DECISION
１３.
壊れた魂の発する絶望の叫びに、その場にいる誰もが戦慄した。耳にしただけで、心が千切れそうになる。セクトの指導者として数々の修羅場を越えてきた男たちが、思わず耳を塞いで低く呻いた。
「ちっ、まずいな」
この瑠羽の様子だと自ら命を絶ちかねない、そう判断した羅叉は、とにかく落ちている剣を拾って処分しようと近付こうとした。が、
「くっ………んだよ、これは―――」
瑠羽の身体を金色に輝く螺旋の帯が取り囲み、羅叉の身体を弾き飛ばした。帯に触れた手が灼けるように痛む。
「これは……瑠羽の魔気、なのか……？」
アム・アザゼルは普段からごく微量の魔気を放出している。しかし何らかの理由、多くは悲しみや怒り、恐怖など強烈な負の感情に囚われた場合だが、魔気が暴走し限界を超えて解放されると、こうしてはっきり目に見えるほどに濃い光の帯となって、その身体を取り囲むのだ。
この状態に陥ると、意志の力では制御できない。自然に収束する場合も稀にあるが、大抵は身体や精神が暴走する魔気に付いてゆけず、そのどちらかが壊れてしまう。
「くそ、このままでは―――」
「このままでは、瑠羽の神経が灼き切られてしまう」
聞き覚えのある声に、羅叉は弾かれたように振り向いた。そして威嚇を込めて睨み付ける。
「真朱……てめえ…………」
対して真朱は静かな怒りを湛えた瞳で見返し、
「あの二人を引き離そうとすれば、こうなることは分かっていた」
「うるせえ、腑抜けの死に損ないが。まだ失敗と決まったわけじゃねえぞ」
しかし真朱は不敵な笑みと共に、「そうかな？」と意味深な問いを返す。そして、倒れている遼牙の方へちらと視線を送った。つられて羅叉も遼牙を見る。そして、絶句した。
「な…ん―――」
背中から突き出ていたはずの剣が消えている。それだけではない。
「ぅっ…………」
微かな呻き声と共に、ゆっくりだが起き上がろうとしている。
「心臓を貫いたのは、所有者の身体を鞘とし、その血肉を欲する妖刀、龍舌刀だ。所有者である遼牙の身体を貫いたとて、ただその体内に取り込まれるだけ」
淡々と語る真朱に、羅叉は血走った眼を向け、
「つまり……わざと二人同時に剣を落とすよう仕向け、瑠羽に自分の龍舌刀を握らせたというわけか………は、ははははは…………」
震える唇から力ない狂笑を漏らす羅叉を置いて、真朱は瑠羽に近付いた。魔気の帯に触れぬ程度の距離から、
「瑠羽、瑠羽。よく見るんだ。お前の大事な人は死んでいない」
『ま……そお………？』
真朱の冷静な諭しが届いたようだ。光の帯に取り巻かれた瑠羽はゆるりと顔を上げ、倒れている遼牙の方へこわごわ視線を向ける。
『りょ…きさま………』
真朱の言う通りだった。さっきまではぴくりとも動かなかった遼牙が、両手をついて起き上がった。胸に刺さった剣も消え失せ、流血も疾うに止まっているようだ。
「る…う……これは一体………何が起こったのだ…………」
『ふぇっ、ぇっ………遼牙さまぁ…………』
すぐにその胸に飛び込みたい、そして自分が犯してしまった罪を心から詫びたい。けれど今の状態で遼牙に近付いてはならないと、瑠羽は分かっていた。
「瑠羽っ、記憶が戻ったのだな。よかった―――」
『来ちゃだめ！ 遼牙さま、僕に近付かないでっ』
瑠羽は自分の身体をぎゅっと抱き締め、遼牙に向かって何度も首を振る。
「瑠羽、今の状態は一時的な感情の暴走によるものだ。だから落ち着きを取り戻せば、必ず戻ってこれる」
力強い言葉をかけて何とか引き戻そうとする真朱に、瑠羽は絶望的な眼差しを向けて、
『だめ…なの……まそお……もどらない………もどれないの…………』
真朱は音をたてて奥歯を噛み締める。嫌な予感が当たってしまった。瑠羽を襲った悲しみ、痛み、絶望が余りに強すぎて心を硬直させてしまい、自力で戻ることができないのだ。このままでは―――
『遼牙さまぁ……ぼく、ぼくぅ………』
「瑠羽、いい子だ……戻っておいで。約束だ、ぎゅっとしてあげよう。さあ……」
遼牙の優しい促しに、瑠羽は首を振って拒絶するしかできない。
『遼牙さま、僕はいい子じゃありません。とても悪い子です。遼牙さまのお胸に……剣をっ………』
瑠羽はこしこしと涙を拭って改めて遼牙を見つめ、
『だから……だからもう僕はっ―――』
瑠羽の叫びを遮るように、遼牙は立ち上がった。そして迷いのない歩みで瑠羽に真っ直ぐ近付く。
『だめッ、来ないで！ 来ないで遼牙さまっ』
瑠羽の必死の訴えが聞こえていないのか、遼牙はこの状況を忘れさせるほど美しい微笑みを浮かべて近付き、両手を伸ばした。
指先が魔気の帯に触れると、バシッと鈍い衝撃音が走った。腕全体が灼かれるような痛みに襲われたが、遼牙は呻きを漏らすどころか笑顔すら崩さず、そのまま身体を魔気の中へ沈めてゆく。
「やめるんだ！ 人間の肉体が耐えられる領域ではない！」
真朱の忠告にも耳を貸さず、遼牙はゆっくりと、まるで金色の夢に身体を浸すかのように進む。瑠羽の魔気は異物を排除せんと、細かな光線の矢となって遼牙の身体に降り注ぐ。
さすがの遼牙も低く呻き、生皮を剥がされんばかりの激痛に顔をしかめる。
『やだあああああッ、遼牙さま、遼牙さまぁッ』
しかし遼牙は戻ろうとせず、ついに渦巻く魔気の中央、瑠羽のもとに到達した。腕を伸ばして金色に輝く身体を抱き締めるとグォン、と空気が鳴り、魔気の帯が網膜を灼くような閃光を発した。
「うあッ……」
耐え切れず目を閉じると、頑丈なはずの石室が揺れてそこかしこからピシッと亀裂音が聞こえてきた。やがて音も振動も収まり、真朱はおそるおそる目を開ける。するとそこには―――
「ああ……聖なる御使い、汝の守護に感謝する……」
遼牙の腕の中にすっぽり収まり、すすり泣きながらその胸に顔をこすり付ける瑠羽。どうやら遼牙も無事のようだ。
「まったく……無茶をする王様だ」
聖守護天使に感謝を捧げたものの、真朱には分かっていた。これは守護天使の計らいではなく、遼牙と瑠羽の絆が生んだ奇跡に他ならないのだ、と。
「んぇっ、ぇぇっ……りょ…きさま……りょうきさまぁ…………」
身体をぷるぷる震わせ、襟にしがみ付いて泣きじゃくる瑠羽を、遼牙は力の加減も忘れてきつく抱き締めた。
力任せの抱擁に瑠羽も苦しい素振りなど見せず、温かな胸に顔をこすり付ける。すると微かな血臭が鼻孔を掠めた。
「ごめ…なさい……ぼく、ぼくぅ……遼牙さまにいっぱい悪いことしたの………」
遼牙は抱き締める力を少し緩めて、
「言ったはずだぞ。私はお前と共に行く、と。相応の覚悟はできている」
確かに、あれは一か八かの危険な賭けだった。いくら龍舌刀は所有者の血肉と同化するとはいえ、心臓に突き刺しても命を奪うことなく巧く同化してくれるかは、正直言って分からなかった。
それでも、あれしか方法はなかった。あとは龍舌刀の可能性に恃むしかなかったのだ。
しかし今、自分はこうして生きている。瑠羽も記憶を取り戻し、魔気の暴走も収まった。とはいえ、ここはまだ敵の領地。自分たちの運命は彼らの手中にあると言ってもいい。
まだまだ安心はできぬと自分に言い聞かせ、瑠羽の身体を抱き上げようとした。
「遼牙さまぁ……」
まだ濡れている瞳の向こうから、甘えたような眼差しを送ってくる。顔は真っ赤で鼻はぐしゅぐしゅ、頬は涙でべたべただったが、遼牙は募る愛しさを抑え切れずその顔に幾度も口づけを落とした。瑠羽はうっとりと目を閉じて、温かなキスの雨を受け取った。
そんな二人の睦み合いを優しく見守っていた真朱は、ちらと隣の羅叉に視線を送った。そして、
「どうした？ 羅叉。左の眼が潤んでるぜ。まるで、あの二人の再会を祝福するかのように」
「………うるせェ」
「お前だって、気付いているはずだ。こんなことに何の意味もないと」
「黙れ」
確かに、羅叉の左眼は澄んだ涙の菲膜に覆われていた。しかしそれ以外は悔しさに歪み、口からは真朱の諭しを拒絶する険しい言葉が。それでも真朱は続けて、
「お前がやろうとしていることを、弟が喜ぶとでも思っているのか？ お前はただ、制御できない自分の憎しみを弟に転嫁しているだけだ。お前の弟は―――」
「黙れッ！ てめえに何が分かるっ」
羅叉は噛み付かんばかりに叫んで、自分以外の全ての者に憎悪の眼差しを叩き付けた。
「はッ、くだらねえ茶番見せやがって。風の力なんて要らねえよ。俺は一人で、思い通りにやらせてもらう」
羅叉はそう言って背中を向け、一人で石室を出て行った。真朱はすぐに後を追って部屋を出ると、遠ざかる背中に向かって「待て！」と声を張り上げる。
しかし羅叉の姿はあっという間に見えなくなった。石室の中にいるセクトの指導者を掴まえて、
「おい、羅叉は地の一族を滅ぼすつもりではないのか？」
問われた男は蒼褪めて頷く。
「そ、そうだ。我々はてっきり、一族の者をこのセクトに連れて来て匿うつもりだと思っていた。なのに羅叉様は、自分の手で皆殺しにすると………」
「それはどういうことだ」
二人の会話を聞いていた遼牙が、瑠羽の身体を抱き上げつつ訊ねた。真朱は昏い眼差しを返し、
「聞いたままだ。奴は自分の一族を皆殺しにするつもりなんだ」
「ど、どうして………」
瑠羽は遼牙の首にしっかりしがみ付き、怯えた目で真朱を見つめる。しかし真朱はくるりと背を向け、
「詳しい事情は後だ。すぐに羅叉を追い駆けて、やめさせねば」
「うん！ やめさせなくちゃ。きっと、あの人の左眼がかなしむよ………」
瑠羽の呟きに驚いた真朱は、再び向き直って瑠羽を見つめた。
「瑠羽……気付いていたのか、あの瞳に……」
そして遼牙に向かって、
「俺はこれから羅叉の後を追う。遼牙はどうする？」
「瑠羽が行きたいというのなら、私は従おう」
真朱は「分かった」と言って二人を促し、地上に出た。夜明けが近いらしく、空は白み始めていた。
「地の一族の聖地、伽羅（きゃら）は、ここから南へ、谷を二つ越えた奥地にある。羅叉に追い付くには、あれに乗っていくしかないな」
真朱が指差す先には、鈍色の硬い皮膚を持つ大きな飛竜が。遼牙は大きく目を見開いて、
「これほど巨大な、進化前の飛竜がまだ生息していたとは」
「大陸は広いんだ。こいつは迷い子で、俺が拾って育てた。名前は竜胆（りんどう）っていうんだ。可愛いだろ？」
確かによく人に懐いているようだ。近付いても大人しく頭を下げて待っている。とはいえ、見たこともない大きな生き物に瑠羽が怯えていないかと、遼牙は心配そうに顔を覗き込んだ。
「瑠羽よ、あれの背中に乗るのだぞ。恐くはないか？」
瑠羽は黙って遼牙の腰に抱き付く。遼牙さまと一緒なら恐くありません―――無言の返答を汲み取った遼牙は頷いて、「では、行こう」と真朱を促した。
「よし、目指すは伽羅だ」
三人を乗せた飛竜は大きく羽ばたいて、ふわりと舞い上がった。「すごいすごい」と身を乗り出す瑠羽を軽く戒めてから、
「あの男、族長でありながら何故一族を………」
遼牙の問いに、真朱は淡々と答える。
「簡単な話だ。奴、羅叉はずっと一族を怨んでいたんだ。これまで周到に憎悪を押し隠し、族長として穏当に振る舞いつつ機会を窺っていた。そして瑠羽を見つけて記憶を奪い、風の力を手中に収めた彼は、ここぞとばかりに寝返った。本性を現したというわけだ」
「風の力……瑠羽の力というのはそれほど強大なものなのか………」
独白めいた遼牙の言葉を鼻先で嗤い、
「今さら何を。それはあなただってよく知っているはずだ。風の一族はいわゆる攻撃呪文を持たない。しかしあらゆる攻撃魔法の威力を増幅させることができるんだ。瑠羽を味方につければ、恐いものなしというわけだな」
真朱の言葉を否定するように、瑠羽は何度も首を振る。遼牙はその背中を優しく撫でて、無言のうちに宥める。大丈夫、瑠羽は何も恐がることはない、そのままでいいのだよ、と。そして真朱に向かい、
「羅叉がそこまで激しい怨みを同族に抱く理由は、一体何なのだ」
真朱は深い溜め息をついて、遠くの空を見つめた。
「……そうだな、伽羅に着くまで少しあるから、話しておこうか。といっても、それほど複雑な話ではない。愛する者を奪われ、それがために狂ってしまった男の話だ。そう、羅叉は以前は、あんな奴ではなかった。弟を殺された悲しみが、彼を変えてしまったんだ」
「弟を……まさか、一族の人間に………」
「ん、まあな。俺はいつだったか、この話を直接羅叉から聞いた。やり場のない怒りと悲しみと自責の念に時折喉を詰まらせ、それでも語り続ける彼の姿は悲壮ですらあったな。
確か彼は、こんな言葉で語り始めた。“俺の親父は優しくて、どうしようもなく弱い人間だった”、と―――」
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