BEYOND
18.
これほど重力というものの存在を実感したのは初めてだった。アストラル界を出てひたすら前進を続けていた瑠羽だったが、四肢の重さがいよいよ耐え難くなってきた。
―――もう……だめ……くるしい……進め…ない……
ついに座り込み、がっくりと肩を落とす。どのくらい進んだのか確かめたくなったが、決して振り返るなというルヒエルの言葉を思い出してこらえた。
その時、どこからか自分の名を呼ぶ声が。
瑠羽、瑠羽………
間違いない。あれは、あの優しさと温かさと高貴な艶を湛えた声は―――
―――遼牙さまぁっ
瑠羽は両手をついてよろめきつつも立ち上がり、再び歩き出した。四肢の重さは変わらないけれど、内から湧き出る力は明らかに上昇していた。
瑠羽……戻っておいで………
進むにつれて、遼牙の声が明瞭になってくる。姿こそ見えないが、その存在をすぐ身近に感じることができた。
瑠羽は声に導かれるまま歩き続け、そしてついに―――
「りょ…きさま………」
長い長い旅路から帰還した瑠羽は、必死に瞼をこじ開けて声の主を視界に収めんとした。そうすることで“戻ってきた”という実感を得ることができるのだと、先験的に知っていたから。
「よかった、瑠羽……。無事に戻ってこれたのだな」
心の底からの安堵が感じられる声で囁くと、遼牙は溢れんばかりの愛情を乗せて瑠羽の額に口づけを落とした。
温かくて柔らかな唇の感触はささやかなものだったけれど、大いなる冒険を成し遂げた瑠羽の心身を優しく解きほぐすには十分だった。
「遼牙さまぁ……」
甘えた声で名を呼びつつ、両手を伸ばして抱擁をねだる瑠羽。遼牙は見る者のあらゆる感覚を酔わせる極上の微笑みを返し、差し伸べられた手をしっかり取った。そしてゆっくり抱き起こしてあやすように背中を撫でながら、
「瑠羽、守護天使殿には会えたのかな？」
久しぶりの温もりに身も心も蕩けんばかりの瑠羽だったが、遼牙の質問で我に返った。神妙な声で、
「はい。ルヒエルさまもオファニエルさまもとてもお優しくて、僕の願いに真剣に耳を傾けてくださいました。でも………」
瑠羽はこくんと喉を鳴らし、嗚咽の予兆を呑み込んだ。しかし、声の震えはどうしようもなかったが。
「でも、真朱の病気を治すことはできないって………現実を受け入れて……自分の成すべきことをやり遂げなさい、と………」
「そうか……」
半ば予想していた答えではあったが、最後の望みを断たれた瑠羽には辛い言葉だったろう。遼牙は慰めの言葉を見つけることができず、重い無言を抱えたまま背中を撫で続けた。
その時、微かな足音を感じて顔を上げた。すると当の真朱がゆっくり近づいてくるのが見えた。
「瑠羽、顔を上げなさい。そして後ろを見てご覧」
遼牙の言葉に応じて後ろを振り返った瑠羽は、真朱の姿を認めて慌てて立ち上がろうとした。しかし足がもつれて躓いてしまい、その場にぺたんと座り込んだ。
真朱は笑いながら傍に膝をついて、
「こらこら、大丈夫か？」
「まっ、真朱こそ大丈夫なの？ 起き上がったりして……」
瑠羽は心配そうに眉根を寄せておろおろする。真朱はその額をぴん、と小突いた。
「重病人扱いするなって。ちょっと疲労が溜まってただけだ。少し横になったらすっかりよくなった」
朗らかな声でそう言うと、僅かに表情を引き締めて、
「そういえば、瑠羽。お前アストラル界に行ってたんだって？」
「あ……うん。そだよ……」
「ちゃんと守護天使には会えたか？」
「うん……ルヒエルさまとオファニエルさまと……それから真朱の守護天使さまにも会ったよ」
瑠羽は正直に答えたが、真朱の顔を見ることができなかった。会いに行った目的を訊かれるのが怖かったのだ。
何と答えればいいのか分からない。真朱の病気を治してくださいと頼むために行ったけど、それは無理だと、運命は変えられないと言われただなんてとても自分の口からは―――
「瑠羽、ありがとう」
「……えっ？」
唐突な感謝の言葉に驚いた瑠羽は、弾かれたように顔を上げた。すると、燻朱の虹彩に柔らかな光を湛えた瞳に出逢った。
瑠羽の心臓は大きく跳ね上がる。ああ、まさか真朱は………
「瑠羽、本当にありがとな」
もう一度、心を込めて感謝を伝える真朱。その澄み切った表情は、真朱が全て察していることを物語っていた。
瑠羽が何のためにアストラル界を訪れたのか、守護天使に何を頼んだのか、そしてどんな答えが返されたのかも全て分かっていたのだ。
「真朱……僕、ぼくぅ………」
真朱の前では悲しい顔をせず、いつも笑顔でいよう。そう誓ったばかりなのに、もう瞳が潤んでいる。瑠羽は自分の腑甲斐なさを呪いつつ、肩を小さく丸めて「ごめんね…」と囁いた。
真朱のために何もできなくてごめん、頑張ってる真朱の前で泣いてばかりでごめん、こんなに弱い僕でごめん、と。しかし、
「謝るな、瑠羽……」
気が付けば、真朱の腕の中にいた。澄んだ森の空気を思わせる真朱の芳気が、瑠羽の身体を優しく包み込む。
「俺は幸せだ。お前に出逢えて……」
ハスマルの言葉が脳裏に蘇る―――“真朱はお前に出逢えて幸せだった”
「たくさんの優しさをお前にもらった。ありがとう、瑠羽」
「真朱っ………ぇっ、ぇぇっ………ふぇっ………」
真朱の胸に顔を押し付けて、瑠羽は存分に涙を流した。これは悲しい涙じゃない、だから許してくれますよね、ハスマルさま―――喉の奥でそんな言い訳を繰り返しつつ。
「……遼牙、いいのか？ 大事な瑠羽が他の男の胸で泣いてるぜ」
いつの間にか傍らにいた羅叉が、遼牙にそっと耳打ちする。遼牙はちらと横目で一瞥して、
「まあ、余りいい気持ちはせんな」
「ぶっ………あんた、正直だな」
思わず吹き出した羅叉は、しごく楽しげにそう言って固く抱き合う二人を見守った。そして真朱と瑠羽の抱擁が解かれると、ゆっくり二人に近づいて、
「さあ、いよいよだな」
遼牙も加わり、四人は無言のまま決意を交わした。やがて真朱が口を開き、
「明日、夜明けとともに＜混沌の谷＞へ向かう。そして封印された記憶を解放する。封印を守護する神が、親父たちを襲ったのと同じやり方で攻撃してくるという保証はない。だからくれぐれも油断せず、細心の注意を払って進もう」
「承知した」
「ま、何とかなるさ」
「頑張りますっ」
三者三様の答えを返し、輝く明日へと思いを馳せる。
そう、世界は今、大いなる変革の時を迎えんとしているのだ―――
そして運命の朝が訪れた。
今日という日の重大さに押し潰されぬよう、心身を固く強張らせて素早く仕度を整えた四人は、明けの明星に導かれるように出立した。
夜はすっかり明けたというのに、頭上を覆う鉛色の雲のせいで薄暗く、空気もどんよりと重い。言葉にこそ出さないが、誰もが雲間から射し込む僅かな光を期待しつつ歩みを進めていた。やがて―――
「あれが谷の入口だ」
何の前置きもなく、真朱が口を開いた。立ち止まって前方を見ると、巨大な岩山が灰色の靄の中に浮かび上がっていた。
「これが……混沌の谷なのか？」
遼牙の疑念も尤もだった。これのどこが“谷”なのだろうか。すると真朱は瑠羽に視線を向け、
「瑠羽、風を起こすことはできるな？」
「え？ あ、うん……」
軽く意識を集中するだけで自在に風を呼ぶことができると、これまでの様々な経験ですでに学んでいた。
瑠羽はふっと息を吐いて目を閉じる。すると間もなく空気の動きが変わり、一陣の風が靄を吹き払った。クリアになった視界に再び目をやると、霞んでいた岩山の輪郭が鮮明に見えた。
「見ろ！ 道があるじゃねえか」
羅叉の指摘に、遼牙も大きく頷いた。確かに、岩山を真直ぐ貫いて道が通っている。しかし遼牙はすぐに認識を改めた。
「これは……山に挟まれているのか？」
そう、双つの巨大な岩山が相対峙しており、その間が道のように見えているだけだった。山の頂上は雲に隠れ、その全容を窺い知ることはできない。
地殻変動など自然の力によるのか、或いは人の手によって作られた道なのか見ただけでは分からないが、限りなくシンメトリーな断崖に挟まれた道にはやはり超越者の介在を感じずにはいられなかった。
「なるほど。見ようによっては谷に見えなくもないな」
遼牙は殊更軽い調子で呟き、異界への入口を前にして竦む瑠羽の神経を少しでもほぐそうとした。
「……懐かしいな、思い出すよ。ここで何日も何日も、親父たちが戻ってくるのを待っていたんだ」
真朱はそう言って、眼前に開けた道に追憶の眼差しを送った。
「しかし幾ら待っても二人は帰ってこない。何度あの道に、あの深淵に駆け込もうと思ったか分からない。右手で右足を、左手で左足を押さえ付けるようにして、俺はひたすら待ち続けたんだ」
誰にともなく語りかけながら、真朱はゆっくり一歩踏み出した。前進しているということを、足の裏で確かめるように。
「結局、親父たちは帰ってこなかった。飢餓による衰弱と精神的な消耗。このまま待ち続けてはいけないと分かってはいたが、立ち去ることがなかなかできなかった。一人でここを去れば、記憶の解放の失敗と親父たちの死を認めることになってしまう」
遼牙はそっと眉を撓めた。その時の真朱の葛藤がどれほど深く苦悩に満ちたものだったか、想像に難くない。
「それでも俺は、また必ずここに戻ってくると誓って背を向けた。そして今、その誓いをようやく果たすことができたんだ」
真朱の言葉に、残る三人が頷いた時だった。背後から毒々しい嗤いを含んだ声で、
「素敵なお話ね。でも、喜ぶのはまだ早いんじゃないかしら」
弾かれたように振り向いた四人の目に映ったのは、うねうねと蠢く青銅色の鎧、魔導器を身に付けた闍弥と、複数の兵士たちだった。
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