BEYOND
13.
先刻の緊張感を孕んだ空気は、ゆっくりと変容していた。甘やかな共感と連帯感が水晶の森を包み込む。
颯舞は頬を濡らしたまま顔を上げ、晴れやかでありながらどこか痛ましさをも感じさせる笑みを向けた。
『これで伝えるべきことは全て伝えた。もう僕にできることは何もない。この場所で祈ること以外には』
面会の終わりを示唆するような言葉に、遼牙はそっと眉をひそめ、
「あなたはこれからどうするのですか？」
『どうする、とは？』
「このままずっと……この水晶の森に留まるつもりなのですか？」
その瞬間、遼牙は軽はずみな問いを悔いた。必死に笑顔を繕っていた颯舞の表情が崩れ、その下から煮詰められた哀しみが浮上するのを見たからだ。
颯舞はまだ笑っているつもりなのだろう、不自然に緩んだ唇を震わせて、
『僕は……この水晶の縛めから逃れられない。中から破壊することは不可能なんだ』
「中からは無理でも、外から力を加えれば破壊することは可能だ」
羅叉はそう言って、颯舞が閉じ込められている水晶の柱を見上げた。が、何かを察したのか険しく眉をひそめる。颯舞は頷いて、
『気付いたかい？ この柱は森の天井を支えているんだ。もし誰かが外から破壊したら、あっと言う間に外壁もろとも崩れ落ちる。生きたまま瓦礫の下敷きになりたいと思う人間なんているはずがない』
自虐めいた口調でそう言って、ふっと息を吐き、
『でもそれでいいと思っている。これは僕が受けるべき正当な罰なんだ。だから―――』
「嘘おっしゃい」
颯舞の言葉を遮って、琴悠がぴしゃりと言い置いた。驚いて顔を向ける颯舞に、琴悠はゆっくりと近づいた。そして嫋やかな指先で強固な水晶の壁をコンコン、と叩き、
「最後ぐらい、本音をお言いなさい。ここから出たいのでしょう？ 一刻も早く緋鞘の許に行きたいのでしょう？」
『琴悠、僕は―――』
「あなたはいつもそうだったわ。炎を掻き消すほどの激しさを持っているくせに、それを胸の奥の奥に隠してしまう。そして私を含め一族の者たちに遠慮して、自分を抑えて周囲に波風立てないよう穏当に振る舞うの。自分さえ我慢すればいい、そうすれば全てが丸く収まると言い聞かせて」
表情こそ穏やかで淡い笑みすら浮かべていたが、琴悠が怒っていることはそこにいる誰もが察していた。
彼女の言葉は真実なのだろう、颯舞は何も言い返せず黙って項垂れた。すると琴悠は幾分口調を弱めて、
「でも、私にも非はあるわ。私はずっと、あの問いを避けてきた。あなたの口からあの言葉を聞くのが怖くて避けてきたの。でももう真実から目を背けるのはお終いにしましょう。さあ、颯舞。あなたの本音を聞かせて。あなたは緋鞘を愛しているのね？」
『……ああ、愛している』
「私よりも？」
『君よりも……誰よりも』
「最後の質問よ。この水晶の獄から抜け出て緋鞘の許に行きたい？」
心の核を貫く琴悠の問いに、颯舞はもはや平静を装うことはできなかった。とめどなく溢れる涙の向こうから、凝縮された叫びを絞り出す。
『行きたい、行きたいよ、緋鞘のところへっ………逢いたい、もう一度………』
掠れて言葉にならない部分に、颯舞の激情が込められていた。がくりと膝をつく夫を見下ろして、琴悠は満足げに頷いた。
「そう、それでいいのよ、颯舞」
幼子をあやす母のような優しい声でそう言うと、琴悠は水晶の柱に両手を押し付けた。すると、手の周囲に細かい亀裂が蜘蛛の巣のように走り、微かな破裂音が生じた。颯舞は驚愕とともに顔を上げ、震える声で質す。
『な…にをしているんだ、琴悠………』
「あなたを、この檻から解き放ってあげます」
琴悠の答えは、全員を恐慌に陥れた。
「やめるんだ琴悠っ、無茶をするな！」
羅叉は引き剥がそうと飛びついたが、琴悠の放射する魔気に弾き飛ばされた。
「さあ、あなたたちはすぐにここから脱出しなさい。急いで」
これまでと変わらぬ穏やかな口調で命じる琴悠に、誰もが強い決意を感じた。だからと言って、言う通りにするわけにはいかない。こんなのは間違っている。
「琴悠、俺たちと一緒にここを出よう。記憶が解放されれば何かが変わる。颯舞のことはその後考えればいい」
「真朱の言う通りだ。それに、あなたは彼の妻であると同時に瑠羽の母親なのだ。これからもこの子の傍にいて、導いてやって欲しい」
遼牙の言葉に応えて、琴悠は顔だけ振り向いた。両手は依然として水晶の柱を掴んだまま。
「瑠羽……ごめんね……」
「お…かあさん……」
琴悠の謝罪は、揺るぎない決意の表れでもあった。瑠羽はくしゃりと顔を歪め、
「お母さん！ やだ、やだよぉッ、そんなのやだぁ……」
叫びながら琴悠の背中にすがりついた。羅叉のように弾き飛ばされることはなかったが、微動だにしない背中に瑠羽は母の強い思いを感じ取った。
『琴悠、やめるんだ。僕はそんなつもりで言ったんじゃない！』
颯舞の諭しにも、微かな笑みを浮かべるばかり。そうする間にも、柱の亀裂はどんどん広がってゆく。
「お母さん、お願い。こんな……かなしいことはやめて。そして記憶の封印を解くため、僕たちに力を貸してください」
瑠羽は必死に懇願した。頭の中はぐちゃぐちゃで、今にも泣き叫んでしまいそうだったが、それでも努めて冷静に振る舞った。
そんな健気な息子の姿に、琴悠は初めて良心の呵責を露わにした。
「ごめんなさい、瑠羽、自分勝手な母親で……。本当なら、大きなことを成し遂げようとしているあなたの傍にいて、助けてあげるべきなのでしょう。でも……私はこの人を愛しているの。この優しくて弱い人を。だから、最後に願いを叶えてあげたい。たとえ魂は緋鞘の許へ行ってしまうとしても、私が心から愛した証として、ここで共に朽ち果てます」
「おかあさん……」
「さあ、行きなさい。巻き添えになりたくないのなら」
わざと冷たく突き放すようなことを言って、琴悠は完全に背中を向けた。と同時に、水晶の森全体が揺れ始めた。
「駄目だッ、瑠羽、行くぞ！」
遼牙が腕を掴んで引き寄せようとしたが、瑠羽は尚も琴悠の背中にしがみついて「お母さん、お母さん」と泣き叫ぶ。
遼牙は仕方なくその身体を無理やり引き剥がし、片手で担ぎ上げた。
「やだぁぁぁぁぁぁ………おかあさぁぁーーーーん………」
耳を覆いたくなるような悲痛な叫びが、崩れ始めた水晶の森に谺する。それでも琴悠は振り返らなかった。伏せていた顔を上げて真直ぐ颯舞を見詰め、
「さあ、颯舞。自由になりなさい」
『琴…悠……君はっ………』
「これでいいのよ。私たちにできることは全てやりました。後はあの子たちに任せましょう。必ず、遺志を継いでやり遂げてくれます」
普段と変わらぬ穏やかな口調できっぱり言い置いて、ゆっくりと腕を広げた。まるで、颯舞の魂を水晶の柱ごと抱き締めるかのように。そして静かに目を閉じた。
次の瞬間―――
『琴悠ぁーーーーーッ』
水晶の柱は砕け、轟音とともに天井が崩れ落ちた。突き刺すような勢いで降り注ぐ瓦礫の雨を浴びながら、琴悠はこの上なく幸せそうな微笑みを浮かべたのだった。
「おかあ…さん……おとうさ…ん………」
黄土色の砂塵で覆われた視界の向こうに、嘗て水晶の森であった瓦礫の山がぼんやりと見える。瑠羽はよろめきつつも一歩踏み出そうとしたが、その場にぺたんと座り込んでしまった。
つい先刻まで美しい水晶の森を内包していた巨大な岩山は、瑠羽たちが内部から脱出すると同時に内側から崩壊した。まるで、彼らが外に出るのを待っていたかのように。
そして大地を激しく震わせ、岩の破片や砂塵をまき散らしながら崩れ落ちた。もはやどうすることもできず、目の前で形を喪ってゆく岩山を呆然と眺めるしかできなかった。
それでも瑠羽は、諦めていなかった。がくがくと震える下肢に力を込めて立ち上がりつつ、「オファニエル様……」と呟く。瑠羽が何をしようとしているかは明らかだった。しかし、
「瑠羽、無駄だ。星辰の進行を司る聖オファニエルでも、一度死んでしまった者の魂を引き戻すことはできない」
羅叉は苦しそうに、それでもきっぱり告げた。嘗て瑠羽は、羅叉の魔法で今にも破滅せんとしている伽羅の都を救った。聖オファニエルの助力を受けた、時間を巻き戻す魔法で。今もそれと同じことを試みようとしたのだ。
「そ、そんな………」
羅叉の厳酷な言葉に、瑠羽の身体から再び力が抜ける。支えを失ってゆらゆら揺れる身体を、しかし、温かな腕が受け止めた。
「遼牙さま……」
遼牙は何も言わず、ただ厳かな面持ちで頷いた。
私がいる。一人で立っていることもできないほど辛い時には、こうして私が支えになるから、と―――
「遼牙さまぁぁ……ぁぁ………」
瑠羽はそのまま身体を委ね、胸に顔を押し付けて泣いた。遼牙は腕を回して包み込むように抱き締め、時折あやすように背中をぽんぽんと撫でている。
そんな二人を暫し眺めていた羅叉は、ほっと安堵の息を吐いた。瑠羽は大丈夫だろう。寧ろ心配なのは―――
「真朱……」
水晶の森を脱出してから全く言葉を発することなく、灼けるような視線を瓦礫の山に真直ぐ据えている。その表情から、彼の心を読み取ることはできない。
羅叉は“大丈夫か”と声を掛けようとしたが、思いとどまった。今彼は、荒れ狂う感情に必死に耐えているに違いない。余計な干渉はせずそっとしておくべきだろう。羅叉は自分にそう言い聞かせ、真朱から視線を外した。
羅叉の推測通り、真朱の心中は様々な感情が複雑に入り乱れていた。父を殺したのが颯舞であるという事実、そして琴悠の驚くべき行動。
―――それでいいのよ、颯舞
誰よりも緋鞘を愛していると明言した颯舞に琴悠が言った言葉が、頭から離れない。同じ言葉を、真朱は嘗て母の口から聞いたことがあった。
母は一度だけ、颯舞のことを忘れて自分だけのものになってくれないかと夫に訊ねた。しかし緋鞘は、それはできないと即答を返した。その答えを聞いた母は、笑ってこう言ったのだ。
―――それでいいのよ、緋鞘
緋鞘と颯舞、二人の愛は真朱の目には尊いものに見えた。しかしその陰で、二人の女性が不幸になっているのだ。
いや、恐らく彼女らは、自分たちは幸せだったと言うだろう。その強さが痛ましく、また哀しかった。
これまで真朱は、愛というのはこの上なく美しいものだと思っていた。しかし、その愛のせいで不幸になる者がいる。誰も傷付かず、皆が愛する者と幸せに過ごせれば理想的であろうが、それは所詮理想。現実とは相容れない幻想なのだ。
「理想は所詮理想。現実とは相容れない……」
真朱の口から、深刻な呟きが漏れる。それはこう言い換えることも可能だった。
―――理想郷は所詮“理想”郷。現実の人間とは相容れない
その時、自分たちは間違った道を歩んではいないだろうかという疑念がふと頭をよぎった。それは重い真理を孕んでいるように思えたが、真朱は慌てて目を逸らした。
こんな迷いに囚われている場合ではない。たった今、大きな支えを失ってしまったのだ。これからの記憶解放に向けて、全てが自分たちの肩にのしかかってくる。
「立ち止まってる……暇はないんだ……俺……たちはっ………」
真朱は自分を鼓舞する言葉を喉の奥から絞り出した。しかしそれと共に灼けるような嘔吐感が込み上げ、次の瞬間、
「ぅぐっ……ぐ、ぁ………」
呻きつつ膝をつき、口から大量の血を吐いた。
「真朱！」
羅叉がすぐさまその身体を支えたが、真朱の吐血は止まらない。異変に気付いた遼牙と瑠羽も駆け付けたが、余りの凄惨な光景に瑠羽はガタガタ震えるばかりだった。
「真朱、とにかく横になった方がいい。身体を冷やさないように……」
遼牙は努めて冷静な口調で指示したが、内心は不安の暗雲で重苦しく覆われていた。ここまで真朱の病状が進んでいたとは。
「いや……大丈夫だ。驚かせて済まなかった」
ようやく血が止まった真朱は、青白い額に細かな汗の粒を浮かべつつも笑顔を見せた。もちろん、相当無理をしていることは明らかだった。
「はは……こんなに血を吐いたのは初めてだ」
真朱はわざと軽い調子でそう言うと、服の袖を大きく捲って口許を拭った。その時、
「ぃっ………ぃゃぁぁぁぁぁ…………」
引き攣った唇からか細い悲鳴を上げる瑠羽。その目は驚愕に見開き、真朱の腕を凝視していた。
「ああ……なんということだ………」
遼牙も思わず悲嘆の声を上げる。真朱の腕全体が黝（あおぐろ）く変色していたのだ。恐るべき病の進行を知らしめるかのように。
BACK TOP 瑠羽＆遼牙INDEX NEXT