DECISION
１７.（最終話）
「おおい、夕餉の仕度が整ったぞ。ささやかな宴だ。二人も列席してくれ」
羅叉と真朱が揃って呼びに来てくれた。瑠羽は「はぁい」と返事をして、遼牙の腕を掴んでにっこり笑いかけた。
「遼牙さまぁ。お腹ぺこぺこですね。行きましょう」
しかし遼牙は瑠羽の頭を優しく撫で、
「私はやめておこう。瑠羽、お前は私の分まで楽しんできなさい」
途端に瑠羽の顔は曇り、腕にしがみ付いて「どうしてですかっ？」と問い詰める。返して遼牙は淡々と、
「私は彼らの敵対者だ。お前も知っている通り、これまで私は戦場でたくさんのアム・アザゼルを殺してきた。地の一族に属する者も、一度ならず手に掛けてきただろう。とても同席して、酒を酌み交わすようなことは―――」
「そんなっ。それは遼牙さまのせいでは………」
「私情からだろうが戦争だろうが、殺したのは事実。ここにこうして滞在を許されているのも、私からすれば信じられないような待遇だ。感謝している。その上、宴に同席するなど―――」
羅叉はハア、と豪快な溜め息をついて遼牙の言葉を遮った。そして頭をがしがし掻いて、
「ったく、意外に頭が固いんだな。うちの長老連中の方が、ずっと柔軟な頭を持っている。これから平和共存への道を切り拓こうというのに、シェアールもアム・アザゼルもねェだろ？」
「しかし……信条や観念と感情は別ではないのか？」
羅叉は「まあな」と一旦肯定し、
「確かに、頭で分かっていても感情が付いてこないという場合もある。でも、それを乗り越えねば真の平和共存なんて実現できない。違うか？」
「それは……お前の言う通りだが………」
遼牙の懊悩を察した真朱が、そっと口を挟んだ。
「あなたが躊躇するのも解る。しかし、ここは勇気をもって互いに歩み寄ることが必要ではないだろうか。広間にいる長老がたは、全て承知の上であなたを待っている。あなたもそれに応えるべきなのでは？」
恐れていては何も始まらない。自分がこれまで、戦場で多くの命を奪ってきたことは紛れもない事実。だからこそ、その犠牲に報いるためにも一歩踏み出すことが重要なのだ。
遼牙は晴れ晴れとした表情で頷き、
「分かった。そのご招待、謹んでお受けしよう」
「おう。うちの爺い連中はそこそこ話の分かる奴らばかりだ。あんたに嫌な思いはさせねえよ」
羅叉の言葉に笑顔を返し、傍で神妙な顔付きのままじっと話を聞いていた瑠羽の肩を抱いた。
「では、行こうか、瑠羽」
瑠羽は「はいっ」と明るい声を上げ、率先して遼牙の腕を引いていった。
―――ありがと。真朱、羅叉………
前を行く二人の背中に、そっと感謝の呟きを投げ掛けて。
「おお、よくいらっしゃった。さあ、どうぞこちらへ」
羅叉の言葉は嘘ではなかった。広間にずらりと並んで二人を待っていた長老たちは、一見すると厳めしく固陋で扱いにくい老人だったが、皺の奥にある瞳は温かく、心からの歓迎が伝わってきた。
遼牙は瑠羽を伴って近付くと、深く一礼して座った。
「こうして出遭えたのも何かの縁。今宵は難しい話は無しで、楽しく飲み明かそうではありませんか」
長老の中でも指導的役割を担う導師が杯を掲げてそう告げると、追随するようにみなが頷いた。遼牙も「御配慮に感謝致します」と答え、空の杯を手に取った。
導師はその杯に酒を注ぎ、皺だらけの顔をくしゃりと潰して笑った。
遼牙の隣では、自分の仕事を取られた瑠羽が、ぷくっと膨れて怨めしげに杯を見上げていた。すかさず真朱が、
「どうしたんだ？ 瑠羽。おたふくみたいな顔になってるぞ」
「な、なんでもないもん……」
「仕事を取られてふくれてるんだろ？ おい、爺さん。王様に酒を注ぐのは瑠羽の大事な仕事なんだ。取らないでやってくれよ」
羅叉の指摘に、導師は額を押さえて
「これはこれは。気が付きませんでしたな。申し訳ない」
子供じみた仕草が恥ずかしくなったのか、瑠羽はもじもじしつつ「ふくれてなんかないもん」と呟く。その表情が余りに可愛くて、みなの口許が優しく綻んだ。
「それでは、乾杯といきましょう。世界の明るい未来に！」
その挨拶に合わせて、杯の中身を流し込む。こうして、和やかに宴は始まった。導師は改めて遼牙に向かい、
「紫衛那国王、遼牙殿。賢王の令名は、この辺境の都にも届いております。堅実にして寛大な統治。小国を豊かな農業国家に生まれ変わらせた手腕。そして広範に渡る深い学識。お目にかかれて光栄です」
「いや、そなたたちの持つ経験と智恵に比べれば微々たるもの。私こそ、こうして座を共にすることができて光栄だ」
導師は「もったいない御言葉で」と控え目に返し、遼牙の隣に座する瑠羽を見つめた。
「加えて、颯舞様のご子息にお会いすることができるとは……。長生きはするものですな。紫衛那王、感謝いたします」
「いや、感謝を捧げるべきなのは、瑠羽をここまで育ててくれた養い親。彼らの深い愛情があったからこそ、瑠羽は真直ぐに育ってくれた」
「左様でございますか…。危急を察した琴悠様が、瑠羽様を救うためシェアールの義人に託したのですね。その時の心痛を思うと………」
導師の言葉に涙腺を刺激された瑠羽は、潤み始めた目をこしこしとこすった。遼牙はさりげなく腰に腕を回して抱き寄せ、
「しかし、琴悠の決断があったからこそ瑠羽はこうして生きているのだ。彼女が託した想いは、瑠羽の中にしっかり受け継がれている。いや、琴悠だけではない。颯舞の想いも」
「仰る通りでございますね。お二人の魂が、瑠羽様の中で実を結んだ。こうして命は継がれてゆくのでしょう」
遼牙は頷いて、杯を空けた。涙をこらえつつ会話に耳を傾けていた瑠羽は、すかさず銚子を取って遼牙の杯に注ごうとする。
しかし何故か、遼牙はそんな瑠羽を制した。そして厳かな声で、
「瑠羽よ、お前はもう、私の酒姫ではない。酌などしなくていいのだよ」
突然の宣告に頭が真っ白になった瑠羽は、銚子を持ったまま硬直した。と思ったら小刻みに震え出し、
「い、いや……どして………僕……何か粗相を………」
「違う、瑠羽。そうではない」
「やだぁ……遼牙さまっ、もう僕のこといらないの？ 誰か他のひとを酒姫にっ―――」
これは渡さないとばかりに、瑠羽は酒の入った銚子をぎゅっと胸に抱く。遼牙は愛おしげに目を細めて、いやいやと首を振る瑠羽の身体を膝の上に抱き上げた。
「そうではない。私にはもう酒姫は必要ないのだ。それに瑠羽、お前は決めたのだろう？ 真朱らと共に行くと」
瑠羽ははっと顔を上げ、真剣な眼差しで遼牙を見つめる。遼牙は頷いて、
「お前の気持ちは分かっている。だから瑠羽、お前はもう私の酒姫ではない。以前にも言ったが、自分の思うように生きなさい。そして私も、お前と共に行こう」
この言葉に誰より驚いたのは真朱だった。厳しい声で、
「それは……王位を捨てるということか？」
「そうだな……そういうことになるかもしれん。しかし記憶が解放された後の世界がどのようなものなのか、私には想像もつかないが、その時まだ国で私の力が必要とされるのなら、再び戻ることもあるかもしれない」
真朱は何も返せず、低く呻くしかできない。まさか遼牙がここまで考えていたとは……。
「それに、私は常日頃から王政というものに疑問を抱いてきた。神聖高位魔族のように、魔力などの特別な能力が受け継がれるのなら世襲制も良かろう。しかし、ただ王の第一王子だからといってその者が権力の中枢を引き継ぐというのは、理に反してはいないか。
一点に集中した権力は、必ず腐敗する。資質と品位を有し、たゆまぬ努力を怠らぬ有能な複数の人材に、政は任せるべきではないだろうか」
言葉を衒うことなく己れの考えを訥々と述べる遼牙に、誰もが深い敬意の念を抱かずにはいられなかった。導師は心からの共感を込めて頷き、
「世界は変わろうとしております。新しく生まれ変わった世界においては、仰る通り家系ではなく理性が国を治めることになるでしょう」
「左様。そのような世界への変革を進めるためならば、私は喜んで王位を捨てよう」
そして真朱に向かって、
「私がどれだけ役に立てるのかは分からんが、記憶の解放に向けた道を共に歩ませて欲しい」
「あなたの想い、しかと受け止めた。共に行こう、遼牙、瑠羽」
晴れやかな表情で遼牙の申し出を受け入れた真朱に続いて、羅叉は苦笑を漏らしつつ、
「しょうがねえな。俺は命を賭けて瑠羽を守ると言ったが、あんたが死ぬようなことがあったら瑠羽も生きてはいないだろう。結局、俺はあんたも守らなくちゃならねえ」
「お前の助けなど要らぬ。瑠羽は私が守る」
「ったく、頭が固い上に熱血漢の王様か。付き合いづれえな」
羅叉につられて遼牙も苦笑し、笑いの漣が座全体に広がっていった。しかしその中でたった一人、笑っていない者がいた。まだ銚子を抱き締めたまま、
「でもっ、やっぱり僕は遼牙さまの酒姫です！ こうしてお傍に座って、それでお酌をしたいの………」
「瑠羽………」
「僕が注いで差し上げたお酒を、美味しそうに呑む遼牙さまを見るのが好きなんです。たとえ王様じゃなくなっても……ぼく、ぼくっ―――」
うぐうぐ泣き出した瑠羽を優しい眼差しで包み込み、遼牙は空になった杯をそっと差し出した。
瑠羽は濡れた睫毛をぱちぱちさせて見つめたが、すぐにあたふたと抱えていた銚子を持ち上げて中身を注いだ。遼牙はそれを一気に飲み干し、
「ああ、旨い。瑠羽の注いでくれる酒は最高だ。これからも頼んでいいかな？」
途端に瑠羽は顔をぱあっと輝かせ、何度も頷いた。そして再び空になった杯にとぷとぷと注ぐ。
「ほら、瑠羽。酒姫の仕事は酌をするだけではなかったはずだぞ」
遼牙の言葉に「はいっ」と返し、瑠羽は銚子を床に置いた。そして遼牙の胸にぴったり寄り添い、己れの温もりを分け与える。
「やっぱり、どう見ても甘えん坊の赤子だな」
羅叉のからかいも聞こえない振りで無視し、瑠羽はうっとりと目を閉じた。そう、何も恐いことなどない。この温もりという確かなものさえあれば、この先何が起ころうとも―――
その時、真朱と羅叉の耳が異質な音を捉えた。彼らにとっては聞き慣れた音。空間が裂かれ、上位＜アイティール＞への扉が開かれる音―――
「瑠羽ッ、そこから離れろ！！」
叫んだ時にはもう遅かった。中空に生じた亀裂は大きく口を開き、黒い煙のようなものがじわじわと染み出てきた。
それは意志を持った触手のように真直ぐ瑠羽に向かい、その身体に巻き付いて絡め取る。
「きゃあああッ」
瑠羽の身体は宙に浮き、そのまま亀裂の奥へ吸い込まれる。
「瑠羽ッ」
遼牙はすかさずその手を掴んだ。腕を砕かれるかのような激しい衝撃に襲われたが、決して手を離そうとはしなかった。
―――何があっても瑠羽の手を離さない
嘗て自分に立てた誓いを証明するかのように、遼牙は身体を引き裂く劇痛に耐えながら瑠羽の手を掴み続けた。しかし亀裂から生じる負の力は凄まじく、あっという間に引き込まれていった。
「瑠羽！ 遼牙！」
二人を呑み込んだ裂け目は音もなく閉じ、何事もなかったかのようにただの静寂が広がるばかり。
「くそっ……」
真朱と羅叉は閉じた空間を睨み付け、何もできなかった己れを呪うしかなかった。
（Fin）
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