REUNION
２.
「瑠羽……また歌っているのか、詞のない歌を…………」
中庭に面したテラスから聞こえてくる“歌”は、歌詞もなくメロディもない。まるで風の音をなぞるかのような透き通った響きは、美しさと同量の切なさを湛えて聴く者の魂を激しく揺さぶる。
義童は足音をたてぬよう神経を尖らせて、そっとテラスに近付く。すると、大きな肘掛け椅子に身体を預けて唇を震わせる瑠羽の横顔が視界に入った。
その危うい眼差しは明らかに、ここではないどこかに据えられている。それがどこなのか義童には分からない。
遼牙のいる遠き戦場なのか、己れの魂の深淵なのか、聖守護天使のいる神霊世界なのか―――
「るう……」
義童はそっと声を掛けてみる。が、瑠羽の耳には届かない。これもいつものことだった。燦々と降り注ぐ陽光の祝福を受け蜂蜜色に輝く瑠羽の横顔は余りに美しく、義童は戦慄を禁じ得ない。
太陽に愛され過ぎた瑠羽は、いつか光に融けて消えてしまうのではないか、そんな余りに詩的な思い付きに囚われ、怯える自分を嘲笑いながら、義童はゆっくりと瑠羽の許に歩み寄った。
そしてその華奢な肩を掌で包み、耳許に唇を寄せて優しく口付ける。しかし瑠羽は義童の方を見ようともせず、歌をやめる気配もない。
そう、それは歌ではなく、瑠羽の嘆きだった。魂の震えだった。
「瑠羽、愛している……」
それでも義童は瑠羽の頬に髪に唇を押し当てて、離れようとはしなかった。瑠羽との別れの時が近付いていることを知っていたから。
せめてこの温もりを唇に刻み込もう、と。
その日、紫衛那城には異様な空気が満ちていた。誰もが浮かれた様子で地に足が着いておらず、忙しく動き回りながら自分が何をしているのかよく分かっていない。城全体が躁状態にあった。
それは、城が派遣した迎えのための近衛兵が王の一行と合流したという知らせが入るとさらに膨らみ、城外の跳ね橋が下り始めると最高潮に達した。
紫衛那国王、遼牙が、今、戦場より帰還したのだ。
歓声と共に、栄光を讃えるオリーブや棕櫚の小枝が馬車に投げられ、「紫衛那万歳」の唱和が響き渡る。
馬車を降りた遼牙が大広間に入ると、歓声や嗚咽による空気の振動で、高い天井がグォン、と鳴った。
「長らく留守にしてすまなかった」
一年前と変わらぬ温かな笑みを浮かべて第一声を発すると、嗚咽の密度が濃くなった。
王を迎えるため広間に集った臣下たちの瞳には熱い涙が溢れていたが、それは遼牙に向かって一歩、二歩と進み出るこの男も同じだった。
「お帰りなさいませ、遼牙様」
「………お前の涙など、初めて見たぞ」
「ええ、私自身も初めてです」
鴇津は頬を伝う涙を拭おうともせず、それでも彼らしい淡い笑みを湛えて遼牙を迎えた。
「長旅でお疲れでございましょう。暫くはゆっくりご静養なさってください。公務への復帰やご帰還を祝う宴は頃合を見て、と考えています」
「ああ、そうしてくれ。さすがに疲れた。暫くは……何も考えず休みたい」
鴇津は頷いて、臣下たちの方を振り返った。
「遼牙様に直接お祝いの言葉を掛けたいという皆様のお気持ちはよく解ります。しかし今暫くお待ちを。よろしいですか？」
もちろん、異を唱える者などいない。みな一礼して、広間を去る背中を見送った。
「ますますご容貌も精悍になられて……。これで紫衛那も安泰ですわ」
「全くだ。陛下は我らが紫衛那の守護神だ」
遼牙が瀕死の重傷から奇跡の生還を遂げたことなど知らぬ臣下たちは、暢気な感慨を漏らして喜びを噛み締めた。
「陛下、ご無事で何よりです。ご帰還を心よりお待ちし申しておりました」
「義童よ……世話になったな。感謝している」
義童はそっと首を振って「もったいないお言葉です」と答える。そして顔を上げ、
「傷の具合はいかがでございますか？」
「この通り、何の問題もない。長らく戦場から遠のいていたゆえ、感覚が鈍ってしまったようだ。情けない話だな」
ちらと肩を竦め自嘲を浮かべる遼牙。義童は何と答えてよいか分からず、ただ唇を噛み締めた。
その反応で義童の心裡を覚った遼牙は、表情を引き締めて、
「これは私の心の弱さが招いた災厄だ。誰のせいでもない。戦場で私的な感情に囚われた私が未熟だっただけのこと。分かったな？」
義童は苦しげに頷いた。そして、
「では陛下、どうぞこちらへ。瑠羽はテラスにおります。陛下のご帰還は、まだ伝えておりません」
「そうか……」
義童に質したいことはたくさんあった。しかしその全てを押し込めて、遼牙は瑠羽のもとへ向かう。
途中、遼牙がクッと嗤うのを耳にした義童は、「どうしました？」と訊ねた。
「足が……震えている。前線に赴く時より緊張しているようだ。たった一年だというのに………」
遼牙は自らを落ち着かせるためか、周囲をぐるりと見渡した。瑠羽と過ごした甘やかな日々の記憶が次々と蘇り、落ち着くどころかますます鼓動が早まった。
「では、俺はここで………。それから陛下、後でお話ししたいことがあります。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
一礼して下がる義童を見送って、遼牙は瑠羽の部屋に入った。戦場の腐臭に慣れ切っていた鼻孔を、ジャスミンの芳香がふわりと包み込む。瑠羽の肌が発する芳気。
部屋の中は、何も変わっていない。一年前、ここで瑠羽に別れを告げた。悲しみで息も絶え絶えの愛しい身体を抱き締め、寝台の上に横たえて無言のまま部屋を去った。魂が引き裂かれる激痛に耐えながら。
「歌……が…聞こえる………」
それは、正確には歌ではなかった。この言葉のない音の連なりは、声帯ではなく魂を源泉としているのだと遼牙はすぐに察した。
「瑠羽………」
光の粒子が氾濫するテラスに、瑠羽はいた。無機質な瞳を宙に据え、微かに開けた唇を震わせて魂の歌を紡ぐ。
まるで抜け殻のように虚ろで儚い存在感に、遼牙は戦慄を覚えた。しかしそれを押し殺して一歩、二歩と近付き、声を掛ける。
「瑠羽……」
義童も鞘葉も、瑠羽の“歌”を止めることはできなかった。一度歌い始めたら、疲れて眠ってしまうまで歌い続けるのが常だった。しかし、
「瑠羽よ………私だ………」
“歌”はぴたりと止んだ。と同時に、無機質な琥珀の瞳にじわじわと輝きが宿り始める。
「私だ……遼牙だ………」
呼びかけに導かれるかのように、肘掛け椅子の上でゆっくりと身体をひねる。すると意志の鼓動が戻りつつある瞳に、遼牙の姿が映り込んだ。
「りょう……き……さま…………」
瞬きするのも惜しいと言わんばかりに目を見開いて、一途な眼差しを送る。
「りょ…きさま……帰って…………」
「ああ……帰ってきたよ、瑠羽…………」
手足はしなやかに伸びて優美なラインを描き、白皙の肌は艶めかしい光沢を放つ。潤み始めた琥珀色の瞳は、陽光の愛撫を受けてちかちかと煌く。
緩やかに結い上げた蜂蜜色の髪が風にそよぐと、頭の芯が痺れるような芳香が漂ってきた。
「る…う………」
遼牙は思わず目を細めた。溢れる陽光が眩しかったからではない。遼牙の想像を遥かに凌いで美しく成長していた、瑠羽の存在自体が眩しかったからだ。
美と安らぎの対極にある戦場で、血と膿と醜悪な断末魔を伴侶（ともがら）としてきた遼牙には、美しく成長した瑠羽は脅威ですらあった。
触れてはいけないもの、穢してはならぬもの。ゆえに容易に近付くことができず、その場に立ち尽くして呆然と見つめるしかできなかった。
対して瑠羽は、制御不能の感情に駆り立てられるかのように立ち上がって、遼牙のもとへ近付こうとする。
しかし生まれたての子馬のように脚をがくがくと震わせて、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「瑠羽っ」
遼牙は慌てて駆け寄り、抱き上げようと両腕を伸ばした。その時、
「ぅ……ぅぅぁ………ぁ…ぁ………………うああああーーーーん、りょうきさま、りょうきさまぁッ」
心の堰が切れ、抑え込んでいた感情が奔流となって迸る。
「りょうきさま、りょうきさまぁぁぁ………やだぁ………もう行っちゃやだよぉぉ…………ぇっ、ぇぇっ…………」
身体中に溜め込んだ涙を全て吐き出すかのような激しさで、瑠羽は声を嗄らして号泣した。
「やだよぉ……やだよぉぉ…………ぅぇっ、ぇっ…………」
「行かない。どこにも行かないよ、瑠羽………」
遼牙は大きく広げた腕で、瑠羽の淋しさ、不安、涙、孤独を身体ごと抱き締めた。
「もうどこにも行かぬ。ずっとお前の傍にいる」
「りょ…きさまぁ………ふぇっ、ぇっ…………やくそくぅ……………」
「ああ、約束だ」
長衣の襟をぎゅっと掴んで、こくこくと頷く瑠羽。遼牙は柔らかな髪に指を挿し込んで撫で、頭のてっぺんにキスを落とした。
「さあ、瑠羽。上を向いて。お前の笑顔を見せてくれ」
如何なる時でも遼牙の求めに忠実な瑠羽は、上を向いて嗚咽を押し込め、必死で笑おうとした。しかし「んくっ、んくっ」と苦しそうにしゃくり上げて顔を真っ赤に火照らせ、
「ごめ…なさい……なみだが………止まらないの……………」
涙を留めようと目をこする。遼牙はその手を取って目尻にちゅ、と口付け、
「焦ることはなかったな。これからはずっと傍にいるのだから、お前の笑顔はいつでも見ることができる。瑠羽、無理して笑うことはないよ。私の胸で一年分の涙を流してしまうといい」
瑠羽は顔をくしゃくしゃにして遼牙の胸に飛び込み、再びわんわん泣き始めた。その温かく柔らかな身体を抱き締めながら、遼牙は帰還の実感を噛み締めた。
民の歓声を受けても、臣下らの出迎えを受けても、鴇津の涙を見てもまだ実感が湧かなかったが、今ようやく、自分の場所に帰ってきたという悦びに浸された。
―――私は……帰ってきた。お前の許に…………
世界でたったひとつの内なる楽園に。
「待たせたな、義童よ。話を聞こう。何でも申せ」
泣き疲れた瑠羽を寝かし付けて、そのふわふわした寝顔を暫し眺めていた遼牙は、自分に話したいことがあると言った義童の思い詰めた表情を思い出した。そしてすぐ部屋に義童を呼んだ。
遼牙のもとを訪れた義童は、何故か旅装だった。しかしそのことには触れず、遼牙は話を促す。
「陛下、俺はここを出ます」
「いつだ？」
「今すぐに、です」
半ば予想していた答えだった。遼牙は表情を変えず、ただ理由を質す。義童はふっと息を吐き、
「正直に申し上げます。俺は、あなたの不在中に瑠羽を自分のものにできると思っていました。昔のように傍にいて、あれこれ世話を焼き、淋しさを取り除いてやればじきにあなたのことなど忘れて俺の愛に応えてくれるようになるだろう、と」
義童の不遜とも言える告白を、遼牙は黙って受け入れた。義童もまた、表情を変えず告白を続ける。
「陛下に対する想いの大半は、子供の憧れのようなもの。だからいずれは夢から醒め、地に足のついた恋愛に目を向けるに違いない、そう思っておりました。しかし考えが稚いのは俺の方でした。いつの間にかあの子は……愛することを知っていたのです」
義童はふっと息を吐くと、自嘲にも似た痛々しい笑みを向けて、
「俺は何度も瑠羽を抱こうとしました。しかし、啜り泣きと嗚咽の奥からあなたの名を呼び続ける瑠羽を、無理やり自分のものにすることはできなかった。どうしても、できなかった………」
「義童……」
全てを告白して、痞（つか）えていたものが軽くなったのか、義童の表情は少し明るさを取り戻した。
「陛下がお戻りになった以上、俺がここにいる理由はなくなりました。瑠羽には、黙って去る“兄”を許してくれとお伝えください」
遼牙は重々しく頷いた。そして、
「義童よ、お前に礼がしたい。何か望みはないか？」
「あります。俺の願いはたったひとつです。陛下、今後は何があっても、瑠羽を置いていくようなことはしないで下さい。
どんな危険な戦場でも、たとえ陰府（よみ）の入口であっても、あの子にとっては陛下のお傍が至福の園なのです。虚ろな視線を彷徨わせて、詞のない歌を歌い続けるような瑠羽は………もう二度と見たくない」
言葉のひとつひとつが胸に突き刺さる。遼牙は誠真込めて「承知した」と言い置いて、震える唇を噛み締めた。
義童は温かな微笑みを浮かべて頷くと、深く一礼して遼牙に背中を向けた。
「義童……感謝する」
一度も振り返ることなく去ってゆく背中を見送りながら、これもまた究極の愛情表現なのだと思い知らされた。それを自分に見せ付けた義童に、遼牙は嫉妬の情を禁じ得なかった。
BACK TOP NEXT