BEYOND
14.
「真朱……具合はどう？」
岩陰からちょんと顔を覗かせて、おそるおそる窺う瑠羽。真朱はやつれた顔にうっすら笑みを浮かべて、「だいぶ良くなったよ」と答えた。
瑠羽は安堵とまではいかないものの、ほっと小さな息を吐いて近づく。そして横になっている真朱の傍にぺたんと座り込んだ。
ここは、水晶の森（もはや瓦礫の山となってしまったが）にほど近い岩窟。本当は施設の整った治療院に連れて行くべきなのだろうが、真朱が固辞したのだ。そんな悠長なことをしている時間はないと言い張って。
そこで仕方なく、風の吹き込まぬ岩窟に毛布を敷いて粗末な寝床を拵え、休ませることにしたのだった。
「真朱、さっきはごめんね。僕、取り乱しちゃって……」
「うん？ 仕方ないさ。俺だってびっくりしたんだからな。それより瑠羽、大丈夫か？ まさか、あんなことになるなんて」
眉を撓め、瑠羽の心情を思い遣る。そんな真朱の優しさに、瑠羽は瞳が潤むのを抑えられなかった。
「僕のことより、自分のことを心配して。お願い……」
瑠羽の想いを受け取った真朱は、目を細めて頷いた。そしてそっと手を伸ばす。瑠羽はすぐにその手を取って、氷のように冷たく黒炭のように黒ずんだ指先を手のひらで包み込んだ。
「痛く……ない？」
「ああ、痛くはないよ。まだ皮膚の表面しか壊死していないようだ。動かすこともできる」
しかしそれは、いずれ壊死が皮膚だけでなく神経細胞にまで浸潤し、全く動かせなくなるということでもあった。
瑠羽もそれには気付いていたが、今度は取り乱すことはなかった。必死に笑顔を拵えて頷き、慈しむように真朱の指先を撫でる。が、真朱が軽く咳き込むと慌てて腰を浮かせ、
「何か飲むもの持ってくるねっ」
そう言って立ち上がろうとする瑠羽の腕を、真朱はがっしりと掴んだ。病状からは想像もできぬ強い力に、瑠羽は驚きを隠せない。
「もう少しここにいてくれ」
「真朱、でも……」
「頼むよ」
真朱の懇願を拒絶できるはずもない。瑠羽は再び傍に座り、ずれた毛布を掛け直した。そして上からぽんぽんと叩く。真朱は顔をしかめて、
「まるで子供扱いだな」
「うん。子守唄歌ってあげようか？」
「はは、後でな。頼むよ」
楽しげにそう返して、笑いかける。が、すぐに表情を引き締めた。つられて瑠羽も姿勢を正す。すると真朱は一瞬の躊躇ののち、口を開いた。
「瑠羽……お前に教えなければならないことがある」
「僕に？」
「ああ。封印を解く４つの神聖シジルだ」
瑠羽は目を見開いたままこくんと喉を鳴らし、
「そんな……僕には無理だよ。そんな重大な役割……」
真朱の申し出を拒絶するように首を振る。すると手を強く握られ、
「大丈夫だ。難しいことじゃない。エノク語の式文と精神集中。これさえクリアすればできる。……いや、できなければ困る。解呪の時まで、俺が傍にいられるかは分からないんだからな」
余りに平然と、何の感傷も込めずさらりと言われたせいで、瑠羽は初め真朱が何を言わんとしているのか分からなかった。
しかし手を握る力の強さ、切実さでようやく気付いた。瑠羽は「いやっ」と叫んで真朱の手を振り払い、
「なにを……言ってるの？ 意味が分かんないよ」
掠れた声でそう言って、ぎこちない笑顔を向ける。真朱はそんな瑠羽を真直ぐ見据え、
「混沌の谷の奥、世界の最果てにある封印の壁に辿り着くまで、俺はもたないかもしれない。いや、辛うじて命は繋がっていても、皆の足手まといになるような状態なら―――」
「いやだいやだいやだッ。そ、そんなの聞きたくない！ みんな一緒じゃなきゃ絶対だめ！」
「瑠羽！ 聞くんだ。俺の翼はもはや、全て汚染されてしまった。僅かに残っていた本来の白い部分も黒く染まり、皮膚組織にまで壊死は広がっている。それも、急速に。瑠羽、これが何を意味するか分かるな？」
瑠羽はぎゅっと目をつぶり、激しく首を振ることで、真朱が突き付ける事実を受け入れまいとする。
もちろん、そんなことをしても無駄だということは百も承知。一番苦しいはずの真朱が事実を受け入れ、この先為すべきことをきちんと考えているというのに、自分は事実を直視することもできない。そんな己の弱さを呪いながらも、瑠羽は首を振り続けた。
「やだ……やだよぉ……お父さんとお母さんがいなくなって………そのうえ真朱まで……そんなの耐えられないよぉぉ………」
ついに瑠羽は泣き出した。紫衛那城を遼牙とともに出てから直面した多くの別れ、衝撃、悲嘆が少しずつだが瑠羽の繊細な心を蝕み、いつ壊れてもおかしくない状態だった。
遼牙と再会できたことでようやく立ち直りかけていたのだが、水晶の森での出来事で再び均衡が崩れ始めた。それに加え真朱の“遺言”とも取れる言葉を突き付けられて、辛うじて抑え込んでいたものがどっと溢れ出したのだ。
「真朱、死なないで……死なないでっ………」
声を上げて泣きじゃくる瑠羽を、真朱は黙って見詰めた。この涙を、この情景を目と心に灼き付けておこう。自分のために泣いてくれる人が確かにいたのだという、幸せな事実を。
まだ涙の源泉は涸れていなかったが、瑠羽はくしゅくしゅと鼻を鳴らして「ごめんね…」と謝った。対して真朱はそっと首を振り、
「いや、俺の方こそ悪かった。父親と母親を同時に喪ったばかりのお前に、酷なことを言ってしまった。でもな、瑠羽。これは大事なことなんだ。万が一、俺が封印の壁まで辿り着けなかったら、お前は羅叉とともに解呪を行わねばならない」
「万が一……なんだね？」
「そりゃそうだ。死ぬと決まったわけじゃない」
真朱はおどけた口調でそう言って、いたずらっぽく笑ってみせた。それが、瑠羽に対して今の自分がしてあげられる精一杯だった。
瑠羽は暫し黙って項垂れ、乱れていた心と頭を整理した。やがて顔を上げると、げんこつにした手でぐいっと目を拭って真朱に向き直った。
「分かったよ、真朱。万が一のために、封印を解く方法をちゃんと習得します」
“万が一”を強調する瑠羽に、真朱は良心の疼きを覚えた。しかし笑顔で覆い隠し、両手をついてゆっくりと身体を起こしたのだった。
「迂闊だった。真朱の病状があそこまで進行していたとは……」
気付けなかった自分を責めるように、遼牙は重苦しい呟きを漏らした。
「我々に余計な心配をかけまいと、努めて普段通り振る舞っていたのだろう。そうとは知らず……」
遼牙は尚も自責の言葉を続ける。今さら悔いても仕方がないとは分かっている。しかし、翡衛城に囚われた自分や瑠羽を救うため、相当無理をしたのではないかという思いが消えることはなかった。
すると、そんな遼牙の葛藤を察したのか、羅叉が淡々と返した。
「確かに、安静にしていればこんな急激に悪化することはなかっただろうな。俺の責任も大いにある。翡衛城の襲撃から地の一族を守るため、真朱の力を借りざるを得なかった。あの戦闘で魔力と体力をかなり消耗し、免疫力がぐっと低下してしまったのだろう。おまけに水晶の森で衝撃的な事実を知らされた。精神的な打撃も追い討ちをかけたに違いない」
言葉の裏に“あんたのせいじゃない”という宥めを汲み取った遼牙は、羅叉の配慮を素直に受け入れた。そして話題を変える。
「お前たち二人に本気の力を出させるほど、翡衛城の攻撃は苛烈だったのか」
遼牙の問いに、羅叉は不快を隠そうともせず眉をひそめ、
「＜魔導器＞だよ。あのクソ兵器のせいで奴らの攻撃力を計り損ねた。あれさえなきゃ、俺一人で十分、鼻歌混じりで返り討ちにできたんだ」
「魔導器か……。噂では聞いたことがあるが、まさか実戦で使用されるとは」
「闍弥はずいぶんとあれの開発に入れ込んでいたからな。潜在的な魔力を増幅することができれば、自分も神聖高位魔族に劣らぬ力を発揮できると考えたんだろう。どこまでも愚かな女だ」
「愚かで……哀しい女だな」
遼牙の呟きに、羅叉はちらと眉を吊り上げた。そして意味深な視線を送る。やがてふっと苦い溜め息をつき、
「ああ。哀しい女だ。誰を憎んでもどうしようもないと分かっていながら、憎悪に翻弄されるがまま光のない隘路に迷い込む。まるで……嘗ての俺のように」
羅叉の言葉には、僅かながら同情の響きがあった。それはきっと、自分が抱えていたのと同種の憎悪に苦しんでいる者に対する共感から生まれる感情だろう。
「しかし、お前はそれを克服した。きっかけさえあれば、あの女もきっと変わることができるはずだ」
遼牙の楽観的な指摘に対し、羅叉は肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを返した。そして何か言おうと口を開きかけたが、背後から足音が近づくのを聞いて閉ざした。
「瑠羽……」
真朱の様子を見てきた瑠羽が、二人の許に戻ってきた。泣くまいと必死にこらえていたのだろう、眉間には瑠羽らしくない深い皺が刻まれている。
しかし遼牙の顔を見て張り詰めていた心が一気に緩んだのか、紅く潤んだ目の縁にわあっと涙が浮かんだ。
「りょ…きさま……まそおが………」
込み上げる嗚咽に邪魔をされ、言葉が巧く出てこない。それでも瑠羽は肩を上下させつつ、必死に続けた。
「真朱が……封印の解きかたをおしえてくれたの………」
それが何を意味するか、もちろん遼牙はすぐに分かった。真朱の悲壮な覚悟の表れに、胸が軋むような痛みを覚える。それでも遼牙は顔に出さず、優しく声を撓めて、
「そうか。ちゃんと覚えられたか？」
「はいっ」
「うむ。えらいぞ、瑠羽。よくがんばったな」
遼牙はそう言って笑顔とともに両手を広げた。瑠羽は顔をくしゃくしゃにしてその中に飛び込み、温かな胸にすがりついて思う存分泣いた。
父と母を目の前で喪い、その衝撃を受け入れる間もなく真朱が倒れた。瑠羽の心は今、いつ壊れてもおかしくない危うい状態にあるに違いない。
しかし、自分はこうして抱き締めてやることしかできない。遼牙は鉛のような無力感に耐えつつ、瑠羽の背中をあやすように撫で続けた。
遼牙の温もりは、瑠羽にとってあらゆる痛み、苦しみを癒す万能の薬だった。瑠羽は徐々に落ち着きを取り戻し、やがて顔を上げて遼牙を真直ぐ見上げた。その目に涙の濁りはなく、痛ましいほど澄み切っていた。
「遼牙さま……僕、ルヒエル様にお願いしてみます。真朱の病気を治してください、って」
「聖ルヒエルに？ まさか、瑠羽……」
「はい。遼牙さまのお部屋にあったご本に書いてありました。星幽体を肉体から切り離すことで、天使の棲む世界、星幽界を訪れることができると」
遼牙は思わず黙り込んでしまう。瑠羽の言う＜解脱＞行為は確かに不可能ではないだろう。実際に試みて成功している者もいるが、失敗例の方が遥かに多い。
離脱した星幽体が何らかの理由で肉体に戻ることができず、浮遊体となって永遠に彷徨い続けることもあるのだ。
とはいえ、頭ごなしに駄目だと言うのもためらわれた。瑠羽は今、真朱のために自分ができることを必死に模索しているのだ。そうすることによって、崩れそうな自分自身を支えようとしているのかもしれない。
遼牙は迷った挙げ句、現実的な指摘をした。
「しかし、瑠羽。解脱には先導者が必要だ。私には―――」
「俺がやるよ」
二人の会話に黙って耳を傾けていた羅叉が、いきなり口を開いた。そして瑠羽に笑いかけ、
「何でも知ってる賢い王様でも、さすがに解脱の先導は無理だろう。ま、俺はこれでも一応神聖高位魔族だし、ヤバそうになったら力づくで星幽体を引き戻すくらいの能力はある。心配は要らない」
「羅叉……いいの？」
「ああ。一度自分の守護天使に逢ってみるのもいいだろう。ただな、瑠羽。真朱の病気については……余り過度な期待を持たない方がいい。守護天使からどんな答えが返ってきても、それを受け入れることができると約束するなら、俺は喜んで先導を務めよう」
羅叉の言葉に含まれた深い思い遣りに気付けないような瑠羽ではなかった。真直ぐ目を見て頷き、
「大丈夫。どんな結果でも僕は受け止めます」
そして羅叉が頷くのを確認してから、遼牙を見上げた。
「遼牙さま、許してくださいますか？」
許可を求める瑠羽に、遼牙は複雑な笑みを返し、
「瑠羽、もう私の許可を得る必要はないんだよ。お前はお前の思うようにやりなさい。そして私も、それをできる限り支えよう。まあ、今回ばかりは何の役にも立てんがな」
「残念だったな、王様。今回は出番なしだ」
揶揄する羅叉をじろりと睨み、
「王ではないと何度も言っているだろう」
「分かった分かった。相変わらず頭の固い王様だ」
苦々しい表情を浮かべる遼牙。その膝の上で、瑠羽はくすっと笑った。
久しぶりの瑠羽の笑顔に、僅かながら空気が軽くなった。遼牙は腕を広げて軽やかな空気ごと瑠羽を抱き締め、
「お前の守護天使殿に伝えてくれ。いつも瑠羽をお守り下さって感謝している、これからも変わらず深い愛情で包み込んで欲しい、と」
瑠羽は温かな胸の中で何度も頷き、「必ずお伝えしますぅ」とちょっぴり甘えた声で答えたのだった。
BACK TOP 遼牙＆瑠羽INDEX NEXT