REUNION
１１.
―――雲行きが怪しいな………
月も星もない夜空を仰ぎ、雷雨の予感に眉をひそめる。異国の地にひとりぼっちの上、苦手な雷に怯えてぶるぶる震える瑠羽のことを想うと、鳩尾がきりきり痛む。
早く、早くあの愛しい身体を抱き締めて、「よくがんばったな」と褒めてやりたい。不安でやつれた頬に唇を押し当てて、何があってももう二度と離さないと―――
「陛下……」
背後からおそるおそる呼ぶ声が。遼牙は振り向きもせず、冷たい声で「何用だ」と聞き返す。
「雪花でございます。どうか、酒姫の務めを………」
「くどいぞ。要らんと申し渡したはずだ」
しかし雪花は引かなかった。引けない事情があったのだ。
「陛下のたった一人を想われる気持ち、よく分かります。でも聞いてください。僕はここに来る前、青琳様にきつく言い付けられたのです。陛下を誘惑して閨を共にするように。さもなくばお前の命はないぞ、と………」
さすがに遼牙は無視できなかった。ゆっくり振り向いて雪花の顔をじっと見る。
「嘘ではございません。信じてください。お願いです、お願い………」
ここへ来たばかりの頃見せていた妖艶な、誘惑するような仕草など影すらなく、血色の失せた唇を震わせて必死に哀願する。この少年も、青琳の歪みの犠牲者だった。
「お前は……それでいいのか？ 命令だからといって、愛してもいない男に抱かれて」
「仕方のないことです。そうすることで、少しでも青琳様のお心が晴れるのであれば僕は喜んで……」
そう言って、淋しそうに微笑む雪花。遼牙は小さく息を吐いて、
「そうか。やはりお前はあの男のことを………。しかしこのままでは、あの男は一生気付かんぞ」
「それでも構いません。僕は報酬が欲しいわけではない。僕を愛して欲しいわけではない。ただ、卑しい娼窟で男に身体を売っていた僕を拾ってくださった、その恩返しができればと。それに―――」
雪花は多弁を恥じるように口を噤んだ。しかし遼牙は無言で先を促した。
「―――それに、青琳様は可哀想なお方なのです。自分は誰からも愛されぬと思い込んで、冷たい殻に閉じこもったまま。平気なふりをしてはいますが、本当は愛されたくて仕方がないのです」
「雪花よ、お前の気持ちは尊いものだと思う。しかし、誰かが頬を張って目覚めさせねばならんのだ」
雪花の微笑みに差す影は、ますます深まった。肩を落として項垂れ、
「分かっております。でも、僕には………。ただ、あのお方の快楽に奉仕することでしか慰めて差し上げられないのです」
二人は暫し無言で対峙したが、やがて遼牙が口を開いた。
「分かった。では、好きにするがいい」
「え……？」
「青琳に、私と閨を共にしたと報告すればいい。あの男の目的は、私と瑠羽の仲を裂くことなのだろう？ ならばその報告だけで十分のはずだ」
「で、でも……それでは…………」
遼牙はフッと笑い、
「その程度のことで断ち切られるようなものは、絆とは呼ばん。後から誤解を解けば済むことだ」
雪花は唇を噛み締めた。どうやったら、ここまで互いを信じ合うことができるのか―――
「もう部屋へ戻れ。……お前の気持ちがいつか通じるよう祈っている」
雪花は深く一礼して遼牙のもとを辞した。胸が熱い。この方が名君と呼ばれる所以が、今、身をもって解ったような気がした。
「瑠羽様……どうか召し上がってください。このままでは………」
長椅子に力なく横たわる瑠羽の傍に跪いて、侍女は涙声で訴えた。
瑠羽は彼女を安心させようと、白く乾いた唇を笑みの形にしてみせるが、そこから出てくるのは弱々しい拒絶の言葉だった。
「ごめんなさい……ごはんいらないの………食べられなくて………」
「瑠羽さま……」
ここへ来た時より確実に細くなった指をそっと握ると、文字通り氷のような冷たさが伝わった。侍女は思わず息を吹きかけて、その指先を温める。
「ありがと……ごめんね………」
侍女は黙って首を振り、指を握った手にぎゅっと力を込めた。その想いが嬉しくて温かくて、瑠羽は淡い微笑みを浮かべる。そして伏せていたまぶたを上げて、窓の外を眺めた。
「きれいな……そら…………」
自分は本当にあの空を飛んだのだろうか。そう思うと不思議な感慨が湧き上がる。
「せめて……風に当たることができればご気分も変わるでしょうに………」
侍女が苦しそうに呟く。部屋の窓は全て、瑠羽がテラスに出られぬように施錠されてしまった。だから、日課にしていた遼牙への挨拶も、部屋の中からするより他なかった。
「だいじょうぶです。風はいつも僕と共にあるから………」
瑠羽は確信に満ちた口調でそう告げると、ゆるゆると目を閉じて微睡みに戯れようとした。その時、この穏やかな空気を一瞬で掻き乱す荒々しい足音と共に、青琳が現れた。
「ゆっくりお昼寝とはいいご身分だな」
瑠羽は起き上がって平伏しようとしたが、貧血のせいか軽い眩暈に襲われて再び倒れ込んだ。
「瑠羽様っ、ご無理をなさらずに―――」
青琳はちらと眉をひそめたものの、何かいい知らせでもあったのか上機嫌な様子で「そのままで構わん」と言った。そして瑠羽の足許に腰を下ろし、
「瑠羽よ、遼牙はお前だけを愛しているのだったな」
いきなり何を言い出すのかと訝る瑠羽に、青琳は答えを待つことなく畳み掛ける。
「しかし、お前だけを愛しているはずの遼牙は、私の酒姫と閨を共にしたようだぞ。これは一体どういうことなのだ？ え？」
瑠羽は力なく首を振る。そんなの信じません…………
「何だ？ 信じぬというのか。思い上がるのも大概にしろ。見ろ、雪花が私に手紙を送ってきたのだ。ここに全て書いてある。遼牙がどのように自分を組み敷き、抱いたのか。読んで聞かせてやろうか？」
「やめ…て………」
「“最初は躊躇されていたようですが、営みが始まってしまえばあとは情欲に翻弄されるまま。陛下はまるで飢えを満たすかのごとく僕の身体を存分に味わい―――”」
「い…やぁぁ…………」
「“朝まで何度も求められましたが、僕はこれも酒姫としての務めと思い懸命にお応えしようと―――”」
ショックと悲しみで息も絶え絶えの瑠羽は、涙に濡れた顔を隠そうともせず、ぐったりと脱力した身体をクッションに預けて浅い呼吸を繰り返した。
「陛下っ、もうおやめください。これ以上は………」
「なんだ？ 二人は固い絆で結ばれているのだろう？ 遼牙の全てを信じ、愛しているのだろう？ 私に対してえらそうな講釈を垂れてみせたのは、ついこの前のことではないか。この程度のことで崩れてしまうものなのか」
瑠羽にはもう、反論する気力も体力も残されていなかった。唯一涙だけは雄弁で、あとからあとから溢れてはやつれた頬を濡らした。
青琳は勝ち誇った笑みで面てを輝かせ、勢いよく立ち上がって瑠羽を見下ろした。
「やっと解ったようだな。愛などというものの脆さ、無意味さを。それは砂の城のようなもの。本能や情欲という波濤の前には、呆気なく崩れ去るものなのだ。遼牙が悪いわけではない。下らん戯言を信じたお前が愚かだっただけのことだ」
威厳すら感じさせる重厚な声で言い置くと、青琳は颯爽と部屋を出ていった。
侍女は何と声を掛けてよいか分からず、ただ黙って、溢れる涙を拭ってやるため柔らかな布を目尻に当てた。
その時、浅く弱々しい呼吸の奥から小さな小さな呟きが漏れるのを聞いた。それでもぼくは遼牙さまだけを愛します、と。
「雪花、すぐに仕度をしろ。架越城へ行く」
珍しく遼牙が部屋を訪ねてきたと思ったら、何の前置きもなく命令された。雪花は瞳を輝かせて問うた。
「では、条約が発効されたのでございますね」
「そうだ。たった今、神殿庁より通達があった。しかしまだ、架越側は何も知らん。このまま何も知らせず、この締結書を持って来訪する。予め知らせれば、青琳にどんな妨害を仕掛けられるか分からんからな」
「承知致しました」
雪花は嬉しそうに頷いた。平気なふりをしてはいたが、やはり一刻も早く架越へ、青琳の許へ帰りたかったのだ。
「お前も……よく耐えたな」
雪花ははっと顔を上げて遼牙を見つめ、「もったいないお言葉です」と囁くように答えた。そして帰り仕度をするため、いそいそと荷物をまとめ始めた。
架越城内の迎賓の間で遼牙と対峙した青琳は、明らかに狼狽していた。まだ不戦条約を締結していないいわば敵国に、国王が単身で乗り込んでくるなど狂気の沙汰。
しかし遼牙は泰然自若としたもので、笑みすら浮かべて穏やかな挨拶をしてきた。
「久しぶりですな」
「あ、ああ…。しかしこれはどういうことですかな。貴国とはまだ敵対関係にあるというのに―――」
「敵対関係？ とんでもない。こうして不戦条約が発効されたではありませんか」
遼牙は懐から証書を取り出し、テーブルの上に広げてみせた。青琳は「ばかな…」と呟いたきり、瞬きすら忘れて絶句した。
それもそのはず、預かった申請書は従者に持たせたまま、まだ神殿庁に提出すらしていないのだから発効されるわけがない。それとは対照的に、遼牙は鷹揚な態度で片手を差し出し、
「これで貴国とも、また以前のように良好な関係を保つことができますな」
しかし固い握手が交わされることはなかった。青琳は差し出された手を無視して証書を手に取り、矯めつ眇めつ確認した。が、どこも怪しいところはない。正真正銘、神殿庁が発行した証書だった。
青琳は再び「ばかな…」と呟くと、顔を上げて遼牙を睨んだ。
「どうされました？」
不審げに眉を吊り上げて訊ねてはきたものの、その余りに取り澄ました表情から遼牙が全てを知っていることは明らかだった。自分が、申請書を神殿庁に送らず隠させていたことを。
「雪花を連れて来ました。早速だが瑠羽を返してもらいましょう」
「……部屋に案内しよう。ついて来るといい」
青琳は観念したのか、くるりと背を向けて歩き出した。その瞬間、遼牙はふーっと息を吐いた。
何とか堪えることができた。青琳と相対していた間、怒りの拳を抑えるのに必死だったのだが、どうにか穏やかにやり過ごすことができた。
あとは愛しい瑠羽を連れて帰るだけ―――しかし遼牙の考えは甘かった。青琳がどれほど自分に嫉妬からくる憎しみを抱いているか、遼牙はまだ分かっていなかったのだ。
青琳は、雪花も呼んで３人で瑠羽の部屋に向かった。雪花も一緒に連れて行くことにしたのはもちろん、自分がいない間遼牙に抱かれた雪花の姿を見せることで、瑠羽の苦しみを煽るためだった。
自分だけを愛しているはずの遼牙があっさり欲望に負けて他の少年を抱いたことで、遼牙への信頼も揺らいだはず。迎えにきた遼牙に悲しみの眼を向けて、追い返してしまうに違いない。
抱いていた愛情が一途だっただけに、裏切られた時の衝撃も尋常ではなかっただろう。その証拠に、瑠羽はあれからほとんど食事もとらず、床に臥せっていたのだった。
青琳は、遼牙に裏をかかれたことのショックから立ち直り始めていた。今に見ているがいい。お前が絶対と思い込んでいる絆がどれほど脆く儚いものなのか、思い知らせてやる―――
「あ…陛下……………あっ、こ、こちらはまさか紫衛那国の…………」
応対に現れた侍女は遼牙の姿を見とめるや否や、あたふたと一礼した。青琳は歪んだ笑いを浮かべ、
「そうだ。愛しい酒姫を御自ら迎えに来られたのだ。瑠羽はどうしている？」
「は、はい。こちらに………」
侍女は怯えた眼差しで遼牙を見上げ、そしておそるおそる奥の寝室へ案内した。その理由はすぐに分かった。寝台の上で目を閉じて、何かに耐えるように唇を震わせて呼吸する瑠羽の顔はやつれ、蒼い翳が差している。
この痛ましい変貌ぶりに、これまで抑えていた遼牙の感情が爆発した。
「なッ、なんだこれはっ………青琳、貴様何をした、瑠羽に何をしたのだ！」
「人聞きの悪いことを言うな。私は何もしておらん。誰かのように夜伽を申し付けるようなこともしてないぞ」
遼牙は唇を噛み締め、青琳を睨み付ける。しかし青琳は肩を竦めて薄笑いを浮かべ、
「睨まれる筋合いはないが。可哀想に、自分だけを愛してくれていると信じきっていたのだな。しかしもう―――」
青琳の言葉を遮るように、遼牙は一歩前に進み出た。そしていつものように、愛情こめて瑠羽の名前を呼んだ。
そう、寝台の上、遼牙の腕の中でふにふにとぐずる瑠羽を優しく起こす時のように―――
「……瑠羽、起きなさい。さあ、目を覚まして」
苦しげな呼吸に、変化が表れた。固く閉じられ震えていた唇が、柔らかな曲線を描き始める。
「私だ。迎えに来たよ。一緒に帰ろう、瑠羽………」
遼牙の促しに応えるように、ゆっくりとまぶたが開いた。そしてふわふわと彷徨った瞳は、すぐに遼牙の姿を捉えて輝き始めた。
「りょうき…さま…………」
「遅くなってすまなかったな。約束通り、迎えに来たぞ」
「ぼく……ぼくぅ…………」
「瑠羽はよくがんばったな、えらいぞ。もう二度と……二度と離さん。さあ、おいで」
瑠羽は布団を跳ね除け、するすると寝台から下りた。そしてどこにそんな体力が残っていたのか、裸足のままぱたぱたと駆け寄り、大きく腕を広げて待つ遼牙の胸に飛び込んだ。
「りょうきさまぁ、りょうきさまぁぁ…………」
「よしよし、いい子だ、瑠羽………会いたかったよ……………」
「ふぇっ、ぇっ………ぇっ………ぼく、がんばったの…………」
胸にかじりついて泣きじゃくる瑠羽の身体をそっと抱き上げて、あやすように揺らしてやる。確実に軽くなった体重が、遼牙の心に言いようのない痛みを刻み込んだ。
「ありがとう………瑠羽は本当によくがんばった。城に戻ったらご褒美だ。何でも言うことをきいてやるからな」
「ぇっ、ぇぇっ………いっしょに……お庭でごはんたべるの………それから………夜はずぅっとぎゅっとしてもらうの。それから、それから…………」
「るう……全て、お前の望むままに…………」
遼牙は掠れ声で囁いて、瑠羽の髪に顔をうずめた。そうしないと、込み上げる愛しさに翻弄されて叫び出しそうになってしまうから。
「瑠羽様……よかった………本当に…………」
侍女も涙で瞳を曇らせて、何度も「よかった…」と繰り返す。その傍らで雪花は、複雑な想いを反芻していた。
もちろん侍女と同様に、二人の再会を祝福する気持ちもある。自分の保身がためについた嘘のせいで二人の絆が壊れてしまったら、深い罪悪感に囚われただろうから。
と同時に、今目の前で敗北感に背中を震わせている青琳のことを思うと胸が痛む。そして何より強いのは、二人を羨む気持ち。二人の絆のたとえ百分の一でもいい、自分と青琳の間に存在していたらと思うと―――
「では、我々は城へ戻る。調印式については後日改めて」
遼牙は簡潔な言葉を残して、寝着姿のまま瑠羽を連れて帰ろうとした。とにかく一刻も早くこの場所を去りたかったのだ。が―――
「陛下っ？ 一体何を―――」
侍女が叫んだのも無理はなかった。青琳は何を思ったか、瑠羽の荷物が入っている長持ちを引っ張り出して留め金を開け、逆さにして中身をぶちまけた。
すると服や髪留めに混じって、眩いばかりの輝きを放つ宝石がころん、と転がり落ちた。それは、ひと目見ただけでこの世に二つとない稀少且つ高価な宝石であることが分かるほどの逸品だった。
青琳は無造作にそれを摘み上げると、すっと目を細めて鋭い視線を注いだ。そして、
「やはりな。犯人はお前ではないかと踏んでいたのだ。瑠羽、これをどう説明する？」
「ぼ、ぼくは何も………」
余りの展開に、遼牙の腕の中でカタカタ震える瑠羽。遼牙は怒りを超えた呪詛の言葉を叩き付ける。
「何だこの茶番は。青琳、ふざけるのも大概にしろ」
「それはこちらの台詞だ。おふざけでは済まされんぞ。この黄水晶は、私が戴冠式で被る王冠を飾るために特別に探させたものだ。それが何故、この部屋にあるのだ。瑠羽の荷物の中にあるのだ」
青琳が瑠羽に罪を着せるため、自ら荷物の中に紛れ込ませたことは火を見るより明らか。しかし、それを証明してみせることができる者は誰一人いなかった。他ならぬ青琳自身を除いては。
「この酒姫、聞けば捨て子だったそうではないか。三つ子の魂、か。手癖の悪さは死ぬまで直らんようだな」
「貴様………そこまでして……………」
遼牙は憤怒の余り絶句した。しかし青琳は勝ち誇ったように笑って、
「いきなり縛り首にするような野蛮な真似はしない。言い分があるのなら、しかるべき場できちんと申し立てすればよいではないか。もちろん、無実が確定するまで国に帰してやることはできんがな」
そして衛兵を呼ぶため、扉の方へ向かった。この瞬間、遼牙は腹を括った。こんな屈辱を受けてまで、架越との友好関係を保つ謂れはない、と。
そして自らを鼓舞するため、カチカチと歯を鳴らして震える瑠羽を抱く腕に力を込めた。その時―――
「そこまでです。青琳」
威厳と誇りに満ちた制止の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
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