REUNION
４.
天国も地獄も己れの内にあるのだと、遼牙はよく父から教えられた。つまり心の持ちようでどうにでもなるのだから、絶対的な楽園も脱出不可能の地獄も存在しないのだ、と。
父よ、あなたの仰ることは尤もだ。しかしたったひとつ例外がある。
それは―――
「瑠羽よ……お前の傍は私にとって、絶対的な楽園なのだ………」
太陽がそろそろ天頂に差し掛かろうかという頃、遼牙はようやく目覚めた。そして、腕の中でふわふわの寝顔に薔薇色の潤みを浮かべて、時折嬉しそうに頬擦りしてくる瑠羽の存在を魂と身体で感じた時、遼牙は今、ここにある楽園の実在を確信した。
「んん………んっ…………」
ぐずり始めたと思ったら、震えるまぶたがゆっくり開いた。が、何故か瞳は不安げに揺らぎ、宙をふらふら彷徨う。しかしすぐに自分を見つめる愛しい人の存在を捉えて、衒いなき悦びに沸いた。
「夢……じゃないの……りょうきさまぁ…………」
「夢ではないよ、瑠羽……」
瑠羽の不安や戸惑いはよく解った。あれほど狂おしく濃密な夜を過ごしたというのに、遼牙もまだ信じきれないのだ。こうして腕の中に瑠羽がいるという事実に。
つい数日前までいた場所との余りの落差に恐れをなした本能が、防御策を講じたのかもしれない。夢かもしれないと警戒することで、この幸せに溺れてしまわぬようにと。
しかし、そんな策は瑠羽の蕩ける笑顔を見た瞬間に呆気なく崩れた。裸の身体を四肢で抱き取ってぎゅぅ、と力を込めると、熱気を帯びた甘い芳香がふわん、とたちのぼって嗅覚を酔わせる。
いや、嗅覚だけではない。遼牙のあらゆる感覚が瑠羽の存在を感じ取って、悦びの声なき声を上げた。
「ちゃんと目が覚めたかな？ あれからぐっすり眠れたようだな」
瑠羽はぴくん、と肩を小さく震わせると、急にこしこし目をこすり出して「まだ……目は覚めてないですぅ………」と眠そうな声で言った。
遼牙は苦笑を浮かべて、
「こら。眠そうなふりをしてもだめだぞ」
「ふぇ………だって、だって………もうすこしこうしていたいんだもん………」
顔を赤くして胸にすがり付いてくる瑠羽の頭をなでなでして、
「安心なさい。帰ってすぐ公務に復帰するような勤勉さは持ち合わせていないよ。暫くはゆっくり静養するつもりだ」
瑠羽は顔を上げて、おそるおそる訊ねる。
「ぼく………お傍にいてもいいの？ せいようのじゃまにならない？」
「瑠羽、静養というのはな、お前の肌に触れお前の歌を聞き、お前の芳気を肺腑いっぱい吸い込むことなのだ。傍にいなくてどうする」
嬉しさと恥ずかしさでもじもじしている瑠羽の耳許にちゅ、と口付けてから、眉間に微かな皺を寄せて訊ねる。
「それよりも瑠羽、身体は大丈夫か？ 昨夜の営みは、お前の小さな身体には負担が大きすぎたかもしれぬ。…………すまなかった」
浴室から寝台に場所を移してからも遼牙の欲望は留まるところを知らず、一年分の飢えを剥き出しにして瑠羽の身体を味わい尽くした。
狂気と紙一重の快楽に悲鳴を上げ、とめどない涙をシーツに滲み込ませた瑠羽だったが、遼牙の執拗な求めを決して拒むことなく、積極的に脚を開きお尻を突き出して情欲を煽ったのだった。
「いや……謝ったりしないで、遼牙さま。いっぱいいっぱい愛してもらえてすごく幸せだったのに、その幸せが否定されたみたいに思えてしまいます…………」
淡い憂いを帯びた口調で咎められて、遼牙は慌てて言い訳をした。
「わ、私ももちろん幸せだったぞっ。当然ではないかっ。そうではなくて、もっとお前の身体を労わってやるべきだったと言いたかったのだ。……瑠羽、正直に言いなさい。身体に辛いところはないか？」
「えと……つらいところはないです。ただ、あの……お尻が…………」
みるみるうちに頬が赤くなり、遼牙の腕の中でもぞもぞと恥じ入るように腰をくねらす。そして消え入りそうな声で、
「お尻の中にね………まだ遼牙さまが入ってるみたいなの………。恥ずかしいけどうれしいです」
遼牙は思わず額を押さえて天を仰ぐ。何と愛らしい誘惑の言葉。こんなことを言われたら、つい本物を挿れてやりたくなるではないか。
しかしそこまで鬼畜な王様になれない遼牙は、赤く染まった頬をぷにぷにとつついて「私も嬉しいよ」と甘く囁く。そして細い腰に腕を回して引き寄せ、
「とにかくこれから公務に復帰するまでの間は片時も離さんからな。瑠羽、覚悟していなさい」
瑠羽は返事の代わりに唇を押し付けて、遼牙の身体にぎゅっとしがみついた。
それからの遼牙は、言葉通り瑠羽を決して傍から離そうとはしなかった。それは行動を共にするとか傍らに控えさせておくといった次元のものではなく、“腕の中に監禁する”という表現しか当てはまらないほどの溺愛ぶりだった。
食事の時はもちろん、本を読む時も鴇津と談笑する時も瑠羽の定位置は膝の上。そしてことあるごとに蜂蜜色の髪にうっとりと顔をうずめたり、唇にちゅ、ちゅ、と吸い付いたり、お尻をやわやわ撫で回したり。
始めは周囲の人間も微笑ましげに眺めていたのだが、余りの執拗さに徐々に笑顔も凍り付いていった。
「無理もありませんわ。一年も離れていたのですから」
そう言う鞘葉の口許も微かに引きつっているほど。唯一こうなることを予想していた鴇津は、いつもと変わらぬ淡い微笑みを浮かべて肩をすくめ、
「ひと晩一緒に寝れないだけで大騒ぎしていたほどですからね。遼牙様も成長されたものです」
皮肉なのか本当に感心しているのか判然としない口調で言い置くと、うんうんと頷いた。
その日、朝から城内は慌ただしく、夕刻日の入り頃になるとほとんど狂乱の態だった。
それもそのはず、今宵は遼牙の帰還を祝う宴が開かれ、国内の大臣、公達はもちろん、近隣諸国のやんごとなき面々も列席する運びとなっていたのだ。
紫衛那城は久方ぶりの高揚感に包まれ、みな忙しい忙しいと愚痴をこぼしつつも口許は綻んでいた。
今日、この日を迎えることができた喜びを噛み締めながら、仕度に奔走していたのだった。
しかし、この騒々しい城内にあって、唯一雅やかに時が流れている場所があった。石造りの浴室。瑠羽はしなやかな腕を鞘葉に預けて、入念に磨かれていた。
「ふぇぇ………鞘葉さぁん、くすぐったいですぅ…………」
「い、け、ま、せ、ん。久しぶりなのですからじっくり擦り込まないと。じっとしていて下さいまし」
「も……のぼせちゃいますぅぅ…………」
鞘葉の指は魔法の指。香油をたらして優しくこするだけで、瑠羽の肌は眩しいほどの光沢を放つのだ。
しかしこのくすぐったさだけは、いくら鞘葉でもどうにもできなかった。しかもこうして丹念に磨かれるのは久しぶりだったから、なかなか肌が慣れてくれない。
瑠羽は顔を真っ赤にしてもぞもぞと動き、何とか鞘葉の指から逃れようとしたが、どこにそんな力が蓄えられているのかぎゅっと押さえ付けられてしまう。それに―――
「瑠羽様、もうお忘れなのですか？ これは全て遼牙様のためなのでございますよ。遼牙様の酒姫は、誰よりも美しく宴に君臨せねばならないのです」
普段の鞘葉からは想像できない厳しい口調。こう言われてしまっては、返す言葉もない。
瑠羽は項垂れて「はい………ごめんなさい」と素直に謝った。そして鞘葉たち侍女の奉仕を大人しく受けた。その途中、瑠羽はか細い声で鞘葉に伺いをたてた。
「ね、鞘葉さん。ぼく……大丈夫かなあ。宴のご奉仕、久しぶりで………」
ゆうべ必死におさらいをしたけれど、やはり不安は残った。しかも他国の王族や貴族も列席する大舞台で―――
「瑠羽様、今宵の宴は、遼牙様が無事にご帰還されたのを心から祝うものです。一番大切なのは礼儀作法ではなく、そのお気持ちを素直に表現することではないでしょうか」
「あ……ぼく…………」
虚を衝かれて固まった瑠羽に優しい微笑みを向け、
「そう、大事なのは遼牙様への想いです。遼牙様がいつも幸せなお気持ちでいられるよう、笑顔を絶やさず心を込めてご奉仕すること。それが酒姫の務めです。よろしいですね？」
「はいっ」
元気いっぱい答える瑠羽を、侍女たちは温かな目で見守った。
「鴇津殿、ちょっとよろしいかな。私の娘をぜひ紹介させていただきたいのだが」
宴の仕度も整い、各々の席に着いた来賓も浮かれた様子で談笑に耽り、祝祭に相応しい熱気が大広間を満たし始めた頃、鴇津はとある地方豪族の長に声を掛けられた。
これで８人目。男には気付かれぬようにそっとやつれた溜め息をつくと、いつもの淡い笑みを貼り付けて「それはそれは」と振り向いた。
男は興奮を押し隠した面持ちでせかせかと近寄り、傍らの若い女性を紹介した。
「私の娘で、もうすぐ１８になります。父親が言うのも口幅ったいのですが、礼儀作法はもちろん完璧な上、途轍もない美声の持ち主で―――」
鴇津は再び「それはそれは」と返すと、娘に向かってにっこりと微笑みかけた。すると男は気をよくしたのか、さらにずいっと詰め寄って脂ぎった顔を近付け、
「このたび無事ご帰還された陛下も、まだまだお疲れでしょう。ですからぜひこの娘をお傍において、疲れを癒していただければ、と」
「それは私が決めることではありませんからね。遼牙様のお目に留まれば、ご召命がかかるでしょう。では、私はこれで」
声は穏やかながらも有無を言わせぬ口調できっぱり言い置くと、その場をさっさと後にした。
このような申し入れを受けることは半ば予想していた。遼牙が戦場へ赴いてから、瑠羽が後宮から出て人前に姿を見せることはなかった。
そのため、王の庇護を失った酒姫は謀殺されたらしいという噂が、真実味を帯びて人々の口を濁し始めるのに時間は掛からなかった。
自分の娘や息子を王の酒姫にと熱望している輩が、その噂に小躍りして快哉を上げたのは想像に難くない。
今宵、これでもかと着飾った娘や息子を連れて、鴇津に引き立ててもらえるようご機嫌窺いに訪れる者が後を絶たないのは、そういった事情があったからだった。
―――瑠羽、ちゃんと見せ付けてあげるのですよ。遼牙様のお傍にいるのは誰なのかを
鴇津は胸の内で呟いて、自らの席に腰を落ち着けた。
大広間を埋め尽くしていたざわめきが、みるみるうちにすーっと引いてゆく。が、何か合図があったわけでもない。
そもそも遼牙は、自身に関する過剰な演出を嫌忌していた。公の式典以外では、大仰な先触れは控えるよう指示していたほどだった。
にも拘わらず、何故かいつも遼牙が現れる直前になると空気が引き締まって、不可視の合図に先導されるかのようにみな口を噤む。そして我らが賢王が美しい笑みを湛えて現れるのを、息を詰めて待ち望むのだった。
その時、得も言われぬ芳香が広間に漂い、集う人々の鼻孔を密やかに、嫋やかに慰撫した。
どんな高価な香料も及ばぬまさに天上の芳気。ジャスミンの花がまき散らす吐息に似てはいるが、芳醇さでは比ぶべくもない。
その奥床しい先触れに続いて現れたのは―――
「ああ………陛下………万歳、紫衛那万歳！」
苛酷な戦場、絶え間なき敵意と死の脅威に晒されながらも、その輝きに僅かでも瑕が付くことはなかった。
紫衛那国王、遼牙。堂々たる体躯と優雅な物腰、艶やかな黒瞳の奥に揺蕩う深き慈愛。一年前と何ら変わりない姿で、列席者たちに微笑みを投げかけた。
相変わらず、勲章の類いは身に付けていない。この一年の戦功で、数も位階も増したにも拘わらず。
インペリアルブルーの長衣をゆったりとまとい、胸に輝くは＜海の星（ステラ・マリス）＞ただひとつ。そしてその傍らには―――
「なんと……美しくなられたことよ…………」
人々の口からは一斉に熱い溜め息が漏れる。一年前と変わらぬ蜂蜜色の瞳、みずみずしい肌、淑やかな歩みで称賛を集めた酒姫、瑠羽は、一年前よりもっと濃厚な色香をまとって宴の熱気を上昇させた。
瑠羽が着ているドレスは、紫衛那の滋養豊かな土壌にしか咲かぬと言われる月光草で染めた布で仕立てられていた。
この月光草には、夜になると青銀色に淡く発光する性質があり、それで染めた布もまた同様に、日が落ちると妙なる光沢を放った。
時にはオパールの揺らめき、時には螺鈿の煌きを見せる布の不可思議な妙味やドレープの美しさを強調するため、デザインはシンプルなものに抑えられていた。
それに何より、稀代の名工も斯くやと思われる優美な身体のラインを見せ付けるには、これが最も有効な演出法だった。
瑠羽の身体にぴったり沿ってさらさらと流れるドレス、その襞の艶めかしいこと。剥き出しの白い腕、雪原のごとき無垢な素肌との対照に、男なら目眩く妄想を掻き立てられるに違いない。
髪を高く結い上げたためにぱらぱらと落ちる後れ毛が首筋に沿ってうねるさまなどは、情事の後の乱れに通じる危うさを孕んでいる。
余りに見事な、余りに妖艶なその姿に、瑠羽の謀殺説を喜び、自分の娘を酒姫にと揚々連れてきた貴族たちも、我を忘れて観賞にのめり込んだ。
しかし、そんな熱い眼差しに最も無関心なのは他ならぬ瑠羽本人。久しぶりの大舞台をちゃんと務め上げるんだと、遼牙の傍で必死に奉仕していた。
もちろん、そんな一途さもまた瑠羽の魅力として、列席者に感動を刻み込むのだった。
遼牙が瑠羽を抱きつつ王座にゆったり腰を下ろすと、鴇津が杯を掲げてゆっくり立ち上がり、作法に則って遼牙を讃える言葉を口にしようとした。
しかし遼牙の穏やかな制止に遭い、軽く頷いて再び腰を下ろした。遼牙はよく通る低音で、何の前置きもなく皆に語り始めた。
「私は戦場で、敵とはいえ多くの人間を殺した。そして同胞の死も数え切れぬほど目にしてきた。そんな私に輝かしいものなど何もない。
だから今宵の宴は私の戦功を讃えるのではなく、戦場で命を落とした者を悼み、そして平和への想いを深めるためのものにしたい」
どこからともなく拍手が沸き上がり、広間の高い天井を震わせた。戦場で命を賭して戦い、悲惨な現実を目にした者だからこそ言える言葉の重み、平和への祈りに、心を揺さぶられぬ者はいなかった。
遼牙は拍手の渦の中でそっと杯を掲げ、「過去の涙と未来の輝きに」と朗じた。それに続いて列席者らも杯を掲げ、そして皆ひと息に飲み干した。
「瑠羽よ、どうしたのだ？ そんなに涙を流して……」
訊ねはしたものの、遼牙には分かっていた。瑠羽の涙の訳が。
「りょうきさまの痛みが………魂の嘆きが………かなしくて、くるしくて…………ぇぇっ、ぇっ、ぇっ…………」
遼牙は腰に回していた腕に力を込めて、
「泣くのはおよし、瑠羽よ。これは私が背負うべき痛みなのだ。だから―――」
「僕もっ、僕も遼牙さまの痛みを背負いたいです。そうすれば、たとえ僅かでも軽くなるでしょう？」
濡れた頬を掌で包み込み、遼牙は感動に震える声で囁いた。
「ありがとう、瑠羽。痛みも悦びも共に分かち合い、共に生きてゆこう。そうすれば私はもっともっと強くなれる」
「はいっ、遼牙さま。ずっと、ずっとお傍にいます………」
ひたむきな眼差し、薔薇色に潤んだ頬に吸い寄せられ、宴の最中であることも忘れて髪にまぶたに口付けを与えた。
鴇津を始め二人の熱愛ぶりを熟知している者はやれやれと苦笑混じりで肩を竦めるだけだったが、他国からの賓客は驚きを隠さず、非礼な振る舞いとは思いつつも二人の戯れをじっくり眺めてしまった。
あの己れに厳しい紫衛那王が宴の最中に………。しかし次の瞬間には、深く納得していた。
噂に違わぬ、いやそれ以上の美貌はもちろん、ただひたすら遼牙を愛し、遼牙に尽くそうとする真っ直ぐな眼差し、清らかな魂を持った酒姫だからこそ、ここまで蕩かされてしまうに違いない、と。
そして誰もが表情を甘く撓め、二人の戯れを温かく見守った。
但し、一人の男を除いては―――
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