─The Holy tragedy─
＜VI＞
藍は素早く振り向き、夜の彼方を透かし見るように目を細めた。しかし、先に異質な存在を捉えたのは嗅覚だった。
血溜まりの臭いに、動物性の香料が混じる。どこか淫靡で刺激的な、分泌物の甘い匂い。もちろん、緋魅の肌や吐息から立ちのぼる馥郁たる香気には遠く及ばない。
藍は思わず眉をひそめた。彼方から漂う匂いの中に、かすかだが腐臭が混じっていたからだ。それは紛れもない死の臭いだった。
「ああ……」
惚けた声を上げたのは、藍だったか黒曜だったか。あるいは夜の戦きだったのか。まるで闇の中から溶け出すように、黒衣の男性が三人現れた。日の光を知らぬ白皙の貌が、彼らが魔の領域に棲む者であることを暗に示していた。
緋魅以外の吸血鬼、その存在は知識としては知っていたが、こうして実際に対峙すると、小賢しい知識など何の役にも立たないことを痛感する。百聞は一見に如かずなどと、手垢のついた言葉を反芻するまでもなく、その存在が放つ禍々しい瘴気に圧倒されてしまった。
しかし、圧倒されたのは寧ろ、招かれざる客たちの方だった。藍がそれに気付くのに、時間はかからなかった。
緋魅の姿を認めた三人は、ほぼ同時に息を呑んだ。そして、驚きに瞠目した眸で緋魅の顔を凝視する。夜を統べる吸血鬼すら戦慄する傾国の美。それこそ、緋魅という被創造物の精髄なのだ。圧倒的な美の前では、魔棲の者も人間も同じだった。
驚きは必然、無防備な表情を形成する。それを見た藍は落ち着きを取り戻し、夜の訪問者たちを観察する余裕が生まれた。
向かって左の男性は、精悍な身体つきをした美丈夫だ。丁寧に撫で付けた金髪が、闇の中で暈然と輝いている。立ち姿は雄々しく、一見すると西洋の騎士にも見えなくはないが、熱病にでも侵されたのか思うほど爛々と光る好色そうな瞳が、全体の印象を裏切っていた。
それとは対照的に、真ん中の男は女性と間違えてしまいそうな中性的な容貌をしていた。かすかにうねる黒髪は肩につくほどの長さで、髪の乱れが気になるのかしきりに手で梳いているのがどうにも滑稽だった。
己の容姿に絶対的な自信を持っているのが手に取るように分かるが、すぐ目の前には緋魅がいるのだ。神の前で自らの権力を誇示する一国の王が失笑を誘うのと同様に、憐憫の情しか喚起しない。尤も、本人も一瞬で敗北を認めたらしく、緋魅に向かう視線には妬みの棘が無数に生えていた。
最後、右側の男性は一番若く、藍と同年代に見えた。実際に生きている年月は比較にならないだろうが。金の短髪で細い銀縁眼鏡を掛けており、学者か詩人にも見える。
先の二人に比べれば理智的な雰囲気をまとっていたが、表情の動きに乏しい分、何を考えているか分からない不気味さがあった。
そうして、素早く三人の特徴や外見から窺える個性を感じ取った藍だったが、二番目の中性的な容姿自慢が、しきりにこちらを見ているのが気になった。
その粘ついた視線が正直に言えば不快だったが、客人相手に感情を露骨に表すような子供じみた真似はもちろん慎んで、ひたすら無視し続けた。
「我々は、黒鴉（こくあ）の一族を支配せし三兄弟。始祖たる堕天使イブリースに連なる偉大なる純血、真緋の王にお目にかかれて冥加に余る幸せです」
金髪の似非騎士が長兄なのだろう、三人を代表する形で大仰とも思える挨拶をした。さらに緋魅の前に跪くと、その右手を取って恭しい仕草で手の甲に口づけようとした。しかし、
「やめろ、七三。気持ち悪ぃ」
緋魅は不快を隠さず言い放つと、手を振り払った。藍は思わず吹き出しそうになり、慌てて口許を引き締める。ちらと隣を見れば、黒曜の唇も不自然に歪んでいた。
“七三”というのは恐らく、緋魅が勝手に付けたあだ名だ。横分けにした髪型からの連想だろう。手酷い拒絶を食らった“七三”は別段怒りも見せず、それどころかうっとりと目を細めて、緋魅の手に触れた己の指先に口づけた。
「信書はすでに届いているはずだ。暫くの間、この屋敷に滞在させてもらう」
銀縁眼鏡が尊大な口調で宣告する。まるで、滞在するのは既定の事実であるかのように。緋魅は面白くもなさそうに肩をすくめ、
「常識の欠けた奴らだな。信書はさっき届いたばかりだ。こっちにも都合ってものがある」
緋魅が珍しく常識的なことを言ったが、どうやらそれは人間界における“常識”だったようだ。銀縁眼鏡は理解不能とばかりに眉を撓め、
「先ほども言ったが、我々は黒鴉の一族を統べる者だ。その訪問を断るなどあり得ない」
彼らが率いる『黒鴉の一族』は、吸血鬼の中でも上流層に位置するのだろう。しかし、
「うるせえよクソ眼鏡。“亜種”の一族なんて知るかよ」
次の瞬間に起きたことを理解するには、藍の知覚は鈍すぎた。むろん、藍でなくても誰でも、人間の知覚を有する者なら何が起きたのか理解できなかっただろう。
「うわっ」
藍は咄嗟に耳を押さえた。金属と金属をこすり合わせたような鋭い音波が、耳の奥を刺激したからだ。そして視線を落とせば、足下の敷石があるものはめくれ返り、あるものは粉々に砕けている。
「な…にが……」
緋魅に視線を移したが、何事もなかったかのように先刻と同じ場所、同じ姿勢で立っている。それに対し銀縁眼鏡は片膝をついて項垂れ、肩を大きく上下させて苦しげな呼吸を繰り返していた。
ほんの僅かな時間でなぜこれほど消耗したのか分からない。ともかく肩を貸してあげねばと思い藍が近づこうとすると、彼が顔を上げた。
藍はぴたりと足を止めて息を呑む。ついさっきまで彼の個性だった学者然とした冷ややかさは微塵もなく、赤銅色に濁った眼球が、今にもぽたりと転げ落ちそうなほどせり出して、緋魅を睨んでいた。
耳の近くまで裂けた口も、禍々しい形状を見せる牙も、全てが“魔”を象っていた。造形だけではなく、シューシューと搾り出される呼吸音も、人ではない異形の何かを想起させる。
三人の中では最も理性的で非感情的に見えた銀縁眼鏡の豹変に藍は素直に驚いたが、すぐに納得した。ああ、こういう奴いるよな。一見大人しそうだけどいきなりキレる奴。
魔物の本性を剥き出しにして敵意を見せる吸血鬼を前にして実に呑気な感慨だったが、事実藍は少しも恐怖を感じていなかった。
理由は明白。緋魅がいるからだ。絶対的な信頼。“信じている”とあらためて意識する必要がないほど、それは心の深層を支配して久しかった。
「亜種呼ばわりされたのがそんなに悔しいか、クソ眼鏡。事実は事実だ」
緋魅の声には僅かな乱れもない。藍の感覚では毛ほども捉えられなかったが、恐らくたった今、二人は一戦を交えたのだろう。
「家柄や血統にそこまで執着するとは、滑稽の極みだな」
続く緋魅の言葉に、藍ははっとした。使徒ザインの言葉を思い出したのだ───『吸血鬼は本来、同族意識が非常に強い』。つまり、彼らが普通で緋魅が異端なのだ。
家柄、家名、一族、血統。いずれも緋魅にとっては何の価値もない。それは彼がヒエラルキーの頂点に立つ者だからなのか、或いはその自由と孤高にこそ、吸血鬼という種を超えた緋魅の緋魅たるゆえんがあるのか。いずれにしても、家名を振りかざす輩には理解不能な哲学であろう。
「キ…サマ……」
がちがちと歯を鳴らし、噛み付かんばかりに見上げてきたが、金髪の長兄に押さえられた。
「やめろ、蒼牙。無礼をお許しください、真緋の王」
「別に。ガキの癇癪にいちいち腹を立てたりしねえよ。それより、その呼び方はやめろ。緋魅でいい」
「分かりました。で、我々の滞在をお許しいただけないのでしたら仕方ない。このエリュシオンには、居心地のよさそうな邸宅が多いようで。そちらをちょっとお借りすることになりますが。それに、」
好色な淫獣めいてどろりと濁った双眸に、一瞬だが鋭い光閃が宿った。
「我々も、娯楽や観光でここまでわざわざ出向いたわけではないので」
含蓄のある言葉は、明確な目的があって訪れたということを暗に告げていた。
「もったいぶりやがって。用が済んだらさっさと帰れ。俺は、突然の客ほど嫌いなものはない」
緋魅は表情筋を動かさず冷ややかに言い放つと、さっさと屋敷の中に戻ってしまった。残された藍たち使用人は、この人あらざる客人をどのように迎えてよいか分からず、呆然と立ち尽くす。すると黒髪のナルシストはにたりと嗤い、
「よろしく。人間の皆さん」
「あ、は、はい。こちらこそ」
ぎこちない挨拶とともにかくかくお辞儀すると、いつの間にか学者然とした体裁に戻っていた銀縁眼鏡が、馬鹿にしたように鼻を鳴らし、
「木偶の坊のように突っ立って、これなら死体の方がずっとマシだ」
「はは、全くだ。人間なんて使い物にならん。邪魔だ、そこをどきたまえ」
緋魅に対しては低姿勢を貫いていた金髪だったが、藍たちには上位種たる自意識を隠そうともせず、虫けらを眺めるような目付きで顎をしゃくった。実際、彼らにとっては人間など虫けら以下なのかもしれないが。
ともかく彼らを客室に案内せねばと、黒曜と目配せを交わした時だった。背後に異様な気配を感じ、背筋を舐める悪寒に弾かれた勢いで振り向いた。
「……ッ！」
言葉も叫びも喉の奥に吸い込まれ、くぐもった呼吸音しか出てこない。全身の肌が粟立ち、血の気が引く。それは、現実に侵蝕した悪夢だった。咄嗟に目を閉じて逃避を試みたが、それすら許さぬほどの強烈な瘴気を放っていた。
「な…んだよこれ……」
死体の方がずっとマシとは、ただの比喩表現ではなかった。背後にずらりと並んでいるのは、紛れもない死体。藍が感じた死の臭いの源泉はこれだったのだ。
「さっさと部屋に案内しろ。荷物を運び入れねばならない」
死体たちはみな、大きなトランクや鞄などを抱えていた。つまり“彼ら”は、三兄弟の使用人ということか。そしてよくよく見れば、それが普通の死体でないことが分かる。
頭部が半分欠けているもの、男性の頭に女性の身体が繋ぎ合わされているもの。さらに、右手のみ異様に短いものがいた。赤子の手が付けられているのだ。
「黒曜、大丈夫か」
黒曜の身体がゆらりと傾いだ。顔は真っ青で、小刻みに震えている。無理もない。吸血鬼の残虐非道な本性を使徒ザインから教えられた藍でも、この光景を前に立っているのがやっとなのだから。
「すみません、大丈夫です……」
か細い声で答える黒曜に、藍は囁いた。
「部屋に戻って休むといい。彼らの案内は、俺がやるから心配しなくていい」
そして翠円に黒曜を部屋に連れていくように頼むと、藍は背筋を伸ばして優雅に一礼した。
「では、お部屋にご案内いたします」
先に立って歩き、三人を客室まで案内する。
「何かありましたら、そちらのベルでお呼びください」
死臭漂う使用人たちは努めて視界に入れず、藍は素早く部屋から出て扉を閉めた。そしてほぅっと息をつく。黒曜が心配だから様子を見に行こうと身体を反転させると、目の前に黒髪のナルシストがいた。
「うわっ」
思わず声を上げてしまい、慌てて取り繕う。
「し、失礼しました」
「いいよお。君さ、けっこう肝が据わってるね。あの使用人たちを見てぶっ倒れなかった人間は、君が初めてだよ」
「……恐れ入ります」
褒められているのかよく分からないが、取り敢えず穏当な答えを返す。
「ね、君の名前は？」
「藍、と申します」
「藍ちゃんかあ。僕はね、夜爪（やそう）っていうんだ。ちなみに、さっきブチ切れた挙げ句あっさり叩きのめされた可哀想な弟が、蒼牙（そうが）。で、君のご主人にめろめろな似非紳士が、兄の闇翅（あんし）」
藍は、眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。あの似非紳士が、緋魅に邪な思いを抱いていることがはっきり分かったからだ。
もちろん緋魅は相手にしないだろうが、同じ屋根の下にそういう男が滞在しているのはやはり気分が悪い。こうなったら、夜間ずっと起きて見張っててやろうか、そんなことを沸々と考えていると、いきなりにゅっと手が伸びてきた。そして驚く間もなく、眼帯を留めている紐をほどかれる。
「あっ……」
眼帯ははらりと落ちて、眼窩に耀くサファイアが現れた。藍はすぐに眼帯を拾い上げようとしたが、いきなり肩を掴まれ壁に押さえつけられた。
「すごい……よく見せて」
体格では確実に勝っているはずなのに、身動きがとれない。藍は改めて、人間の非力さを噛み締めた。魔力を使わなくても、人間を殺すことなど彼らには造作ないのだろう。
「ね、この左目はどうしたの？ ご主人様に抉り取られちゃった？」
「ちっ…違います。事故で失いました」
「そうなんだ。でもきれーい」
無邪気な感想なのに、なぜか藍はぞっとした。押さえつける力が緩んだ隙に素早く拘束から逃れ、眼帯を拾って装着する。
「では、失礼いたします」
一礼して踵を返す藍を、夜爪は追おうとはしなかった。ただ遠ざかる背中を見送りながらにぃっと笑い、
「もう一個の目を抉り出した痕には、どんな宝石がいいかな。左とお揃いでサファイアか、ルビーもいいよね。でも、なんにもない空洞もいいなあ。真っ黒な洞から血の涙と脳漿を流すのとか、すてき～」
浮かれた口調で言いながら、兄弟のいる部屋に戻った。
BACK TOP 真緋の王INDEX NEXT