BEYOND
17.
暫く歩いていると、前方に大きな岩山が見えてきた。その中腹、突き出た岩の上に一人の天使が座って空を眺めている。
その飄々たる風情に似合わず、彼の髪も瞳も燃え盛る焔を封じ込めたような烈しい色彩を湛えていた。猛き血の煮凝り、或いは焔の結晶。
「瑠羽、彼が真朱の第一級守護天使、火の塔の頂点に立つハスマルです」
「あの方が……」
瑠羽は怯えた表情で、まだ空を眺めているハスマルを見上げた。火の属性の天使は気性が荒いと聞いたことがある。あの赫奕たる紅い目で睨まれたら、竦み上がってしまうに違いない。
そんな瑠羽の不安を察したのか、ルヒエルは腰を屈めて耳許に口を寄せ、
「恐がることはありません。自分の思いを正直に伝えてきなさい。いいですね？」
「は、はいっ」
瑠羽は悲壮な決意をにじませて頷き、一人で岩山に向かって歩き出した。その細い背中を見守りながら、オファニエルは消え入りそうな声で自責の言葉を呟いた。
「汝は強い。それに比べて私は……」
ハスマルに会ったところでどうにもならないということは分かり切ってきた。真朱の運命は変えられない。本当に瑠羽のためを思うなら、ルヒエルのように真実を濁さずはっきり告げるべきなのだ。
なのに自分ときたら一時の感情に負け、余計な希望を持たせてしまった。そのせいで、より深い悲しみに突き落とされることが目に見えているというのに。
「私の弱さが、瑠羽をさらに傷つけることになるのだ。はっ、守護天使が聞いて呆れる。私は―――」
「大丈夫。瑠羽なら必ず乗り越えてくれます。信じましょう」
ルヒエルの確信的な言葉に、オファニエルはまだ顔をしかめつつも小さく頷いた。するとルヒエルはその耳許に唇を付け、秘めやかな囁き声で、
「無機質で冷ややかな外見を持ちながら、実は情に脆く激しやすい。汝のそういうところが、私は大好きですよ」
「なっ……からかうのもいい加減にしろ！」
アクアマリンの髪を逆立てて怒鳴るオファニエル。微かに赤らんだその頬を、ルヒエルは楽しげに眺めた。が、すぐに前方に目をやり、瑠羽とハスマルの対面を見守ったのだった。
一方、一人でハスマルの許に向かった瑠羽は岩山の裾まで進むと、すーはーと深呼吸をした。そして顔を上げ、岩の上にいるハスマルに向かって声を張り上げた。
「ハスマル様！ 僕は下界から参りました、瑠羽と申しますっ。えと……ま、真朱のことでだいじなお話がありますので、こちらに下りてきてはもらえないでしょうか」
するとハスマルはちらと瑠羽を一瞥し、さらにその後方でじっと見守っているルヒエルとオファニエルに視線を移した。
やがて小さな小さな溜め息をつくと、羽を広げて瑠羽の目の前に降り立った。
「私に何用だ。いと小さき者よ」
「あ、あの……」
紅宝玉（ルビー）の瞳も焔の髪も、遠くから見ていた時よりずっと迫力がある。こうして対面しているだけで、不可視の焔に包まれているかのような錯覚に襲われるほどだ。
瑠羽は体温が急激に上昇し始めるのを強く意識しながら、必死に舌を動かした。
「真朱の病状が深刻なんです。このままでは、記憶を解放する前に……し、死んでしまうかもしれません。ハスマル様、どうか真朱をお救いください。理想郷実現のため、これまで一生懸命闘ってきた真朱に、美しく生まれ変わった世界を見せてあげてください。お願いします！」
誠心込めた懸命の願いだったが、ハスマルが心動かされた様子はない。それどころか、優しさの欠片もない冴え冴えとした表情で、峻厳と言い置いた。
「瑠羽よ、お前は自分がどれほど傲慢な行いをしているか分かっているのか？」
「えっ……」
「お前は他人の運命に干渉しようとしているのだぞ。神にでもなったつもりか？」
ハスマルの言葉は瑠羽の心に重い一撃を喰らわせた。まさかこんな“答え”が返ってくるとは思っていなかった瑠羽は、何も言えず呆然とハスマルを見返した。
しかし最初の衝撃が収まると、ハスマルの言わんとすることが徐々に頭に浸透していった。確かにそうだ。真朱の運命はすでに決まっていて、それを変えようとするのは出過ぎた行為なのかもしれない。でも―――
「でも……やっぱり真朱を助けたいっ……僕のできることをやって、僅かな可能性をっ………」
今にも泣き出してしまいそうだったが、涙は必要ないとばかりに乾いた目尻をぐいと拭い、瑠羽は尚も訴えを続けようとした。するとハスマルはほんの少し声を和らげ、
「では瑠羽、お前に訊こう。真朱が病についてお前に打ち明けた時、彼は自分のことを憐れんでいたか？ 不幸だと言ったか？」
瑠羽は額の奥をまさぐり、記憶の糸を手繰り寄せた。告げられた真実の重みに耐え切れず打ちひしがれる瑠羽に、真朱は瞳を優しく潤ませ、笑みすら浮かべてこう言った。
―――なあ瑠羽。俺は不幸じゃないぞ。人間、誰にも寿命はある。俺の寿命は人より少し短いかもしれないが、何ものにも縛られず、自分の道を真直ぐ歩いてこれた。そして今、親父たちのやり残した大きな仕事を成そうとしている。とても幸せな人生だったと思っている
瑠羽はこくんと喉を鳴らして呼吸を整え、明晰な声で答えた。
「とても幸せな人生だと……自分は不幸じゃないと真朱は言いました」
「ならば何故、その言葉を信じてやらぬのだ」
灰色に曇っていた瑠羽の心に、一筋の光が射した。瑠羽ははっと息を呑んで、ハスマルの顔を真直ぐ見上げた。
ついさっきまで畏怖の対象でしかなかった燻朱の瞳に、懐かしく温かいものを感じる。瑠羽はようやく気付いたのだ。ハスマルの瞳は、真朱の瞳そのものだと。
「真朱は死を受け入れているが、それは諦めや絶望とは違う。運命の力強い肯定だ。ありのままを“然り”と言って肯定できる者こそ、真の強者なのだ。なのにお前は真朱の運命を否定しようとしている」
「僕、僕っ……」
瑠羽は自分の間違いを認めざるを得なかった。真朱の「仕方ないさ」という言葉を、諦めや自己欺瞞と受け取っていたのだ。
真朱は瑠羽が思っているよりずっとずっと強い人間だった。瑠羽はただ、自分の弱さを真朱に転嫁していただけなのだ。
「私は真朱という人間を誇りに思う。あれはその父に劣らぬ強き心を持っている。だから瑠羽よ、お前も強くなれ。現実から目を背けてはならん。そして自らの成すべきことを遂げるのだ」
「はいっ」
もはや瑠羽に迷いはなかった。真朱が倒れるその時まで、目的に向かって共に進む。それこそが真朱を大きな意味で生かすことになると、先刻ルヒエルも言ってくれた。その言葉をようやく、心の底から受け入れることができた。
「ハスマルさま、ありがとうございます。僕、強くなります。真朱を支えてあげられるくらい強くなって、それで、最後まで……」
最後まで傍にいます、そう言うつもりだったのに、胸が詰まって言葉が出てこなかった。こんなことでは真朱を支えるなんて無理だと自分を叱咤しようとした時、ハスマルがぬっと手を伸ばして瑠羽の頭をふわふわ撫でた。
「瑠羽よ、お前はもう十分真朱の支えになっている。それだけではない。真朱はお前に逢えて幸せだった。一族を喪い、父を喪い、孤独の中で記憶の解放という重責に喘いでいた真朱にとって、お前と過ごせた僅かな時間は温かな光溢れる安らぎのひとときだったろう」
「ハスマルさま……」
「だから最後の時まで笑顔を絶やさず、真朱の心に光を注いでやって欲しい。それが私の願いだ」
何て慈愛に満ちた言葉だろう。瑠羽はそっと目を閉じ、大きな手のひらが与えてくれる温もりとともに、その言葉を噛み締めた。ずっとこらえていた涙が目尻からこぼれたが、それは悲しみとの訣別の涙だった。
泣くのはこれが最後。ハスマルの言う通り、下界へ戻ったら真朱には悲しい顔を見せないようにしよう。
「はいっ、ハスマルさま。約束します」
瑠羽は目を開けてハスマルを見詰め、明るい声で答える。まだ涙の靄は晴れていなかったけれど、その奥にある瞳は晴れやかに澄んでいた。
ハスマルは初めて笑顔を見せると、もう一度瑠羽の頭をぽんぽんと撫でた。その時、
「ハスマル……瑠羽を泣かせましたねっ」
額に青筋立てたルヒエルとオファニエルが、普段の彼らからは想像もできない荒々しい歩みで真直ぐ近づいてきた。と思ったらルヒエルは瑠羽の身体をぐいと抱き寄せ、
「瑠羽っ、彼にどんな酷いことを言われたのですか？ まったく、この純真で優しい子を泣かせるなんて……」
棘のある視線をハスマルに向ける。瑠羽は慌てて涙を拭いて、必死に説明した。
「ち、違うんです。あの、これは嬉しい涙なんです」
「嬉しい涙、だと？」
オファニエルは驚きを隠さず、ハスマルに疑わしげな一瞥を投げた。まさか、真朱の病は必ず治る、心配は要らないなどと言ったのだろうか。
しかしオファニエルはすぐにその疑念を打ち消した。欺瞞や誤魔化しを嫌うハスマルがそんな安易な嘘をつくはずがない。感傷を挟まず淡々と、運命が指し示す真実の道のみを伝えたに違いない、と。
ルヒエルも同じ疑念を抱いたのか、柳眉を撓めて、
「真朱は助かると言われたのですか？」
「いいえ。真朱の運命を変えることは誰にもできないけれど、現実を受け入れた上でいつも笑顔でいることが、真朱の救いになるのだと教えてもらったのです。そして、真朱は僕と逢えて幸せだったと言ってくださいました。それがすごくすごく嬉しかったんです」
瑠羽の答えに、ルヒエルは大きく目を見開いて驚きを露わにした。が、すぐに表情を和らげて、
「そうですか。真朱の守護天使が言うのですから間違いありませんね。瑠羽、下界に戻ってもハスマルに言われたことを忘れないように。いいですね？」
「はいっ」
ハスマルと話したことで吹っ切れたのだろう、ついさっきまで悲しみに潰されんばかりだった瑠羽に屈託ない笑顔が戻っていた。
オファニエルが安堵しつつ見守っていると、いきなりハスマルにぐいと腕を引かれた。
「な、なんだ？ ハスマル」
「なんだ？ ではない。汝ら二人とも過保護がすぎるぞ」
痛い指摘にオファニエルは「うっ…」と詰まり、
「わ、わかっている。自覚済みだ」
そう言ってふいと顔を背ける。するとハスマルは何やら含蓄ある眼差しを向けて、
「瑠羽を私の許に寄越したのはルヒエルではなく、お前だろう？」
悔しいが、その通りなのだから仕方がない。ハスマル相手に嘘はつけない。オファニエルはそっぽを向いたまま、微かに頬を赤らめ、
「ふん、どうせ私は甘さの抜けぬ未熟者だ。笑いたければ笑うがいい」
すると耳許で、ククッと低く笑うのが聞こえた。ハスマルめ、本当に笑うことはないだろうと苦々しく思いつつも何とか平静を保っていると、続けて耳許で囁かれた。
「私は、お前のその冷ややかな外見に似合わず情に厚いところが好きだ」
オファニエルは目を剥いてギッと睨み返し、
「そういうふざけたことを言うな！ まったく、ルヒエルばかりか汝まで……」
するとハスマルはちょっと不機嫌そうに眉をたわめ、
「ルヒエルに先を越されたか。それは悔しいな」
「うるさいっ」
オファニエルは怒鳴って背中を向けたが、立ち去ろうとはせずその場に足を止め、打って変わって神妙な声で、
「ハスマル、汝があのようなことを瑠羽に言うとは意外だった」
真朱は瑠羽に逢えて幸せだった―――こんな感傷的な言葉がハスマルのストイックな口から出てくるとは。
「あの言葉のお陰で瑠羽は救われた。瑠羽の守護天使として、汝に感謝する」
しかしハスマルはちらと肩を竦め、
「礼を言われる筋合いはない。私は事実を告げたまでだ」
「そうか……」
オファニエルは静かに頷いて振り向くと、目を細めてふわりと笑った。その柔らかな笑みに、ハスマルの目は釘付けになる。
「氷の面て、その下から時折ちらと垣間見える花の綻び……」
「は？ 何を言っているのだ、汝は」
「……いや、何でもない。それよりほら、二人が呼んでいるぞ。そろそろ下界に戻る頃合だろう」
「ん、ああ。そうだな……」
淋しそうに答えるオファニエル。ハスマルは苦笑しつつその肩を叩き、
「そんな顔をするな。ちゃんと見送ってやれ」
優しく諭して、飛び立っていった。オファニエルは溜め息をついて、瑠羽の許に戻った。
「オファニエルさま、ありがとうございました」
「ん？ 何がだ？ 瑠羽」
瑠羽に礼を言われ、戸惑いつつ問い返す。すると瑠羽はにっこり笑って、
「ハスマルさまに会うよう勧めてくださったことです。ありがとうございました」
恭しく捧げられた感謝を、オファニエルは笑顔で受け取った。ルヒエルの言った通りだった。瑠羽ならきっと乗り越えてくれるはず―――
「さあ、瑠羽。余り長居するのはよくありません。肉体の消耗が激しくなってしまいますからね。そろそろ戻った方がいいでしょう」
ルヒエルはそう言って、下界への門に導くため瑠羽の手を取った。反対の手をオファニエルが取り、三人は名残りを惜しむようにゆっくりと歩き出した。
やがてラベンダー色の空に乳白色の靄がかかり、空気の質感が変わってきた。瑠羽は自分の四肢が徐々に重くなってくるのを実感した。
「ここが境界です。一歩踏み出したら決して後ろを振り返らず、真直ぐ進むのですよ。いいですね？」
柔らかな声で念を押すルヒエルに、瑠羽は真剣な表情で頷きを返した。が、何かを思い出したのか「あっ」と声を上げ、
「そうだっ、大事なことをお伝えするのを忘れてました。あの、遼牙さまからの言付けで―――」
「遼牙ぃ？」
二人同時に声を上げたと思ったら、額に鉛色の影を落とし、
「ほほぅ……」
「それはそれは……」
隙間もないほどびっしり棘の生えた暗い声で呟く。二人がしばしば下界に降臨して、お仕置きと称して瑠羽にいたずらする遼牙に怒りをぶつけていることなどつゆ知らぬ瑠羽は（「聖なる小姑」参照）、不思議そうに首を傾げてぱたぱたと瞬きしたが、ともかく伝言を続けた。
「いつも瑠羽をお守り下さって感謝している、これからも変わらず深い愛情で包み込んで欲しい―――そうお伝えするよう言われました」
―――そんな殊勝なことを言って。私は騙されませんよっ
―――何が感謝している、だ。いっつも瑠羽を泣かせている変態国王がっ
大声で喚きたいところだったが、そこは瑠羽の手前何とかこらえた。こめかみに血管を浮き上がらせつつ引き攣った笑顔を浮かべ、「しかと聞き届けた」と穏当な返事を返す。瑠羽は嬉しそうににっこり笑うと、二人の顔を見上げた。
「ルヒエルさま、オファニエルさま、ありがとうございました。短い時間でしたが、ここに来て本当によかったです。教えられたことを胸に刻み込んで、これからも一生懸命がんばります」
そう言う瑠羽の顔には、悲壮な決意が漲っていた。するとルヒエルは瑠羽の手を取ってその場に膝をつき、
「我々はいつでもあなたの傍にいます。ですから、自分の信じる道を臆することなく進みなさい。分かりましたね？」
別れの淋しさから瑠羽の瞳はじんわり潤み始めたが、涙を払うように大きく頷いた。ルヒエルはそれを確かめると、優しく目を細め立ち上がった。そして、
「……それからもうひとつ。瑠羽、悲しい時は泣いていいのですよ。無理をして笑顔でいる必要はないですからね」
思い遣りの詰まった言葉に、瑠羽は涙を抑えることができなかった。「ありがとうございます…」と掠れた声で返し、ゆっくりと二人に背を向けた。
「……ルヒエル、汝も甘いな」
「あなたに言われたくありませんね」
遠ざかる背中を見送りながら、静かに言葉を交わす。やがて乳白色の靄に呑み込まれるように、瑠羽の姿は消えていった。
「記憶を解放した時、人間たちは、世界はどうなってしまうのか……」
オファニエルは苦しげに呟いた。それは天使の叡智を以ても予測のつかないことだった。
「種族は和解して平和が訪れるのか、或いはさらなる混沌と戦乱の世に雪崩れ込むのか……」
オファニエルの口ぶりからすると、後者の可能性が高いと考えているようだった。そんな不安の澱をルヒエルは軽やかに笑い飛ばす。
「信じましょう。人間に生来備わっている良き心を。嘗て父なるアザゼルが、人間の理性と良心を信じたように」
「……そうだな」
オファニエルは素直に返して、瑠羽が去ったその先に僅かな光を探した。
しかし、光を見つけることはできなかった。
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