─The Holy tragedy─
＜VII＞
「すみませんね、藍」
寝台に横たわった黒曜は、藍の姿を認めると弱々しく微笑んで謝罪の言葉を口にした。その傍らでは翠円が、神妙な顔つきで座っていた。
「謝ることはないさ。ああ、あの奇天烈なお客さんたちは、取り敢えず部屋に案内したよ」
藍は意識的に軽い口調で答えたが、この場に漂う重苦しい空気を一掃することはできなかった。
「旦那様以外にも吸血鬼がいるのは分かっていましたが、まさかあんな……」
切り取られ、繋ぎ合わされ、死んでのちも玩具として扱われている名もなき身体を思い出したのか、黒曜は言葉に詰まった。
「俺も驚いたよ。でもたぶん、あれが吸血鬼の本性なんだ。緋魅が特別なんだよ」
『吸血鬼は本来、残忍で凶暴で好色な生き物なのだ』───使徒ザインの言葉が頭をよぎる。その正しさを認めないわけにはいかなかった。
「そう、なんでしょうね。吸血鬼の世界にも、或いは人間より厳格な階級制度がある。あの一番若い青年、“亜種”と呼ばれて激昂してましたね。純血種より劣る亜種だからこそ、人間をあのように扱うことで自らの優位を誇示せずにはいられないのでしょう」
黒曜の指摘通りだと思った。それにしても、いきなり現れた吸血鬼を前にしてそこまで見抜いてしまう黒曜の冷静さと炯眼に、藍は素直に感心した。
「その意味では、吸血鬼も人間も同じだな。使用人を奴隷のように扱うことで、己の優位性に酔う貴族……」
人間と同じなどと言ったら、彼らは烈火の如く怒り出すのだろうか。その反応こそがまさに“人間的”だと思うのだが。
「ともかく、黒曜はもう暫く休んでいるといい」
「藍……一人で大丈夫ですか？」
「ああ、もちろん。考えようによっては、手のかからない客人だ。食事のもてなしが不要なのだから」
「確かにそうですね」
黒曜は力なく笑って、枕に身体を沈めた。
藍は未練がましく扉の前をうろついていた。部屋の中では、緋魅と三兄弟が話している。藍も一緒に部屋に入り、暖炉の炎を調節するふりをしてさりげなく留まり、話を聞こうと目論んでいたのだが、あっさり人払いされてしまった。
仕方なく退室したのだが、この中でどんな話し合いが持たれているのか、三兄弟がわざわざ極東の国を訪れた目的は何なのか気になって、扉の前を離れることができずにいたのだ。
どんなに耳を澄ましても、中からはしわぶきひとつ聞こえない。壁も扉も重厚な造りで当然なのだが、五感を超えた第六感みたいなもので中の気配を窺い知ることができないか、など空想小説めいた考えに囚われてしまう。
それは単なる好奇心のせいというより、藍の中で徐々に存在感を増しつつある不安を鎮めるためだった。
そうやって悶々と不安を持て余し、どのくらいの時間が経過しただろう。藍にとっては長く感じられたが、実際には一時間も経っていなかった。扉が向こうから開いて、三兄弟が出てきた。
藍は咄嗟に身を隠し、三人の表情を窺う。苛立ち、落胆、怒り。あからさまではないものの、そんな負の陰翳が三人の足取りを重くしているように見受けられた。おそらく、思い通りの成果が得られなかったのだろう。
彼らがどんな話を持ちかけたのか知らないが、あの緋魅を相手にして、自分たちに有利になるよう話を進めるのは極めて困難だろう。
三人が客室に戻るのを見届けてから、藍は緋魅のいる部屋に入った。緋魅は肘掛け椅子にゆったりと脚を組んで座り、片手を額に当ててわずかに俯いている。
追憶に耽るように両目を閉ざしているが、眉間に浅く刻まれたものが、彼の脳裏を支配しているのは甘い追憶ではなく、気怠い憂愁であることを教えていた。声を掛けるのがためらわれ、藍は暫し立ち尽くす。
「何の用だ」
目を閉じて視野を封じたままでも、藍の気配を察知するなど緋魅にとっては造作もないことだ。藍は驚くこともなく応えた。
「どんな話をしたのか気になって」
すると緋魅はゆるりと目を開けて藍を見上げた。瞼の動きは緩慢だったが、放たれた視線は藍が思わず身じろぐほど尖ったものだった。
「お前には関係ない」
「………」
彼のこういった突き放した物言いには慣れているつもりだった。好きにしろ、うるさい、関係ない。緋魅の返答は突き詰めればこの三単語で要約できるのではないかと、日ごろから思っているほどだ。
なのになぜ、言葉を失うほど胸に突き刺さったのか。理由は明白だ。本当に藍には関係ないからだ。吸血鬼同士の話、つまりは上位種同士の話。人間ごときが口を出すなということだ。
「……そ、そうか。いや、深刻な話でなければいいんだ。ちょっと心配だっただけだから」
そして、緋魅から言われる前に自分で引き取った。
「まあ、話を聞いたからって俺なんかに何かできるわけじゃないけどな」
そう言って道化のように笑う自分が惨めだったが、藍は精いっぱいの強がりで笑顔を維持すると、「俺はそろそろ休むよ」と言って部屋を出た。
自室へ向かう途中、淫蕩な視線がその身体にまとわり付いたが、胸に刺さった言葉の矢じりがもたらす痛みのせいで藍が気付くことはなかった。
今日は、色々なことがあり過ぎた。眠るために目を閉じても、瞼裏に次々と不吉な像が結ばれて慌てて目を開ける。
使徒ザインが腰に帯びていた三叉の剣、哀れな双頭の鴉、継ぎ接ぎされた死人たち───
藍は諦めて、黒曜にもらった睡眠薬に手を伸ばした。白い錠剤を半分に割って、水で流し込む。薬に依存する睡眠は不健康だと思っていたから、よほどのことがない限りは飲まないようにしていた。
しかし今夜は仕方あるまい。さっきの感じだと、あの招かれざる客たちが長居することはなさそうだ。長くても数日の辛抱だと自分に言い聞かせて、藍は薬が効き始めるのを待った。やがて、眠りは訪れた、のだが───
「ん、んっ……」
深い眠りと浅い眠り、その波の狭間で藍は異質な何かを感じた。それは徐々に輪郭を持ち、藍の心身を圧迫する。
「うっ……ぁ……！」
ついに眠りの帳は引きちぎられた。弾かれたように目を開けると、腥い闇の中に蒼白いものがぼぅっと浮かんでいた。
藍は反射的に大声を上げそうになったが、にゅっと伸びてきた手に口を塞がれ、こもった呻きしか漏らすことができない。相変わらず凄い力で、片手で押さえられているだけなのに、藍は拘束を解くどころか身動きすらとれなかった。
「はァい、こんばんは」
藍の上に馬乗りの状態で、笑顔を浮かべてふざけた挨拶をしてきたのは、夜爪だった。黒髪のナルシスト吸血鬼。
「大声出さないって約束してくれたら、自由にしてあげる」
藍は眼差しと小さな頷きで同意を伝えた。夜爪はうっすら目を細めると手を離したが、藍の上からはどこうとしない。
「どう……されました？ こんな時間に」
かすれ声でようよう問う藍に、無邪気な笑みを向ける夜爪。
「こんな時間って、僕らにとったら一番活動的になる時間だよ」
「あ、それは……そうですね」
「うん、だから退屈でさ。お兄サマと蒼牙はお食事に出ちゃったし」
藍は一瞬、身構えた。夜爪は血を吸いに自分のところへ来たのかと思ったからだ。しかし、
「僕、なんだかあんまりお腹すいてないんだよねえ。だから、藍ちゃんに遊んでもらおうと思って」
藍は心の中で溜め息をつきつつ、覚悟を決めた。
「分かりました。遊興室の鍵を開けましょう。私でよろしければ、お相手いたします」
遊興室にはダーツやビリヤード台、ルーレットなどがある。夜が明けるまで、或いはこの我がままな客が飽きるまで付き合うほかなさそうだ。そう思ったのだが。
「もお、藍ちゃんてば。僕がわざわざ、人目を忍んで来てあげたんだよ。そんな白々しいこと言わなくていいから」
「は？ 一体なにを───」
「藍ちゃんはさあ、どっちがいい？ 掘る方？ 掘られる方？ 僕はどっちでもいいけど、まずは藍ちゃんのを味わってみたいな」
夜爪はそう言うや否や布団を払い、間髪いれず藍の下穿きを剥ぎ取った。そして驚きに固まる藍の唇に吸い付き、舌で歯列を割って口内に侵入してきた。
「う、ぐっ」
生温かい唾液がとろとろと流れ込み、激しい不快感にきつく眉根を寄せる。しかし口を塞がれているため吐き出すこともできず、藍はそれを飲み込んだ。
大きく上下する喉でそれを確かめた夜爪は、噛み合っていた唇をほどいて満足げに笑う。そして唇に付着した唾液を舌で舐め取ってから、藍の身体を見下ろした。
「……！」
目を見開いて言葉を失う夜爪が、何に驚いているかは明白だった。その濃密な視線は、藍の左足に、正確には左足があるはずの場所に注がれていた。
「う…わぁ……藍ちゃんてば左足もなかったんだ」
その声は、明らかな喜色で不穏に漣っていた。
「片目片足を使用人として傍に置くなんて、緋魅公爵とは趣味が合いそう。僕もアクロトモフィリア（身体欠損性愛）なんだ」
「ち、ちがいます！ これは事故で───」
「僕、ますます藍ちゃんのことが気に入っちゃった。後ででいいから、切断面を舐めさせてね。取り敢えず今は、犯したい」
夜爪はそう言うと、藍が呼吸をする間も与えず上から肩を押さえ付けた。力の歴然たる差はすでに知っていたが、それでも藍は必死に抵抗を試みた。しかしすぐに、無駄な足掻きだと思い知る。
「おやめください……」
藍は言葉で懇願したが、夜爪に淫笑を浮かべさせただけだった。
「やめてください、なんてほんとは思ってないくせに。ほら、ちゃぁんと反応してるじゃないか」
その通りだった。吸血鬼の唾液は媚薬に等しい。それはすでに全身に回り、爪先まで疼かせていた。もちろん、欲望の吹き溜まりであるあの場所も、意思のコントロールを離れて勝手に猛っていた。
「ふふ。後で僕の中にも入れさせてあげるから。でもその前に、ね」
夜爪は鼻歌混じりで藍を組み敷き、自身の前を解放した。中性的な容貌とは相容れぬ巨大な性器はあまりにグロテスクで、藍はそれを見た瞬間、身体を巡っていた淫靡な熱がすーっと冷め、代わりに悪寒が走るのを感じた。
「い、いやだ、いやだ！」
藍は腹の底から拒絶を搾り出した。しかし夜爪はにたりと笑い、藍の身体を逸物で裂こうとする。
「いやだぁ！ 緋魅っ、緋魅！」
すがることができるのは、その名前だけだった。藍は声を嗄らして叫んだが、だからと言って緋魅が助けに来てくれるとは思っていなかった。
絶望の匂いは疾うに知っている。自分はこの吸血鬼に、好きなように嬲られるのだろう。そんな極限の状態で、その名前だけが、緋魅の名前だけが、正気を手放さないためのよすがであると、藍は本能的に知っていたのだ。しかし、
「……もしかして君、彼のことが好きなの？」
気付けば、拘束は解けていた。藍は半信半疑のまま、そろそろと上半身を起こす。夜爪は先刻までとは打って変わって、真剣な顔つきで藍を真っ直ぐ見詰めていた。藍は狼狽しつつも、ゆるゆると首を振る。
「いえ、まさかそんな……」
「正直に言ってよ。別に恥じることじゃないさ」
真摯な口調に、藍はどきりとした。もしかしたら夜爪は、この想いを尊重してくれるつもりかもしれない。藍は迷ったが、すでに欲望の矛を収めて真面目に問い質す夜爪の誠意を信じることにした。
「はい、俺は緋魅のことが……」
最後まで言うことはできなかった。夜爪の顔が、どろりと笑み崩れるのを見たからだ。その悪夢めいた変容に、藍は言葉を忘れ硬直する。
「きゃーっ、きゃははッ、はははははは……うっそでしょ？ 君みたいなゴミクズ同然の人間が、圧倒的捕食者である吸血鬼の、しかも頂点に立つ真緋の王を愛してるだなんて！」
それは、純粋な悪意に満ちた邪悪な哄笑だった。
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