BEYOND
20.
「な…んだよ、このとんでもねえ妖気は………」
皮膚にビリビリ突き刺さる妖気、その凄まじさに羅叉は心の底から戦慄した。これまでの戦闘で様々な魔剣、妖剣の使い手に遭遇してきたが、こんな強大且つ禍々しい気を放つ太刀は初めてだった。
伝説の呪われし凶剣、龍舌刀の底知れぬ力をまざまざと見せ付けられ、戦くと同時に遼牙の勝利を確信した。
右腕だけでなく、肩から胸まで銀色に閃く鱗状の甲殻に覆われた遼牙は、まさに古の龍神のごとく。霊剣化した龍舌刀の着装が完了すると同時に高く飛翔し、尚も増殖しつつ谷の陵辱を続ける魔導器めがけて剣を振り下ろした。
「ぐぁっ………」
生臭い爆風が吹き荒れ、岩肌を削り取る。羅叉は飛ばされそうになったが何とかこらえ、薄目を開け舞い上がる砂塵の中で状況を見極めんとした。
「遼牙ぃッ」
人智を超えた形態と攻撃力を見せ付けた狂える魔導器は原形を留めぬほど破壊され、グォォォォ…ンと獣めいた咆哮を上げてのたうっていた。その前で遼牙が膝をつき、激しく肩を上下させている。
「遼牙！ 大丈夫かッ」
羅叉が駆け付けると、遼牙はゆっくり立ち上がって「大丈夫だ」と返した。その声には疲労の澱がこびりついていたが、ともかく羅叉は安堵の息をついた。
「魔導器が……消滅してゆく……」
最後の足掻きとばかりにビクビクと蠢いていた魔導器は瞬く間に液状化し、やがて大地に吸い込まれるように消失した。
後に残ったのは、装着者の屍のみ。それは魔導器の侵蝕を示すように腐緑色に変色していた。
「ぅっ……」
遼牙が低く呻いてよろめいた。羅叉が慌てて視線を移すと、霊剣化した龍舌刀が形態を解除しつつあるのかゆっくり崩れてゆくのが見えた。
その下から現れた遼牙の右腕は鮮血に染まり、まだ出血が止まらないのかぽたぽた垂れて大地に黒い染みを散らしていた。
「これは一体……」
よく見れば、ところどころ何かに喰い千切られたかのように赤黒く爛れている。驚く羅叉に薄い笑みを返し、
「龍舌刀は武器化する際、血と肉の供出を強いる。最も高い攻撃力を誇る霊剣化の状態を維持するには、相応の犠牲を欲するということだ。ははッ、邪悪さで言えば魔導器といい勝負かもしれんな」
自嘲めいた言葉とともに、血に塗れた己の右腕を一瞥した。が、素早く闍弥に向き直り、
「女、あんなものがお前の“理想郷”ではあるまい。いい加減に目を覚ませ」
闍弥は俯いたまま、肩を小刻みに震わせている。残っていた僅かな兵士たちは皆、魔導器が破壊されるのを見て逃げ出した。ある意味正気に返ったということだろう。
「闍弥、もう一度言うぜ。諦めろ。お前には俺たちを止めることはでき―――」
羅叉は続く言葉を呑み込み、大きく目を見開いた。闍弥が瘧にかかったように震え出したのだ。
彼女は笑っていた。こらえ切れぬ笑いの衝動に翻弄されるその姿は、状況が状況だけに狂気じみて見える。
いや、本当に狂ってしまったのかもしれない。あのおぞましき兵器に、魂まで蝕まれてしまったのかもしれない。そんな危惧に駆り立てられ、彼女に近づこうとした時、
「もう遅いわ」
闍弥はぴたりと笑うのをやめ、感情のこもらぬ無機質な声で静かに言い置いた。そして虚無に沈んだ瞳を据えたまま、遼牙たちの背後にある混沌の谷を指差した。
慌てて振り向いたが、予想に反してそこには何もいない。ただ、先刻から続いている地面の揺れにより、谷全体が鬼哭を上げて鳴いているだけ―――
「谷が……動いているっ」
最初に気付いたのは遼牙だった。続いてすぐに、羅叉もその言葉の正しさを認めた。真朱と瑠羽が入っていった封印に続く道、その両側に切り立つ双つの崖が、少しずつだが近づいていたのだ。
「やっと気付いた？ そうよ、お前たちを倒せるなんて最初から思っていなかった。魔導器なんて捨て駒、時間稼ぎみたいなものよ。
この混沌の谷は、嘗て神に背いた父なるアザゼルが堕天し捕縛された時、その衝撃でできた地形と言われているの。しかも地下には細かい地脈が複雑に通っていて、非常に不安定で脆い。混沌の谷と呼ばれる所以ね。
そんな繊細な場所で先刻のように激しい力の衝突を繰り返せば、その衝撃で谷の均衡は崩れ地形の変動が起こるのは必至。つまり、」
闍弥はいったん口を閉じて息をついた。勝利宣言とも言える言葉にもかかわらず、その声は疲労で重く撓んでいた。
「じきに谷は塞がれ、封印の壁への道は閉ざされるというわけ。先を行っている二人の神聖高位魔族もろともね」
遼牙は眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく見開いて、わなわなと震えつつ谷を凝視していた。が、突然弾かれたように駆け出した。
「瑠羽！ 瑠羽ーーーーッ」
耳を覆いたくなるほど悲愴な声で叫びつつ、谷の中に駆け込む。そして壁に両手をついたが、じりじりと焦らすように迫るのをどうすることもできない。
遼牙は絶望に侵されそうになる頭を必死に駆り立てて考えた。二人が現時点でどの辺りまで進んでいるかは見当もつかない。まだ道半ばなのか、封印の壁近くまで進んでいるのか。いずれにしても迫り来る谷の壁から救い出さねばならない。
遼牙は素早く上を見た。アム・アザゼルならば羽を広げて浮上することができるが、崖の頂上は遥か高みにあった。これを超えるより先に谷が塞がれる可能性が高い。
「ばかな……もはやこれまでだというのか………」
遼牙は初めて、行く手に光を見失った。それでも頽れそうになる身体を叱咤して、一刻も早く瑠羽の傍に行こうとした。
魔力を持たぬ自分に何ができるのか分からない。しかし、この場で一人恐慌状態に陥っていても始まらない。迫り来る壁の恐怖に耐えている瑠羽を、この身を楯にしても守るのだ―――
「そうか。俺の命はこの時のために残されていたんだな」
その声は、焦りと絶望で荒れ果てた遼牙の心神に、不思議なほどすっと沁み渡っていった。穏やかで厳かで、温かな潤いに満ちた声。
遼牙は思わず足を止めて、振り向く。すると羅叉が、これまで見たこともないほど澄んだ笑顔で頷いた。
「大丈夫だ、心配は要らない。遼牙、お前は先に進んで二人と合流しろ」
「どういうことだ、羅叉……お前は………」
「俺はここで、谷が塞がるのを食い止める」
羅叉はさらりとそう言って、遼牙に背中を向けた。そして低い声で呪文を唱え始めた。
モール・アール・ディー・アー・レー
モール・アール・ディー・アー・レー
我は我が血肉を汝へ戻す
地の天蠍宮へ
深淵に刻まれし祭壇の長
象牙の鍵を持ちて
我を闇の彼方へ導き給え
「くっ……なんだこれは………」
詠唱が終わると同時に、空気の重さが変わった。羅叉の身体から放射される魔気のせいか、視界が歪んでいる。
次の瞬間、遼牙は驚愕の余り言葉を失った。羅叉が足と手の先から岩石の結晶に覆われるのを見たからだ。
「羅叉！ あんたまさかっ……」
谷の入口にいた闍弥が、名を呼びながら駆け寄る。我に返った遼牙も同様に駆け寄ろうとした。しかし、
「近づくな！ 巻き添えを喰らうぞ」
羅叉の厳しい制止に遭い、ぴたりと足を止める。すでに羅叉の身体から“生えた”岩石は地面に広がり、迫りつつある左右の壁にまで侵蝕していた。
あるひとつの可能性に思い当たった遼牙は、微かに震える声で質した。
「ま…さか……＜還元魔法＞か？」
「は、は……さすがは物知りの王様、よくご存知で。その通り、還元魔法だよ」
＜還元魔法＞、それは自らの血肉を四大の属性に還元する古の魔術。命を触媒とすることで強大な魔力を発するもので、余りに危険なため禁呪とされていた。
「俺が“壁”となって谷が塞がるのを止める。だからあんたは先へ行け」
「馬鹿なっ……お前は何を―――」
「いいから行け！ 行って瑠羽を安心させてやれっ」
地の肉芽に徐々に侵されながらも、羅叉は声を張り上げて遼牙を先へ行かせようとした。しかし、ここで「分かった」とあっさり頷いて先へ進める者がいるだろうか。遼牙は血の滴る拳をぎりぎりと握り締め、その場に立ち尽くした。
すでに身体の半分が岩石に埋まっていた羅叉は、唯一自由な首をひねって遼牙を振り返り、
「言ったはずだ。俺の命は瑠羽のものだと。あいつは弟の魂を救ってくれた。あの時の借りを返す時が来たんだ」
「むやみに命を懸けるようなことはするなと瑠羽は言ったはずだ！」
「むやみじゃねェよ。俺の命は、この時のために残されていたんだ。俺はすでに一度死んでいる。弟が親父の手で処刑された時に。だから今ここで命を捨てることに特別な感慨など湧かない」
「羅叉、お前はっ……」
羅叉はふっと目を細め、遼牙の足下に視線を落とした。
「地の肉芽が迫っている。それに決して触れるな。今すぐ背中を向け、谷の奥へ向かって走るんだ。真朱と瑠羽によろしくな。短い時間だったが、お前たちと一緒にいれて楽しかった。生まれ変わった世界を、俺の分までしっかり見届けてくれよ」
「………分かった。必ず、お前と弟の分まで目に灼き付けておこう」
遼牙は必死に己を制し、喉の奥から言葉を搾り出した。そして巨大な岩壁の一部となりつつある羅叉に背を向けると、谷の奥へ走り去ったのだった。
遼牙が去ったのを確かめた羅叉は、ほっと安堵の息をついて前を向き、魔導器を装着したまま眼前に立つ闍弥に対峙した。
「……何やってるのよ、羅叉。計算高くて傲慢で利己的なあんたらしくないわ」
顔を歪めて問い詰める闍弥に、羅叉は黙って淡い笑みを返すのみ。闍弥は苛立ちを隠そうともせず、
「何で……何でそこまでするのよっ……そんなに記憶を解放したいの？ 理想郷を実現させたいの？」
「さあな。自分でもよく分かんね。たぶん、俺はあいつらほど理想郷に希望を抱いてはいない。ただ俺は、あいつらの夢を叶えてやりたかった。それだけだ」
「そのために……命を捨てると？」
「別に大したことじゃねえよ。俺はすでに一度死んでるんだ。残りの命を仲間のために使うのも悪くない」
羅叉はそう言って、言葉を裏付けるように晴れやかな表情を見せた。そして何も言えず立ち尽くす闍弥に穏やかな声で、
「ほら、さっさとその醜い兵器を脱いで翡衛城に帰れ。巻き込まれるぞ」
すでに谷を挟む崖の動きは止まっていた。羅叉の身体を触媒として増殖を続ける岩の結晶は巨大な壁を形成し、それが衝立となって谷が塞がるのを防いでいたのだ。
羅叉の四肢は増殖しつつある壁に呑み込まれ、胸から上だけが地の肉芽の侵蝕を免れていた。もちろん、全てが呑み込まれるのは時間の問題だった。
「あんた……あたしが憎くないの？」
早く逃げるよう諭す羅叉に、闍弥はぽつりと訊ねた。皮肉でも自虐でもない、無邪気な問い。羅叉は淋しげに笑って、
「憎くはない。ただ辛かった」
「辛い……だと？」
「ああ。俺とお前は同じものを抱えていたんだ。愛する肉親を喪った哀しみ。やり場のない怒り。誰を怨んでも仕方ないと分かっていながら、憎悪を克服することができない心の弱さ……」
ついに地の肉芽は胸まで覆い始めた。羅叉は苦しげに息を吐き、それでも言葉を搾り出すようにして続ける。
「俺には……お前の気持ちが分かっちまうんだよ。だから……辛かった……」
闍弥はゆっくりと、確信的な歩みで羅叉に近づく。
「あたし達は似た者同士だったのね。でもあんたはその憎悪を克服した。あたしにそれができるかしら？」
「ああ、できる。だから闍弥、早くここから逃げ―――」
「でも、もう遅いのよ」
闍弥はきっぱり言い放って、装着していた魔導器を外した。そして腐緑色に爛れた身体を羅叉の視界に晒した。
「あたしの身体はすでに魔導器に侵されているの。その証拠に、ほら、見て」
闍弥はそう言って、自分の左腕を裂いた。溢れるのは青緑色の“血”。闍弥は嫌悪も露わに滴る液体を見詰め、
「もうすぐこの身体から“闍弥”としての意識は滅え、殺戮のみを求める生ける兵器となる。もちろんこれまでの記憶も、思い出も、何もかも失われる。ま、大していい思い出もなかったけど。でも……」
地の肉芽が足下まで迫っていたが、闍弥は躊躇することなく一歩踏み出した。そして羅叉が制止を叫ぶより早く、両手を広げてその胸に飛び込んだ。
「闍弥……お前…はっ……」
無謀な行動の付けはすぐに回ってきた。闍弥の身体はあっという間に岩の結晶に覆われ、壁と同化してゆく。闍弥は顔を上げて羅叉を正面から見据えた。
「おぞましい兵器になるくらいなら、僅かな思い出を抱え人として死ぬ方がずっとまし。羅叉、あんたと一緒に逝くわ。後悔はしないけど、でも……」
闍弥はそっと目を細め、血の気の失せた唇を切なく震わせた。
「もう少し……早く……あんたと………」
続く言葉が闍弥の口から出ることはなかった。闍弥の全身が岩に覆われ同化するのを目にした羅叉は、これ以上ないほど優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「お前……けっこういい女じゃねえか………」
そしてゆっくりと目を閉じる。
もうすぐ弟にこの左目を返せるなと、喉の奥で呟きながら―――
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