＜第18エペイソディオン＞
鯨幕がはためいている。黒と白の布で綴られた幕が風で揺れるのを眺め、延々と続く読経に耳を傾ける。由季は手の中の数珠をもてあそびながら、焼香に来てくれた人に頭を下げた。
辻の家で『真実』に対峙した哉子は悲鳴を上げ、極度の混乱を引きずったまま外に飛び出した。靴は履いていなかったという。
そのまま何かから逃れるように走り、走り、辻の家から500メートルほど離れた交通量の多い国道でトラックにはねられた。病院に搬送されたが、意識が戻らぬままその日の夜に死亡した。
運転手は突然前に飛び出してきたと証言し、それを裏付ける目撃者もいたが、前方不注意による事故として処理された。
本当に事故だったのか、あるいは自殺だったのか知るすべはない。たぶん、哉子本人にも分からないのではないか。さまざまな思惑が削ぎ落とされて純化した意思は、時に自我を置き去りにして暴走する。
本当に死を望んでいるのか分からぬまま、走るトラックの前に身を躍らせた可能性はある。その意味では、あれは自殺だと由季は思っていた。
人間は真実を見ることに耐え得ない───『オイディプス王』の根底にあるテーゼだと、いつだったか志季が教えてくれた。哉子はただ一人、ソフォクレスの悲劇に準じたということだ。
いつの間にか読経が止んでいた。清めの酒や軽食の用意されている場所に、参列者が移動する。といっても数は多くない。ほとんどが隆彦の会社の関係者だ。
この中に、彼女の死を心から悼んでいる人がどのくらいいるのか。それは由季にも言えることだが。もし今自分が死んだら、通夜に来てくれるのはほんの数人だろう。
そんなことを考えながら、由季は参列者に適当に挨拶しつつ隆彦の後に続いた。その時、会場の外に佇む黒い人影が目に入った。顔は見えないが、それが誰なのか本能的に察した由季は隆彦を押しのけて会場を飛び出し、黒い影を追った。
「由季っ？ 待ちなさい、どこへ行くんだ」
追いかけて連れ戻そうとする隆彦を引き止めたのは、皐月だった。
「行かせてあげて」
「皐月？ 一体……」
皐月は由季の消失点を見据えたまま、
「志季よ。パパも知ってるわよね？ 由季の双子の兄」
「志季……まさか、二人は会っていたのか？」
皐月は笑う。
「そんなに驚くことないでしょ？ 双子なんだから会って当然じゃない」
「それはそうだが……しかし、由季も志季も互いを受け入れたということか」
「そうよ。どんなしがらみも、二人を引き離すことはできないの」
確信的な口調の皐月は、隆彦が知っている娘ではなく、まるで見知らぬ女性のようで、隆彦は軽い戦慄に襲われたのだった。
志季との距離は一向に縮まらない。もしこのまま彼を見失ってしまったら、捕まえることができなかったら、もう一生会うことはできないのではないか。そんな直感に由季の胸は呼吸もままならないほど苦しくなる。
「兄さん！ 兄さん待って！！」
このままでは追いつけないと察した由季は、声を絞り出して懇願した。その叫びに凝縮する切実な願いを聞き取ったのか、志季は立ち止まる。しかしこちらを向こうとはしない。由季は駆け寄って背中から抱き締めたい衝動を抑え、ゆっくり近づいた。
「兄さん……」
志季の背中は震えていた。泣いているのか笑っているのか、そのシルエットから察することのできぬ己の感性の鈍さが不甲斐ない。何と声を掛けたらよいか分からず、由季はその背中を見つめることしかできない。
「……ったくお前は、そうやって容赦なくひとの胸ん中を掻き乱す。いつもそうだ」
「え……？」
言葉の意味が分からず聞き返すと、志季はくるりと振り向いた。彼は泣いてはいなかったが、
「兄さん……少し痩せたね」
理由は聞くまでもない。あの日。真実が明るみになった日。もう二度とここへは来ないと冷酷なほどそっけなく言い置いて、由季は辻の家を出た。そして志季に電話しようとしたところで携帯が鳴り、母の事故を知らされたのだ。
志季に連絡したのは、母が息を引き取った後。病院から電話すると、耳が灼けそうなほどひりついた沈黙が続き、一方的に切られた。それから何度電話しても繋がらず、今に至る。この数日間、彼が何を思い何に苦しんできたかは想像に難くない。
「後悔……してる？」
口にしてから残酷な問いだったと気付き、由季は慌てて回収した。
「後悔してるよな、もちろん。でも兄さんに罪はない。やったのは僕だ」
下手な慰めだと思ったのか、志季の顔に昏く歪んだ笑みが広がる。しかし由季は構わず続ける。
「父と交わり母を殺す……それがアンチ・オイディプス計画だと言いながら、兄さんはまさか本当に死ぬとは思っていなかった。そうだろう？ でも僕は違う。もしかしたら、いや恐らく、彼女はあの化け物じみた真実に耐えらず自滅するだろうと思っていた。それでも僕は計画を止めなかった。途中でいくらでも止めることはできたのに、自分の意思でやり遂げてしまった」
“自分の意思で”を強調することで、志季に強制されたわけではないと暗に伝えようとした。
「もし計画を途中でやめたら、兄さんとの関係が絶たれてしまうかもしれない。僕たちは、アンチ・オイディプスというたった一本の糸で繋がっているも同然だと僕は分かっていたから、やめることができなかった、怖かった。自分の欲求を優先させたんだ。それにあの計画の目的は復讐だ。兄さんには復讐する正当な理由がある。だから兄さんに罪はない」
「違う」
確信と力のこもった否定に、由季は言葉を失う。いったい何が違うというのか。すると志季はそっと目線を外し、
「そもそもあの計画の本当の目的は、ただお前を……」
濃厚なためらいを引きずったまま、言葉が途切れた。志季には珍しいことで、追及すべきか由季は迷った。
痩せたからなのか、精神的消耗のせいなのか、志季の存在がこれまでにないほど脆弱に感じられ、由季は思わず手を伸ばす。すると志季はふいと背中を向け、
「来い」
どこへ向かうつもりなのか、もちろん訊ねるつもりはない。志季が『来い』と言った。自分はそれに従うだけだ。
志季の背中を追って後に続き、着いたのは雑居ビルの裏手。志季は鍵を使って扉を開け、由季を中へ促した。段ボール箱が積まれ、酒の瓶が並んでいる。店の倉庫だろうか。
「ショットバーだ。ここで夜はバイトしてる」
「バイト？ でも僕が訪ねた時はいつも部屋に……」
「お前が来る日はバイトを入れてないからな」
その意味を考える間もなく、唇に熱いものが押し付けられた。すぐさま歯列を割って侵入してきたものは甘くぬめり、由季の舌を搦め捕って吸い上げる。
突然の行為に頭の芯が発火し、生じた熱に朦朧としながらも、由季は事実をしっかり把握した。初めて志季から求められているという事実を。
「兄さ……」
唇が離れても、吐息は絡まっていた。ふわりふわりと唇に感じる息と、半開きの唇から覗く濡れた舌が愛しくて、由季はそれを追うように舌を伸ばし志季の唇を舐めた。さらに奥へ滑り込ませ、唇の裏側をぬるぬると撫でる。
感じているのか、「んっ」と喉の奥から漏れる喘ぎを吸い取ろうと唇を深く重ねた時、股間に痛いほどの刺激がともった。思わず唇を離し懇願する。
「兄さん待っ……！」
いつの間にか解放されていたものを、志季の手が強く握っていた。由季が数歩後ずさると、背中が壁にぶつかった。すると志季はその場に膝をつき、震えながら斜めの角度を保っている由季の雄身を口内深く咥え込んだ。
「……ッ！」
言葉が霧消するほどのそれは、快感というにはあまりに暴力的だった。尾てい骨から脊髄までビリビリ響き、由季は顔をしかめる。
辻にならばされたことがあったから、口淫は初めてではない。しかし愛しい人から受ける奉仕には、快楽以上の何かがあった。相手を穢しているという背徳感なのか、もっと単純な悦びなのかは分からないが。
「兄さ……出るっ」
志季の柔らかな口内であっという間に硬起したそれは、意思とは関係なくびくびくと跳ねる。すると先端が志季の上あごとこすれ合って、腰が浮き上がるような快感が湧き上がった。
一瞬だが意識が飛び、気付けば志季の喉奥めがけて放っていた。志季の喉が大きく上下するのを見るともなく眺めつつ、じわじわと込み上げる罪悪感を持て余していると、志季がようやく口を離した。
中から出てきたものは白濁に塗れ、まだ微妙な角度を保っている。志季がそっと指を添えて軽くこすると、まだ先端にくすぶっていたのか白い飛沫が飛んで志季の左頬に付着した。
黝い肌に白の閃。その黒白は残酷なまでに妖美で、その光景に由季は眩暈がするほど欲情した。抱かせて欲しいという懇願の言葉が行動に追いつかず、無言のまま志季の腕を掴んで立たせ、自分が背中を預けていた壁に向かい合わせに押し付けた。
そしてジーンズと下着をずり下ろすと、引き締まった尻が露わになる。それは倉庫の安っぽい白熱電球の下でも絖のような光沢を滴らせ、由季は嬉々として五指を沈めた。
柔らかくもあり硬くもある肉を揉みしだきながら左右に割り開き、自身の体液を塗り付けてまずは指で襞を暴く。まだ固いそこを丁寧に指でほぐすつもりだったが、
「さっさとやれ。開店準備が始まる」
「でも、もっとここを広げないと傷が……」
「俺がいいと言ってる」
志季に急かされるという初めての経験は、由季を否応なく昂らせた。指を抜いて同じ場所に自身の尖端を宛がい、ゆっくりと、しかし確実に腰を進めてゆく。
まだ準備のできていないそこは、圧倒的な異物を押し返そうと健気な反抗を見せたが、それは侵入者の快感を増幅させるものでしかなく。締め付けてくる粘膜のあわいを、由季は容赦なく犯していった。
「兄さ…ん……すごい……」
志季は壁に爪を立てているから、声こそ上げないが痛みを感じているのだろう。しかしそれが分かっていても由季は腰を止めることができなかった。背筋が総毛立つような凄まじい快感。
「ごめん、痛くしてごめん」
殊勝なのは口だけで、突き上げる腰の動きは犯すという表現が似つかわしい。しかし由季にはどうすることもできない。情欲と愛しさと飢えがどろどろに混じり合い、出来上がった奇怪なマーブル模様が心と身体を支配する。
飢えを癒すようにガツガツと穿てば、突如愛しさが燃え上がり、身体をぴたりと密着させて体温の浸透に狂喜する。尻が潰れるほど強く股間を押し付け、性器を根元までうずめた状態で抱き締めれば、この世に生まれ出る前に母の胎内で夢見ていた時のような全一感が湧き上がった。
それは錯覚に過ぎぬと分かっている。しかし錯覚も感覚だ。“ひとつになっている”という生々しい感覚だ。由季は兄の首筋に顔を押し付け、薄い皮膚をついばみながら、股間をゆるゆるとまさぐった。
手に触れた熱塊はしっかり形を変え、激しい脈動で欲望を伝える。由季はそれを強めに握り、圧力をかけながら上下にしごいた。そして止めていた注挿を再開すると、志季は喉の奥でこもった喘ぎを漏らしつつ、淫猥なリズムで腰を揺らし始めた。
「兄さん、すごく、きれいだ……」
無理な挿入にさっきまで強張っていた身体は、腕の中でとろ火に煮詰められたかのように柔らかくなっていた。
もちろん柔らかいのは外だけでなく、身体の中もとろみを増し、いやらしく蠕動しつつ締め付けてくる。たまらない、何もかもたまらない。由季は訳も分からず叫びだしそうになり、狂った衝動を抑えるため志季の唇を何度も吸った。
音を立てて吸い、舌を絡ませ、下半身に勝るとも劣らぬ密な交わりに耽る。ふと目にした志季の瞳には涙の霞がかかり、目のふちは上気して艶めかしく色づいている。意図的な秋波などよりずっと濃厚な色気に由季は溺れた。
それは比喩ではなく、実際に呼吸もままならない。酸素の足りない頭は朦朧として、目の前に七色の星がちらつく。ほとんど本能的に腰を抱え直し、暴力的なピストンを数回繰り返したところで唐突に絶頂が訪れた。
「ぐ……ッ」
低く呻いて兄の中に射精する。どくんどくんと注ぎ込むにつれて冷静になり、全く自分本位のセックスだったと後悔が湧き上がる。
「兄さ……ごめ……」
腕の中でくたりと弛緩した兄の身体をそっと抱き締め、弱々しい謝罪を呟いた。すると志季は振り向いて噛み付くようなキスを仕掛け、ぐちゅぐちゅと音を立てて唾液を混ぜ合わせながら由季の黒いネクタイを乱暴に緩める。
喪服のまま交わったことに今更ながら気付いた由季だったが、だからといって特別な感慨が湧くでもない。それよりも、志季の行動が何を意味するのかの方がずっと気になる。志季は由季の襟元を広げると、首筋を吸った。何度も何度も。そして紅い花を散らす。
「兄さん、何を……」
戸惑う由季に構わず痕跡を刻み込んだ志季は、ぽつりと呟いた。
「ジ・エンドだ」
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