Past Scar
２.
「瑠羽！ るーう！」
テラスから中庭に出た遼牙は、辺りを見回しながら瑠羽の名を呼んだ。どこにいても遼牙の声は聞き逃さず、ぴょんと立ち上がって一目散に駆け寄る瑠羽。しかし今は反応がない。遼牙は念のためもう一度呼んでみたが結果は同じ。
「まったく、しょうのない子だ」
遼牙の声に反応しないということは、どこかでふわふわ夢の中ということだろう。遼牙は中庭をゆるりと散策しながら瑠羽を探した。
すると前方で、小鳥が数羽歌いながら旋回しているのが見えた。遼牙は思わず目を細める。
「あそこだな」
足音をたてぬようそっと近付くと、案の定瑠羽が眠っていた。柔らかな草の褥の上で、身体を丸めてくぅくぅ寝息をたてている。その肩には小鳥が留まって、嘴を震わせて鳴いている。まるで子守唄を歌うかのように。
遼牙は傍らに膝をつき、ほんのり薔薇色に染まった丸い頬をすいと撫でた。するとくすぐったかったのか、瑠羽は「くふっ」とこもった笑いを漏らしてふにふにとぐずった。
ぷっくりとした唇が、口付けを誘うように半開きになる。遼牙がゆっくり顔を近付けて唇を吸うと、瑠羽はぱちっと目を開けて眩しそうに瞬きした。
「ふわ……りょうきさまぁ………」
「やっとお目覚めか。おはよう、瑠羽」
遼牙はからかい半分でそう言うと、瑠羽の背中に腕を回してそっと起こした。瑠羽は恥ずかしそうにきゅっとしがみ付きながらも、「おはようございます」と律儀に返した。
遼牙は優しく目を細め、寝起きの瑠羽を抱き上げて東屋へ足を向けた。そして膝の上に抱いたまま椅子に腰かける。
「もうすぐ日が落ちる。こんな時間まで外で寝ていたら、風邪をひいてしまうぞ。気を付けなさい」
遼牙の言葉に、瑠羽は肩をすぼめて謝った。遼牙は頷いて上掛けの前を寛げ、瑠羽の身体をすっぽり包み込んだ。瑠羽は嬉しそうに顔をすりすりしてから遼牙の方を見上げ、
「遼牙さま、もうお仕事は終わったのですか？」
「ん？ いや、まだだ。ちょっと……お前の顔が見たくなってな。鴇津には内緒だぞ」
遼牙は答えて、悪戯っぽく笑ってみせた。しかし瑠羽は笑顔を返さず、遼牙も思わず怯むほどの真剣な眼差しでじっと見つめ返す。やがて両手を遼牙の胸に押し当て、
「遼牙さま、お加減が悪いのですか？ どこかお辛いところがあるのですか？」
意外な問いに遼牙は驚きを隠さず、
「いや、私は至って健やかだぞ。何故そんなことを訊くのだ？」
「だって……遼牙さまのお顔、とても辛そうです。痛いのをこらえているみたい」
瑠羽の言葉に、遼牙は何も返せなかった。そんなことはない、私はどこも痛くなんかないぞ―――それがどうしても口から出てこなかった。
その代わりに、ただ抱き締める腕に力を込めた。そして全ての言葉を閉じ込めるように唇をきつく結ぶ。そうしないと、自分でも予測不能な何かが、煮詰められた呻きや嗚咽が溢れてしまいそうだったから。
骨が軋みそうな抱擁だったが、瑠羽は何も言わずただ受け入れた。これ以上言葉は必要ないと、幼いながらちゃんと理解していたのだ。やがて遼牙は力を緩め、晴れやかな声で、
「………お前には敵わんな」
「遼牙さま？」
遼牙は「何でもない」と言って、瑠羽の額にちょんとキスを落とした。そして優しく笑いかける。それを見て、瑠羽は胸に閊えていた不安の塊がすとんと落ちるのを感じた。
いつもの遼牙、いつもの笑顔。何が遼牙を苦しめていたのか瑠羽には分からないが、それを詮索する必要などないことは分かっていた。いつもの遼牙に戻った、それだけで十分だった。
「瑠羽よ、ひとつお前に大事なことを伝えねばならぬ」
「はいっ」
遼牙の言葉に、瑠羽はぴんと背筋を伸ばした。そして続く言葉を待つ。
「つい先刻、私の叔父が城を訪ねてきたのだ。今夜は王宮に泊まることになる」
「遼牙さまの……叔父さまが………」
瑠羽は瞳をきらきらと輝かせ、大きく頷いた。
「大丈夫ですっ。僕、ちゃんとご挨拶できます！ 遼牙さまの酒姫として恥ずかしくない振る舞いを―――」
しかし遼牙は静かに首を振り、瑠羽の決意に水を差すようなことを言った。
「いや、そうではない。瑠羽、よく聞きなさい。彼と顔を合わせてはならん。私も気を付けてはいるが、もし彼がこの中庭に出てくるようなことがあったら、お前はすぐに自分の部屋に戻って全ての鍵を掛けるのだ」
余りに意外な指示に、瑠羽は驚きを隠せず遼牙の顔をぽかんと見上げるばかり。こういった反応は予想していたが、遼牙は構わず続けた。
「よいか、叔父は私とほぼ同じ背格好をしており、長い銀色の髪が特徴だ。彼の方からお前に接近してくる可能性もある。呉々も注意を怠らぬように」
長い銀色の髪と聞いた瞬間、瑠羽の頭がちくんと疼いた。しかし今はその疼きが何に由来するのかより、遼牙の真意を追究する方が重要だった。
「どうして…ですか？ ちゃんとご挨拶しなくちゃ」
「挨拶など必要ない」
にべもなく言い放つ遼牙に、瑠羽は尚も食い下がった。
「でも、失礼では―――」
「私の言うことが聞けんのか！」
剥き出しの苛立ちをぶつけられて、瑠羽はびくんと跳ね上がった。そして誰が見ても憐れを催すほど小さくしおれて、カタカタと小刻みに震え出す。驚きと畏れで喉がきゅぅっと縮んだが、何とか声を絞り出して「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。
もちろん遼牙は己れの失策を自覚していた。こんな風に強権的な物言いをするつもりはなかったのに、つい過剰な反応をしてしまった。
あの男はまだ自分の中で触れてはならぬ存在、未だ癒えぬ膿み傷であることを思い知らされる。
「済まなかった、瑠羽。つい大声を出してしまった」
膝の上で痛ましい怯えを見せる瑠羽をあやすように揺らしながら、遼牙は努めて声を和らげて謝った。そして、
「これは命令ではない。命令よりもっと切実な、私の……願いだ。聞き入れてくれ」
「遼牙さま……」
「頼む」
瑠羽は小さな声で「わかりました…」と答え、おそるおそる手を伸ばして遼牙の胸に触れた。遼牙はその手を取って指先に口付け、
「さあ、そろそろ部屋に戻りなさい。私もまだ仕事が残っている」
瑠羽は頷いて膝の上から下りると、ぺこりと頭を下げて走っていった。最後まで、瑠羽が笑顔を見せることはなかった。
今夜は酒宴の予定はないはずだった。しかし瑠羽の鋭敏な感覚は、微かに浮き立った空気を察知した。
「あの……鞘葉さん。今夜は何かあるのですか？ 皆さんお忙しそうにしてますけど……」
鞘葉はにっこり笑って、
「いえいえ、大したことではございません。遼牙様の叔父上様が突然お見えになったということで、お部屋の仕度などに手間取っているだけで。瑠羽様は何も―――」
鞘葉の返答は途中で遮られた。大きなシーツを抱えた侍女の呼びかけによって。
「鞘葉さぁん、今夜の酒宴は何時から―――」
言いかけて、侍女ははたと口を噤んだ。そこに瑠羽がいるのに今さらながら気付いたからだ。時すでに遅し、だったが。
「あ、あの……」
ばつが悪いとはまさにこのこと。侍女はどう繕ってよいか分からず、シーツを抱えたままあわあわする。鞘葉は溜息をついて、
「いいから、あなたはあちらへ行ってなさい」
そしてショックの余り呆然と立ち尽くす瑠羽に向き直って頭を下げ、
「瑠羽様、嘘をついて申し訳ありませんでした」
「鞘葉さん……今夜は酒宴が開かれるんですね？」
「左様でございます」
「遼牙さまの叔父さまの、歓迎の酒宴ですね？」
鞘葉が黙って頷くのを見た瑠羽は、慌てて時間を確かめた。そして、
「早く仕度をしなくちゃ！ お風呂で身体を磨いて、酒姫の衣装に着替えて……」
「瑠羽様、お待ち下さいませ。今宵の酒宴では、遼牙様の酒姫は別の方が務められます」
鞘葉の言葉は瑠羽を恐慌に陥れた。
「うそ！ うそだもん！ 遼牙さまが僕以外のひとを酒姫に召し上げるなんてっ……」
瑠羽の悲鳴にも似た叫びは、途中で嗚咽に変わっていった。両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせて込み上げる感情を必死に抑え込もうとする。
「ぅぇっ……ぇ、ぇぇっ………」
嘘だと叫んだものの、鞘葉がこんな嘘をつくはずがないことは百も承知。つまり、自分はもう酒姫として必要ないということなのだ、もっと相応しい人が見つかったということなのだ。
いきなり突き付けられた現実にどう対処してよいか分からず、ただ泣きじゃくる瑠羽に鞘葉は優しく声を撓めて、
「瑠羽様、どうか鞘葉の言うことを聞いてくださいまし。他の方が酒姫を務めるのは、今夜限りのこと。瑠羽様に何か非があったということでは、決してありません。そして、これには遼牙様の深い深い配慮が働いているのです」
「はいりょ……って？」
涙でふやけた瞳を向ける瑠羽に、鞘葉は悲しげに首を振った。
「それは申し上げられません。ただ一つ言えるのは、遼牙様が瑠羽様を愛しておられるからこその配慮だということ。ですからどうか今回は、この鞘葉に免じて何も聞かなかったことにしてくださいませんか？」
瑠羽はぐずぐずと鼻をすすり上げて怨めしげに鞘葉を見つめたが、やがて諦めたように頷いた。鞘葉はほっと息をついて、
「ありがとうございます。では後でお食事をお持ちしますね」
しかし瑠羽は首を振り、「何も食べたくありません…」と涙声で告げてそのままとぼとぼと去っていった。
鞘葉は一瞬、その小さな後ろ姿を追い掛けようとしたが、自分に言い聞かせるように首を振って仕事場に戻っていった。
外国からの賓客と急な会議が入ったから今夜は遅くなる、先に寝ていなさいと言い残して、遼牙はそそくさと部屋を出ていった。
瑠羽は「分かりました…」と答えるより他なく、鞘葉を心配させない程度に夕食に口を付けると、早々に寝台に上がって冷たい毛布に潜り込んだ。
余計なことは何も考えず、早く眠って今日のことは忘れてしまうのがこの苦しい状況における最善の対処法だと分かってはいるのだが、そこまで精神をコントロールできるほど瑠羽は強くなかった。
眠ろう眠ろうと焦れば焦るほど眠りの国は遠のき、耳を塞ぎ目をつむって感覚を閉ざせば閉ざすほど、五感は深々と研ぎ澄まされる。
酒宴が開かれている大広間の喧騒がここまで届くはずはないのに、人々の笑い声や杯のぶつかり合う音、楽団の奏じる楽の音などが頭の中に直接響き渡る。
そして何より瑠羽を苦しめたのが、自分の代わりに酒姫として奉仕している者の存在だった。
女の人なのだろうか男の人なのだろうか。いずれにしても美しく上品で、礼儀作法も申し分のない高貴な人に違いない。
自分のように途中でうつらうつらしてしまったり、用意されたお菓子を食べ過ぎてしまったり、楽団の奏でる音楽に聞き入ってお酌を忘れてしまうような失態はしないだろう。
輝くような笑みを浮かべて遼牙の傍らに楚々と控え、嫋やかな手付きで酌をする。いや、もしかしたら膝の上に座ってぺったりと身体を寄り添わせ、温もりを交換しているかもしれない。いつも自分がしているように―――
「やだあああ……」
瑠羽はがばと起き上がると寝台から飛び下り、夜着のまま寝室から駆け出した。はっきりとした目的も持たぬまま、それでも自然と身体が動く。
このまま酒宴の場に駆け込んだりしたら大変な騒ぎになると、頭の隅では分かっていても、遼牙を求める身体を止めることはできなかった。しかし、
「ぁ………」
前方を阻む人影が見える。ふらふらと近寄ると、そこには鞘葉が立っていた。八割の労りと二割の厳しさが混在した声で、
「瑠羽様、お部屋に戻りましょう」
「ぼく……ぼくぅ………」
「温かい毛布にくるまって、何も考えず眠るのです。よろしいですね？」
ようやく自分がしようとしていたことの愚かさを自覚した瑠羽は、肩を落として言われた通り寝室に戻っていったのだった。
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