REUNION
１０.
まさに舞い降りる、という表現がぴったりだった。見覚えのあるテラスが下方に見えてきたと思ったら、いつの間にかそこに降り立っていた。
真朱は抱いていた瑠羽の身体をそっと下ろし、乱れた髪やドレスの裾を直してやる。そしてひと言、「恐くなかったか？」と囁くように訊ねた。
瑠羽がふわふわと首を振って「ちっとも」と答えると、「それはよかった」と嬉しそうに微笑んだ。
「あの……ありがとう、真朱………」
「ああ……やっと俺の目を見てくれたな」
瑠羽ははっと息を呑んだ。そう言えば、真紅の輝きが恐くて無意識のうちに目を逸らしていたのかもしれない。
「俺が…恐かったんだろう？」
「ん、最初は……。でもでもね、今はこわくないよ。全然へいきだもん」
そう言って、目をぱちぱちさせて真朱の顔を覗き込む。その無邪気な振る舞いが、真朱の心にこれまで感じたことのない甘い温もりを灯した。
「瑠羽、今日はお前を不安にさせたり恐がらせたりしてすまなかった。焦りや怒りなど、自分の感情を優先させてしまった。今度ゆっくり話がしたい。その時は恐がらず、俺の言葉に耳を傾けて欲しい」
「うん……僕もお父さんやお母さんのこと知りたい…………でも、」
瑠羽は唇をきゅっと噛んで自分に言い聞かせた。ちゃんと言わねばならないことがある。そして再び口を開いた。
「でも真朱、僕はぜったい、ぜったいに遼牙さまのお傍を離れません。何があっても。それだけはお伝えしておきます」
「瑠羽………」
真朱の心を様々な感情が駆け巡り、翻弄する。その中のひとつに、身を灼くような後悔があった。
もっと早く瑠羽と出逢っていればよかった。そう、紫衛那の国王よりも先に。そうすれば―――
「貴様、何者だ！」
突然部屋の中から悲鳴にも似た甲高い誰何の声が響いた。瑠羽は飛び上がって振り向く。
そこには、顔に明らさまな怯えを刻んで身体中をぶるぶる震わせた青琳が、剣を握り締めて立っていた。
「け、汚らわしい堕天使め。よくも我が城内に………ええい、衛兵はどこだ！ 何をしているっ」
青琳は剣を振り回して喚き散らす。しかし衛兵が駆け付ける気配のないことを覚ると、剣を構えて飛び掛ろうとした。
「待って！ この人はだめっ。傷付けないで！」
瑠羽は真朱を庇うように前に立ち、大きく腕を広げた。
「何だと？ そうか、やはりお前もアム・アザゼルなのだな。どけっ。後ろの男を切ってから、お前は審問所に突き出してやる」
「いやっ、どかない。真朱、早く逃げてぇっ」
瑠羽の必死の叫びにもかかわらず、真朱は飛び立つ気配を見せない。それどころか瑠羽の身体をそっと脇によけて一歩前進し、「愚かな男だ」と嗤笑混じりに呟いた。そして腕を上げて人差し指を突き出し、
「行け。忘却の深淵が汝を待っている」
途端に青琳の双眸から光が失せ、興奮と恐怖に盛り上がっていた肩がかくん、と落ちた。と思ったらくるりと反転し、真朱の命令に従うかのように覚束ない歩みで部屋を出ていってしまった。
「真朱……何をしたの？」
「大したことはしていない。ちょっと記憶に傷を付けただけだ。明日の朝起きた時には、今のことは全て忘れているはず」
「そ…か………真朱って何でもできるんだね」
自分の無力さを思い知らされ、瑠羽は悄然と項垂れた。その時、ふわりと温かいものに包み込まれた。
「ま…そお………？」
「お前を見ていると………親父の気持ちが分かるような気がする………」
真朱は腕の中の柔らかい身体をぎゅっと抱き締め、蜂蜜色の髪に顔をうずめたまま本音を呟いた。
ジャスミンの馥り、瑠羽の芳気。確かにあの人、父が愛したあの人も同じ匂いをまとっていた―――
「ぁ……ん、んっ…………」
その匂いに誘われるように真朱は顔を近付け、瑠羽のふっくらした唇に自分のそれを押し当てた。そして瑠羽に突き飛ばされる前に自ら身体を離した。
「また近いうちに会うだろう。その時まで元気でな」
翼を拡げ飛翔の体勢に入る真朱を、瑠羽はぼぅっと見つめた。唇を奪われたショックで、言葉を返すことができない。
真朱は苦笑を漏らして、ごめんな、我慢できなかったと心の中で詫びた。そして瑠羽に背中を向け、飛び立とうとする。
その時、瑠羽は初めて気付いた。真朱の翼の先端が白いことに。ほんの僅かだったが、暗黒の侵蝕を逃れて真っ白に輝いていた。
つまり、これが本当の翼の色だということだろうか―――
「またな、瑠羽」
短い言葉を残して真朱は去っていった。闇に融ける黒い翼を悠然と波打たせて。それは月夜に顕現した黒い十字架のようだった。
今朝の目覚めは最悪だった。眠りながら歯噛みしていたせいだろう、こめかみがずきずきと痛み、頭全体が鉛のように重い。いつの間に眠ってしまったのか、記憶もあやふやだった。
青琳はぎしぎし音をたてそうなほど強張った身体を起こして、寝台の上で昨日あったことをひとつひとつ思い出した。
そう、確か昨夜は宴を開いたはずだった。そこで皆の喝采を浴び、「架越万歳」の唱和に酔って自らが手にした権力を再確認する、そんな一夜になるはずだった。が―――
「思い…出したぞ………」
青琳は呪詛を込めて低く呟く。宴の後半、気持ちよく飲んでいたところに水を差され、さらに―――
「あの……酒姫め………」
美しい歌で見事にやりこめられたことよりも、そのあと、力づくで犯そうとした自分に対し遼牙への愛と信頼を見せ付けたことの方が許し難かった。
幼さ、あどけなさの内に秘めた純粋な情熱。毅然とした口調で遼牙への愛を謳い上げ、そして敬虔な尼僧ですら一瞬で快楽の虜囚としてしまう強力な媚薬を盛ったにもかかわらず、その愛を貫き通した。
「そんなに…あの男がいいのか………」
幼い頃から青琳を蝕み、狂わせてきた醜い感情。何とか克服しようと足掻いたけれど、結局膨張の一途を辿り、毛穴から溢れんばかりに身体中に充満して久しい感情があった。
それは遼牙への嫉妬。年も同じ、そして同じく王位継承者ということで何かと比べられることが多かったが、聞こえてくるのはいつも遼牙への称賛ばかり。両親までもが遼牙を褒めそやし、それに比べてお前は…と眉間に皺を寄せる。
若くして紫衛那の国王となってからはさらに名声は高まり、自分など比較の対象にもされなくなってしまった。
それでもまだ、青琳は自分を宥めることができた。彼奴は呪われた影道ではないか。そのせいで神殿庁からは目を付けられ、愛してもいない女を妃として迎えねばならない。
孤独な魂は本物の愛を知らぬまま、虚しく朽ち果ててゆくだけなのだ。哀れな遼牙―――
しかし、遼牙はそれすら手に入れてしまった。
あの帰還を祝う宴で、青琳は絶望的な敗北感を噛み締めた。噂は耳にしていたが、目の前で溢れる愛情を隠そうともせず甘く睦み合う二人を見た瞬間、青琳は不遜にも神を呪わずにはいられなかった。
何故だ、遼牙は何もかも持っているではないか。地位も名声も人望も才能も、そして美貌までも。
その上、真っ直ぐな愛と信頼を捧げてくれる純真無垢な恋人まで与えられ、この世の幸福を独占しているかのような輝かしい笑みを浮かべている。
それに引きかえこの私には………何もない。愛してくれる人もいない。次期国王ということで、阿諛追従や賄賂などで気を引こうとする輩は後を絶たないが、誠心からの、無償の愛情でこの乾いた心を潤してくれるような者はひとりとして現れなかった。
親にすら疎まれ蔑まれ、憫笑を投げ付けられるだけのこの身――――
―――今に………見ているがいい…………
その宴の席で青琳は己れに誓ったのだった。いずれ必ず、愛する者を奪われる悲しみを遼牙に味わわせてやるのだ、と。
その時には、まさかこんなに早く機会が巡ってくるとは思ってもいなかったのだが。
「しかし……あの薬を耐えるとは………」
あの小さな身体のどこにそんな力が隠されているのか、青琳は不思議でならなかった。そう思うと、これまではただ憎いだけであった瑠羽に別の感情が湧き上がる。
それが何であるのか追究しないまま、青琳は引き寄せられるようにふらふらと瑠羽の部屋へ向かった。
扉を開けると、そこに瑠羽はいなかった。寝室を覗いても姿は見えない。シーツにそっと指を這わせると、起きたばかりなのか仄かな温もりが指先に伝わった。
その時、どこからともなく霊妙な歌声が響き、青琳の乾いた鼓膜を優しく潤した。歌の源を探して、青琳はテラスの方へ歩を進めた。
果たして、そこには寝着姿の瑠羽が、手摺りから身を乗り出すようにして歌を風に乗せていた。
たとえこの身が呪われて
冥府の底に堕ちたとしても
想いだけは風に乗って
あなたのもとに舞い降りるでしょう―――
歌い終わった瑠羽は胸の前で手を組み、そっと目を閉じた。そして甘やかな笑みの曲線を描いた唇を微かに震わせる。
青琳はぎらぎらと不穏に輝く眼で、瑠羽の唇の動きを読み取った。
―――りょうきさま、おはようございます
「貴様………」
―――ぼくがんばります、だからしんぱいしないで
「やめろ……許さんぞ………」
―――あいしてる……りょうきさま………
「やめろというのが分からんのかッ」
突如浴びせられた怒声に、瑠羽は喉の奥で「ひッ」と悲鳴を上げて飛び上がった。慌てて振り向くと、昨夜のように、いや昨夜以上に尖った鬼形の青琳が肩をいからせて近付いてきた。
「陛下…………何を…………………キャアッ」
問答無用の荒々しさで腕を振り下ろし、瑠羽の頬を張り飛ばす。華奢な身体が耐えられるはずもなく、壁に叩き付けられてそのままずるずると座り込んでしまう。口端から滴る鮮血が、真っ白な寝着にぽつぽつと紅い花を散らした。
「貴様、ここで何をしていた…………」
瑠羽は口許を拭うこともせず、血に濡れた唇を必死に動かして答えた。
「何も……ただ、りょうきさまに朝のごあいさつを…………」
確かに、瑠羽が歌と言葉を送っていたのは紫衛那国の方角だった。
「りょうきさまに……おはようございます、って………」
ぽつぽつと、血とは違う染みが寝着に降りかかった。それは涙だった。
「さみしいけど……ぼくがんばります、だからしんぱいしないで…………」
涙の勢いに押し潰されそうになりながらも、瑠羽は最後まで言い切った。
「りょうきさま………あ、あいしてる……………」
何かを考えるより先に、青琳は腕を伸ばして瑠羽の胸倉を掴み上げ、再び壁に叩き付けた。瑠羽の胸から「ぐふっ」と嫌な音が聞こえ、と同時に新たな血が口から溢れ出た。
「陛下っ、何をなさるのです！」
瑠羽を起こしにきた侍女が騒ぎを聞き付け、テラスに飛び込んできた。そして怯むことなく瑠羽の前に躍り出て、その身体を庇う。
「どうか、どうか怒りをお収めください。もし何か粗相があったというのでしたら、私が代わりに罰を受けます。どうかご慈悲を………」
青琳は俯いたまま肩を震わせた。が、やがて喉の奥から乾いた笑いを漏らした。それは次第に大きくなり、ヒステリックな哄笑となって、朝の清涼な空気に禍々しい瘴気を呼び込んだ。
「ハッ、ハハハハハハハハ……………怒りを収めろ、だと？ 誰がこんな愚かな子供相手に本気で怒るものか。
全く、遼牙もいい迷惑だろうな。こんな思い込みの激しい子供に付きまとわれて。今ごろは羽を伸ばして、次々と女を閨に引き込んでいるに違いない。羨ましいことだ」
「ち…がう………」
瑠羽のか細い反論が、青琳の耳に届くことはなかった。彼は芝居めいた笑いを振りまいたまま、瑠羽の部屋を出ていった。
「りょ…きさまは……ぼく……を…………」
それでも瑠羽は、血で濡れた唇を動かして反論をやめようとしなかった。遼牙さまは僕を愛してくれているの、と。
「遼牙様、架越に送った密偵から報告が上がってきました」
「そうか。早速読んでくれ」
しかし鴇津は唇を閉ざしたまま報告書に視線を落とすだけで、一向に読み上げようとしない。
「どうした、鴇津。読んでくれと―――」
「最初に申し上げておきます。かなり…痛ましい内容が含まれておりますので、どうか心の準備を。よろしいですね」
必要のない前置きを安易に口にするような鴇津ではない。遼牙は無意識のうちに、拳をぎゅっと握り締めた。
鴇津は小さく頷いて、報告書を読み上げる。そこには、架越城に連れてこられた瑠羽が受けた辱めはもちろん、宴の様子まで克明に記されていた。
首輪で繋がれて奉仕させられたこと、そしてあの騒動、瑠羽の歌による宥め、青琳の尋常でない怒り―――
「―――その後、瑠羽がどうなったかは残念ながら分かりません。恐らく―――」
バキ、と何かが折れる乾いた音が響いた。見れば、遼牙が座っていた椅子の肘掛けが折れている。血管の浮き上がった手は、折れた肘掛けの断片を握り締めてぶるぶる震えていた。
「あの…男…………」
地を這うが如き昏い低音が、あっという間に室内の空気を凍りつかせる。
「許さん………」
余りに静かな、それゆえに狂気を感じさせる激情を鴇津は正面から受け止めた。宥めや慰めの言葉などは一切吐かない。ただ黙って、遼牙が自ら原始的な感情を克服するのを待ち続けた。
どのくらい時間が経っただろうか、やがて遼牙はゆっくり顔を上げ、先刻と同じ場所に同じ姿勢で立っている鴇津を、冴えた視線で射抜いた。
「………心中、お察し申し上げます。私もこれに目を通した時、近くの壁に穴をあけてしまいました」
「修理代は自費だぞ。私もこれは自分で直そう。ところで鴇津、条約申請書の件だが……」
鴇津は微かに眉根を寄せて頷いた。
「はい。遼牙様のお考え通り、架越に預けた新たな不戦条約の申請書はまだ神殿庁に送られておらず、途中で止められておりました。あの男の目的はやはり、遼牙様と瑠羽を引き離すことにあったかと」
「……そこまでするほど私が憎いのか」
鴇津は一瞬ためらったが、敢えて口を開いた。
「憎しみだけではないでしょう。恐らく嫉妬や憧れもあると思います。隣国同士であり、学友であり、同じく王位継承者であるため、何かと比較対象にされたでしょうから」
「嫉妬？ 憧れ？ この私にか？ 馬鹿な。王とはいえこのような小国で、しかも影道である私に―――」
「完璧な英雄になど魅力はありません。傷を抱えながらも自らを律し、名声を得たからこそ憧れの対象となるのです。それに加えて瑠羽の存在。無垢なる愛情と信頼を捧げてくれる者が、あの男の傍にいるとは思えません」
しかし遼牙はその言葉に頷くことはせず、「それはどうかな」と思わせぶりに呟いて鴇津を見つめた。
「遼牙様？」
「いや、何でもない。それよりも申請書は―――」
「お任せください。密偵を送り、偽物とすり替えさせました。本物の申請書はすでに神殿庁に到着し、じきに発効の運びとなるはずです。
さぞかし驚くでしょうね。申請書は秘匿してあるはずなのに、条約が発効になって」
遼牙は頷きを返して宙を見据え、「瑠羽、あと少しの辛抱だぞ…」と苦しげに呟いた。
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