DECISION
１５.
「瑠羽の様子はどうだ？」
部屋に入ってきた真朱に、遼牙は弱々しく首を振る。真朱は近付いて、
「大丈夫だ、あれだけの凄い魔法を使った後だから、体力の消耗は激しいだろうが、休めばすぐに回復する。心配は要らない」
「お前がそう言うのなら、心配は要らんのだろう。しかし―――」
「さっきの魔法か？ あれは俺も驚いた。どうやら瑠羽は、守護天使に愛されているようだな」
意外な指摘に、遼牙は眉根を寄せて真朱を見つめ、説明を求めた。
「単純なことだ。守護天使にも感情はある。アム・アザゼルの魔力や呪文は全て守護天使から授けられるものだということは、あなたも知っているはずだ。それをどの程度与えるかは、守護天使の裁量なのだ」
「なるほど。守護天使といえども、気に入らない人間にあれこれ尽くすようなことはしない。逆に、気に入った者には様々な呪文を授けて力を貸すということか」
「そうだ。しかし、それが瑠羽にとっていいことか悪いことなのかは分からない。あなたもそれを危惧しているのだろう？」
遼牙は重々しく頷く。守護天使に愛され、強大な魔力を有するこの純粋な子を、羅叉のように我が物にせんとする者は今後も現れるかもしれぬ。
様々な困難に、否応なく直面させられてしまうのではなかろうか………
「確かに未来は不確定だ。しかし瑠羽にとって確かなものがたった一つある。それはあなたの愛情。あなたさえ瑠羽の手を離さなければ、瑠羽は笑顔でいられる。違うか？」
単純にして明快な真実を突き付けられ、遼牙の表情に明るさが戻った。
「お前の言う通りだ。私は何があっても決して瑠羽の手を放さない。それが唯一、確かなことだ」
真朱は頷きを返し、「羅叉のところへ行ってくる」と言い残して部屋を出て行った。その背中を見送り、再び眠っている瑠羽の顔を見守る。すると目覚めが近いのか、眉根を寄せて苦しそうにぐずり出した。
「んっ………んぅ…………」
いつもの安らかな目覚めとは異なる苦しげな様子。何か恐ろしい夢でも見ているのかもしれない。遼牙は驚かせないよう声を低め、
「瑠羽、るう………私はここにいるよ…………」
その囁きに導かれるように、瑠羽は瞼を開けた。
「りょ…きさま………」
「お目覚めだな、お姫様。気分はどうだ？」
瑠羽はゆっくりと周囲を見回して、
「あの……ここは………」
「伽羅の都。羅叉が部屋を用意してくれた」
「あ……みんな、無事だったのですか？」
「ああ、もちろんみな無事だ。地震が起きたことすら誰も覚えていない。当然だな。地震など“起きなかった”のだから」
遼牙はそう言って、瑠羽の頬を手のひらで包み込んだ。しかし瑠羽は、その温もりに憩うことができなかった。
瞳は切なく震え、やがて涙の珠が目の縁からひとつ、ふたつと生まれてこぼれた。
「消えないの………遼牙さまのお胸を刺した時の手の感触が………。剣から伝わってくる遼牙さまの鼓動や、痛み、悲しみすべてが………僕の手にっ………」
瑠羽は顔をくしゃくしゃに歪めて泣きじゃくる。遼牙は死ななかった、心臓に突き刺した剣は体内に吸収された、だからといって、この手で遼牙を殺そうとしたという事実が消えたことにはならない。
現にあの瞬間の生々しい感触は、手に染み込んで瑠羽を責めるかのように疼いていた。遼牙はその、罪の記憶に震える手をぎゅっと掴み、
「忘れなさいとは言わない。忘れることなどできないだろうから。だから瑠羽、乗り越えなさい。この手に刻まれた私の苦しみを。そして私も、お前が味わったに違いない恐怖や絶望を乗り越える」
「遼牙さま……」
「恐かっただろう、絶望に潰されただろう。連れ去られた挙句、深淵の呪文で記憶を奪われんとする瞬間のお前の心を思うと、痛みの余り叫び出しそうになる。だからこれであいこだ。互いの苦痛を受け入れ、それを乗り越えることでまた絆を深めればいい。分かったね？」
瑠羽は苦しそうにしゃくり上げながらも、遼牙の言葉に何度も頷いた。そしてずっとこらえていた心情を吐露する。
「ぼく………初めて死にたいと思いました。遼牙さまのことを全て忘れてしまうくらいなら、死んでなくなってしまった方がずっといいって………」
「しかしお前は生きている。瑠羽、ありがとう。生きていてくれてありがとう」
遼牙は震える声でそう言って、瑠羽の肩を強く掴んだ。
「よいか、瑠羽。絶望こそ最も忌むべき魂の墓場なのだ。今後何があっても、どんな苦境に立たされても、決して絶望してはならん。全き闇などこの世に存在しない。闇の粒子ひとつひとつの隙間に、光へと通じる道があるのだ」
「光へと通じる道………」
「そうだ。死を望むことは、自ら目を閉じてその道を消してしまうことに等しい」
遼牙は肩を掴んだ手を背中に回し、深き想いを込めて抱き締めた。
「私は一度、お前の死に直面している。そう、地獄というものが存在するならば、あの瞬間私はまさに地獄の底に堕ちた。何も見えぬ、何も聞こえぬ、ただお前の亡骸を抱きかかえ、獣の如くふらふらと彷徨ったのを微かに覚えている。もう二度と、二度とあんなことはっ―――」
喉を詰まらせて絶句する遼牙を労るように、瑠羽は小さな手でその背中を撫でた。そして、
「僕、何があっても絶望しません。暗闇に放り出されても、闇の隙間にある光の道を信じて……」
遼牙は瑠羽の首筋に顔をうずめて小さく頷きながら、その温もりとジャスミンの芳香を反芻する。
今の言葉は、瑠羽だけではなく自分に対して言い聞かせたものでもあった。何があっても絶望はしない。瑠羽と共に歩む光の道を探すのだ、と。
遼牙はゆっくりと顔を上げ、瑠羽の唇に自分のそれを重ねた。微かに涙の味が残っていたが、すぐに口付けの甘さに駆逐されて蕩けてゆく。
瑠羽はふわんと唇を開いて、遼牙の熱い舌を誘い込んだ。口内を荒々しくまさぐられながらも、瑠羽は苦しそうな顔も見せず積極的に舌を差し出す。絡まりもつれ合うささやかにして甘美な交合に、うっとりと目を閉じて沈み込んでいった。
やがてぬちゅ、と音をたてて唇が離れたが、濡れた舌先はまだ触れ合っていた。遼牙は名残惜しいとばかりに、ピンク色をした瑠羽の丸い舌先をぬるりと円を描いて舐めてからようやく離れた。
瑠羽は「あふぅ…ん」と可愛い吐息を漏らして、舌をちらちら蠢かす。そして、執拗に吸われたせいでさらに紅みを帯びた唇をふるわせ、「りょうきさまぁ……」と甘えた声をこぼした。
遼牙はフッと笑って耳許に口を寄せ、
「どうした？ 何のおねだりかな？」
瑠羽はもじもじした挙句、
「抱っこぉ………」
遼牙は苦笑しつつその身体を膝の上に抱き上げ、「まるで赤子だな」とからかいながらもあやすように揺らし続けたのだった。
「羅叉、入るぞ」
中から応えはなかったが、真朱は構わず扉を開けて中に入る。そこには珍しく深刻な表情の羅叉と、地の一族の長老と思しき数名が相対峙していた。真朱は肩を竦め、
「悪い、邪魔をした。出直してくる」
恐らく今後のことを話し合っていたのだろう。自分が顔を出すべきではないと判断した真朱は、退室しようとした。が、
「お待ちを。真朱様もどうぞこちらへ」
年齢による身体の衰えは免れないが、炯々たる眼光が深い知性の息吹きを感じさせる老翁が真朱を呼んだ。
「今、全てを話し終えたところだ。俺が翡衛城を裏切って異端に寝返ったこと、それによる翡衛城の追及から逃れるため、これから巴束のセクトに移動してもらうことなどを」
羅叉の説明に、真朱は「そうか…」と呟いて重々しく頷くしかできない。族長が異端に与して翡衛城に叛いたらどうなるか、火の一族と風の一族の運命を見せつけられて、嫌というほど分かっているはず。
族長と一族は一蓮托生とはいえ、やはり巻き添えを食らったという意識は捨て切れないだろう。何故裏切った、何故異端なぞに……と怨む気持ちが生じても仕方あるまい。
しかし、そんな真朱の暗い思惑を措いて、長老たちの表情は何故か明るかった。彼らは互いに頷きを交わして意思を確認し合うと、代表して導師と呼ばれる一人が口を開いた。
「承知いたしました。我々地の一族は、全て羅叉様の決定に従います」
怨みがましいことなどひとつも口にせず、寧ろ晴れ晴れとした口調で伝える。これには羅叉も驚きを隠さず、
「ここを……一族の聖地を離れるんだぞ。アム・アザゼルの敵となり、本軍である翡衛城から追われる立場になるんだぞ」
「はい、分かっております。もちろん故郷を離れる淋しさはありますが、それは一時的なもの。伽羅が消えてなくなってしまうわけではありません。羅叉様や真朱様がなさろうとしている偉業を達成することができたら、またここへ戻ってくることができます。願わくば、我々が生きている間にと思っておりますが」
羅叉はこくんと喉を鳴らし、
「お前ら……それでいいのか？」
「はい、それが先代のご意志でしたから」
「親父の？」
意外な言葉に、羅叉は訝るように眉根を寄せた。緋鞘や颯舞の求めを拒絶し、理想郷より一族を守ることを優先させたはずの父が………
「左様で。先代は、ずっと悔いておられました。緋鞘様や颯舞様と行動を共にせず、私情を優先させてしまったことを」
導師はそう言って、表情を変えず聞き入る真朱に雄弁な眼差しを送る。が、すぐに羅叉の方へ向き直り、
「古文書『瑠璃の彼方』の存在とその内容を知った先代が、心惹かれなかったはずがありません。お二人と共に、封印された美しき記憶を探す旅に出たかったことでしょう。しかし我々一族の存在が枷となってしまったのです」
「それは親父だけじゃねえ。真朱の親父だって瑠羽の親父だって同じだ。二人とも、一族の長という重責を担っていたんだ」
「仰る通りで。しかし羅叉様ならお分かりのはず。先代は心優しく、そして弱いお方でした。大きな理想のために、目の前のささやかな幸せを犠牲にすることができなかったのです」
羅叉は思わず唇を噛み締める。その通りだった。そして自分は、そんな父親に歯がゆい思いを抱き続けてきたのだ。
「緋鞘様と颯舞様が出立したのち、異端の疑いをかけられ一族が皆殺しにされました。実は、その討伐隊の総指揮を執るよう、翡衛城から命令が下されたのです。先代がお二人と親しかったことを知った上での、如何にも陰険な、翡衛城が好みそうなやり方です。
さすがに先代は毅然と断わりました。しかしその後、火と風の一族は滅ぼされました」
男はそう言って、真朱を見た。しかし真朱は目を逸らさない、俯かない。事実を事実として受け入れるがゆえに。統べるべき民を持たなくても、一人凛乎と立つ。彼は真の王だった。
「その報らせを聞いた先代は、一人で安寧の地にいる己れをどれほど責めたでしょう。そしてその数年後、緋鞘様と颯舞様の死の報らせが、使い魔（マー・レー）によってもたらされました。先代はその場にひれ伏し、声を上げて哭きました。すまない、すまない、と繰り返しながら………」
「………親父が病に臥せったのはその頃か」
「左様で。もちろんこれだけが原因ではありません。……そう、羅叉様の弟君のこともありました。そういった全ての悲しみ、悔やみ、自責の念が先代の心身を蝕んで、そのまま命の炎が尽きてしまったのです―――」
その頃羅叉は、弟を殺された怨みから父に反目し、距離をおいていた。だから病気で死んだのはもちろん知っていたが、そんな葛藤に苦しんでいたことは全く気付かなかったのだ。
「はッ、心優しく弱い男に相応しい最期だな」
羅叉の呟きは皮肉めいてはいたが、そんな弱い父への労りと共感が含まれていた。導師は痛ましさを隠そうともせず目を細め、
「先代は、自分の弱さを自覚しておられました。だからこそ、臨終の間際に私どもを傍らに呼び、羅叉様のことを頼んだのです」
「俺のことを？」
「はい。先代は、いずれ羅叉様が異端の道を歩まれるだろうと予期しておりました。もし将来、あの子が翡衛城に叛き、理想郷を実現させる道を選んだとしたら、その時はどうか引き留めないでやって欲しい、と」
羅叉は信じられないとばかりにゆるりと首を振り、「まさか親父が……」と呟く。無理もない。あれほど一族を守ることに腐心していた父が―――
しかし導師は続けて、
「先代は、こうも仰っておりました。あの子には、私のような後悔ばかりの道を歩ませたくはない。それに私は、あの子の最も大事なものを奪ってしまった。だからせめて、己れの思う道を進ませてやりたいのだ、と」
「親父………」
羅叉は俯いて、震える拳を見つめる。そんな羅叉の姿を、真朱は労りを込めて見守った。
死んでしまった後にその者が抱いていた深い想い、真意に気付くことほど虚しいことはない。何故生きているうちにもっと話し合い、解り合うことができなかったのかと、今更無意味だと分かっていても自分を責めてしまう。
確かに真朱は多くのものを失った。しかし生前父と語り合った言葉やその想いは、深く深くこの胸に刻み込まれているのだ。
導師はゆっくりと近付いて、羅叉の肩に手を置き、
「ですから羅叉様、あなたはどうぞ思うようにお生きなさい。我々はもう、あなたの枷ではない。恐らく、一族の中には反発を見せる者もいるでしょう。しかしご心配には及びません。我々が説得してみせましょう」
「………頼む。迷惑を掛けるが………」
「お任せください。まずは巴束への移動を迅速に進めることですね。とはいえ、そう急ぐことはないでしょう。マー・レーの報告によれば、どうやら翡衛城は羅叉様の離反をまだ精確に掴んではいない様子。動くとしても、２、３日は要するでしょう」
羅叉はようやく笑顔を見せた。
「さすが、手回しが早えな。年の功だ」
しかしすぐに表情を引き締め、真朱の顔をじっと見つめる。やがてこれまでにない真摯な声で、
「俺の力は必要か？」
「ああ、必要だ」
真朱は答えると同時に、すっと片手を差し出した。羅叉は暫しその手を見つめていたが、やがていかにも渋々といった風に強く握った。
「お前と手を繋ぐなんて、これが最初で最後だからな」
「望むところだ。俺だって、どうせ手を繋ぐなら瑠羽の方がいい」
「言ってくれるじゃねェか」
悪態をつきながらも、二人は固く握った手を離そうとはしなかった。
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