＜第5エペイソディオン＞
「んだよ、沙里奈（さりな）。もう帰ってきたのか」
「仕方ないでしょ。同伴するはずだったお客さんからドタキャン食らったのよ。だからいったん帰ってきたの。ねえそれより……」
沙里奈と呼ばれた女性は、由季たちより四、五歳上に見えた。目を惹くような美人ではないが、身体のラインには女性特有の魅力が詰まっている。
同伴と言っていたからいわゆる水商売なのだろうが、けばけばしさはなく、むしろカラッと乾いた色気を持つ女性で、決して感じは悪くない。
なのに由季は、彼女を見つめる目が険しく尖るのを抑えられなかった。対して沙里奈は気にした風もなく、由季に笑顔を向け、
「ねえ、この子ってもしかして志季の……」
「ああ。弟だ」
沙里奈はぱっと顔を輝かせ、由季の前に膝をつく。そしてまじまじと顔を眺めた。
「双子よね？ でもあんまり似てないのね。それにしても凄い。天使みたいにキレーな男じゃない」
「悪魔みたいで悪かったな」
「あはは。あたしは性悪悪魔の方が好きだけどね」
そう言って、ごく自然な仕草で志季の身体に触れる。それを見た由季は、鳩尾の辺りを漠然と漂っていた感情がぎゅっと凝結するのを感じた。
苦いしこりのようなそれはひどく不快で、忌々しい存在感があり、どう扱ってよいか分からぬ。分からぬながらも原因が目の前の女性であることは明らかだった。
「兄さん、外に出よう」
由季は努めて彼女の存在を視界から消し、志季だけに呼びかけた。そうすることで、この場における夾雑物は貴女なのだと暗に知らしめたのだ。自分たち二人の世界に、貴女の居場所はないということを。
「ああ、そうだな」
志季が応じたのは、彼女がいる場で“復讐”に関する話はできないと思ったからだろう。それでも、志季が彼女を置いて自分の方に来てくれるのは嬉しかった。由季は込み上げる優越感を噛み締めつつ立ち上がろうとしたが、予想外のことが起こった。
「ねえ待って。せっかく時間ができたのよ。ちょっと付き合ってよ」
沙里奈はそう言って、含蓄ある眼差しを奥の部屋へ向けた。空気が突然湿りを帯びたように重くなり、由季はその中に取り残された。そう、今や夾雑物は由季の方になったのだ。
「今からかよ」
「だって最近してないじゃない。女も溜まるって知ってた？」
彼女が何を誘っているのか、由季もようやく察した。こんなあけすけに、しかも女性の方から誘うなんて信じられなかったが、そもそもそういうことに関する知識も経験も乏しいのだから何が正常なのか分からない。口を挟むことなどできるはずもなく、由季は黙って俯く。志季が断ってくれるのを期待するしかなかったが、
「しょうがねえな。ま、俺の役割はそれだからな」
割り切ったようなさばさばとした口調には、眼前の女性に対する生臭い欲望も情愛も感じられない。しかしそれゆえに、性的欲望や恋愛感情をさらに超えた、堅固な絆のようなもので結ばれていることが分かった。
なぜ。それは僕と兄さんの関係にこそ相応しいものではないか。なんで彼女なんかと───
「そういうこと。で、君は帰る？ ここにいてもいいし、何なら参加してもいいけど」
「趣味の悪い冗談だな」
「いいじゃない。双子と3Pとか官能小説みたいで」
二人の会話、二人の関係から完全に弾かれた由季は、小さい声で「ここにいる」と答えるのが精いっぱいだった。沙里奈は「物好きねえ」と笑い、「先にお風呂入ってる」と言って立ち上がった。
すると志季は「やれやれ」と肩をすくめ、背後のキャビネットを漁った。そして一冊の本を取り出し、由季に渡した。
「これでも読んでろ。大して面白くはないが、後で話すことに関係がある」
それは薄い文庫本だった。ソフォクレス作『オイディプス王』。読んだことはないが、ギリシア悲劇の傑作と言われていることは知っている。
「帰りたかったら帰ってもいい。本は貸してやる」
志季はそう言い置いて、彼女を追って浴室へ入った。
『この地には、ひとつの汚れが巣食っている。さればこれを国土より追い払い、決してこのままその汚れを培って、不治の病根としてしまってはならぬ』
由季は文章を追いながら、先鋭な意識は真っ直ぐ奥の部屋へ向かっていることを痛いほど自覚していた。ドアはぴったり閉められているが、あらゆる音の漏出を防止するほど優れた防音性があるとは思えぬ。
しかし暫くすると、そんな風に耳を澄ませている己の卑しさにはたと気付き、慌ててページに意識を移す。
『あなたの父と母と、ふた親の二重の呪いがおそるべき足取りであなたを追いかけ、いつかこの土地からあなたを追い出さずにはおかぬであろう』
それにしてもなぜ、志季はこの本を読めと言ったのだろう。そもそもオイディプス王といえば、スフィンクスの謎を解いた英雄だ。
『朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か』という有名なスフィンクスの謎かけに対し、それは『人間』だと答えて怪物を退治し、テバイの都を救った。
この功績によりオイディプスは、何者かに殺害された前ライオス王の後を継いで王位に就き、先王の妻であるイオカステを妻に娶ることになったのだ。
しかしテバイの都に再び災厄が降りかかる。託宣によれば、先王ライオスを殺した者を捜し出し、罪を償わせることで災厄は収まるという。その犯人捜しの過程を描いた作品といえよう。
『お告げによればわしは自分の母親と交わり、それによって人びとの正視に堪えぬ子種をなして世に示し、あまつさえ、自分の父親の殺害者となるであろう、というのだ』
「えっ、まさか犯人は……」
本の世界に引き込まれかけた時だった。由季の耳にかすかな吐息が届いた。それは扉を隔てているとは思えぬほど生々しく、仄かな体温すら感じられる。
───あ、ん、んっ……いい、そこぉ……
由季は大きく頭を振って、まとわりつく生ぬるいものを払おうとした。しかし、
───いつもより……してる？ となりに……がいるから……
それに対する答えは聞こえない。由季は本をぐしゃっと握り、必死に文字を追う。しかしそれはもはや意味をなさず、眼球の上を滑っては消えてゆくのみ。
───あっ、あ……きもちいい……ねぇ、もっと、もっとして……
下腹部に鈍痛がともる。仕方ない、男性として正常な反応なんだと声に出さず呟いて、由季は大きく息をついた。頭の中に妄想めいた光景が浮かび上がり、それが徐々に鮮明になってゆくのが分かる。
白いシーツの波間。上から覆いかぶさり拘束する。腰を振って責め立てれば、黒髪を乱して甘く悶え……。
「……っ！」
違う。確か女の髪は黒ではなく、明るい茶色だった。つまり、由季が今、妄想の中で抱いているのはあの女ではなく───
「ち、ちがう……」
否定の呟きは脆弱で、唇から漏れる荒い呼吸に掻き消されてしまった。
「なんだ。まだいるとは思わなかった」
濡れた髪を拭きながら、志季が戻ってきた。雫が伝う首筋を直視できず、由季は思わず目を逸らす。するとそれをどう誤解したのか、「別にいても構わねえけど」と肩をすくめた。
「あれ、まだいたんだ」
志季の後ろから、同じ台詞を口にしつつ沙里奈が現れた。そしてゴミ箱の中を覗き、ぐしゃぐしゃに丸められたティッシュを見て「へえ～」と芝居がかった声を上げる。
「天使さまも、ちゃんとやることはやるのね」
性的なからかいに羞恥を隠しきれず、由季は耳まで赤くなる。すると志季が哀れんだのか、
「おい、よせよ。そいつは俺とは違って、純粋培養のお坊ちゃんなんだよ」
「ふ～ん……本当にそうかしら」
沙里奈はそう言って、由季に近づく。そして、志季が着替えるため別の部屋に移動したのを確かめると、由季の耳元に口を寄せた。
「あなたの妄想の相手は、あたしじゃないわ。でしょう？」
由季は息を呑んだ。彼女の顔を見ることができず、前を向いたまま固まる。
「あなたはあたしに嫉妬してる。初めに会った時、凄い目で睨んできたもの。でも安心して。あたしにはちゃんと恋人がいるから」
「恋人が？」
意外な言葉に、ようやく由季の強張りが解けた。沙里奈は頷き、
「ええ。志季とはまあ、施設にいた頃からの腐れ縁というか」
「貴女も施設に？」
「そういうこと。双子の弟がいるってことは志季から聞かされていたから、こうして会えてなんだか感慨深いわ。ね、それより───」
沙里奈はさらに声を潜め、囁くように問うた。
「妄想の中で、あなたは志季に抱かれたの？ それとも……志季を抱いたの？」
「なっ……」
再び爆弾が投下されたところで、志季が戻ってきた。
「二人で内緒話か。仲いいな」
「妬かない妬かない」
「誰が」
志季は詰まらなさそうに応えると、由季に向かって顎をしゃくった。
「出るぞ」
「話ならここですればいいじゃない。それとも、あたしに聞かれたら困るようなヤバい話なの？」
沙里奈の無邪気な問いに、志季はそれ以上の無邪気さで答えた。
「ああ、かなりヤバい話だ」
「ふ～ん、そっか。分かった。ならあたしが外すわ。適当にご飯食べて一時間後に帰ってくるから、それまでに終わらせといて」
彼女はそう言って素早く着替え、化粧もせずに出ていった。気を使ってくれたようだ。悔しいが認めざるを得ない。
「いいひとだね」
「まあな。たまに親みたいなところがあってうぜえけど。ま、本物の親よりずっとマシか」
「笑えない冗談だね」
「確かにな。で、本は読んだか？ ああ、それどころじゃなかったか」
由季の心臓がどきりと跳ねた。もちろん志季は、由季を“それどころじゃない”状態にした妄想がどんなものなのか知らない。それでも由季は、罪悪感から鼓動が速まるのを抑えられなかった。
「まあね。でも最後まで目は通した」
先王ライオス殺しの犯人捜しは、残酷な真相を導き出した。実はオイディプスこそ先王ライオスの息子であり、殺害した張本人でもあったのだ。
そしてオイディプスはそうとは知らず、自分の母親を妻に迎え子をなした。これこそが、テバイの国を襲っている災厄の原因たる穢れだったのだ。
「運命の悪戯、と言ったら安っぽいけど、そうとしか評しようのない悲劇だ」
「確かに悲劇だが、それは人間には制御しようのない力に強制されたものだからだ。お前が言った運命の悪戯だな。けれどもしこれが、明確な意志のもとに行われたことだとしたら？」
「明確な意志のもとに……」
志季が何を言わんとしているのか、由季にはまだ掴めなかった。説明を求めると、志季はすぅっと目を細めた。
その狂疾めいた笑みが放つ瘴気に搦め捕られ、由季は身体の自由を奪われた。それは錯覚なのかもしれぬ。しかしその時由季は確かに、甘い毒を放出する花の前で竦む、小さな翅虫と化していたのだ。
「オイディプスは運命によって母と交わり父を殺した。だからそれを反転させ、意志によって父と交わり母を殺す。アンチ・オイディプスだ」
今、喜劇の幕が開いた。
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