Past Scar
３.
こんなに不愉快な酒宴は久し振り、いや、初めてかもしれない。妻である白鷺が城を訪れた際に開いた酒宴も相当に不快だったが、あの時は傍に瑠羽がいてくれた。
ふわふわの白い羽根で拵えたドレスを着て、生まれたてのひよこみたいに無邪気に笑う瑠羽のお陰で、どろりと淀んだ空気に染まることなくやり過ごすことができたのだ。
しかし今、傍に瑠羽はいない。鴇津が代わりにと用意してくれた女性が、酒姫を務めている。
彼女は事情を心得ている様子で、馴れ馴れしい素振りも見せずただ黙々と酒姫の務めをこなしている。
たとえ代役とはいえ国王の酒姫になれたのだから、鼻高々になっても仕方なかろうが、賢明な女性なのだろう、浮ついたところもなく控え目でしっとりとした落ち着きが感じられた。さすが鴇津の見立てと言わざるを得ない。
つまり遼牙の不快の原因は、斜め前に座している銀髪の男ただそれだけだった。
遼牙の傍にいるのが、寵愛を注いでいる件の酒姫ではないとすぐに察した嵯我は、含蓄ある笑みで唇を歪めてみせた。そして乾杯を終えるなり皮肉めいた口調で、
「お前の自慢の酒姫はどうしたのだ？ あの白鷺が逆上するほど仲睦まじいと聞いていたのだが」
対して遼牙はちらと視線を返して、
「少々体調を崩しておりまして。部屋で休ませております」
「なるほど。私のように毒気の強い男には会わせられんか」
「否定は致しませんな」
酒気で緩んだ空気が、瞬く間に張り詰めてゆく。が、
「叔父上のような見目麗しき男性には会わせたくない、という意味ですが」
遼牙は柔らかな声でそう言って、笑ってみせた。周囲から安堵の溜息が漏れ、再び場が和んだ。
二人のやり取りを見守っていた鴇津も同様に安堵したが、それと同時に胸が音をたてて軋むのを感じた。
遼牙が今、どれほどの精神力をもって自身を抑えているかと考えただけで苦しくなる。あれから十年以上の歳月が過ぎたとはいえ、当時の記憶は未だ生々しい腐臭を発して心のどこかに爪を立てているはずだ。
瑠羽と愛情に溢れた楽しい生活を送れているお陰で、普段は意識の表層に現れることはないだろうが、やはり張本人を前にして過去の記憶から目を背けるのは難しかろう。
それでも遼牙は笑みすら浮かべて、穏当に振る舞っている。その姿が痛々しくて、鴇津は思わず視線を外した。
そういえば、遼牙が初めて叔父との確執について話してくれた時も、その顔を正視できずに目を逸らしてしまった。すると遼牙はふと話すのをやめて、
―――鴇津、目を逸らさないで、私をちゃんと見てくれ
鴇津は後になって悔やんだ。あの時遼牙は恐らく、自分のことを穢らわしいと思わないで欲しいと言いたかったのだろう。
もちろん鴇津が顔を背けてしまったのはそんな理由ではなく、淡々と語る遼牙の姿が痛ましかったからだ。しかし自分の態度が遼牙を少なからず傷付けてしまったことは事実だった。
鴇津は外していた視線をゆっくりと戻した。すると遼牙と目が合った。鴇津は視線を据えたまま、ふわりと笑う。遼牙も笑う。それだけで十分だった。
そうして時間は粛々と流れ、宴の終わりが見えてきた頃だった。列席者の一人が嵯我に笑いかけながら、
「そういえば、遼牙様は小さい頃どのようなお子様だったのですか？ きっと聡明で愛らしかったでしょうね」
「そうだな、いつも小難しい本ばかり読んでいる、生意気な子供だった。なかなか私に懐いてくれなかったが―――」
嵯我はここで明らかに意図的な間を作り、ニヤリと淫笑を漏らして、
「しかし、私なりの愛情を注いだ。存分に可愛がってやったぞ」
そう言って同意を求めるように遼牙を見る。遼牙はそっと杯を置いた。持ったままでは、手の震えを覚られてしまうかもしれないから。嵯我は続けて、
「みなも知っているように、これは影道だからな。兄達からは疎まれていた。その分、私が可愛がってやった。そうだな？ 遼牙」
「………そうです」
「遼牙の父、前国王が伝染性の熱病を患った時も、私が保護者となって彼を預ったのだ。不謹慎かもしれぬが、あの時は楽しかったな。お前との関係を深めることのできた、貴重な時間だった」
遼牙は勢いよく杯を空けた。そしてカンッと荒々しい音をたてて床に置く。すかさず酒姫が酒を注いでそっと差し出した。
―――遼牙様、どうか堪えてください
鴇津は無言の訴えを送りながら、宴を終わらせるタイミングを考え始めた。不穏な緊張を孕んだ沈黙が場を支配したが、やがて遼牙がゆるりと口を開いた。
「左様ですな。色々と勉強させていただきました」
精神の頽廃、欲望の暴走が行き着く場所がどれほどおぞましいか、人間というものはどれほど卑劣になれるか。遼牙は黒鴉城で過ごした僅かな期間で知った。
「はは、世辞が巧くなったな。しかし賢王の令名高きお前にそう言われるのは、まんざらでもないな」
嵯我はそう言って杯を空け、再び口を開いた。先刻までの軽く浮ついた口調から一転、その声は深刻な翳りを帯びてはいたが、それが作為的なものであることは遼牙にはすぐ分かった。
「しかし、賢王といえども完璧ではない。もちろん人間に完璧を求めるのが間違ってはいるのだが。しかし為政者たるもの、自らの過ちがひいては国を滅ぼす事態にもなりかねんことは、常日頃から自覚しておくべきだ」
嵯我はいったん言葉を切り、自身の言葉に重みを持たせるための間を作った。
「実は、嫌な噂を耳にした。お前がアム・アザゼルを酒姫にしていると」
広間の空気が一気に凍り付く。ある者は明らさまに顔を背け、ある者はそわそわ腰を浮かせる。しかし嵯我は頓着せず、
「もちろん私はそんな噂信じていない。しかし噂や風聞の類いを侮ってはならん。それは大衆を容易に煽動する。それに、お前を陥れんと企む者に、噂を利用される恐れもある」
そう言って口許を杯で隠し、遼牙にだけ見える角度で不敵な笑みを浮かべてみせた。お前を陥れんと企む者、それはこの私だと言わんばかりに。
対して遼牙は、臓物が煮え滾るような怒りを押さえ付け、
「あれがアム・アザゼルではないことは、叔父上が鴉ではないことと同じくらい確たる事実。ご心配には及びません」
「私が鴉だという噂が広まっても神殿庁は動かんが、国王の酒姫がアム・アザゼルという噂が広まった場合、どんな面倒事が起きるか見当もつかん。呉々も身辺には気を付けなさい。落とし穴というものは、案外身近なところに口を空けているものだ」
これは脅迫だ。もし自分の頼みを、領地への派兵要請を承認しなければ、この噂を存分に利用させてもらうぞ、と。
なるほど、黒鴉城で学んだ人間の卑劣さは、まだまだ甘かったようだ。人は保身のためなら、底なしに卑怯になれるようだ。
「御忠告賜りました」―――そう返して穏やかに微笑み、杯に残った酒をあおる。それが最善の処方であることは分かっている。遼牙は口を開いた。しかし怒りに震える声帯がどうしても穏便な言葉を発しない。言葉を拒絶する。
遼牙は影道であるがゆえに、幼い頃からずっと、即位してからも様々な侮辱を受けてきた。公然と辱められたことも、陰で罵られたこともあった。それゆえ、心を厚い氷で覆うことで意識的に麻痺させ、怒りや悲しみ、悔しさなどが生じないよう感情をコントロールする術を学んでいったのだ。
辱めの言葉には穏やかな沈黙で、毒々しい嘲笑には涼やかな微笑で応対する。それは確かに有効な方法ではあったが、それがもたらす副作用として、凄絶な孤独を内に抱え込んでしまうことになった。
しかし瑠羽と出会い、多くの時間を共に過ごすようになって、氷はみるみるうちに融け出した。凍土の下で眠っていた種が一斉に芽吹くかの如く、遼牙の生来の激しさもまた外に溢れ始めたのだ。
そう、もし嘗ての遼牙であったなら、嵯我の隠然たる脅迫も気付かぬ振りを通して笑顔で応対し、後で策を練っただろう。だがもはや、遼牙は嘗ての遼牙ではなかった。
瑠羽を餌にして自分の思い通りにことを進めようとする嵯我への怒りは、酒宴という場も王という立場も吹き飛ばした。
「噂といえば、私もつい最近耳にしました。叔父上の領地で、暴動が起き始めているとか。もちろん、ただのデマでしょうが。それが事実なら、こんなところで酒を飲んでいる余裕などあるはずないですからね」
「はは、それは愉快な噂だな。堕天使を囲う国王の噂に比べれば可愛いものだ」
「確かに。しかしそちらの噂の方が現実味がありますね。尤も、万が一事実だとしても私には何もできませんが」
「いや、結構。こちらから願い下げだ。堕天使を囲っている国王に力を借りたとなれば、こちらの首が危ういからな」
「余り軽はずみなことは言わぬ方がよろしい。もしや、その下らぬ噂の出所は叔父上では？ ならば私も対処を考えねばなるまい」
「いやいや。私が聞いたのは、白鷺の口からだ。讒言の罪で妃を吊るし首にするつもりかね？」
「狂人の戯言を真に受けるつもりはありません。しかし狂人の戯言を利用しようとする者は―――」
突然、陶器の割れる硬い音が広間に響いた。徐々に激しさと鋭さを増し、一触即発の様相を呈していた二人の諍いに文字通り亀裂が走った。
「も、申し訳ございませんっ………」
酒の入った銚子を床に落とすという大失態を仕出かした遼牙の酒姫は、こぼれた酒を慌てて衣服の裾で拭いた。鴇津はすかさず立ち上がって、
「遼牙様、お怪我はございませんか？」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「それは良かった。しかしお召し物が汚れてしまったようですね。ご不快でしょう。そろそろお部屋に戻られてはいかがですか？」
鴇津の配慮を察した遼牙は素直に応じた。嵯我に言葉が過ぎたことを詫び、列席者に簡単な挨拶をすると、酒姫を伴って退席した。
「遼牙様、先ほどは大変失礼いたしました」
部屋へ戻る途中、酒姫が先刻の粗相を詫びた。対して遼牙は鷹揚に笑い、
「いや、謝罪は要らぬ。あの時お前が銚子を倒さなかったら、私は頭に血が上ってどんな暴言を叔父上に吐いていたか分からぬ。寧ろ助かった。礼を言おう」
すると酒姫は楚々と首を振り、
「お礼なら鴇津様へ。私は鴇津様の指示に従っただけでございますから」
「鴇津の？」
「はい。もし宴の最中に諍いが生じたら、自分がタイミングを見て合図を送る。その時には派手に“暴れて”くれと言われておりましたので」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女に、遼牙は低く唸るしかできなかった。
「鴇津め……」
全く、良く頭の回る男だ。遼牙は半ば感心し、半ば呆れた。酒姫はちょんと首を縮めて、
「あら、どうしましょ。このことは遼牙様には内密にしておくようにと鴇津様から言われていたのを、失念しておりましたわ」
遼牙は苦笑を浮かべ、
「分かった分かった。鴇津には黙っていよう。全く、お前も食えない女だ」
「恐れ入ります」
公的な領域から王宮へ繋がる回廊の手前で彼女は立ち止まり、深々と一礼した。遼牙は背中を向けたまま、
「今夜は世話になった。鴇津と仲良くな」
「まあ、鴇津様とはそのような仲ではございません。陛下、お休みなさいませ」
「お休み」
遼牙は柔らかな挨拶を返して、瑠羽の眠る寝室へと急いだ。不愉快な酒宴ではあったが、最後は穏やかな気持ちで終えることができた。
この気持ちのままベッドに潜り込み、ぽかぽかに温まった瑠羽の身体を抱き締めて眠れば、今日一日の不快な澱は綺麗に忘れて、清々しい朝を迎えられるに違いない。
明日には嵯我も、領地へ帰るはずだ。そうすればまた、いつもの生活に戻れる。
―――叔父上、もはやあなたの黒き力で私を揺さぶることはできない
遼牙は胸の奥で高らかに勝利を告げると、瑠羽の待つ寝室へ向かった。
扉が音もなく開いて外気が流れ込み、瑠羽の孤独が充満した闇が僅かに薄められる。
遼牙さまがお帰りになったんだ―――瑠羽はほんの少し安堵して、ほぅっと息を吐いた。もしかしたら今夜は帰ってこないかもしれない、他の酒姫と夜のお務めをしているかもしれないとの不安で、胸がいっぱいになっていたのだ。
さらさらという衣擦れの音が聞こえたと思ったら、ベッドがほわんと波打った。と同時に、冷たかった背中が心地よい温もりに包まれた。
いつも当たり前のように受け取っていた温もり。しかしこうして孤独を耐えた後に与えられると、それがどれほど貴重で愛おしくて大切なものなのか思い知らされる。
もしこれを永遠に失うことになってしまったら、自分は一体どうなってしまうだろう。生きて、呼吸を続けることができるだろうか。
他の者が遼牙の酒姫を務めるのは今夜限りだと、鞘葉はそう言った。しかし、それは本当だろうか。
もしかしたら、もっと酒姫に相応しい人が現れたのかもしれない。だから、大切な客を迎えた宴の席で瑠羽ではなくその者を召し上げた。そしていずれは、全ての酒宴でその者が酒姫を務めることになるかも―――
「ぃゃぁ………」
瑠羽はころんと反転して遼牙の胸にすがり付いた。しかし瑠羽の許に戻れて安心したのか、遼牙はすでに安らかな寝息をたてている。
「りょ…きさまぁ………僕じゃ……だめですか……？」
瑠羽の切実な問いが、眠りの国に届くことはなかった。
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