BEYOND
15.
生と死の境界、深淵に微睡む偉大なるベヌーよ
汝の守護せし不可視の門を開放し
形と空虚の間に道を開けよ
IKZHIKALの名において
アストラルの光の欠片集う階（きざはし）へ
浮遊せし瑠羽の霊体を導かん―――
自らの鼓動がうるさく思えるほどの静寂が、辺りを支配する。瑠羽の＜解脱＞は成功したのか羅叉を問い質したかったが、遼牙はぐっとこらえて沈黙と不動を保った。
瑠羽の星幽体を導くための呪文を厳かな声で詠唱した羅叉は暫し目を閉じていたが、やがてゆるゆると瞼を開けた。そして不安を押し殺し努めて傍観者に徹している遼牙に、力強く頷いてみせた。
「成功……したのか？」
空気の粒子を乱さぬよう、静かに問いかける遼牙に再度頷いて、
「ああ。もう大丈夫だ。心配は要らない」
遼牙はほぅっと深い溜め息をついて、「よかった…」と心からの安堵を呟いた。
「瑠羽が目覚めるまで少し時間がかかる。長い旅路だからな。俺が見張ってるから、遼牙はそれまで身体を休めているといい」
羅叉はそう言って立ち上がり、目を閉じて横たわっている瑠羽の上に薄い毛布を掛けてやった。
遼牙としてはもちろん瑠羽の傍にいたかったが、今回ばかりは羅叉の言う通りにすることにした。とはいえ、休むつもりはない。遼牙は、ひとつ大事なことをやり残していたのだ。
「羅叉、済まんがお前の飛竜を貸してもらえないだろうか」
「え？ いや、それは別に構わねえけど……」
困惑しつつも承諾する羅叉に礼を述べ、遼牙はそっと立ち上がった。そして何処へ行くのか知りたそうな羅叉に淡い笑みを向け、
「これから、紫衛那城へ行ってくる」
「紫衛那城へ？」
「ああ。記憶の封印を解く前に、全てを伝えねばならぬ者がいるのだ。彼に逢って、これまでのことを、そしてこれから我々がやろうとしていることを話してくる」
穏やかな言葉の中に強い決意を読み取った羅叉は、「そうか…」と一言返すことしかできなかった。
遼牙は視線を落とし、安らかな寝顔を見せる瑠羽に優しい眼差しを注ぐ。きっと“行ってくるよ”と心の中で呼びかけたのだろう。そして羅叉に視線を戻し、
「瑠羽のことを頼む。もし私が戻る前に目を覚ましてしまったら、淋しくないよう相手をしてやってくれ」
「ああ、分かったよ。子守は苦手だが、何とかうまくやるさ」
遼牙は笑顔で頷くと、羅叉の飛竜がいる森の中へ入っていった。
気が付くと、乳白色の光の海を歩いていた。もちろん目印なんかない。道が続いているわけでもない。本当に進んでいるのかも分からない。なのに少しの迷いも生じなかった。
―――すごく……懐かしい。初めて来る場所なのに……
瑠羽は不可思議な感慨に浸りつつも、ひたすら歩き続けた。
それからどのくらい経っただろう、前方に小さな光がともった。あの向こうが目的の場所だろうかと思う間もなくそれは膨張し、凄い速さで瑠羽の身体を呑み込んだ。
大いなる光は闇と同じ作用をもたらす。余りの眩しさに視力を奪われた瑠羽はふらりとよろめき、そのまま光の奈落へと吸い込まれていったのだった。
どんな天の采配なのか分からないが、今宵の月は厚い雲に隠されていた。月明かりは遮られ、夜は全き闇の支配下にあった。
恋人同士が睦言を交わす艶夜には相応しくないかもしれないが、闇に乗じて暗躍するにはうってつけの夜だった。
遼牙は衛兵の頭上高く飛び越えて難なく紫衛那城内に侵入し、鴇津の執務室に設えられた小さなバルコニーに降り立った。そして軽く呼吸を整えると、窓ガラスをコツンと控え目に叩く。
熱心に書き物をしていた鴇津はぴたりと手を止め、そのままの姿勢で暫し不動を保った。やがてゆっくりと顔上げ窓の方を見た。
「遼牙様……」
鴇津は素早く立ち上がって駆け寄り、窓を大きく開け放った。そして一歩退くと、恭しく一礼して待ち焦がれていた主人を迎え入れた。
「久しぶりだな、鴇津」
そう言って室内に足を踏み入れた遼牙に対し、鴇津も何か言葉を返そうとした。しかし喉が圧迫され、苦しげな吐息しか出てこない。
鴇津はすでに察していたのだ。遼牙が何故、こんな時間に人目を忍んで、たった一人で自分の許を訪れたのかを。
きっと自分に、否、紫衛那に別れを告げに来たのだ。
「……お久しぶりでございます」
鴇津は漸う言葉を返すと、口許が引き攣るのを意識しつつにっこり微笑んだ。遼牙も笑みを返し、机上に堆く積まれた書類の山に目をやり、
「お前には苦労をかけてしまったな」
「おや、ずいぶん殊勝なことを仰る。もう慣れましたよ」
「はは、そうか。有能な官房長を持って私は幸せだ」
遼牙は楽しげにそう言って、ソファに腰を下ろした。そして向かいに座るよう鴇津を促すと、心の中を整理するように深く息をついた。
「……城がアム・アザゼル軍の襲撃を受けたと聞いた。損失はどの程度だ？」
「ご心配には及びません。城の修復工事も着々と進んでおります」
素っ気ない返答だったが、これは遼牙が本当に話したいことは別にあると分かっているからこそだった。鴇津は暗に、“前置きはいいから早く核心の話を”と急かしているのだ。
その含みに気付いた遼牙は思わず苦笑いを浮かべ、そっと姿勢を正す。
「審問所に捕えられた瑠羽を、お前たちは救おうとしてくれたと聞いた。感謝する」
遼牙の真摯な礼を、鴇津は曖昧な笑みで受け止めた。
「感謝されるようなことは何もしておりません。実質的に瑠羽を救ったのは我々ではなく、一人の天使ですから」
「琴悠だな？ あれは瑠羽の実の母親だ」
鴇津は瞠目して、彼にしては分かりやすい驚きの表情を浮かべた。しかしすぐにいつもの平静さを取り戻し、「そうですか」とだけ返した。
それから僅かに時間が流れた。皮膚をじりじりと灼くような有機的な沈黙が狭い室内に充満したが、鴇津はもう急かすこともなく、遼牙が口を開くのを黙って待ち続けた。やがて―――
「こうしてお前に会うのは、これが最後になるかもしれん。だからこそ、話さねばならないことがある。途轍もなく深遠な話で私もどこから手を付けてよいか途方に暮れてしまうが、もう余り時間がない」
「遼牙様、どうか思うままにお話しください。私は持てる知性を総動員して、理解するよう努めますゆえ」
鴇津の言葉に力を得た遼牙は、明晰な声で語り始めた。
「鴇津よ、今、世界は大いなる転換期を迎えようとしているのだ―――」
遼牙の口から次々と溢れる壮大な物語に、鴇津は我を忘れて聞き入ったのだった。
何だろう、とても心地よい馥りがする。ジャスミン、ヒヤシンス、ヘリオトロープ――花々が放つ芳香に似てはいるけれど、そのどれとも違う。もっと複雑で、ふくよかで、嗅覚だけでなく五感すべてを酔わせてしまうような、馥りのシンフォニー………
「んん……」
ふと目を開けると、見たこともないラベンダー色の空が広がっていた。鼓膜を震わすのは、美と悦びを歌うという妖鳥シリンが奏でる神聖音階。うっとりと目を細めて聴き入っていた瑠羽だったが、何の目的でここを訪れたがようやく思い出し、慌てて身体を起こそうとした。その時、
「見かけによらず大胆だな。人間の分際で、天使の叡智の結晶たるアストラル界を訪れるとは」
言葉は非難めいてはいるが、どこか面白がっているようにも聞こえる。瑠羽は上半身を起こして、声の主を探した。
「あ、あなたは……」
そこにいるのは、一人の天使。瑠羽は初めて実際に目にする天使の威容に圧倒され、胸の前で手を組んで小さく震えた。すると天使は静かに近づき、冷ややかな眼差しで瑠羽を見下ろした。
近くで見る天使は純白に輝く翼を持っていたが、その肌は意外にも浅黒かった。天使はみな白皙の肌を持ち、その影響でアム・アザゼルの肌も白いのだと聞いたことがある。ということは、この目の前にいる天使は特殊なのだろうか―――
「私はマステマ。誘惑と快楽を司る大天使だ」
瑠羽の疑問を察したのか、天使は自ら名乗った。
「マステマ……」
その名をなぞるように呟くと、額の奥がちくんと疼いた。知っている、自分はこの名を聞いたことがある。瑠羽が記憶をまさぐるより先に、頭の中で何かがざわざわと蠢くのを感じた。いけない、思い出してはいけないと、どこかで警報が鳴っている。
そんな瑠羽の混乱を楽しむように眺めていたマステマは、端整な美貌を微かに歪めた。どうやら微笑のつもりのようだ。
「私は一度、下界でお前に会っている。いや、交わっていると言うべきか。忘れてしまったか？ 紫衛那の審問所。湿った地下室で―――」
「あ……あああ………」
眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて、瑠羽はカタカタと震え出した。思い出してしまったのだ。幼馴染みの沙那に欺かれて審問所に連行され、そこでおぞましい化け物に犯された。腐緑色をした薄気味悪い触手。それは壁に彫られた天使の像から生えていたのだ。
審問官たちはその天使像を、“我らが父なるマステマ”と呼んでいた。
「思い出したようだな。霊体しか持たぬ天使が物質化するには媒介者を必要とするため、あのような化け物の形を借りるしかなかった。しかし今なら直接交わることも可能だ。どうだ？ 下界では味わえぬ天上の快楽をその身体に教えてやるぞ」
「ぃ、ぃゃ………」
瑠羽は座り込んだまま、首を振って後ずさる。対してマステマは、顔に恐怖と嫌悪を張り付けて必死に逃げようとする瑠羽を面白そうに見下ろしつつ、優雅に残酷に追い詰めてゆく。
その瞳はじわじわと赤みを帯び、高揚の表れなのか燻朱の虹彩が徐々に引き絞られてゆくさまは、瑠羽の魂に根源的な恐怖を呼び起こした。
「た、助け……」
いよいよ追い詰められた瑠羽は、四つん這いになって逃げ出そうとした。するとマステマは、瑠羽の身体を拘束しようとぬっと手を伸ばした。その時、
「そこまでです、マステマ。それ以上の狼藉は許しませんよ」
凛乎たる叱責に、マステマの手はぴたりと止まった。そうさせるだけの威力が、その声にはあったのだ。マステマは小さく舌打ちして、苦々しげに顔を歪めた。
「面倒な奴に見つかったな。ここは退いた方が賢明のようだ。また逢おう」
そして勝手な別れの言葉を告げると、あっという間に光の螺旋と変じて消えてしまった。
瑠羽はぽかんと口を開けて、ついさっきまでマステマがいた空間を茫洋と眺める。しかしはっと我に返ると、自分を救ってくれた声の主を探した。
「あ、あなたは……」
新たに降臨した天使は、腰まで届く蜂蜜色の髪と琥珀の瞳が美しく、マステマとは対照的な軽やかな輝きをまとってにこやかに微笑んでいた。
天使はゆっくりと瑠羽に近づきながら、さらに笑みを深める。ジャスミンの吐息に似た芳香が周囲に広がり、瑠羽はうっとり夢見心地になりながらも、この天使が誰であるか悟った。
「ルヒエル……さま……」
瑠羽の呟きに、天使は驚いた表情を見せた。が、次の瞬間大輪の花が綻ぶようにぱあっと笑顔を咲かせ、瑠羽の身体を素早く抱き上げた。そしてぎゅぅぅと抱き締め、
「瑠羽っ、私が誰だか分かるのですね！ ああ、何ということでしょう」
衒いない言葉で喜びの感情を表現する。そう、彼こそが瑠羽の第一級守護天使、風の塔の頂点を担う天使長ルヒエルだった。
「ルヒエルさまっ、ルヒエルさまぁ……」
いきなり抱き上げられて驚いた瑠羽だったが、すぐに打ち解けて肩にきゅっとしがみつき、甘えたような声で聖なる御名を呼んだ。ルヒエルはあやすように揺らしながら、
「瑠羽、よくここまで来てくれましたね。逢えて嬉しいです」
瑠羽はこくこくと頷いて、目尻に付着した温かい涙を拭った。辛い出来事の連続で萎縮していた心が、ルヒエルの優しい言葉でゆっくりとほぐれてゆく。
そして顔を上げると、ルヒエルの後ろにもう一人天使がいて、こちらをじっと見詰めているのが見えた。
瑠羽がちょんと首を傾げると、アクアマリンの煌めきを放つ髪と瞳を持つ天使はちょっとだけ淋しそうに目を伏せつつ、近づいてきた。そして小さな溜め息をつき、
「はあ……。やはり私が誰かは分からないか……」
「それは仕方ありませんよ。私は何と言っても瑠羽の第一級守護天使ですからねっ」
瑠羽を抱いたまま、胸を張って応じるルヒエル。かなり得意げな様子だ。しかし、
「……オファニエルさま？」
首を傾げつつも問いかける瑠羽に、青い髪の天使は飛び上がらんばかりに喜んで駆け寄った。
「瑠羽っ、分かってくれたんだな！」
「はい！ オファニエルさまぁ」
目尻をだらしなく下げてうんうんと頷くオファニエル。冷ややかでストイックな普段の彼からは想像もできない表情だ。下級天使たちが見たら大騒ぎするに違いない。オファニエル様が御乱心になったと。
対してルヒエルは面白くなさそうに口を尖らせていたが、やがて緩やかな笑みを浮かべ、
「さあ、瑠羽。我々の世界を案内しましょう」
そう言って浮かれた足取りで歩き始めたのだった。
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