BEYOND
12.
「あなたが……父を殺した、と？」
信じられない、信じたくない。濃厚に凝縮された思いが、真朱の問いにはこもっていた。颯舞はもう躊躇いも迷いも見せず、真朱に真直ぐ視線を据えて『そうだ』と返した。
「う、うそ……どうして？ だってお父さんは真朱のお父さんのことを………」
瑠羽もまた、父親の突然の告白を受け止められず、激しい戸惑いを見せた。二人は深く愛し合い、一族を捨てて共に同じ道を歩む決意をしたはず。なのに何故……
『瑠羽は、古文書「瑠璃の彼方」や、僕が溯行の術で見てきた古代世界については知っているかい？』
颯舞の問いに、瑠羽はまだ衝撃を引きずりながらもふわふわと頷いた。
「はい……全部真朱から聞きました」
『そうか。ならば説明は簡単だ』
颯舞はそう言って笑ってみせた。その場にいる誰もが、戦慄とともに息を呑む。なんと凄絶な笑み。背中に冷たいものが走る。
『二種族が手を取り合って平和と繁栄を謳歌していた古代世界。しかし妬み深き神は地上の繁栄を善しとせず、二種族が憎み合い殺し合うよう仕向けた。自分たちこそ選ばれた種族であるという＜選民意識＞となって、人々の心に寄生するという方法で。そして神は、同じやり方で僕に寄生したのだ』
「颯舞に……？ それは一体……」
真朱の呟きは、全員の思いを代弁していた。神が颯舞に何かを仕掛けたというのは、朧げながら分かる。しかし―――
「颯舞、ちゃんと説明してくれ。俺は……俺たちは全てを知りたいんだ」
真朱の求めに応じ、颯舞は静かに語り出した。＜混沌の谷＞で自分が見たもの、犯した過ちの全てを。
僕たちは確かに歩いていた。目的の場所に向かって。しかし、大地を踏み締める感覚が不安定に揺らぎ始めているのも事実だった。
不安や怖れはなかった。互いの息遣いを感じていられたから。そうするうちに谷は闇に支配され、足元も見えなくなった。
自分は本当に歩いているのか、今踏み締めているのは本当に大地であるのか、疑わしく思えてくる。そう、ここには天も地もない、あるのは闇と瘴気だけ。
なるほど、＜混沌の谷＞とはよく言ったものだと僕は乾いた笑いを漏らすと同時に、アザゼルらの堕天を記した聖典の一節を思い出した。
『わたしはさらに進んでいって、あらゆるものが混沌としているところに来た。そこには おそろしいことが起こっていた。上には天も見えず、確固とした土地も見えなかった。 ただ混沌としたおそるべき場所だった』
神に背いた天使たちが、罰として囚縛されている場所の描写だ。しかし僕たちが向かっている場所に閉じ込められているのは、父なる堕天使ではなく記憶。神に対する最終兵器とも言うべき理想郷の記憶だ。
封印を解く四つの神聖シジルはすでに見つけた。解呪自体は難なく遂行できるだろう。つまり、障碍はただ一つ。封印を護る、神。何を憑代にして、どんな攻撃を仕掛けてくるのか分からない。
けれど恐怖はなかった。僕は一人ではない。すぐ傍に緋鞘がいる。彼とならどんな苦境も克服できるという自信があった。
どのくらい歩いただろう、ようやく周囲に変化が現れた。闇は相変わらず闇だったが、鼻孔を蕩かすような芳香が漂い始めた。
もちろん僕らはその芳香に惑わされることなく、より一層緊張の度合いを高めた。とはいえ、この馥郁たる香りと理想郷が無関係であるとは考えられなかった。言葉を交わすことはなかったが、緋鞘もきっと同じ思いだったに違いない。
もうすぐだ、あと少しで封印された記憶に辿り着く。逸る気持ちから思わず駆け出しそうになったが、衝動的な行動は避けるべきだとの賢明な抑制が働き、努めて同じ歩調で進み続けた。
そうして終に、闇の終わりが訪れた。遠くに揺らめく光の向こうに、目的の地、封印の壁があるに違いない。僕らは頷きを交わすと、今度こそ光に向かって駆け出した。
闇の終わりには、荒涼たる風景が広がっていた。恐らくあれこそが、世界の涯だったのだろう。自分たちは今、陰府との境界上にいるのだと自覚した。
封印の壁は呆気なく見つかった。黄土色の岩壁に刻まれた四つの神聖シジルが、遠目からでも確認できた。
僕たちはゆっくりと近づきつつ、神の妨害を待った。しかし、何も起こらない。そしてとうとう、壁の前に立った。が、やはり神は沈黙したまま。僕らの緊張は頂点に達し、冷たい汗が全身から吹き出た。
僕はあの時初めて、明確な恐怖に囚われたと思う。それでも必死に恐怖を抑え込み、緋鞘と並んで一歩進んだ。そして封印の神聖シジルを確認しようとした時、それとは別の文字が視界に飛び込んできた。
それは、ちょうど僕の目の高さに刻まれたエノク語の銘だった。
IOLKAM-BALIT
すなわち、＜正しさをもたらす者＞。それを目にした瞬間、生暖かい吐息のような見えざる愛撫が耳朶を掠めた。
すると眼前の壁は、まるで僕に歓迎の意を表するかのように燦然と輝き出し、その向こうから漂う楽園の芳香はより気高くより甜（あま）く張り詰めた身体を包み込んだ。
僕は歓喜に震えた。＜正しさをもたらす者＞―――その通り。この封印さえ解けば輝ける記憶は解き放たれ、空白の歴史は蘇り、世界は理想郷がもたらす繁栄を知る。
斯様な偉業を成し遂げる我こそは選ばれし英雄。新しい世界の神として君臨し、皆の崇拝を受ける唯一無二の存在。
そう、神は一人、我こそは神――――――
………ああ、そうだ。その瞬間僕は確かに……これまで共に歩んできた緋鞘を疎ましく思った。いや、疎ましいどころじゃない、はっきり邪魔だと思った。選ばれた者、英雄は僕一人で十分だ、と………
これで分かっただろう？ 神が＜選民意識＞として僕に寄生した、という言葉の意味が。
選ばれた者たる自意識は、自分以外の他者に対する侮蔑や嫌悪へと容易に変わる。そう、アム・アザゼルがシェアールを虫ケラと呼んで蔑むように、僕は緋鞘を蔑んだ。そして突発的な殺意に駆られるまま、護身用として腰に差していた剣を抜いて緋鞘の胸に何度も突き立てた。
彼は当然ながら無防備だった。甚大な驚きで顔面を強張らせたまま、口から大量の鮮血を吐き出した。そして何か言おうと唇を震わせたが言葉は出ず、そのまま地面に倒れ伏し、暫くして動かなくなった。
僕はその亡骸にちらと一瞥をくれ、再び封印の壁に向き直った。しかし壁にはもうエノク語の碑銘はなく、僕を酔わせた輝きも芳香も失せていた。そこにあるのは、四つの神聖シジルが刻まれた黄土色の岩壁。
それを目にした時、僕は悟った。自分は神の策に屈したのだと。自分が神の憑代になり、愛する人を殺してしまったのだ、と―――
これが全てだ、と言わんばかりに颯舞は口を閉ざした。そして自らの沈黙に耐えられず項垂れる。
真朱たちもまた、想像だにしなかった陰惨な真相に言葉を失い、ただ呆然と宙空を見据えるばかりだった。
「それであなたは……」
遼牙がためらいがちに口を開いた。ここは自分が話を進めるしかないと分かっていた。真朱や瑠羽は彼らとの関係が深く、衝撃もその分大きいだろう。颯舞は力なく頷いて、
『その瞬間、僕は何か叫んだように思う。何を叫んだのかは覚えていない。皮肉なものだ、緋鞘の胸に剣を突き刺した時の感触は生々しく覚えているというのに。そして手にしていた剣で、緋鞘の血を吸った剣で自身の胸を突いた』
颯舞はいったん口を閉じ、もの問いたげに見詰める遼牙の顔を見返した。そして昏い微笑で口許を汚し、
『何故その場で封印を解かなかったのかと言いたいのだろう？ しかしそれは正気の人間の考えだ。あの時の僕は、ただ自分が憎かった、自分を罰したかった。一刻も早く緋鞘の後を追って、許しを乞いたかった。その一心で己に刃を向けた』
「しかし、あなたは死ななかった」
遼牙の指摘に、颯舞はゆるゆると首を振った。そして言葉を続ける。
『僕は自分の胸に剣を突き立てたが、急所を外していたのか即死には至らなかった。それでも確実に血は流れ、意識は遠のいてゆく。そして死の足音を間近に聞いた時ようやく、僕は自分がこのまま死んではいけないと気付いた。僕が犯した罪を伝えねばならない。後に続く者に、同じ過ちを繰り返させないためにも』
「待ってくれ。私には、あなたに罪があるとは思えない。あなたはただ、神に心を操られただけで―――」
『それは違う。思い出して欲しい。古代世界の人々に神が同じことをした時も、惑わされない人々は少数だが確かにいた。そしてあの時も、緋鞘は神の憑代とはならなかった。恐らく神は、僕と緋鞘に殺し合いをさせるつもりだったろう。アム・アザゼルとシェアールのように。だがそうはならなかった』
颯舞は一瞬苦しげに黙り込み、再び真相の吐露を続ける。
『僕たちは、同じ壁を見ていた。しかし寄生のきっかけとなった＜正しさをもたらす者＞なるエノク語の碑銘は、僕にしか見えなかった。遼牙、これが何を意味するか分かるか？』
遼牙は重々しく頷いた。
「あなたの中に、自分こそが正義であるという驕りがあったのだ」
『そうだよ。その通りだ。はっきりと自覚はしていなかったが、僕の中にそういった驕りがあった。だから神の介入を許してしまったんだ。
しかし緋鞘は違った。彼はよく言っていた。自分たちがしようとしていることは間違っているのかもしれない。このまま古代の記憶になど手を付けず、現状を維持するのが人々のためなのかもしれない、と。
そして必ずこう付け加えるんだ。それでも俺はやる、正しいからやるのではなく、自分がそれを欲するからやるのだと』
最後の言葉は、遼牙の胸に深く響いた。これが正義だという思い込みは、他を排除する権力となる。緋鞘は恐らく、正義を振り翳すことの危険性をよく知っていたのだろう。
『そういった緋鞘の考えには、僕も賛同していた。賛同している……つもりだった。しかし極限の状態で化けの皮が剥がれたというわけだ。
話を元に戻そう。僕は間近に迫った死を濃厚に感じながら、必死にもがいた。まだ死ぬわけにはいかない、僕にはやらねばならぬことがある。伝えねばならないことがある！―――』
颯舞は熱を帯び始めた言葉を冷ますため、いったん口を閉じた。しかし沈黙がもたらす緊張感は、言葉以上に不穏な熱をもってずくずくと疼いていた。
そこにいる誰もが、続きを待った。颯舞は死んだのか、それとも願いが届いたのか……
『しかし、僕は死んだ。僕の肉体は、死の鉤爪から逃れることはできなかった。が、僕の強い意志が、いや、そんな美しいものではないな、僕の執着が、肉体から分離した星幽（アストラル）体を今生に縛り付けてしまったんだ。つまり―――』
「今我々が見ているあなたは、肉体を持たぬ星幽体ということか……」
『そうだ。地上に存在する物質の中で、唯一星幽体を取り込むことのできる水晶。僕の星幽体は、混沌の谷近くにあるこの水晶の森が発する強い磁力に否応なく引き寄せられ、こうして閉じ込められてしまったんだ』
颯舞は一瞬、恨めしげに周囲へ視線を走らせた。しかしすぐにやつれた笑みで打ち消し、自分に言い聞かせるように、
『でも、時間はかかったけれど君たちに逢って全てを伝えることができた。琴悠には本当に感謝している。感応魔法の権威であるアルマロスを守護天使に持つ君なら、僕の身に起きた出来事や今の居場所を察知してくれると信じていた。彼らを連れて来てくれて本当にありがとう』
琴悠への感謝を改めて口にすると、これまでの話による衝撃からすっかりやつれてしまった瑠羽に労るような笑みを向けた。
『びっくりしただろう、いきなりこんな話を聞かされて。僕は本当に情けない父親だ。でも瑠羽、お前ならできる。お前を育ててくれた人、愛してくれた人への感謝を忘れず、驕り高ぶることなく記憶の解放を遂行して欲しい。そうすれば、僕の犯した過ちを繰り返すことはないだろう』
「はいっ。約束します！」
両目にいっぱい涙を溜めながらも、瑠羽は強い口調で決意を表明した。颯舞は笑みを深めて頷き、遼牙に視線を移した。
『遼牙、この腑甲斐ない父に代わり、どうか瑠羽を愛し守ってやって欲しい』
「もちろんです。これからも瑠羽と共に歩き続けることを誓います」
短い言葉に込められた重厚な想いを受け取った颯舞は、羅叉に向き直った。
『羅叉、父上の分まで、自分の信じる道を迷わず歩き続けてくれ』
「分かりました。俺の中にいる親父と弟の魂に、新しく生まれ変わった世界を見せてやります」
羅叉の答えに厳かな意志の鼓動を感じ、颯舞は深く頷いた。そして―――
『真朱……』
名前に続けて何か言おうとしたが、先の三人とは異なり何も出てこない。視線と視線が絡み合い、痛ましく張り詰めた沈黙が続く。もちろん、口を挟む者など誰もいない。皆が息を詰めて、二人のやり取りを見守った。
やがて颯舞は意を決して口を開き、強張る舌を必死に動かして言葉を紡いだ。
『許してくれ、なんてとても言えない。僕の弱さが緋鞘を、君の父親を殺してしまったのだ。でもこれだけは信じて欲しい。僕は緋鞘を……心から愛していた』
傍にいる琴悠の存在を気にしながらも、颯舞ははっきり言い置いた。
『そしてこれからも愛し続ける。この水晶の牢獄から、愛情を捧げ続ける。たとえ彼に怨まれても、憎まれても―――』
「父は、あなたを怨んではいない」
颯舞の言葉を遮るように、真朱が強い口調で告げた。颯舞だけでなく、皆がはっと息を呑む。しかし真朱は構わず、淡々と続けた。
「父は死んだ後、幾度か俺の夢に出てきてくれました。何も言葉は発しない。ただ俺の方をじっと見詰め、時折微笑むだけ。その顔に、怨みだとか憎しみといった昏い翳は微塵もなかった。父は幸せだった。あなたという人間に出逢えて、愛情を貫くことができて幸せだった。俺はそう思います」
『真…朱……』
「それに父は、あなたのそういった弱さも含めて愛していたんだ。だから自分を責めるのはやめて下さい。俺が言えるのはそれだけです」
いつも鋭く理知的な輝きを見せ、決して潤むことのなかった黒瞳から、温かい涙が溢れる。
颯舞が語った真相に、真朱が傷付いていないはずはない。颯舞を責める気持ちが生じても仕方あるまい。
しかし彼は負の情念を抑え、罪の意識に苦しむ颯舞に救いの手を差し伸べた。きっと父もそうすることを望んでいるだろうとの、信念をもって。
『ありがとう、真朱……』
颯舞は水晶の檻の中で、水晶より美しい涙を流した。
BACK TOP 遼牙＆瑠羽INDEX NEXT