DECISION
８.
「遼牙様、夕弥様！ 何とか行けそうです」
地滑りの現場を偵察していた士官が、息を切らせて戻ってきた。
「ごく細いですが、脇道がありました。馬１頭なら何とか通れそうです」
「そうか。助かった。またさらに迂回を強いられるところだったな。ご苦労だった」
労いの言葉をかけると、夕弥と目配せを交わして小さく頷き合った。そして道を横切る地割れの跡に近付く。灯火をかざして目を凝らし、
「すごいな、この地割れは。両側から強大な力で押されたかのように盛り上がって、大地が弾けて割れている。こんな現象は見たことがない」
夕弥も遼牙の隣に立って灯火をかざし、
「本当に。とても自然現象とは思えません。まるでアム・アザゼルの魔法だ」
「魔法……だと……？」
強張った声で聞き返す遼牙に、夕弥は慌てて首を振り、
「いや、冗談ですよ。いくら邪悪な力を持つ堕天使の末裔とて、こんな地震を起こせるわけが―――」
しかし夕弥の言葉が終わるより早く、遼牙は屈み込んで大地の割れ目に手を押し当てた。その瞬間、身体の奥で意志では制御できぬ何かが騒ぐのをはっきりと感じた。
そう、遼牙の血肉に同化した妖刀＜龍舌刀＞が、殺戮の標的となる微かな魔気を感知したのか熱を帯び始めたのだ。
「そう…か………これはッ―――」
遼牙はようやく気付いた。頭の隅にずっと引っかかっていたこと。思い出せない、けれど何かとても重要なはずの―――
「夕弥殿。これは自然現象ではない。これは魔力が引き起こしたものだ」
大天使ラジエルの守護を受けし地の一族。その族長ならば、大地を裂くほどの地震を局地的に発生させることも可能だろう。
―――地の族長、羅叉という男は要注意だ
去り際に真朱が残していった忠告。それが頭の隅に留まって、ずっと警告を発していたのだ。だからこの地震を目の当たりにして、何か引っかかるものを感じたのだ。
「しまった………瑠羽ッ！」
今さらながら、自分の愚かさに嫌気が差す。しかしそんな悠長なことを言っている場合ではなかった。
「すぐ宿営地に戻るぞ！」
遼牙は険しい声で叫ぶと、他の者を顧みることなく駆け出した。
「あっ、お待ちを………遼牙様っ―――」
普段の泰然たる優雅な物腰など見る影もなく、焦燥も露わに走り出した遼牙の背中を、残された者たちはぽかんと見送る。しかしすぐにその後を追って宿営地に戻った。
やがて到着したものの、眼前に広がる光景に全ての思考力を奪われて、口を開けたまま立ち尽くすことしかできなかった。
「こ……これは…………」
頽廃的な蒼みを帯びた月光に照破されて、地面から生え出た岩柱に串刺しにされた複数の死体が、美しくも猟奇的な悪夢を演出する。
まだそれほど時間が経過していないことを物語るように、赤黒くねばついた血がぽたぽた滴って地面に吸い込まれていた。
しかしさらに驚くべきは、その死体はいずれも遼牙の護衛官ではないことだった。彼らは意識を失って倒れてはいるが、ざっと見た限りでは全員無傷のようだった。
「……るう………瑠羽ッ！！」
遼牙は串刺しの死体の間を臆することなく通り抜け、瑠羽が寝ていた奥の天幕へ急ぐ。そして入口の布を大きく払いのけた。
恐怖の余り、小さくちぢこまって震えている瑠羽がそこにいるはずだった。いなければならなかった。しかし―――
「瑠羽ッ、瑠羽ッ！」
遼牙は土足のまま中に入り、瑠羽の名を叫びながら狂ったように寝具を払ってゆく。
「瑠羽っ、どこにいるんだ！ 返事をしなさい！」
お戻りになったらぎゅっとしてくれますか？―――そう言って恥ずかしそうに微笑む瑠羽の顔がふっと目の前をよぎるが、それは遼牙の願望が生んだ虚しい幻影に過ぎなかった。
現実は―――
「瑠羽………る…う…………」
がらんとした天幕には瑠羽の痕跡すらなく、遼牙はその中央でがくりと膝をついて低く呻く。
悔やんでも悔やみきれない。何故あの時、瑠羽を天幕に一人残してしまったのか。何故あの時、傍にいたいという瑠羽の気持ちを汲んで抱き上げてやらなかったのか。何故、何故、なぜ、なぜなぜなぜなぜ――――
「遼牙様、すぐに追いましょう！ 今ならまだ間に合います」
膝をついて項垂れる遼牙に、夕弥が力強い声を掛けた。その声に促されるように立ち上がり、瑠羽のいない天幕を後にする。
確かに夕弥の言う通りだった。もし瑠羽が羅叉に連れ去られたのなら、今からでは追いつけないだろうが、まだそう決まったわけではない。盗賊の可能性もあるのだ。
しかし、その僅かな望みもすぐに打ち砕かれた。
「遼牙様っ、まだ生きている者がおります」
尖った岩に身体を貫かれながらも、辛うじて息のある者がいたようだ。もちろん、その命の灯火が消えるのは時間の問題だろうが。
「お前、何者だ」
遼牙の問いが聞こえているのかいないのか、瀕死の男は濁った瞳をぎょろりと剥いて唇を震わせる。そして喘鳴の奥から何とか聞き取れるほどの微かな言葉を搾り出す。
「な……ぜ………な…ぜ…………」
「何があったんだ。聞かせてくれ」
今度は遼牙の問いが届いたようだ。男の眼が焦点を結んだ。
「あ……あ………はやく、はやくらくにしてくれ………ほんぐんに……れんらく…を……」
どうやら遼牙を仲間と思っているようだ。生命の危機にある脳髄が、都合のいい現実を捏造したのだろう。遼牙はこの状況を利用させてもらうことにした。
「すぐに連絡する。何があったのか教えてくれ」
「うら…ぎり………いたん………らしゃ…さま……が………せくと、に…………」
遼牙は爪が喰い込むほど強く拳を握り締める。やはり、という落胆とまさか、という驚きが混交して頭の中で渦巻く。しかし暴れる感情を意志の力で抑えて、問いを続ける。
「セクト？ 何処のセクトだ。すぐに追い駆けるから教えるんだ」
「おそら…く………にし……のともえづ…か………」
「巴束？ あの＜鎮魂の町＞か。奴は一人でそこへ向かったのか？」
「ちが…う………しえなおうの……さーきーをつれて…………」
不動を保っていた男の眼球がビクビクと動き出した。と思ったら急にぴたりと止まり、口から血の泡を吹く。
「かぜ……の……いちぞ…く……ふっか…つ―――――――」
それきり、男の唇が動くことはなかった。
―――巴束に、＜福音者＞のセクトがあるというのか？ そしてそこに羅叉と瑠羽が………
今すぐにでも後を追いたい。そして瑠羽をこの手に取り戻したい。しかし紫衛那の国王として、夕弥たちを無事国へ送り届ける重大な責務を負っているのだ。
「遼牙様、皆が目を覚ましたようです」
意識を失って倒れていた護衛官らが、次々と目を開けて起き出した。暫し呆然としていたものの、岩に貫かれた死体を見て、自分たちを襲った恐るべき敵を思い出した。さすが副官は素早く立ち上がって遼牙の許へ駆け寄り、
「遼牙様っ、瑠羽様は、瑠羽様はッ―――」
連れ去られたことを教えてショックを与えるより先に、何が起きたのか質すべきと判断した遼牙は、努めて平静な声で状況を訊ねた。副官はごくりと喉を鳴らして、
「アム・アザゼルの、恐らく将官クラスだと思われます。夕弥様のご一行が地震に行く手を阻まれ、迷い込んでいることを知っているような口ぶりでした」
「やはり……手の上で踊らされていたのか」
「では、あの地震も奴が……」
「恐らくそうだろう。奴は地の脈動を自由に操ることができるに違いない」
遼牙は努めて感情を抑え、背後の串刺し死体に顎をしゃくってみせた。副官は頷いて、
「我々もあれと同じものに貫かれました」
「何だと？」
遼牙は瞠目して詰め寄った。無理もない。彼らの誰一人として、僅かなかすり傷も負っていないのだから。
「どういうことだ、それは―――」
「申し訳ありません、分からないのです。脚や腕を貫かれ、大量の血を失ったせいで意識を失いました。あのような死体となっても不思議ではなかったのです。しかしこうして傷は塞がり、身体にはこれまでにない活力が溢れております。一体何が起きたというのか……」
何があっても、どんな敵と対峙しても戦場では決して動揺を見せない百戦錬磨の武官が、困惑も露わに自分の四肢を見つめる。
遼牙は「神の御加護だろう」と素っ気なく答えて、くるりと背を向けた。もちろん、遼牙には分かっていた。彼らを救った力が何であるのか。
―――瑠羽よ、お前は聖ルヒエルの癒しを彼らに………
魔力を使えば、自分がアム・アザゼルであることがバレてしまう。それは瑠羽も承知していただろう。
しかし目の前で四肢を貫かれ、血と苦痛に喘ぐ彼らを見て見ぬふりはできない。たとえ遼牙が制止したとしても、瑠羽は治癒の魔法を使ったに違いない。
「馬鹿な子だ、お前はッ―――」
遼牙は部下たちに背中を向けたまま、込み上げるものを必死に抑え込もうとする。国王としての責任はもちろん、夕弥への親愛や夕凪に対する恩義もある。しかしその全てを超えた高みに、瑠羽への揺るぎない愛情があった。
今、遼牙は一人の人間として、最愛の者を暴力的に奪われた哀れな一人の男として、自らの行動を決した。ゆっくりと振り返り、厳かな面持ちで口を開く。
「私はこれから―――」
しかしそれに先んじて、夕弥が一歩前に出た。
「遼牙様、巴束へ向かってください」
「夕弥……殿」
「私も共に行きたいところですが、足手まといになることが目に見えています。我々一行は先ほど決めた進路に従い、国を目指します」
夕弥の力強い言葉に、供の者たちも一様に頷く。夕弥は続けて、
「地震の原因がアム・アザゼルの魔法で、引き起こしていた男が西の巴束へ向かったのでしたら、今後は地震に脅かされることがないということです。細心の注意を払っていれば、我々だけでも安全に進むことができるでしょう」
遼牙は黙って耳を傾けていたが、やがて深く頭を下げ、
「済まない。夕弥殿の厚意に縋らせてもらう。しかしあなた方だけでは心許ない。地震の懸念はなくとも、戦闘区域であることには変わりない。盗賊も心配だ。だから巴束には私一人で行く。ここにいる護衛官が、命に代えてもあなたをお守りするだろう」
「そんなっ………一人でなんて危険すぎます」
「これでも剣の腕には自信がある。それに、奴に気付かれぬよう隠密に行動せねばならない。部隊単位で動いたら目立ってしまう。一人の方が動きやすい」
遼牙の冷静な諭しに、夕弥は反論もできず項垂れる。その肩を強く掴んで、
「夕弥殿、この恩義はいずれ必ず返す。あなたは、一日も早く無事に国へ戻ることだけを考えて欲しい。よろしいな？」
「………はいっ」
遼牙は慈愛のこもった笑みを浮かべて頷くと、すぐに表情を険しく引き締めて副官に目配せした。
「お任せください。必ず無事お送りいたします」
「頼んだぞ」
遼牙は護身用の剣の柄に布を巻いて紫衛那の国章を隠し、腰に差した。そしてフード付きの大きなマントを羽織って身体を包む。
「夕弥殿、また会おう。そしてまた、ゆっくり酒を呑もう」
「は、はいっ。遼牙様、お気をつけて」
遼牙は小さく頷いて、闇の中へ消えていった。その消失点をじっと見つめつつ、低い声で呟く。
「………璃州の守護神、偉大なる海竜リヴァイアサンよ。二人に厚き御加護を―――」
夕弥の祈りは二人の許に届くのだろうか―――
―――遼牙さま……遼牙さまどこ？ どこにいらっしゃるの？ お戻りになったらぎゅっとしてくださるって約束したのに………
―――るう……るう……おいで……こっちだよ………さあ、ぎゅっとしてあげよう………
―――あっ、待って遼牙さまぁ………足が……足が動かないの…………ひっ、ぃゃぁぁぁっ
瑠羽は見る。己れの脚が岩柱に貫かれ、地面に縫い付けられているさまを。
―――やだぁっ……やだやだやだやだぁ………あしが……あしが………
己れの脚だけではない。向こうで瑠羽を待つ遼牙も、そして遼牙を補佐してきた護衛官らもみな、地面から生え出た岩に突き刺されて血を流していた。その光景を、羽の生えた男が笑いながら眺めている。
―――やめて……もうやめてぇ…………
見たくない。人が血を流し、痛みに呻き、怨みを吐き出すさまなど。もう二度と見たくない。でも、でも……戦争は……なくならない………
―――おとう……さん……ぼくは……僕はッ………
「僕はっ―――」
目を開けて最初に飛び込んできたのは、石造りの天井だった。ラピスラズリだろうか、青い石のモザイク片で埋め尽くされ、灯りを反射して煌いている。
紫衛那城の部屋でも、天幕の中でもないことは確かだった。瑠羽はぼぅっと天井を眺めたまま、ここはどこだろうと自問する。空気の質感も匂いも、経験したことのない類いのものだ。
少し湿っているような気もするし、空気中の粒子が整然と並んでいるような行き過ぎた静寂も感じる。その答えを知るために起き上がろうとした時、ふいに声を掛けられた。
「起きたか、瑠羽」
知らない声に名前を呼ばれ、瑠羽は怯えと共に跳ね起きた。そして声の主を目にした途端、さらなる怯えと恐慌に囚われてガタガタ震え出す。
男はゆっくり近付いて瑠羽が寝かされていた寝台に腰を下ろし、「そんなに怯えるなよ」と笑う。
これほど深い闇を湛えた凶笑を、瑠羽は見たことがない。まるで、彼が背負っている闇が我が身に伝播するかのようだ。
「ど…して……ここは………」
やっとの思いで拙い問いを口にする瑠羽を面白そうに眺めると、男はもったいぶった口調で答えた。
「ここは鎮魂の町、巴束……だった場所だ。今は異端のセクトとなっている」
「鎮魂の……町？」
「ああ。巴束の地下には、広大な墓地が広がっている。＜鎮魂の町＞、＜死者の楽園＞と呼ばれる所以だ。つまり―――」
男は瑠羽の恐怖を煽るように、芝居がかった低音で言い置いた。
「今俺たちがいるのは、嘗て死者が眠っていた墓の中ってわけだ」
そして死者も蒼褪めるほどの禍々しい笑みを浮かべた。
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