DECISION
１６.
「さぁて、お姫様はそろそろお目覚めか」
「そうだな。もしかしたら、熱い抱擁の最中かもしれない。その時は何も見なかったことにして、すぐ部屋を出よう」
真朱と羅叉は軽口を叩きながら、瑠羽のいる部屋に向かった。まだ寝ているかもしれないからとノックはせず、そっと扉を開けて中に入る。
すると―――
「おやおや」
目眩く熱い抱擁―――ではなかった。いや、抱擁には違いないのだが、瑠羽はベッドの上で遼牙の膝の上に抱かれ、ぐしぐし泣きながらその胸に顔を押し付けていた。
遼牙はまるで赤子をあやすように、身体を揺らしながら背中をぽんぽん叩いている。羅叉は呆れたように笑い、
「なんだ、まんま赤子じゃねえか」
「確かに、子供の夜泣きを静める父親の図、だな」
二人からのからかいに、さすがの瑠羽もぷっくり膨れて赤い顔で睨み返す。しかしすぐに遼牙の胸に顔をこすり付けて、再び甘えモードに。遼牙は優しく目を細め、頭のてっぺんに口付けを落とした。
その様子を暫し見守っていた二人だったが、やがて羅叉がゆっくり歩みを進めて近付いてきた。
瑠羽はぴくりと身じろぎして身体を硬直させる。やはり、まだ完全に警戒を解くまでには到っていないようだ。しかし羅叉は気にした様子もなく、淡々と口を開く。
「瑠羽、お前は弟を救ってくれた。もしあのまま伽羅の都が崩壊し一族が全滅していたら、俺の中にある弟の魂も共に朽ちていただろう」
顔を背けて遼牙にすがっていた瑠羽は、羅叉の言葉に誠意を感じ、こわごわながら顔を上げて視線を向けた。羅叉は小さく頷き、
「お前には大きな借りができた。だからもし、お前が真朱と共に行くというのなら、俺は命を賭けてお前を守ろう。覚えておくといい、俺の命はお前のものだ」
瑠羽は驚きも露わに大きく瞬きしたが、やがてはっきり首を振った。
「いいえ、あなたの命はあなたのものです。誰のものでもありません」
「瑠羽………」
「むやみに命を賭けるようなことはしないでください。あなたに多くを託していった、弟さんのためにも」
羅叉は大きく息を吐き、「心に留めておこう」と言って淡く笑った。瑠羽はその顔をじっと見つめたが、やがて微笑みを返し、
「左右の眼の輝きが……同じになりました。あなたの中にある憎悪が滅えたことで、弟さんの魂とひとつになることができたのですね」
羅叉ははっと息を呑み、震える指でまぶたの上から左眼を撫でた。瑠羽は微笑みを深めて、
「その眼はもうあなたのものです。これからは、左右の眼が違う涙を流すようなことは決してないでしょう」
その言葉の正しさを証明するかのように、羅叉の両眼から温かく透明な涙が溢れて頬を濡らした。羅叉は照れ臭いのかふいと後ろを向き、「暫くここでゆっくりしているといい」とぶっきらぼうに言い放って部屋を出て行った。
その背中を見送ると、真朱はちらと肩を竦めて、
「あいつ、あれでも瑠羽に感謝してるんだ」
そして二人に向かい、
「地の一族はここを出て、巴束のセクトに匿われることになった。今すぐではないが、近いうちに移動が始まる。羅叉も言っていたように、それまではここでゆっくり身体を休めて………そして今後のことを考えてもらいたい」
「今後のこと………」
もちろん、真朱が言わんとしていることは分かっている。封印された記憶を解放するため、真朱と共に行動するか、それとも―――
「僕……ぼくぅ…………」
瑠羽は迷っていた。迷っていること自体が瑠羽にとって驚くべき変化だった。以前なら、迷わず首を振っていたはずだ。
そんな恐いことに巻き込まれたくありません、僕はただ遼牙さまのお傍にいたいだけなのです、と。なのに―――
「あっ………」
その時、瑠羽を抱き締める力が強まった。ずっと黙って話を聞いていた遼牙の、ささやかな、しかし力強い意志表示。
―――何があっても私はお前と共にいる。だからお前は思うように生きなさい
「遼牙さま……」
その想いを汲み取った瑠羽は、真朱の顔を真っ直ぐ見据えて答えた。
「もう少し、時間をください。真剣に考えてみたいの」
「もちろん。焦ることはないさ。大事なことだからな。悔いの残らない答えを出して欲しい。俺はどんなものでも、瑠羽の出した答えなら受け入れるつもりだ」
真朱は、紅い閃の入った美しい黒瞳を向けて、優しく笑った。その笑顔の儚さに、瑠羽の胸がずきんと痛んだ。
そう、思い出した。記憶を奪われる直前に聞いた、真朱に関する重大な―――
「じゃあな。食事の時間になったら呼びに来るから、それまで遼牙に甘えてな。瑠羽赤ちゃん」
いたずらっぽい口調でそう言って軽く片手を上げると、真朱は部屋を出て行った。が、
「待って！ 待って、真朱っ」
瑠羽は遼牙の膝からぴょんと飛び下りると、真朱の後を追った。
「真朱！ あ、あの、だいじな話が……」
追い駆けたはいいけれど、いざ話すとなると喉の奥がきゅぅっとなって、言葉が萎れてしまう。でも何とか自分を奮い立たせて、目の前で不思議そうな顔をしつつ瑠羽の言葉を待っている真朱に向かった。
「真朱……もうすぐ死んじゃうの？」
一瞬、燻朱の虹彩がすっと細くなった。しかしすぐに肩を竦めて笑い、
「俺はいたって元気だけどな。もうすぐ死ぬように見えるか？」
瑠羽は唇を噛んで俯いた。言おうか言うまいか迷っているのだ。しかし意を決して顔を上げ、
「翼が……全部黒くなったら死んじゃうってあの人から聞いて、それで僕、僕………」
真朱は眉間に淡い皺を刻み、軽く舌打ちした。ったくあの男、余計なこと瑠羽に言いやがって………
「ほ、ほんとなの？ 僕、ぜんぜん気付かなくて……真朱も何も言ってくれないからっ―――」
真朱はゆっくり近付いて、潤み始めた蜂蜜色の瞳を見つめた。涙の向こうから、真実を求めて必死に見つめ返してくるこの瞳に、もう嘘をつくことはできない。ふう、と息を吐き、
「黒壊病、というんだ。原因も治療法も不明だが、恐らく遺伝的なものだろう。俺の母親もこの病で死んでいる」
瑠羽はひゅっと鋭く息を吸い、身体を強張らせた。大きく見開いたままの双眸から涙の雫がころころ転がって頬を濡らしたが、拭うのも忘れて一心に真朱の言葉に耳を傾ける。
その痛ましくも健気な姿に、真朱の心は揺れた。打ち明けるのはまだ早かったのかもしれない。しかし動揺を抑えて努めて平静な声を拵え、
「お前が泣くことはないさ。俺は全てを受け入れている。それに、身体のどこが痛いとか苦しいとかはないんだ。だから安心して―――」
「やだッ、そんなのやだ！ 死んじゃうなんて……絶対にだめだもん！」
瑠羽は真朱の胸に飛び付き、顔を真っ赤にして叫んだ。
「瑠羽……」
「記憶を解放して、みんな仲良くなって、笑顔と幸せがいっぱいで……そんな世界に真朱がいないなんてやだぁ………」
本格的に泣き出した瑠羽の頬にそっと手を伸ばし、流れる涙を受け止める。もしかしたら自分は……自分のためにこんな風に泣いてくれる人を求めていたのかもしれない。
それは弱き心が求めるただの感傷なのだろう。自分はそれを、これまで必死に否定してきた。しかし真朱は、指先から染み込んでゆく涙の温かさを享受し、それに癒される自分の存在を肯定した。
「ありがとう、瑠羽。お前の心からの想いが、俺に生きる力を与えてくれる。俺には充分すぎるほどの幸せだ」
瑠羽は真朱の胸にしがみ付いたまま、大きな決意に沸く瞳を向けて、
「諦めちゃだめっ。僕、ルヒエルさまにお願いしてみる。癒しの魔法で真朱の病気が治せるかもしれない、ううん、きっと治る、治るよ」
瑠羽の訴えを、真朱は労りを込めた微笑みと共に否定する。魔法では治らないという事実そのものより、その事実を瑠羽に伝えることの方がずっと辛かった。
「無理だ。この病は魔法では癒すことができない。颯舞も何度も試みてくれた。けれど俺の母親は死に、俺の病状を食い止めることもできなかった」
「そ、そんな………」
「癒しの魔法は、外部から与えられた損傷を治すもの。だから病でも、細菌やウイルスが侵入して発症した場合には効果があるだろう。けれど、俺のこの病は違う。これはアポトーシスによるもの。魔法ではどうにもならない」
「あぽとーしす？」
聞き慣れぬ言葉ながら、懸命に復唱する。そんな瑠羽に優しい眼差しを注いで、
「アポトーシス、それは細胞の自殺のことだ。詳しいことは分からないが、ある特定の時期が来たら死ぬように、細胞がプログラミングされているらしい。そう、これは内なる崩壊なんだよ。自らの意志で死んでゆくものに、癒しの魔法は効かないんだ」
まるで他人のことのように、淡々と説明する真朱。瑠羽は苦しくて切なくて、言葉を返すこともできずただ首を振り続けることしかできなかった。そんな瑠羽に、真朱は諭すように語りかける。
「瑠羽、この世には、自分の力ではどうすることもできないこともあるんだ。俺にできるのは、それを静かに受け入れることだけ―――」
「そんなことないっ。どうすることもできないなんて決め付けちゃだめだもん。闇の中にも、光に通じる道があるって遼牙さまが―――」
「では瑠羽。もし今、俺がお前を欲しいと言ったらどうする？ 遼牙とは別れて、俺のものになってくれと迫ったら」
意外すぎる真朱の問い掛けに、瑠羽は口を開けたまま固まってしまう。とはいえ、考えるまでもなかった。答えはすぐに出た。
「ぼく……ぼくは遼牙さまのお傍を離れない……真朱のところには行きません……」
はっきりそう告げたものの、苦しげに俯いてしまう。真朱は、瑠羽の両手を掴んでそっと引き剥がし、
「そう、それでいいんだ。分かっただろう？ どんなに頑張っても、自分の力ではどうしようもないことは確かにある」
「真朱……ぼく、ぼく………」
俯いたまま肩を震わせる瑠羽。その頬を両手で包み込んで上を向かせ、
「自分を責めることはない。俺の母親も、嘗て同じことを親父に訊いたそうだ。颯舞のことを忘れ、自分だけのものになってくれるかと。
しかし親父ははっきり答えた。それはできないと。その答えを聞いた母は、笑ってこう言ったそうだ。仕方ないわね。でもそれでいいのよ、緋鞘」
そう言って笑う真朱の表情は、どこか楽しげでもあった。柘榴色の虹彩が、思い出に酔うように優しく潤っている。
その瞳の美しさを記憶に灼き付けようと、瑠羽は目をこすって涙の靄を払った。真朱はぽんぽんと瑠羽の頭を撫で、
「なあ瑠羽。俺は不幸じゃないぞ。人間、誰にも寿命はある。俺の寿命は人より少し短いかもしれないが、何ものにも縛られず、意志の赴くまま自分の道を真直ぐ歩いてこれた。そして今、親父たちのやり残した大きな仕事を成そうとしている。とても……幸せな人生だったと思っている」
「そんな……そんな風に言わないで。まるで、もう終わってしまったみたいに……」
瑠羽の涙声の指摘に、思わず苦笑を漏らす。真朱は「そうだな」と言って、
「まだまだ死ぬつもりはないからな。最近、翼の侵蝕が停滞しているような気がする。もしかしたら、うんと長生きできるかもしれない。だから瑠羽、もう泣くな、悩むな。お前は自分のことを考えるんだ。分かったな？」
真朱の言葉は、自分を慰めるためのものだと分かってはいた。けれど瑠羽は素直に頷き、「僕より長生きするかもね」と言って無理やり笑顔を拵えた。
真朱も笑顔を返すと、涙の乾き始めた頬をさらりと撫で、「また後でな」と言って背中を向けた。その背中が見えなくなると、瑠羽は再び苦しげな嗚咽を漏らした。ずっと我慢していたのだ。
「んっ………ぇっ、ぇぇっ…………」
肩を小刻みに震わせながら、くるりと振り向いて部屋に戻ろうと踏み出す。すると、物陰から遼牙が姿を現した。
「遼牙さま………」
遼牙は深い共感と慈愛に潤んだ瞳で瑠羽を包み込み、そして小さく頷いた。瑠羽はこらえていた感情を解放し、涙を振りまきながら遼牙の胸に飛び込んだ。
「遼牙さまっ……ぼく、ぼくぅ………」
遼牙は暫し黙って瑠羽の頭を撫で続けた。真朱の前ではこらえていた涙を、存分に流させてやりたかったからだ。
やがて、瑠羽が落ち着いてきた頃を見計らって、
「何か、方法があるはずだ。だから瑠羽、諦めないでその方法を一緒に探そう。分かったね？」
気休めだと分かってはいた。真朱の病はもうどうにもならないところまで進行しているのだろう。しかし遼牙は、瑠羽に希望を持たせてやりたかった。
甘いやり方ではあろうが、瑠羽がこのまま悲しみと絶望に沈んでしまうのは、真朱も望んでいないはずだ。
遼牙の力強い言葉に、涙で濁っていた瑠羽の瞳が輝きを取り戻し始めた。げんこつにした手でごしごし目をこすると、かすれた声ではあるが「はいっ」と元気いっぱい答えて、そして大輪の笑顔を咲かせた。
先刻、真朱に見せた作り物の笑顔とは比べものにならないほどの、目映い輝きに溢れた笑み。遼牙は微かな良心の咎めを感じつつ、その身体を強く抱き締めたのだった。
「………冗談じゃねえ。なんで俺たち高貴な神聖高位魔族が、異端の奴らなんかと………」
「まったくだ。ここを出て、セクトに匿ってもらうだと？ 一体何を考えているんだ」
「あの若造、本軍の指揮という族長としての努めを放棄して帰ってきたと思ったら、とんでもないこと言い出したな」
「しかも、長老の連中が承認したというのだから、まったくおかしい。狂ってる」
「俺たちに、火や風の一族と同じ運命を背負わそうというのか」
「………そういえば、風の族長が見つかったとか。先代、颯舞の息子らしいぞ」
「ああ、俺もさっき聞いた。何でも、暫くの間この伽羅に逗留すると」
声を荒げて不満をぶちまけていた男たちが、急に口を噤んだ。そして誰からともなく集まって膝を突き合わせ、声を潜めて、
「全滅させたはずの風の一族、その族長が現れたとなると、翡衛城も心穏やかではいられないだろうな」
「ああ。何としても捕えたいと考えるはずだ。翡衛城にとっては、大きな脅威になり得るからな」
「つまり……その脅威を未然に潰すための手助けをしたとなれば、恩赦が期待できる、と………」
互いの思惑を探るように顔を見合わせていたが、徐に一人が口を開き、
「マー・レーを呼べ。そして翡衛城への伝達を―――」
異を唱える者は、誰一人いなかった。
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