Past Scar
１.
その時、遼牙は地方豪族からの陳情書に目を通していた。全てに応じるわけにはいかないから、ある程度の選別が必要なのだが、それがまた骨の折れる作業なのだ。
誰だって自分の陳情を受け入れて欲しいから、領土で発生している諸問題について少し、いやかなり誇張して書く。かといって、全てが嘘と切り捨てられるわけでもない。
苦境を滔々と述べ立てる文面の中から真実の度合いを探り、それに応じて対処を考えねばならないのだ。
ともかく、鴇津が執務室の扉を叩いた時の遼牙はそういう状況だった。陳情書の選別に必要な労力について、鴇津はもちろん熟知している。にもかかわらず敢えてこのタイミングを選んだのは、鴇津なりの配慮があってのことだった。
他に神経を使っている時の方が、これから伝えることに対する遼牙の精神的負担が軽減されると考えたからだ。
「失礼致します。遼牙様、黒鴉（こくあ）宮から伝達が参りました」
神経質そうに机を叩いていた指先がぴたりと止まった。しかし顔を上げることなく、机上の書類を向いたまま。視線が泳いでいるのは明らかだったが。
もちろん鴇津は気付かぬ振りをしつつ、淡々と事務的に事実のみを伝える。
「嵯我（さが）様がお見えになるそうです」
「…………………いつだ」
長い沈黙の間に、どれほどの葛藤があっただろう。それを思うと胸が痛むが、やはり鴇津は感情による乱れを見せず答えた。
「今日です。あと数時間後にはこちらに到着されるそうです」
そして「ずいぶんと急ですね」と続けて、乾いた笑いを漏らした。深刻すぎない鴇津の態度が、遼牙の心を僅かに軽くした。つられてふっと笑みをこぼし、
「時間をおいたら私が公務を作って逃げるとでも考えているのだろう。昔からそういう細かいところに気の回る男だった」
「なるほど。官僚なら有能だったでしょうね。しかし領主としてはいかがなものか」
「まったくだ」
遼牙は同意しながらゆったりと背凭れに身体を預けた。そして軽く目を閉じ、
「何の用で急に来たのか知らんが、今夜は酒宴を催さねばならんだろう」
「左様でございますね。叔父上様がいらしたのに、何もしないわけにはいかないでしょう」
「ああ。後で領地に帰ってから、何を吹聴されるか分かったものではない」
鴇津は静かに頷いて、
「では、その手配はこちらで。遼牙様は心おきなく陳情書に没頭してください。あ、それから」
部屋を辞去しようとした鴇津はいったん立ち止まり、肩越しに伝えた。
「今夜、瑠羽の代わりを務める酒姫も用意しておきますのでご安心を」
そして遼牙の返事も聞かずに出ていった。遼牙は鴇津の配慮に心中で感謝を述べると、再び陳情書に視線を落とした。が、作業は一向に進む気配を見せなかった。
「これは黒鴉の宮様。長旅でお疲れでございましょう。こちらにお部屋を用意してございますのでどうぞ」
笑顔で出迎える鴇津に、黒鴉の宮と呼ばれた男は冷ややかな一瞥をくれ、
「その呼び方はやめろ。それよりも、遼牙はどこにいる。部屋で寛ぐのは可愛い甥っ子の顔を見てからだ」
鴇津は先刻と寸分違わぬ笑顔のまま、双眸だけに底知れぬ輝きを宿して見返した。やがて頷いて、
「かしこまりました、嵯我様。遼牙様は執務室にいらっしゃいます。こちらです」
そう言ってくるりと背中を向けて歩き出した。嵯我も黙ってその後に続く。やがて鴇津は重厚な扉の前で止まり、軽くノックをして室内に呼びかけた。
「遼牙様。嵯我様がお見えになりました」
そして中からの応えを待つことなく扉を開けると、軽く一礼してそのまま去っていった。室内には、遼牙と嵯我の二人きりになった。
「ご無沙汰しております、叔父上。お元気そうで何より」
どんな有機的な響きも感じさせない、見事に機械的な挨拶を述べて優雅に一礼する遼牙。対して嵯我は、そんな遼牙を舐めるように見つめながらゆっくりと近付いて、
「久し振りだな。お前の即位式以来かもしれぬ。璃州国の建国記念式典には出席できなかったからな。会う機会を逸してしまった」
「左様でございますね」
答えながら遼牙は、たとえ式典に出席していたとしても顔を合わせることはなかっただろうと思った。遼牙と叔父たちとの確執を知っている夕凪が、遼牙が不快な思いをしないで済むよう配慮するはずだ。
「あちらの談話室へどうぞ」
遼牙はそう言って、自ら率先して奥の部屋へ入っていった。そして二人は豪奢な長椅子にゆったりと腰かけた。
しかしそれはもちろん外見のみの見せかけで、二人の間には言葉にできぬ張り詰めたものが潜んでいた。
お茶の仕度が整えられるまで、遼牙はそっと相手を観察した。相変わらず容姿だけは美しい。自慢の長い銀髪は、窓から射し込む陽光を受けて貴石のように霊妙な輝きを見せる。
彼のレゾンデートルとも言える口許の嗤笑には、世の人々が価値あるものと看做している愛や思い遣り、信仰、正義などに対する侮蔑と揶揄が込められていた。
それでもやはり、彼に愛されたいと願う女性は多いだろう。全てを擲ってその胸に飛び込んだ後、待っているのは破滅の道だとしても。
そう、彼は遼牙の叔父たちの間で最も若く、最も美しく、最も邪悪な男だった。あの天真爛漫な叔母、夕凪でさえ、彼の話になると額を曇らせて黙り込んでしまうほどに。
しかしそんな彼も年齢には勝てないのか、どことなく窶れているように見えた。それでも双眸だけは、衰退の翳をはね付けて生々しい輝きを保っていた。
お茶の仕度が整うと、嵯我は懐からガラスの小瓶を取り出して用意されたカップに中身を注いだ。立ちのぼる匂いから、かなり強めの酒だということが分かる。
「お前もどうだ？ 遼牙」
「いえ、私はまだ公務中ですので」
嵯我はそれ以上勧めることはせず、カップを軽く持ち上げると中身を一気に流し込んだ。そして満足げに息を吐くと、
「遼牙、お前は相変わらず美しいな」
久し振りに再会した甥っ子にかける言葉にしては、不穏な熱を帯びていた。遼牙はもちろんさらりと無視して、
「突然こちらにお見えになったのは、どのようなご用件で？」
嵯我は「ああ」と面白くもなさそうに相槌を打って、軽い口調で重い用件を伝えた。
「我が領地への軍事介入を要請したい」
遼牙は眉をひそめて叔父の顔を見返す。そしてゆるゆると首を振り、
「何を血迷ったことを。そんなことできはずがない」
「いや、してもらわねば困る。農民どもが連日合議を開いて、おかしなことを企んでいるのは明白なのだ。しかも豪族連中までそれに加担している」
「念のために伺っておきますが、彼らが一体何を企んでいると言うのです？」
嵯我はフッと鼻で嗤った。そんなの聞くまでもないだろうと言いたいのだ。
「領主である私と妻の処刑だ。豪族とつるんで武力蜂起し、領地の支配権を奪って私と妻を処刑する」
「それで、あなた方の代わりに彼らが領地を支配すると？」
「そんなことは知らん。ともかく奴らは私を亡き者にしようとしている。それは確かなのだ」
遼牙は難しい顔のまま黙り込む。それも当然のことだった。そもそも嵯我の支配する領地は、紫衛那の国土ではあるが政治、経済、軍事においては紫衛那から独立した主権を有する領土なのだ。叔父たちは全員、そういった領地を与えられて独自に運営している。
斯様に確固たる主権を有する地に、いくら要請があったからとはいえ城から兵士を送り込むなど、簡単にできるはずがない。
それは嵯我も分かっているはずだったが、緊急事態で見境がなくなっているのか、それとも要請が受け入れられる絶対の自信があるからなのか、平然とした態度で遼牙の返事を待っている。
「………豪族まで巻き込んで農民が蜂起しようとしている。確かにそれは異常な事態です。ご心痛はよく解ります。しかしだからこそ、そんな事態に到った理由があるはず。彼らを暴力的手段に駆り立てる何かが」
遼牙は嵯我の訴えに対し、如何にも理解がある風に装って言った。そして、
「叔父上、一体御領で何があったのですか？ それを教えていただかないことには、私も判断のしようがない」
「理由か？ 金だ。一昨年の旱魃で、果樹園やオリーブ園が大きな打撃を受けた。そこで私は、灌漑設備を整える名目で領民から供出金を強いた。にもかかわらず、一向に設備が整えられる気配がないと言って騒ぎ出したのだ」
遼牙はそっと眉をひそめ、
「領民から徴収した資金はどうしたのです」
「城の改修費用に当てた」
嵯我は悪びれることなくしゃあしゃあと答えた。恐らく、これまでもこういった公金の流用を日常的に行ってきたのだろう。たまたま運悪くばれてしまった、程度の認識なのだ。
「私は、設備を整えないとは言っていない。なのに奴らは端から私が騙したと決めてかかって、勝手に怒りを募らせているのだ」
これまで領民との信頼関係が築けていれば、ここまでの騒ぎにはならなかったかもしれない。しかし長い間の不満が領民の間に溜まっており、今回の問題はそれに火を付ける導火線になったということだろう。
「これで分かっただろう。結託して良からぬことを企んでいる者どもに対し、先手を打つ必要があるのだ。紫衛那の本軍、二師団程度で十分だ。すぐに送ってくれ」
「お断りします」
嵯我の流麗な眉がきりきりと吊り上がった。
「何だと……」
「今あなたがすべきことは、すぐに領地へ戻り、民に向かって頭を下げて詫びることです。そして灌漑設備の詳細な建設計画を立ててそれを民に公開する。技術者が必要ならば、喜んでお貸ししましょう。そうすれば、叔父上が恐れているようなことは起きません。私が保証します」
諭しながらも、遼牙は言い様のない虚しさを覚えていた。彼がこういった良識ある行動をとることは決してないと、分かっていたから。
案の定、嵯我は馬鹿にしたような笑みを浮かべて優雅に脚を組み直し、
「民に向かって頭を下げる、だと？ 愚かな。そんなことをすれば奴らをますます増長させるだけだ」
「叔父上は、民というものを軽く見すぎている。確かに、容易く煽動される愚か者もおりますが、その多くは実に思慮深く知恵に富んでいる。きちんと筋道立てて話し合えば必ず通じます」
もちろん嵯我は取り合わない。それどころか、早々にやり方を変えた。正攻法から取引へ。
「御聖慮は有難く拝聴させてもらった。ところで遼牙、お前、中央神殿庁から目を付けられ始めてるぞ」
突然、何の脈絡もなく話を転換させた嵯我。しかしさすが遼牙は驚いた素振りも見せず、無機質な一瞥をくれるのみ。
「アム・アザゼルを酒姫（サーキー）に召し上げたそうじゃないか。物好きだな。さすがは兄上の子だ」
「滅多なことを言わないでいただきたい。誰が堕天使の末裔を宮中へ召し上げるようなことを」
「はは、冗談だ。いくら影道のお前でも、そんな愚かなことはすまい。しかし何を血迷ったのか、白鷺が声高に吹聴しているそうだ。紫衛那王の酒姫は堕天使、とな」
遼牙は相手に気付かれぬように拳を握り締める。瑠羽に毒薬を盛って殺した女。そう、殺そうとしたのではなく、実際に殺してしまったのだ。
瑠羽は一度死に、守護天使の審判を受けて覚醒した。アム・アザゼルとして。もちろんこのことは遼牙以外知らない。
「お前に相手にされず、嫉妬に狂った末の根拠なき暴言。然り。しかし中央神殿庁の中には、調査が必要ではないかという意見もあるらしい。そうなれば、たとえ無実だとしても色々と厄介なことになるだろう。
しかしお前も知っての通り、私の妻は神殿庁の高級官僚を代々輩出している家系の出。私の要請を受け入れるというのなら、神殿庁に働きかけるのも吝かではないが」
「お断りします」
遼牙の態度は少しも揺るがない。嵯我のような男と取引をするなど愚の骨頂。どんな手酷い裏切りに遭うか分かったものではない。
「私は神殿庁に対し、何も疚しいところはない。調査したいのなら存分にすればいい。あなたの力を借りるまでもありません」
遼牙はきっぱりと言い置いて立ち上がった。この会見はこれまで、という意思表示を込めて。
「私は公務に戻ります。今宵は叔父上のためにささやかな酒宴を催したいと思っております。それにご参席いただいて、今夜はゆっくりお休みください。そして明日にはお戻りになるのが良いかと。では、」
背中を向けたままそう告げて、部屋を去ろうとした。すると嵯我は素早く立ち上がって遼牙の肩を掴み、耳許に唇を寄せて囁いた。
「ではこういうのはどうだ？ お前の愛しい酒姫に、私とお前の嘗ての関係をばらすぞ、とな」
さらに顔を近付けて、遼牙の耳に舌を這わせる。
「そうだ、詳細に説明してやろう。私の手の中で、お前の性器がどんな悶えを見せたか。私の猛る逸物がお前の柔らかな尻を裂いた時、どんな声で鳴いたか。口では嫌だ嫌だと言いながら、私を呑み込んだ肛門がどんな締め付けを見せたか………」
毒々しい言葉を注ぎ込む嵯我を遼牙は手で押し返し、ちらと冷ややかな視線を向け、
「相変わらず下衆な男だ」
そのまま部屋を出ていった。
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