羽……遼牙……記憶を……この世界に……光明……瑠璃の……かなた、に………」
真朱の声は聞こえなくなったが、炎はまるで主の死を悼むかのように激しく、鮮やかに燃え続けた。
「ま……そ、お………」
身体を支えていたものが切れたように、瑠羽はがくりと膝をついた。そして必死に目を凝らし耳を澄まし、真朱がまだ生きている証を探す。しかし、
「ぃっ……ぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
狂気の偏在すら感じさせる引き攣った悲鳴を上げ、幾度も幾度も首を振る。たった今眼前に突き付けられた事実を必死に拒絶するかのように。そうしながらも半ば這うようにして、未だ燃え盛るに炎に近づこうとした。
「まそお……たすけ…なくちゃ………」
遼牙は荒れ狂う感情に耐えつつも、瑠羽の身体を拘束して安全な場所に引き戻した。それでも尚、瑠羽は目を見開いたまま進もうとする。真朱の死を認めたくないという思いが、理性に反して身体を動かしているのだろう。
「まだ……あのなかに……まそお…が………」
遼牙は心を鬼にして、「もう間に合わない」と残酷な事実を告げた。続けて、
「真朱は、炎による死を自ら選び取ったのだ。運命ではなく、意志によって生を全うすることを選んだのだ」
言いながら遼牙は、自分の言葉に虚しさを覚えていた。だから何だ、だから哀しむなとでも言うのか？ そんな薄っぺらい論理で、真朱が自ら炎に包まれて死んだという事実を受け入れるなんてできるはずがない。
それでも瑠羽は、遼牙の言葉に必死に耳を傾けた。いつ如何なる時でもそれは、瑠羽を正しい方向へ導く道標だったから。
「真朱は……運命に負けなかった…の……？」
遼牙が胸の痛みをこらえつつ頷こうとした時だった。瑠羽が「あっ」と声を上げて中空を見据えた。そして、
「ハスマル……さま………」
真朱を呑み込んだ炎の中に、見覚えのある一人の天使が降臨した。間違いない。あれは真朱の守護天使、炎の塔を司る天使長聖ハスマル。彼がゆっくりと、炎の中から浮上するのが見える。その両手に抱えられているのは―――
「真朱………」
すでに肉体を持たぬ星幽体となった真朱がハスマルの腕にしっかり抱きかかえられ、共に天へ昇ってゆく。そして驚くべきことに、真朱の背中には真っ白な一対の羽が広がっていた。
あの病の痕跡など微塵もない、ハスマルにも劣らぬほどの神々しさを放つ純白の羽。きっと、あれが真朱の本当の姿なのだろう。今、ようやく本来の自分に回帰することができたのだ。
さらに、驚くべきことが起きた。それは―――
「ああ……見える。私にも見えるぞ………」
瑠羽と同じものが遼牙にも見えたのだ。炎より赫奕たる髪と瞳を持つ天使が、降り注ぐ光の中、真朱を抱えて昇天する。
「遼牙さまも見えるのですか？」
「ああ。信じられん。あれが……聖守護天使……」
遼牙は瑠羽の傍らに膝をついて、畏敬の眼差しを送った。するとハスマルはふと二人を見下ろして、ほんの一瞬だったが柔らかな笑みを浮かべた。
「ハスマルさま……」
その時、瑠羽は悟った。これはハスマルの計らいに違いないと。天に昇る真朱を、自分たちに見せてくれたのだ。
「遼牙さま……真朱は、天の園に行けたのですね……」
「そうだ。もう病に苦しめられることもない。生まれたままの白き翼を持ちて、父や母の許に帰っていったのだ」
天へ続く光の道は閉じ、真朱の魔力に由来する炎も消えた。残ったのは―――
「遼牙さま……僕たち二人だけになってしまいました……」
「そうだな。しかし……立ち止まるわけにはいかない。そうだろう？」
「……はいっ」
二人は岩山から地上に戻り、進むべき道を見据えた。
「見るがいい、瑠羽よ。何と美しい瑠璃色の空。古代の記憶、理想郷が我々を歓迎しているに違いない。封印の壁はもうすぐだ」
遼牙は微かに震える声で告げると、瑠羽の手を強く握った。瑠羽は大きく頷いて、遼牙にも負けぬほどの力を込めて握り返し、
「古代の記憶を解放すれば、みんなきっと思い出してくれますね。自分とは違う者を敬い、認め、思い遣る心を。種族なんて関係ない。僕らはみんな同じ“人間”だってことを」
晴れやかな声でそう言って、重々しく頷く遼牙を見上げた。そして、
「遼牙さま。封印を解いて記憶を解放したら、まず最初に何がしたいですか？」
瑠羽の無邪気な問いに、遼牙は「そうだな…」と暫し考え、
「瑠璃色の夜空を眺めながら、お前を胸に抱いて眠りたい。全てはそれからだ」
瑠羽はふわりと微笑んで空を見上げ、
「もうすぐ、世界じゅうの空がこの色に染まるのですね」
「ああ、そうだよ」
瑠羽は視線を前方へ戻した。すると、二人を待ち構えるかのように屹立する巨大な壁が、ぼんやり浮かび上がってきた。
「遼牙さま、瑠璃の彼方はもうすぐです」
緊張と興奮に喉を震わせる瑠羽を見下ろして、遼牙は優しく訊ねた。
「怖いか？ 瑠羽よ」
瑠羽はぷるんと首を振って視線を重ね、
「怖くありません。遼牙さまと一緒だもの。ずっとずっと一緒だもの」
丸い頬を紅潮させて答える瑠羽に、遼牙は頷きを返した。
「ああ、ずっと一緒だ。お前とともに行くぞ、どこまでも、どこまでも……」
そして二人は一度も振り返ることなく、立ち止まることなく、混沌の谷の最奥部、封印の壁に向かって歩き続けたのだった。
もうすぐ、世界が生まれ変わろうとしていた―――
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