BEYOND
21.
「待って！ 真朱。後ろから……」
封印の壁に向かってひたすら歩みを進めていた瑠羽が、ぴたりと止まって後ろを振り返った。それにつられて真朱も立ち止まり、息を詰めて目を凝らす。自分たちを追ってくるのは敵か、神の放った刺客か、それとも―――
「……遼牙さま……遼牙さまぁぁぁーーーーっ」
暗がりの中にぼんやりとシルエットが浮かび上がっただけで、瑠羽にはそれが愛しい人であることが分かった。声帯が千切れんばかりに声を張り上げ、名を呼びつつ全速力で駆け寄る。
「瑠羽っ………」
涙を振りまきながら胸に飛び込んできた瑠羽を、遼牙は全身で受け止めた。龍舌刀を装着した右腕にはまだ血が滲んでいたが、それを気にする余裕はなかった。両腕で瑠羽の身体を抱き締め、久しぶりの温もりに束の間の憩いと癒しを見い出した。
「りょ…きさま……よか…た……ごぶじで………」
喉の奥から込み上げる熱い塊に圧迫されて、うまく声が出せない。瑠羽は擦り切れた言葉を必死に搾り出して再会の喜びを伝えた。
しかし、そんな二人を見守る真朱の表情は明るくなかった。羅叉が一緒に追い掛けてこなかったことに気付いていたのだ。
温かな抱擁に暫し酔っていた瑠羽だったが、いつまでもこうしているわけにもいかないと分かっていた。できることならずっと抱き合っていたい、そんな願望を胸の奥に仕舞い込んでそろそろと顔を上げた。
「遼牙さま、さっきまで壁が動いてたんです。道幅が少しずつ狭くなって……怖かったです」
遼牙は眉根を険しく寄せて黙り込んだ。が、すぐに口を開き、
「もう大丈夫だ。心配は要らない」
瑠羽を安心させる言葉にしては、暗く淀んでいた。瑠羽は不思議そうに首を傾げて瞬きをすると、何かあったのですか？と訊ねようとした。しかし異変に気付いたのか、辺りをきょろきょろ見回し、
「遼牙さま、羅叉は？ 羅叉がいないです……」
遼牙は一瞬、瑠羽から視線を外した。まるで、その無邪気な問いから逃れんとするかのように。もちろん、自分には全てを伝える義務があることは分かっている。羅叉の命を背負って、自分は今ここにいるのだから。
「瑠羽、そして真朱。よく聞いて欲しい。羅叉は―――」
遼牙は淡々と、谷の入口で起きたことを説明した。魔導器の威力や恐るべき副作用について。そして激しい戦闘が谷全体の地殻変動を誘発してしまったこと。それを食い止めるため、羅叉が＜還元魔法＞により巨大な岩壁に変じたこと……
「かんげん魔法？ 岩になった？ ど、どういうことなの……」
遼牙の口許を凝視しつつ、震える声で質す瑠羽。分からない、遼牙さまが何を仰っているのか分からないと心の中で繰り返しながらも、本当は朧げながら分かっていた。ただ、信じたくなかっただけだ。
「還元魔法とは、命を触媒にすることで強大な魔力を発揮し、と同時に血肉を四大元素に還元する古の禁呪だ。つまり羅叉は―――」
真朱は感情を排して説明したつもりだった。しかし途中で喉を詰まらせ、己の不甲斐なさに苛立ちを覚えつつも何とか続けた。
「―――羅叉は、自分の身を楯にして俺たちと封印の壁に続く道を護ってくれたんだ」
真朱の言葉に、瑠羽は激しい拒絶反応を示した。カチカチ歯を鳴らしてぎこちなく首を振り、
「い……いやだ………そんなのっ………」
誰にともなく呟く。次の瞬間、瑠羽は地面を蹴って駆け出した。谷の奥ではなく逆の方向に向かって。
「瑠羽ッ、待ちなさい！」
この反応を半ば予期していた遼牙は、すぐさま瑠羽の腕を掴んで引き戻した。しかし瑠羽は手を突っぱねて振り払おうとする。遼牙は仕方なく、少し乱暴に拘束した。そして瑠羽の身体を強く揺さぶり、
「瑠羽、聞きなさい。羅叉は我々のために道を切り拓いてくれた。その想いに応えるには、先へ進むしかないのだ。今ここで後退すれば、羅叉を無駄死にさせることになる」
「でも……でもっ……」
「生まれ変わった世界を自分の分までしっかり見届けくれ、彼は最後にそう言った。瑠羽、我々は彼の命と想いを背負っているのだよ」
遼牙の諭しが、徐々に瑠羽の抵抗を弱めていった。その代わり、瞳を涙の膜が覆い始める。理性で抑え込むことのできぬ哀しみが、そこに凝結していた。
「……遼牙の言う通りだ。それにな、瑠羽。あいつの魂は一度死んでるんだ。弟が処刑された時に。お前はそれを再び蘇らせた。きっと、残りの命はお前のために使おうと考えていたのだろう」
真朱の宥めは、瑠羽を余計に哀しませただけだった。
「違う……羅叉の命は羅叉のものだもん……誰かのために粗末にするなんてっ……」
「彼が命を粗末にしたか否かは、これからの我々の行いにかかっている。ここで立ち止まっていては、羅叉は報われない」
遼牙の言葉に、瑠羽はようやく進むべき方向へ顔を向けた。
「そう、強くなりなさい、瑠羽。今必要なのは、現実を受け入れて前進する強さだ。分かったね？」
瑠羽は黙って頷いて、嗚咽を押し込めるように唇を噛み締めた。それを見た遼牙は腕を広げて瑠羽の身体をすっぽり包み込み、
「哀しんではいけないとは言ってない。瑠羽、泣いていいんだよ」
心の柔らかな部分を慰撫するような優しい声に涙腺を刺激された瑠羽は、遼牙の胸にしがみついて声を上げ泣いたのだった。
それから三人はひたすら谷の奥へ急いだ。進むにつれて谷の明度は弱まり闇に近づいてゆく。それが谷が深まったせいなのか、太陽が翳り始めたせいなのか、或いは陰府に近づいているせいなのか分からない。
そもそも、谷に足を踏み入れてからどの位の時間が経過したのか見当も付かなかった。延々と同じ風景の繰り返しで、時間と空間の感覚が麻痺してくる。自分たちは本当に“進んで”いるのかも怪しく思えてきた。
そしてついに、谷は全き闇に覆われた。突然訪れた闇の支配に、三人は軽い恐慌状態に陥った。全ての感覚が黒く塗り潰され、どちらへ進んでよいのかも分からない。
「瑠羽っ、真朱っ、大丈夫か？！」
遼牙の呼びかけに、二人はすぐさま応じた。
「ああ、大丈夫だ」
「はい。ここにいますっ」
遼牙はほっと息をついたが、その声がどこから聞こえてくるのか場所を特定することができない。遼牙は完全なる闇の恐ろしさを思い知った。他人だけなく、自分自身がどこに存在するのか、確かに存在するのかも疑わしくなってしまうのだから。
「よし。とにかく手探りで壁を探そう。互いに違う方向へ行かないよう、時折声を出しながら―――」
遼牙は途中で言葉を呑み込んだ。目の前を微かな光の閃が走るのを見たからだ。いよいよ封印の守護者が、何ものかに寄生した神が現れたのかと緊張し、神経を研ぎ澄ませて暗闇に目を凝らす。そうするうちに幾筋もの光の閃は収斂し、ひとつの像を結び始めた。
輪郭のぼやけた光の塊が、徐々に鮮明になってゆく。やがて黒い画布に浮かび上がった人物は、遼牙の強固な理性に鉄槌を喰らわせるほどの衝撃をもたらした。
「………母上っ」
間違いない。透き通るような白皙の肌。憂いの翳の奥に深い愛情を湛えた瞳。少女のように華奢な身体から溢れる母性。それは嘗て遼牙がだれよりも愛し、自らの手で首を刎ねた母その人だった。
懐かしさと愛しさに駆られ近寄ろうとしたが、崩れかけた理性がすんでのところで制止した。これは罠だ。神の周到な仕掛けだ。ここに母がいるはずがない。何故なら彼女は疾うに死んだのだから。そう、私がこの手で殺したのだから！―――
『遼牙……自分を責めるのはおやめなさい。私は全て受け入れております。あなたを生んだ時から。……いいえ、あの人を愛した時から』
「母上……お許しください。私は……私は自分が即位するためにあなたを……」
『許しを乞わねばならないのは私の方です。堕天使の種族であるにもかかわらず、シェアールの王と愛し合ってしまった。そのせいで、死ぬより辛い苦しみをあなたに背負わせることになった……』
母はそう言って跪いた。そして慈愛に満ちた笑みを浮かべ、最期の言葉を捧げる。
『遼牙、紫衛那の幸せと繁栄はあなたの肩にかかっています。国のため、民のため、どうかよき政治を。それが母の願いです』
「はは…うえ……」
どこからか、粘着質な囁きが聞こえる。姿は見えねど、複数の気配が闇の中で蠢く。
『さあ……紫衛那の新国王よ……己が手で忌わしき堕天使の血を断ち切れ……』
「で、できない……私は………」
『そこにいるのは人間ではない……神に呪われた魔物……穢れた血肉を受け継ぐ悪魔……』
「ち、違う！ 母上は、母上はッ―――」
『どうした……できぬのか？……ならばそなたの即位を承認はできぬ……紫衛那は国王不在となり……全ての主権を失い……中央神殿庁の支配下に置かれ………』
その時、跪いていた母が胸の前で手を組み、前屈みになって首を差し出した。長い髪がさらさら音を立てて流れ、皙く細い項が露わになる。
すると“遼牙”が歩み出て、罪人に使用する首斬りの黒い太刀を絶叫とともに振り下ろした。
「う……うあああああーーーーーッ」
ゴツッと鈍い音がして、母の頭部が転がった。如何なる筋肉の作用によるのか、或いは死の直前の強い意志のゆえなのか、身体は正座したままぴくりとも動かない。吹き出す血で紅に染まっても、倒れようとはしなかった。
『はは、見給え……魔物のくせに……血は我らと同じ色をしているぞ……』
誰のものか分からぬ足が闇から現れ、母の身体を強く蹴った。その衝撃には耐えられず横倒しになったが、手は胸の前で祈りの形に組まれたままだった。
『堕天使め……思い知ったか……はは……ははははは………』
複数の足が次々と現れ、倒れて血塗れになった母の身体を、さらには頭部を蹴り回し―――
「やめ…ろ……やめろぉぉぉぉぉっ………」
許さない許さない許さない。私は絶対に許さない。呪われているのは貴様らの方ではないか。穢れているのは貴様らの方ではないか。腐った人間ども。私がいつか……必ずこの手で―――――
『……さあ、移植の儀式だ。古の呪われた種族、龍（ドラゴン）の力を宿した魔剣、龍舌刀がようやく役に立つ時が来た……』
粗末な寝台に“遼牙”が寝かされている。少年から青年に移行しつつある過渡期に特有のしなやかな四肢は、錆びかけた鉄枷で固定されていた。さらに目と口を塞がれた“遼牙”は必死の抵抗を試みたが、枷はびくともせず拘束を続けた。
やがて寝台をぐるりと取り囲むように、複数の人間のシルエットが浮かび上がった。顔は見えないが、その声からしてみな男のようだ。
『移植後の拒絶反応が気掛かりですが……酷い場合には死か、廃人同然になるとか……』
『構わんさ。この者は呪われた影道だ……半分は堕天使の血が入っているのだ……』
『呪われた種族に呪われた凶剣……これ以上ないほど相応しい……』
『しかし……この者は紫衛那国の新しい国王で……』
『国には、戦闘で命を落としたと報告すればいい……我々が口裏を合わせれば済むことだ……』
『なるほど』
『それもそうだ』
『“実験”には最も適した人物だな』
『失敗してもいい、成功すれば大きな戦力になる』
『素晴らしい』
『さあ始めよう』
それを合図に、男たちの囁き声は闇に吸い込まれるように消えた。張り詰めた静寂の中、禍々しい輝きを帯びた一振りの太刀が“遼牙”の上に掲げられた。すると地を這うような低音で、耳慣れぬ呪文の詠唱が始まった。
エノク語よりさらに古い神代の言語で唱えられるその呪文は、神ではなく魔に捧げられるコラール。寝台の上の“遼牙”はすでに意識を失い、静かにその時を待っていた。
掲げられた剣は切っ先を下にして、ゆっくりと下降する。そしてついに“遼牙”の身体に突き刺さり、そのまま沈んでいった。
―――ああ……やめろ、やめてくれ……そんなもの……受け入れたくない………
寝台上の“遼牙”は身体をはね上げてもがき苦しむ。激しく暴れたせいで、枷に縛められた手首から血が流れ出した。しかし男たちは詠唱をやめず、儀式は粛々と続けられる。
―――いやだ……いやだいやだっ……くるしい……身体が……臓物が焼け爛れる……神経が引き千切られる……だれか……だれか助けてくれぇぇ………
『誰も助けてはくれないぞ』
誰……も？
『そうだ。お前は分かっているはずだ。何故ならこれらは全て、お前自身の過去だから』
ああ、そうだ……。全て私が経験したこと。母上の斬首も、龍舌刀の強制的な移植も……
『救いなど訪れなかった。それどころか、誰もお前の苦しみを理解しようともしなかった。お前は影道、母殺し、龍舌刀の贄という重い咎を背負って、たった独りで生きねばならなかった』
たった……独り……私は……
『苦しかったろう、辛かったろう。だからお前が人間を憎むのは当然なのだ』
憎む？ 私が、人間を……
『そう、お前は人間を憎んでいる。シェアールもアム・アザゼルも関係ない。愚かで強欲で傲慢で、自身の安寧と幸せしか考えない人間という邪悪な存在そのものを憎んでいるのだ』
そんな……違う、私はっ……
『ならば何故、お前は嬉々として戦場に赴いたのだ？ 国王の責務？ ノーブレス・オブリージュ？ それこそ自己欺瞞の最たるもの。お前は大っぴらに堂々と人殺しができるのが嬉しくてならなかったのだ』
違う違う！ 私は、私は……民の平和と繁栄のため……
『御為ごかしはもういい。お前の心は幾重もの嘘で覆われている。あれを見てもまだ、人のため、平和のために働くと言うのか？』
遼牙が顔を上げると、目の前で二つの光景が繰り広げられていた。首のない母の死体が複数の足によって蹴り回される光景。そして龍舌刀が若かりし自分の肉体に容赦なくずぶずぶと沈められ、苦痛に悶える光景。
あ……あ………うああああああああーーーーーーッ―――――――
どこかで、自分の心が壊れる音がした。
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