Past Scar

４.

朝目が覚めると、遼牙の腕の中にすっぽりくるまれていた。昨日のことは全部夢だったのではと錯覚しそうなほど安らかな朝。遼牙はすでに目覚めているようで、瑠羽の背中をあやすように撫でてくれている。

「遼牙さまぁ……」
「起きたか？　瑠羽」
「はい」

瑠羽はもそもそと動いて、遼牙の胸にぴったりくっついた。すると背中に回された遼牙の手に力がこもり、強く抱き締められる。

「ゆうべは済まなかったな。一人で淋しかったろう」
「あ、あの……はい………」
「なかなか案件がまとまらず、会合が遅くまでかかってしまった」

瑠羽は口を開いたが、出掛かった言葉を呑み込んでしまった。

訊きたいことはたくさんある。どうして昨夜酒宴があったことを隠しているのか、どうして他の者を酒姫として召し上げたのか、どうして叔父様にお会いしてはいけないのか―――

「瑠羽？　どうした？」

黙り込んでしまった瑠羽を、心配そうに覗き込む遼牙。

「いえ、何でも…。ゆうべ一人で淋しかったことを思い出してしまったの」
「おお、そうか。本当に済まなかった。その代わり今夜はゆっくりしよう。テラスで食事をして、のんびり湯浴みをして………」

夜の計画を楽しげに語る遼牙に、昨夜のことを質すことはできなかった。瑠羽は遼牙の提案にひとつひとつ頷きながら、重苦しい溜息をこぼしたのだった。




「申し訳ありません。遼牙様はすでに公務にお出になっております」

そう言って深々と頭を下げる鴇津に対し、嵯我は鷹揚に笑って、

「いや、構わん。私が遅くまで休んでいたからな。怠惰な生活習慣が身体に染み付いているようだ。遼牙によろしく伝えてくれ。また会えるのを楽しみにしている、とな」
「はい、お伝えいたします。では私が遼牙様に代わってお見送りさせていただきます」

先立って歩こうとした鴇津を、何故か嵯我は引き留め、

「いや、見送りはいらん。お前も多忙なのだろう？　公務に戻るといい」

鴇津は思わず眉をひそめる。彼らしくない配慮だと思ったからだ。しかし、

「どうやら、馬車の仕度に手間取っているようだ。ここへ来るまでの道が悪くてな、車輪が傷付いてしまった。その補修に時間がかかっている。それが完了するまで忙しい官房長を待たせるわけにはいかん」

そういう事情ならば、納得がいく。鴇津は「分かりました」と返して丁重な挨拶を述べると、嵯我の部屋を辞した。

コツコツと遠のく足音を確認した嵯我は、ククッとこもった笑いをこぼして颯爽と部屋を出た。そして真直ぐ中庭へ向かったのだった。




いつものように中庭で本を広げたものの、空模様が怪しくなってきた。朝は澄んだ青空が広がっていたのに、ふと見上げると灰色の厚い雲が頭上に迫っていた。

はふっと溜息をついた瑠羽は、膝の上の本をパタンと閉じた。気持ちが晴れないのは天気のせいではないと分かっている。口に出したくても出せない問いが喉の奥で滞留し、痼りとなって胸を圧迫していた。

痛みや苦しみとも違う、言い様のない違和感、或いは異物感。呑み込むことも吐き出すこともできず、徐々にその存在感が増してゆくのをどうすることもできなかった。

そうして、そろそろ部屋へ戻ろうかと腰を上げた時だった。城の方から背の高い男性が近付いてくるのが見えた。

不審を募らせているとはいえ、瑠羽にとって遼牙の命令が絶対であることに変わりはない。男性の長い銀髪を見た瑠羽は、本を胸に抱えてくるりと身体を反転させると、急いで逃げ出そうとした。

「待ちなさい。恐がることはない。私は何もしない」

穏やか且つ毅然とした物言いに、瑠羽の足はぴたりと止まった。

「遼牙から、私と言葉を交わさぬよう厳しく言い付けられているのだろう？」

瑠羽は背中を向けたまま、コクリと頷く。

「お前にとって遼牙の命令が絶対だというのは分かる。しかし、おかしいとは思わんか？　私は遼牙の叔父だぞ。酒姫のお前が、何故私からこそこそ隠れるような真似をしなければならんのだ」

瑠羽は諦めたように首を振る。自分に遼牙の真意は分からない。ただ言われたことを守るだけ。

「それに昨夜の酒宴。遼牙はお前が体調を崩して奉公できないと言って、他の女を酒姫に召し上げていたぞ」
「遼牙さまが……」

そんな嘘をついてまで自分を酒宴に連れて行きたくなかったのかと、遼牙の固い意志を思い知らされて改めて瑠羽は愕然とする。

その心の揺れを見逃さず、嵯我は甘言を弄してさらに揺さぶりをかける。

「知りたくはないか？　何故遼牙が私とお前を会わせたくないのか」

瑠羽は鼓膜にまとわり付く誘惑の言葉を払うように頭を振り、

「今度、遼牙さまに直接お聞きします。こっそり聞くような真似は―――」
「無駄だ。お前がどんなに懇願しようとも、遼牙から真実を聞き出すことは不可能。余りしつこく訊ねようものなら怒りを買う恐れもある」

彼の言葉には真実味があった。瑠羽が叔父様にご挨拶したいと言った時の遼牙の剣幕は、これまでにないほど激しいものだった。瑠羽相手にあれほど尖った感情を爆発させた遼牙は見たことがない。

「でも、でも………」

理由は知りたい、それでもやはり、遼牙の命令が持つ効力は大きかった。尚も躊躇する瑠羽に対し、嵯我は苛立った風を装って、

「私はお前のためを思って言っているのだ。聞きたくないなら構わん。私はこれで―――」
「ま、待って！」

瑠羽はくるりと身体を反転させた。そして嵯我に正面から向き合う。

「待って……ください」

瑠羽は初めて遼牙の言い付けを破り、自分から嵯我に駆け寄った。嵯我はちらと見下ろすと、背中を向けて歩き出した。

「付いて来なさい。ここでは話しにくい」

そして中庭から城の裏手に当たる森の入口に差し掛かったところで突然瑠羽の方を振り向き、大きな白い布で口と鼻を覆った。

瑠羽は一瞬、驚いたように大きく目を見開いたが、やがてゆるゆると瞼を閉じて嵯我の腕の中に頽れたのだった。




最初、異変に気付いたのは鞘葉だった。雨が降り出してきたにもかかわらず、瑠羽が部屋に戻った気配がない。まさか雨に気付かず中庭で眠り込んでいるのではと思い、瑠羽の名を呼びながら中庭を駆け回った。

しかしその姿は見えず、胸騒ぎを覚えた鞘葉はすぐに王宮へ引き返し鴇津に事態を伝えた。

「瑠羽がいない？」
「はい。朝食をお召しになった後、本を持って中庭にお出になったことは確かなのですがお姿が見えず、森の手前に本だけが落ちておりました」

鴇津の眉間に険しい縦皺が生じる。遼牙は執務室で仕事中だったが、優先順位は明らかだった。身を翻して執務室に飛び込み、瑠羽の姿が見えないことを伝えた。言外に“ある”可能性をにじませて。

「なん……だと………」

言葉にしなかった部分もすぐに伝わったようだ。遼牙はきりきりと眉を吊り上げると、椅子を蹴って立ち上がった。

「叔父上はどうした。もう帰ったのか？」
「お帰りになりました。しかし見送りをした者はおりません。私が申し出たのですが、馬車の仕度に手間取っているからと言って辞退されました。恐らくその後、中庭へ向かったのでしょう」

嵯我が中庭へ何のために向かったかは考えるまでもなかった。鴇津は頭を下げ、「私の手落ちです。申し訳ありません」と短く詫びた。

遼牙は許しも責めも与えず、長衣の裾を閃かせて部屋を飛び出した。そして移動しながら鴇津に詳しい状況を質す。

「馬車が出る時、衛兵は気付かなかったのか」
「それが、どうやら馬車は裏の御用門から出たようです。門衛は、城内に入る馬車には厳しい監視の目を注ぎますが、城内から出る馬車についてはそれほど注視していないかと」
「獅子身中の虫という言葉を知らんのか」

遼牙は苛立たしげに吐き捨てると、馬車が出たと思われる御用門へ急いだ。すでに鴇津が手配していたのか、数名の騎兵が待っていた。

「ここから馬車が出たのだな」
「恐らく。あれをご覧ください。まだ新しい轍です。太さから見て、荷馬車ではありません」
「確かに。そしてこの方角だと、真直ぐ黒鴉宮に向かったようだな」
「左様で。恐らく瑠羽を人質にして、例の要求を押し通すつもりかと」

鴇津は敢えて淡々と返し、ちらと遼牙の顔を見上げた。その目は瞬きもせずに馬車が去った方を睨み付けている。いつも穏やかに澄んでいる黒瞳は、煮詰められた怒りや憎悪で重く昏く撓んでいた。

鴇津の背中を戦慄が駆け抜ける。馬車の残影に据えられた不動の眼差しに、ぎりぎりの自制と破壊衝動の境界上にある危うい精神状態が如実に表れていた。

ちょっと触れただけで均衡は崩れ、嵯我に対する燻朱の感情が暴走するに違いない。遼牙に追わせてはならないと考えた鴇津は、今か今かと命令を待っている騎兵たちに向かい、

「よし。ではすぐに後を追え。分かっているとは思うが、追い付いたらなるべくことを荒立てず―――」
「いや、待て」

遼牙の命令に、騎兵の動きは止まった。すると遼牙は何を思ったかその場に屈み込み、雨水を吸って柔らかくなった土に刻まれた轍を観察した。そしてすっくと立ち上がり、

「危うく騙されるところだった。鴇津、よく見てみろ。この馬車は空だ」
「空、ですか？」
「そうだ。二人が乗っているにしては、轍が浅すぎる」

遼牙の指摘を受け、鴇津は慌てて屈み込んだ。やがて立ち上がると、指摘の正しさを認めた。

「仰る通りです。土の柔らかさから見ても、こんなに浅いはずがない。ということはつまり……」
「ミスリーディングだな。追手をおびき寄せるための罠だ」
「黒鴉城へ向かったと思わせるためですね。では実際は何処へ……」

遼牙はその問いに答えるより先に、騎兵の一人に「馬を貸せ」と命じた。そしてひらりとまたがると、馬上から鴇津を見下ろし、

「叔父上は十中八九、中央神殿庁へ向かった。私も後を追う」
「神殿庁へ……まさか瑠羽を？」
「ああ。彼は瑠羽がアム・アザゼルではないかと疑っていた。いや、本心から疑っているわけではなかろうが、脅迫の切り札と考えていることは間違いない。瑠羽を神殿庁へ引き渡し、返してもらえるよう働きかけて欲しければ自分の要求を呑めと迫るつもりだろう」

確かに、黒鴉城へ連れて行くよりもその方が手っ取り早い。鴇津は頷いて遼牙に同意を示した。すると遼牙は早口で騎兵らに命令を下す。

「いいか、お前達は念のため馬車を追え。そして誰も乗っていないことを確かめたら、そのまま帰城して構わない」
「お待ちください、遼牙様。一人で追われるのは危険かと」

鴇津が言う“危険”の意味を正しく察知した遼牙はふわりと笑い、

「大丈夫だ。私は暴走して我を見失うようなことはしない。何より、そんなことをしたら瑠羽が哀しむからな。安心しろ」
「………分かりました。では、お気を付けて」

まだ幾許かの不安をにじませつつも、鴇津は了承した。遼牙は手綱を引くと、嵯我と瑠羽の後を追って馬を走らせたのだった。

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