─The Holy tragedy─
＜VIII＞
「あはははっ、ほんと人間て愚かだなあ。愚かすぎて哀れみすら覚えるよ。言っとくけど、彼が君のことを愛するなんて、万にひとつもないよ。そもそも眼中にないんだから。マア、地を這うみみず程度の認識だろうね」
夜爪の嘲弄は続く。それは毒性をたっぷりと湛えた言葉の責め具だったが、しかし藍がそれに傷つくことはなかった。何故なら、
「分かってますよ、そんなこと。俺なんて、彼にとったらゴミクズ程度のものだって。だからと言って、愛していけないわけではないでしょう」
「は？ 何言って───」
「俺は彼から何も求めない。ただ、俺が勝手に愛しているだけだ。理解できない、という顔をしていますね。あなたは先ほど哀れみすら覚えると言いましたが、俺も同じだ。あなたには、“見返りのない愛”というものが理解できない。哀れですね」
愚弄する意図はなかった。ただ、心底から哀れだと思った。吸血鬼の寿命は長い。不老不死ではないらしいが、人間よりずっと長く生きる。その気の遠くなるような星霜を、愛を知らずただ快楽だけで生き続けねばならないのだ。
そんな孤独と寂寥、藍には耐えられない。彼らが快楽に倦んだ挙げ句、必要以上の残虐を誇示するようになるのも、どこか解るような気がした。そう、彼らは残虐に“逃げて”いるのだ。
藍が本気で哀れんでいることが、夜爪には伝わってしまったようだ。頬骨が盛り上がり目は吊り上がり、魔の者に相応しい剣呑な顔で奥歯をガチガチと鳴らした。が、すぐに作為めいた笑みを浮かべ、
「ふぅん、そっか。なら、ここで君がぐちゃぐちゃに犯されてるのに彼が助けに来なくても、恨むことはないと」
「もちろんです。助けてほしいとも思っていない」
「嘘が下手だな。さっきは必死に名前を呼んで助けを乞うていたくせに」
藍は穏やかに首を振った。
「助けを求めたわけじゃない。ただ、あの名前にすがっただけだ」
答えると同時に、ひゅっと鋭い風音が鳴り、夜爪は再び藍の上にいた。
「生意気だね、藍ちゃん。でもいいよぉ、すごくいい。僕の正体を知ったらガタガタ震えるヤツらばっかで、いい加減つまらなくてさ」
そう言いながらも、夜爪の顔はまだ尖っていた。というより、残忍な本性が病的に蒼白い皮膚の下から透けて見えるというべきか。
藍はここに至ってようやく、明確な恐怖を感じた。彼は、己の快楽のために嬉々として人間を殺す“一般的な”吸血鬼なのだ。
「興奮したらお腹すいてきちゃった。まずは腹ごしらえかな」
言うが早いか、その形相が一変した。上唇がめくり返り、つららを想わせる形状の太い牙が現れる。そして藍が身構えるより早く、それが頸に突き立てられた。
「ぐっ、ぅ、ぅぅ……」
火掻き棒で殴られたかのような痛みと衝撃に、藍の意識は一瞬飛びかけた。口は強く押さえられ、苦痛の叫びは封じられており、喉の奥から低い呻きが這い上がるだけ。
この激痛は、初めてではない。三年前、緋魅に懇願してようやく吸血が叶った時も味わっている。しかしあれは、藍が自ら望んだ痛みだ。緋魅の生命に奉仕している実感を得るために、意識が鮮明なままでの吸血を望んだのだ。
対して今のこの痛みは、強制されたものだ。耐えることに何の価値も見い出せない。それゆえ、心身が受けたダメージは三年前の比ではなかった。
「う…うぅっ……」
痛みの通奏低音が頭蓋にガンガン響く中、藍は必死にもがいた。この身体を流れる血は全て、一滴残らず緋魅のもの。こんな下劣な吸血鬼の糧にされるなんて真っ平だった。
「や……めろ………ッ」
牙が深く肉を裂き、嗅ぎ慣れた独特の血臭がぷんと漂う。藍は涙をにじませ全力で抗った。やめろ、やめろ、この血はただ緋魅のためだけに───
「……ッ！」
突然、身体が自由になった。何がなんだか分からず、はあはあと荒い息をつく藍の耳に、濁った呻きが届いた。
じりじり痛む首を押さえつつ起き上がると、そこに二つの人影が。ひとつは、たった今まで藍を圧倒していた夜爪。そしてもうひとつは、
「ひ…み……」
月光にひたひたと浸された青銀色の室内に、緋魅が悠然と立っていた。髪や肌を滴る月の雫が彼をより一層冷艶に見せ、藍は状況も立場も忘れて陶然と見入った。
しかし無邪気な鑑賞は長続きせず、はたと我に返る。緋魅は右手を高らかと挙げており、その手は夜爪の頸をぎりぎりと掴んでいたのだ。夜爪は宙に浮いた足をばたつかせ、手を剥がそうと爪を立てるが、緋魅は全く動じない。
「ぐっ……ぐる…じ……」
「ああ？ なんだ、聞こえねえぞ」
普段と変わらぬ不遜な物言いだが、その芯にはかすかな棘が感じられた。
「人の家で好き勝手やってんじゃねえよ」
藍は、目の前の光景が信じられなかった。まさか、緋魅が助けにきてくれたのか。いやそんなはずはない。緋魅が自分のために動いてくれたなんて都合のいい妄想だ。ただ、自分の領域内で自由に振る舞う夜爪に苛立ったのだろう。
でも思い出してみれば、三年前も緋魅はわざわざ鵺引の屋敷まで迎えにきてくれたのだ。
「ここは俺の屋敷だ。客は客らしく大人しくしてろ。それができないなら今すぐ出ていけ」
夜爪はがくがくと頷いた。緋魅は冷然たる無表情のまま手を離し、げえげえ言いながらのた打ち回る夜爪を、まるで地を這うみみずを眺めるように見下ろした。そして藍にちらと一瞥を投げ、
「ったく、ぼろぼろじゃねえか。こんなカマ野郎に好き放題やられやがって。情けねえ」
「なっ…！ そんな無理だって！ 相手は吸血───」
「ああうるさい、喚くな。取り敢えず止血しろ」
緋魅に言われてようやく、頸の吸血痕から血が溢れていることに気付いた。
「緋魅……吸ってくれないか？」
藍の懇願に、緋魅はあからさまに嫌そうな顔をした。
「このカマ野郎が口を付けた場所なんてご免だ。気持ち悪い」
藍はすぐさまシーツを剥がして、カマ野郎、もとい夜爪の口が触れた部分をごしごしこすった。傷の上からこすったのだから、当然痛いしさらなる出血を誘発したが構わなかった。
「これでいいだろっ」
「なにムキになってんだよお前」
「だって！ こんなヤツに、こんなヤツにっ……」
「分かったから泣くな喚くな。月夜の興趣が台無しだ。まったく……」
ぶつぶつ言いつつも、緋魅は望みを叶えてくれた。鮮血がとろりと盛り上がる吸血痕に唇を這わせ、吸い上げる。
「あ、ああ……」
藍はぶるりと震えた。歓喜の戦慄だ。もちろん、痛い。痛いけれど、幸せだった。心の底から、幸せだった。夜爪の傍若無人に感謝したいくらいだ。こうして、久しぶりに緋魅に血を吸ってもらえたのだから。
「もう寝ろ」
歓喜の余韻に酔い惑う頭に、緋魅の冷ややかな声は心地よかった。藍はこれ以上ない充足と幸福を反芻しながら、素直に頷いた。そして顔を上げると、淡い血色のともった緋魅の美貌がこちらを見下ろしていた。
普段は冴え冴えと無機質な輝きを帯びている肌が、吸血の直後だけはこうして生の揺らめきを見せるのだ。その変容は微かであるがゆえに悩ましく、藍の目を釘付けにしてしまう。しかも、この変容を緋魅にもたらしたのは自分の血なのだ。それに勝る喜びがあるだろうか。
「ん、寝るよ。緋魅、ありがとう」
藍の口から自然とこぼれた感謝の言葉に、緋魅は意味が分からないと言わんばかりに怪訝な表情を浮かべてみせた。しかしそれは作為的なもので、本当は何もかも全て分かっているのだ。藍の想いの全てを。
緋魅は「変なヤツだ」とだけ言い置いて、部屋を出ていった。藍はその消失点を、いつまでもいつまでも見つめ続けた。
残影に、月明かりを重ねて。
翌朝。いつもの静寂の中で藍は目覚めた。昨日までと同じ朝。ほんの一瞬だが、昨夜の招かれざる客人たちは悪い夢ではなかったかと思い、そんな理性の逃避に苦い溜め息を漏らした。
夢ならどんなにかいいだろう。この静寂はただ、彼らが眠っているからに過ぎないのだ、と。
しかし藍は、昨夜の瘴気に満ちた騒乱を努めて頭から排除し、普段通りを心掛けた。素早く身支度を済ませ、血の付着したシーツは処分するため丸めて袋に詰める。そして部屋を出ると、黒曜の声が聞こえた。
来客だろうか。この時間だから人間だよなと思い、そんな考えが咄嗟に浮かぶ自分に苦笑しつつ玄関ホールに向かった。
「あ、藍。おはようございます」
「おはよう。何かあったのか？」
「それが……」
訪ねてきたのは、近くの屋敷の執事だった。ひどく青ざめた顔をしている。いや、青ざめているのは執事だけでなく、黒曜もだった。
「ああ、藍殿。恐ろしいことが起きてしまいました。浅葱侯爵夫妻が、お亡くなりになったのです」
「ええっ？！」
浅葱夫人とオペラ劇場で短い会話と笑顔を交わしたのは、つい数日前のことだ。しかも夫人は、藍が緋魅家の使用人になった当初から、藍ちゃん藍ちゃんと呼んで可愛がってくれた。夫人だけでなく侯爵にも何度も会ったことがある。
藍は無意識のうちにゆるゆると首を振っていた。身体が、その知らせを拒絶するかのように。
「一体なぜ……。事故ですか？ それとも……」
「はっきりとは分かりませんが、恐らく野犬に襲われたのではと」
「野犬？！」
「ええ、そうです。ご遺体の様子から判断するに、その、とても人間業とは思えないと言いますか、何とも惨い有り様で。何でも、全身の血液は流出し、手足もバラバラだとか───」
藍は途中で遮って、黒曜に「確かめてくる」とだけ言い置いた。黒曜は頷いて、「気をつけて」と返す。もし二人の推測が正しいのなら、日の出ている間は安全だ。野犬の仕業ならその限りではないが、野犬であった方がどれだけ救われただろう。
ほどなくして藍は、浅葱侯爵の邸宅に着いた。周囲にはすでに人だかりができており、その中には制服姿の人間もいた。彼らはエリュシオンが雇った警護隊だ。最近の治安悪化を受けて、資金を出し合って雇うことにしたのだ。
藍は深呼吸をしてからゆっくりと近づく。
「野犬に襲われたって本当なの？」
「らしいな。でも昨夜は劇場も開いてないし、舞踏会もパーティーもなかったはず。なぜ夜に外出を……」
「野犬にしては、喰われた痕跡がないって言うじゃないか」
「そうなのか？ でも身体は喰い散らかされてるって」
「散らかされてはいるけど、喰われてはいない。まるで、手足を切り取ること自体が目的であるかのように───」
周囲に漂う囁きは、どれも不安に淀んでいた。藍は不安の感染を防ぐため、唇を噛み締めて“現場”に歩みを進めた。そして、
「うっ……」
黒いシートのようなもので覆われた場所が、点々と散らばっている。つまりシートの数だけ遺体が分断されているということだ。
藍は込み上げるものを必死に押し戻し、恐らく“本体”と思われる大きなシートに近づいた。警護隊は誰も止めようとはしない。彼らは警察でも軍でもないのだから、行動を禁じたり強制する権利は持たないのだ。
藍は、爪が手のひらに食い込むほど強く握り締め、それを見下ろした。シートの下からスカートがはみ出しているから、浅葱夫人で間違いないだろう。
そっとその場に跪くと、死の臭いがした。招かれざる客たちが連れていた哀れな使用人から漂う腐臭とは異なる、“新鮮な”死の臭いだ。藍はなるべく呼吸を浅くして、シートに手を伸ばした。どうしても、確認せねばならないことがある。
「うああッ……」
それは浅葱夫人で間違いないのだろうが、生前の面影はなかった。首は奇怪な方向に捻じ曲がり、片方の眼球は刳り抜かれ、ぽっかり空いた眼窩から赤黒くねばついた液体が垂れていた。口は苦悶の形に開いたまま硬直している。
藍は一瞬遠のきかけた意識を必死に手繰り寄せ、己の為すべきことをやり遂げようと、亡骸の首筋を探った。
「あっ…た……」
皮膚に捺された吸血痕。これを見た者は、やはり野犬の急襲かと納得するかもしれない。しかし一体どこに、目玉だけを綺麗に刳り抜く野犬がいるだろうか。
藍は素早くシートを被せ、亡骸に手を合わせた。そして立ち上がり振り向くと、不安と好奇心のせめぎ合う表情でこちらを遠巻きに眺めている野次馬たちの中に、彼の姿を見つけた。老残の使徒、ザインだ。
藍は小さく首を振る。違う、これは緋魅の仕業ではありません、と。すると教会の使徒は、少し不愉快そうに眉をひそめて頷いた。そんなこと言われずとも分かっている、ということだろう。つまり彼は、緋魅以外の吸血鬼がエリュシオンにいることをすでに知っているのだ。
───いっそのこと、彼に殺してもらえないだろうか。
そんなことを本気で考えてしまい、自分がどれほど動揺しているか今さら気付いた。吸血鬼を狩る者を屋敷の中に招き入れるなんて危険すぎる。彼にとっては緋魅もあの三人も、同じ吸血鬼なのだから。
藍は目を伏せたまま、逃げるようにその場から立ち去った。
死の臭いが、どこまでも追いかけてくるような気がした。
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