BEYOND
16.
―――はわ〜〜、天使さまがたくさん………
柔らかな草に覆われた石の上に座った瑠羽は、深い驚きとともにぱたぱたと瞬きを繰り返した。
周りには大勢の天使が集まって、物珍しそうに瑠羽を観察している。その表情や眼差しには悪意のかけらもなく、純粋な好奇心からというのは分かるのだが、こんなにたくさんの天使に迫られてはやはり気後れしてしまう。
そんな瑠羽の困惑になど構わず、天使たちは瑠羽の頬を指でつんつんつついたり、顔を近付けてくんくん匂いを嗅いだり。そうしながらも、思い思いの感想を口にする。
「うわぁぁ……頬がぷにぷにしてる〜〜」
「髪の毛もふわふわですよぉ」
「しかも甘くて美味しそうな匂いがする」
「ああ……こんな可愛い子の守護ができるなんて、ルヒエル様とオファニエル様が羨ましい」
「まったくだ。我々は相手を選べんからな。まあ、人間も守護天使を選ぶことはできないが……」
瑠羽はどう反応してよいか分からず、肩を丸めてもじもじする。そこでようやく、見かねたルヒエルが割って入った。
「汝ら、いい加減にしなさい。瑠羽が怯えているではないですか」
下級天使らは一斉に首を竦めたが、そのうちの一人がこわごわ見上げつつ、
「も、申し訳ありません。ここを人間が訪れるのは久しぶりですから、つい嬉しくて……」
他の天使たちも同調するように、うんうんと頷く。ルヒエルは溜め息をつくと、腰を屈めて瑠羽と視線を合わせ、
「許してくださいね。彼らも悪気はないんです」
すると瑠羽は顔を真っ赤にして、必死に答えた。
「も、もちろんですっ。こんなにたくさんの天使さまにお会いできて、僕しあわせですぅ」
「可愛い〜〜〜っ」
潤んだ瞳や薔薇色に染まった砂糖菓子のような頬に、天使たちは再びヒートアップ。じたばたと地団駄を踏む者や、感情の勢いに任せて抱き着こうとする者まで。
そもそも天使のような霊的存在は感情の起伏が激しく、発揮する能力も感情に左右される場合が多いのだ。
古文書や聖堂の壁画に描かれている天使たちはみな取り澄ました表情をしているが、あれはいわば“よそゆき”の姿といえよう。普段の彼らは大いに笑い、大いに嘆き、大いに怒る。
それを“人間臭い”などと言うのは、人間の驕り以外の何ものでもない。
「抱き着くなっ」
普段はほとんど声を荒げることのないオファニエルが、髪を逆立てて怒鳴った。そして瑠羽の前に立ちはだかって無遠慮な手から守る。
下級天使たちから密かに＜アクアマリンの凪＞と呼ばれているオファニエルが見せた意外な激しさに、みな一様に驚きを隠さずすごすごと後ずさった。
ルヒエルは「まあまあ」と苦笑しつつ宥め、オファニエルの強張った肩を軽く叩く。そして一歩退いたところから未練がましくこちらを眺める天使たちに微笑みを向け、
「我々は瑠羽と大事な話があるのです。汝ら、自分の場所に還りなさい」
厳格な階級制が敷かれている天使界では、上級天使の命令は絶対だった。もちろんルヒエルの命令も、言葉こそ穏やかだが逆らうことなど到底できない。天使らは素直に頷いて、光の螺旋となって消えた。
「さあ、瑠羽。これでゆっくり話せますよ」
「は、はい。ルヒエルさま、ありがとうございます」
瑠羽は深々とお辞儀をすると、膝の上できゅっと拳に力を入れた。まるで自分を鼓舞するように。そして、
「僕、お願いしたいことがあってここに来ました」
その瞬間、オファニエルは苦しげに眉をしかめてふいと顔を背けた。瑠羽の“お願い”が何であるのか、すでに知っているのだ。
「そうですか。どのような願いか言ってご覧なさい」
もちろんルヒエルも知っていたが、表情には全く出さず優しく先を促す。瑠羽は「はい」と応じてすがるように見上げ、
「ルヒエルさまのお力で、真朱の病気を治してもらえないでしょうか。もちろん、天使さまが直接下界に干渉できないというのは知っています。ですから、僕が媒介者としてがんばります。真朱が元気になるためなら何でもします！ どうか……」
瑠羽は途中で言葉を呑み込んだ。ルヒエルの輝ける尊顔が、悲しげに曇るのを見たからだ。
「ルヒエルさま……」
ルヒエルは瑠羽の前に跪き、膝の上でぎゅっと握られている両手を大きな手のひらで包み込んだ。そして真直ぐ視線を重ね、
「瑠羽、よく聞きなさい。真朱の病については私も知っていますし、とても悲しいことだと思っています。しかし私の力ではどうすることもできない」
「そ、そんなっ……」
僅かな望みが打ち砕かれた瞬間だった。瞬きも忘れ大きく見開いた瞳から、嘆きの苦い涙がわあっと溢れ出る。
それは頬を伝い、ルヒエルの手の上にぽたぽたと降り掛かる。しかし彼は目を逸らさず、たった一つの真実を告げた。
「真朱の身体は今、急速に死へと向かっています。それを引き戻すことは、私にも、誰にもできないのです」
「ぃっ……いやぁ……いやだぁぁぁ………」
狂ったように首を振り、厳酷な真実に全身で抵抗する瑠羽。ルヒエルは手を握る力を強めて押さえ付け、
「聞きなさい、瑠羽。あなたには、やらねばならないことがあるはずです」
「やらねば……ならないこと……」
「そうです。それに全力で取り組みなさい。分かりますか？ そうすることが、真朱を大きな意味で生かすことになるのです」
ルヒエルの言わんとすることは分かる。記憶の解放を成就させることで、真朱の生きた証を残すことができるのだと。
「でも、でもっ……」
頭では分かっても感情が付いてこない。真っ黒な翼、壊死した冷たい指先が脳裏にちらついて、ルヒエルの理知的な言葉を駆逐してしまう。
「ぅっ……ぅぇ、ぇぇっ………」
すがるべきものを全て失ってしまった瑠羽は、途方に暮れる迷い子のように泣きじゃくった。ルヒエルはしっかり手を握ったまま、黙って見守っている。すると、
「……真朱の守護天使に会ってみたらどうだ」
オファニエルが、平静を装った声でぽつりと言った。瑠羽は弾かれたように顔を上げ、オファニエルを食い入るように見詰める。その切実な眼差しに耐えられず、オファニエルは自らの弱さを呪いつつ顔を背けた。
しかし瑠羽は灼けつくような視線を向けたまま、
「真朱の……守護天使さまに？」
「あ、ああ。そうだ。火の塔の頂点を担う天使長ハスマル。彼に会って、話してみるといい」
「は、はいっ」
涙で濁っていた瞳を輝かせ、希望と期待を隠そうともせず大きく頷く。そんな瑠羽と、対照的に沈みがちなオファニエルの顔を見比べて、ルヒエルは小さな溜め息をついた。そして仕方ないと言わんばかりに声調を落とし、
「分かりました。瑠羽、付いて来なさい。ハスマルに会わせてあげましょう」
そう言って立ち上がり、瑠羽に手を差し伸べた。瑠羽は嬉しそうにその手を掴むと、反対の手をおずおずとオファニエルに差し出した。
オファニエルは驚いたように目を瞬かせてその小さな手を見詰めたが、すぐに力を込めて握り返した。そうして三人は瑠羽を真ん中に手を繋いで、ゆっくりと歩き出したのだった。
「―――これで私の話は終わりだ。最初私は、世界は大いなる転換期を迎えようとしていると言った。その意味がお前にも分かっただろう」
「……ええ。これ以上ないほどよく分かりました」
鴇津は、彼には珍しく疲労の色を隠さず、重く淀んだ声で答えた。それ以上は何も言わず、口を閉ざして泥沼化した思考に沈み込む。
しかしそれも仕方あるまい。古代世界、理想郷、神の策略、封印された美しき記憶―――世界の成り立ちや神そのものについて、根本から認識を改めざるを得ないような重大な話を立て続けに聞かされてしまったのだから。
いかに鴇津が該博な知識と柔軟な知性を持っているとはいえ、すぐに消化することはできまい。不安定な熱を帯びた静寂が、今鴇津の内部で生じている葛藤を物語っていた。やがて―――
「……遼牙様は、記憶を解放するため＜混沌の谷＞へ向かうおつもりなのですね？」
鴇津の問いに、遼牙は僅かな迷いもなく即答を返す。
「そうだ。私は瑠羽や真朱、羅叉らと共に行く」
「恐れながら申し上げます。遼牙様には紫衛那の国王として、他にやるべきことがあるかと」
「私はもはや国王ではない」
「……………分かりました」
答えるまでの須臾の沈黙に、どれほどの苦悩が点滅しただろう。しかし鴇津はそれを表面には決して出さず、未だ燻り続ける懊悩を胸の奥底へ押し込めた。そしていつもと変わらず穏やかな声で、
「もうひとつ、遼牙様にお訊きしたいことがあります。古代世界の記憶を解放し歴史の空白を埋めることで、アム・アザゼルとシェアールが嘗てのように手を取り合って共存するようになるとお考えですか？ 本当に平和が訪れるとお考えですか？」
それは遼牙も絶えず考えていたことだったが、こうして改めて問われるとその重みがさらに深刻さを増してのしかかってくる。遼牙は心なしかやつれた笑みを返し、
「五分五分だと思っている。理想郷の再現となるか、或いは余計な混乱を招きますます混沌とした世の中になるか……」
「確証もないのに行動を起こすなんて、あなたらしくもない」
鴇津の指摘にやんわり頷きを返し、一瞬視線を外す。頭の中で言葉を整理してから、再び向き直った。
「確証はないが可能性はある。鴇津よ、私は知ってしまったのだ。嘗て理想郷と呼ぶべき平和な時代が存在していたこと、その記憶が封印されてしまったこと、それを解放するため全てを捨てた男たちがいたこと……」
遼牙は哀しげに微笑んで、言葉を続けた。
「知れば後戻りできなくなる、真朱はそう言ったが、実際その通りだった。知ってしまった以上、目を閉じ耳を塞いで自分を欺き、これまで通りの生活を続けることは私にはできん。それに、私は誓ったのだ。最後まで瑠羽の傍にいると」
遼牙はゆっくりと立ち上がった。そろそろ去らねばならない時間だ。
「鴇津、紫衛那のことはお前に任せる。どうか私に代わって民を導いて欲しい」
遼牙の余りに重い要請に圧迫されるように、鴇津はがくりと項垂れた。
「わかり……ました」
承諾を伝える声は弱々しく、その肩は小刻みに震えていた。遼牙は思わず駆け寄ろうとしたが、それより先に鴇津が顔を上げた。
その双眸からはとめどない涙が溢れ、青ざめた頬を濡らす。それでも必死に笑顔を作ろうとする鴇津に胸を打たれ、遼牙は拳を握り締めてその場に立ち尽くした。
「遼牙様……私は今、初めて、瑠羽を恨みます」
「鴇津……」
「あの子と出逢わなければ、こんなことにはっ………」
言ってしまってから鴇津は自らの言葉を恥じるように顔を背け、力ない声で「申し訳ありません…」と謝罪した。遼牙はそっと首を振り、
「謝罪は要らぬ。謝るとすれば、高潔なお前にそんなことを言わせてしまった私の方だ」
そう言って背中を向けた。遼牙の配慮を汲んだ鴇津は素早く涙を拭い、呼吸を整えて立ち上がった。
「もう……行かれるのですね？」
「ああ。余り長居はできんからな」
遼牙は振り向いて淡く微笑んだ。しかしすぐに表情を引き締め、
「私が話したことだが、燠亥には……」
「もし話したらきっと、燠亥も瑠羽を恨んでしまうでしょう。愚直なあの男のことです。そんな醜い感情を抱いた自分が許せず、苦しむに違いありません」
「そうだな。そんな煩悶は味わわせたくない」
二人は頷きを交わした。
「お前たちのような友を持てて、幸せだった。ありがとう」
遼牙は晴れやかな声でそう言うと、鴇津に強い眼差しを向けて、
「記憶が解放された時、何が起こるかは分からない。それに、たとえ理想郷が実現したとしても、またいつ神がお得意の癇癪を起こしてこの世界を消去し、今とは全く異なる世界を作り上げるかも分からない。しかし鴇津、覚えておいて欲しい」
遼牙はいったん言葉を切り、大いなる確信をもって最後の言葉を伝えた。
「たとえ世界が変わっても、何度生まれ変わっても、我々はきっとまた出逢うだろう」
「遼牙様……」
差し出された手を、鴇津は強く握り返した。もはや二人は言葉を交わさず、やがてどちらからともなく手が離れた。
遼牙はそのまま背中を向け、バルコニーから月のない夜空へ飛び去ったのだった。
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