DECISION
９.
「う、うそ……お墓なんて……そんな…………」
恐怖と驚きと不安に翻弄されながら、瑠羽は心のどこかで納得もしていた。目を覚ました時に感じた違和感。ひんやり湿った空気と恐るべき静寂は、そのせいだったのかと。
男は瑠羽の恐慌をひとしきり愉しんでから、「怖がらなくていい」と諭した。
「墓だったのは事実だが、今は違う。死体は全て運び出して燃やしてしまったからな。室温も適度で静かだし、居心地は悪くないはずだ。それに、この石室は嘗ての権力者が眠っていたから美しい装飾も施されている。ほら、この天井。見事なものだろう。とても地下世界とは思えないきらびやかさだ」
男は天井に向けていた視線を瑠羽に戻し、「さて」と短く呟いた。前置きはここまでということだろう。ぬっと手を伸ばして、瑠羽の細い手首を掴む。
瑠羽は「ひっ」と喉の奥で悲鳴を上げて、逃げようと身体をよじった。しかし難なく男に引き寄せられてしまう。男の身体からは、微かに麝香のような匂いがした。これが彼の芳気なのだろう。
瑠羽は怯えながらも、こわごわその顔を見上げた。緩くうねる純黒の髪が輪郭にまとわり付き、頬に映る陰翳が表情に魔性の香気を刻む。
瞳も黒だが、遼牙の黒瞳が湛える優しさや慈愛の深み、澄んだ輝きとは対極の、底知れぬ闇を孕んだ瞳だった。
しかし左の眼だけは微かに色素が薄く、闇に覆われる前の黄昏時のような柔らかな色合いを保っていた。そして何故か、その眼だけは怖くなかった。瑠羽はすがるように、男の左眼だけを見つめた。
そんな瑠羽の様子に気付いているのかいないのか、男は手首を掴んだまま自分の名を明かす。
「俺の名は羅叉。地の一族の族長だ。お前と同じ神聖高位魔族ということになる」
「し、知らない……そんなのっ―――」
血の気の引いた顔で必死に首を振る瑠羽を、羅叉は面白そうに眺め、
「おいおい、あんなすげえ治癒の魔法を見せ付けておいて、それはねえだろ。聖ルヒエルの守護を受けし、風の一族の族長、瑠羽―――」
「ちがうっ、僕は、僕は遼牙さまの酒姫ですっ。それ以外の何ものでもありません！」
魂込めた瑠羽の叫びを、羅叉はこもった陰笑で受け流す。
「そうだな。まさか紫衛那王の酒姫になっていたとは思わなかった。道理でなかなか見つからないわけだ」
「なぜ……僕を……？」
悲愴感漂う瑠羽の問いを受け、羅叉は僅かに表情を引き締めた。
「お前の力が必要なんだよ。俺たち異端の者が大陸を支配するには」
「異端………あ、あなたは＜福音者＞なの？ 二種族の平和共存を目指しているという……」
羅叉は「ほぅ」と感嘆の声を上げた。
「面白い言葉を知っているんだな。そうだ。俺たちはアム・アザゼルとシェアールの平和共存という理念を掲げ、それを実現させるために兵力の増強やセクトの拡大に力を入れている。そう、お前ならこの崇高な理念に共感できるはずだ。ずっとシェアールとして育てられたのだろう？」
「で、でもっ………福音者の人たちは自分たちが支配者になりたいだけだって……。それじゃ戦争はなくならないもの………」
羅叉はすっと目を細めた。そして微かに強張った声で、
「誰に吹き込まれた？ 紫衛那王か？ それとも―――」
「ま、真朱が言ってたもの………」
「なん……だと………？」
羅叉は整った鼻梁に幾重も皺を寄せ、瑠羽の手首をぎりぎり締め付けた。
「くそっ………真朱が先に探し当てていたのか」
これまでどこか人を食ったような印象が強かった羅叉が、初めて生々しい感情を露わにした。悔しそうに奥歯を噛み締める。
「あの男もお前の力を必要としている。力を貸して欲しいと言われたはずだ」
「言われました。でも、真朱は僕の意志を無視して無理やり連れて行くようなことはしないって」
「はッ、甘ぇな」
羅叉は再び馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、
「で、福音者は平和共存なんて穏当なことを言いながら、裏では結束して第三の勢力となり武力で大陸を支配しようとしていると、そう言ったんだな？ あの死にぞこないが」
瑠羽はキッと眦を決して羅叉を睨み返した。
「真朱は僕の大事なお友だちですっ。そんな酷いこと言わないでください！」
「大事なお友だちだろうが何だろうが、死にぞこないに変わりはない」
「どうしてそんなことっ―――」
羅叉は何かを思い付いたのか、ちらと眉を吊り上げた。そして「へえ」と愉快げに笑い、
「お前、知らねえのか。真朱はもうすぐ死ぬんだぜ」
「なっ………うそ、うそだもん………」
「嘘じゃねえよ。黒壊病っていう原因不明の死病に侵されてんだぜ。あいつの翼、先端だけ白くてあとは真っ黒だろ？ あれが全て黒くなった時、あいつは死ぬ。もうそろそろだろうな」
瑠羽は間接の壊れた人形のようにぎこちない動作で首を振り、今聞いた全てを受け入れまいとした。
嘘だ、そんなの嘘だ、だって真朱はひと言も―――
「お前がショックを受けないよう、黙っていたんだな。つくづく甘い野郎だ」
「うそ……うそだ………あ、ああ……………」
その時瑠羽は思い出した。真朱が口癖のように幾度となく言っていた言葉を。
―――俺にはもう時間がないんだ
「ああ……いやぁぁぁ…………」
瑠羽は渾身の力で羅叉の手を振り払い、寝台を飛び下りて逃げ出そうとした。しかし呆気なく拘束され、元いた場所に引き戻される。
「やだッ、離せ！ 離せぇッ」
「おいおい、大人しくしろよ。俺の話はまだ終わってねえんだよ」
「聞かない聞かない！ もうなんにも聞かないッ！ 遼牙さま、遼牙さまぁ………」
尚も暴れる瑠羽の両手を掴み、ベッドの上に押さえ付けた。そして上からのしかかって組み敷き、恐ろしい宣告を下した。
「もう、紫衛那王には二度と会えない」
「な…ん―――」
「お前は、俺のものになるんだ。心も、身体も、全て」
瑠羽は眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて、今の宣告から受けた衝撃の大きさを伝えた。今になってようやく、眼前の男は真朱とは全く違うということを思い知った。
自らの野心を実現させるためなら、瑠羽の意志など平気で踏みにじることができる。よく考えて、自分で答えを出せ―――そう言って全てを託してくれた真朱とは対極にいる人物なのだ。
「た、たす……けて………」
カラカラに渇いた喉から、かすれた哀願の言葉を搾り出す。そんな瑠羽の恐怖をじっくり味わってから、羅叉はゆっくり顔を近付けた。
「最後に、真実を教えてやるよ。真朱が言ったことは半分当たってる。平和共存なんて言いながら、裏では武力を結集していると。でもな、俺は別に大陸の支配者になりたいわけじゃねえんだよ。こんなクソみたいな世界を支配して何になる？ 俺はな、腐り切った人間や腐り切った種族を、めちゃくちゃにぶっ潰してやりたいだけなんだよ」
恐るべき破壊の意志。その根底には、どろどろに煮詰められた怒りが猛き鼓動を繰り返していた。
その禍々しい熱気を浴びせられて、瑠羽はガタガタ震えるしかできない。しかし羅叉の左眼を見た瞬間、思わず息を呑んだ。その左眼は―――
「悲しんでる………泣いてる…………」
「ああ？ 何言ってんだお前―――」
「あなたの左眼が………悲しい、悲しいって―――――ひっ」
羅叉は額に険凶な翳を落とし、瑠羽の手を握り潰さんばかりにギリギリ押さえ付けた。
「てめえ………いい加減なこと言ってんじゃねえよ………」
剥き出しの怒りには、深い苛立ちが縫い込まれていた。制御できぬ感情を身体中から溢れさせる羅叉は、まるで大事なものを傷付けられた子供のようにも見えた。
「で、でも……ほんとに―――」
「うるせえ！ 今すぐその口を黙らせてやるよ。おい、入れ！」
羅叉の命令を受けて、３人の男が音もたてず入ってきた。そして予め手筈が決められていたのか、黙って瑠羽の身体を押さえ付ける。
羅叉はまだ怒りを滲ませてはいるものの、落ち着きを取り戻したのか厳かな口調で、
「これからお前に、深淵の呪いをかける」
「しん…えん………」
「お前の魂が有している記憶や意志、感情の全てを深淵へ追儺し、生じた空白に新たな人格を植え付けるための儀礼だ。分かり易く言えば、これを受けることでお前は、紫衛那王の酒姫として共に暮らした日々の記憶全てを忘れることになる」
さらりと言った羅叉の言葉、その余りの恐ろしさ残酷さに、瑠羽は呼吸も瞬きも忘れて硬直する。が、次の瞬間声を嗄らして叫び、渾身の力をもって抵抗した。
「イヤアアアアアアーーーーッ！」
「ほらほら、暴れるな。暴れるとこれを飲まさなくちゃならねえ」
羅叉は懐から黒い小瓶を取り出して、瑠羽の目の前で振ってみせる。
「一時的に身体機能を麻痺させる薬だ。毒じゃねえが、ちと苦い。苦い薬は嫌いだろう？」
「うああああああッ、離せ、はなせぇッ！ 遼牙さま、遼牙さまぁっ」
羅叉は作為的な溜め息をついて肩を竦め、
「遼牙様、か。あんな影道のどこがいいのか。それより瑠羽。これは俺の優しさなんだぜ。全て忘れちまった方が楽になれる。お前はいずれ、望むと望まないとにかかわらず、種族間の闘争に巻き込まれてゆくだろう。覚醒しちまったんだからな。このままずっと、紫衛那王の酒姫でいられるはずがない」
暴れる瑠羽を観察するように眺めながら、淡々と言い聞かせる。そして小瓶の蓋を外して瑠羽の顔を押さえ付け、中の液体を無理やり口の中へ注ぎ込んだ。すかさず鼻と口を塞いで、
「ほら、飲み込まねえと窒息死するぜ」
「ぅ……ぅ、ぅっ…………」
絶望の鈍い光を孕んだ蜂蜜色の瞳から、涙が幾筋も溢れて頬を濡らした。羅叉はククッと笑って、
「だから言っただろう？ 苦いって」
やがて瑠羽の喉が上下するのを確認すると、鼻と口を押さえていた手を外した。
「ぅ………ぁ……………」
思うように瞬きもできない、声も出せない。ついさっきまで自由に動かせていた手足が、まるで別次元の物体のように全く言うことをきかない。
―――いやだ！ いやだいやだいやだぁぁ………
全身全霊をかけた叫びは、こもった呻きとなって涎と共に口からこぼれるばかり。そうしている間にも羅叉は、黒い匕首のようなものを取り出した。
「黒曜石の儀礼用の剣だ。さて、」
瑠羽の右手を取り、その切っ先を手の甲に宛がうと、小さな文字のようなものを刻み始めた。傷自体はそう深くないものの流血は免れず、あっという間に瑠羽の小さな手は血塗れに。
「痛いだろうが、少しの間我慢してくれ。すぐ楽になる」
羅叉が刻んでいるのは、地の深淵を司る天使の名前で構成された＜セフィロト十字＞だった。
エノク文字による十字を丁寧に刻み込んだ羅叉は、同じ剣で己れの額を裂いた。傷口から溢れる鮮血を瑠羽の額と＜セフィロト十字＞の上に塗り付け、ふぅっと大きく息を吐いて精神に凪を呼び込んだ。
「ぅ……ぅぁ、ぁ、ぁ………」
涙は意志の支配外なのか、瑠羽の双眸から熱く濃い涙がとめどなく溢れる。
―――殺して……殺してぇ………
遼牙のことを忘れてしまうくらいなら、命を絶たれた方がずっとまし。瑠羽は本気で、心から自死を願った。
―――ルヒエルさま、オファニエルさまっ……ぼくを、ぼくを殺してくださいッ……
しかし守護天使は応えず、冷たく虚しい沈黙が瑠羽に真の絶望を教えた。
外なる深淵の畏怖させる空虚に触れ
口づけするは我が意志
ついに羅叉の詠唱が始まった。薄く目を開けた状態で、すらすらと呪文を唱える。まさに深淵を想わせる、暗く重い低音で。
いと小さき惑う者よ
汝のカルマを取り去り
汝の記憶を取り去り
汝の意志を取り去らん
忘却の深淵の名において
我は服従を要求する―――
羅叉の詠唱が終わると、瑠羽の手に刻まれた＜セフィロト十字＞がすぅっと消えた。いや、消えたというより、皮膚の奥へ吸い込まれていったという表現の方が相応しい。
瑠羽はすでに目を閉じ、呼吸も緩やかになっていた。もう涙も流していない。乾き始めた涙の痕が儚げに輝くばかり。やがて―――
「瑠羽……目を開けるんだ。さあ………」
羅叉の声に誘われ、瑠羽はまぶたを震わせた。
「怖がることはない。とても気持ちがいいはずだ」
その言葉を肯定するかのように、瑠羽は幸せそうな微笑みを浮かべた。羅叉は確信した。忘却の深淵が瑠羽を捕えたことを。
隠し切れない笑みで口許を汚しつつ、手を差し伸べる。応えて瑠羽も、覚束ない動きながらも手を伸ばす。羅叉はそれをしっかり掴んで、瑠羽の身体を抱き起こした。そして顎に手をかけて上を向かせ、
「瑠羽よ、お前は誰のものだ？」
瑠羽はゆったり瞬きすると、薔薇色の唇をわななかせ、抑揚に乏しい声ながらはっきりと答えた。
「羅叉さま……羅叉さまのものです…………」
「いい子だ、俺の瑠羽………」
羅叉は顔を近付け、たった今手に入れたばかりの愛しい傀儡にねっとりと口づけた。
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