─The Holy tragedy─
＜V＞
「さて、自己紹介を済ませたところで、君にもう少し話を聞きたいのだが……」
使徒ザインはそう言って、いかにも親しげに微笑んだ。しかし藍は、表情の磨滅した硬質の面てで跳ね返す。
「何もお話しすることはありません。どうぞお引取りください」
この老紳士が吸血鬼の、緋魅の敵だと判明した以上、一刻も早く屋敷に戻って黒曜に報告し、対策を練る必要がある。もちろん、夜になったら緋魅本人にも伝えねばならない。こんなところで呑気に話している時間など───
「クッ、クククク……急に怖気づいたか。しかし、私ごときに怯える必要なぞ、これっぽっちもないぞ」
老紳士、使徒ザインは笑いを噛み殺しつつくだけた口調でそう言った。そして戸惑う藍をおいて、腰に帯刀している剣をすらりと抜いて見せた。
「見たまえ。剣先が三叉に別れているだろう。これこそ、非力な人間が唯一吸血鬼に対抗し得る武器なのだよ。吸血鬼を葬る方法は三つしかない。首を刎ねるか夜明けの清浄な日光を浴びせるか、この三叉の剣で心臓を貫くか。しかし先の二つが難しいことは分かるだろう。首など、そう簡単にすぱんと刎ねられるものではない。日光の下に、のこのこ現れる物好きな吸血鬼もいまい。となると、これを左胸に突き立てるより他ないのだ」
藍はごくりと喉を鳴らしたものの、ザインが怯える必要などないと言ったその理由が、少し理解できるような気がした。するとザインは、わが意を得たりとばかりに頷き、
「そう、分かったかね。この剣で心臓を貫く？ はは、考えるだに愚かしい。あらゆる闇の眷属の頂点に立つ純血種、強大な魔力を有する魔物の中の魔物たる彼が、人間ごときに心臓を貫かれるなど、天と地がひっくり返ってもあり得ない。他の有象無象の吸血鬼なら可能かもしれんが、彼にはこんな剣など全く意味がない。滑稽だ」
あまりにあけっぴろげな言葉に、藍は逆に不審感を覚えた。慎重に問いかける。
「でも貴方たちは、吸血鬼と闘うべく特殊な訓練を受けているのでしょう？」
「まあな。そこらへんの兵士より身体能力に優れていることは確かだ。しかし所詮は人間。空を飛ぶことはできん」
「では貴方は、我が主を殺すつもりはないと？」
「返り討ちに遭うのは目に見えているからな。老残の使徒と陰で呼ばれるようになって久しいが、やはり命は惜しい」
果たして本心だろうか。ならば、なぜ。
「なぜ、あなたはここにいるのですか？」
「なぜ？ そうだな、一番は好奇心か。吸血鬼の始祖、堕天使イブリースに連なる直系一族の、唯一の生き残りはやはり気になる」
「神の使徒としての、聖なる責務を全うする気はないと？」
「聖なる責務とは、いやはや、何とも面映い」
藍は次第に混乱してきた。この男は、本当に教会の関係者なのだろうか。にしては使命感のような重々しさが感じられない。先ほどの言葉も寧ろ、緋魅を賛美しているようにも聞こえる。
こうして藍の警戒心を解いて欺こうとしているという可能性ももちろんあるが、彼の言葉にはそういった思惑より無邪気さの方が色濃く表れていた。信じていいのかやはり警戒すべきなのか分からないというのが、藍の本音だった。
「……ひとつ、聞かせてください。貴方は、貴方たち教会はなぜ吸血鬼を殺すのですか？ 始祖が神に背いた堕天使だからですか？ 或いは、それが神の意志だからですか？」
使徒ザインは自らを正義の代行者と称した。つまり根底にあるのは神の使徒たる自負、神への篤き信仰なのだろう。
しかし信仰を持つ者にその理由を問うほど虚しいことはない。論理的な答えが返ってくるはずはないし、もし自らの信仰を論理的に語れるのならば、それは既に信仰ではないからだ。
それでも藍が問わずにいられなかったのは、ひとつの強い思いがあったからだ。
「吸血鬼は確かに人の生き血を吸う。けれど誰も殺さない、何の命も奪わない。翻って人間は、家畜を屠り大地の実りを刈り、毎日毎日他の貴い命を摂取しているではありませんか。人間の方がずっとずっと罪深い。なのに貴方がたは彼らを害獣と見なし、殺されて当然と考えている。それが私にはどうしても納得が……な、なにが可笑しいのですかっ」
藍の真剣な問いかけに対し、使徒はこらえきれぬ笑いの衝動に身体を震わせる。藍が声を荒げるのも無理はなかった。しかし、
「これは失礼。そうか、君はまだ吸血鬼に遭ったことがないのだな」
「は？ 何を言って───」
「精確には、君の主以外の吸血鬼に遭ったことがない。その幸運を、神に感謝したまえ。彼、今は緋魅公爵と名乗っているようだが、彼は色々な意味で特別なのだ。彼を、吸血鬼のスタンダードと考えてはいけない。いいかね、吸血鬼は本来、残忍で凶暴で好色な生き物なのだ。人間に対する圧倒的優位性を誇示せんがため、あるいはただ快楽のために嬉々として人を殺す。彼らの饗宴を一度見てみるといい。生きて帰れる保証はないし、たとえ助かったとしても毎晩悪夢にうなされるだろうが」
「そんな……」
藍には信じられなかった。確かに自分が知っている吸血鬼は緋魅だけだが、みな彼のように人間の中に溶け込んで暮らしていると思っていたのだ。
「反逆者の処刑で生きたまま内臓が見えるまで肉を削いだヴラド・ツェペシュ侯、処女を檻に閉じ込めて槍で突き、迸る生き血を浴びたバートリー伯爵夫人、美少年の腹を割いてまだ動いている臓物に射精したジル・ド・レエ侯。みな吸血鬼だったと言われている。まあ、ヒエラルキーでは君の主人には遠く及ばない、下位階級だろうが」
「では吸血鬼は……理由もなく人を殺すと？」
「そうだ。人間が命を維持するために家畜を殺すのとは異なり、ただ、快楽のために。己の下劣な欲望を満たすためだけに殺す。それも、残虐極まりない方法で」
気付けば、藍は首を振っていた。何を否定したいのか、自分でも分からぬまま。
「違う……確かに彼は、人間を下等生物、ただの生き餌だと言っているけれど、そんなおぞましい快楽殺人など断じて───」
「そう。ゆえに彼は直系でありながら異端なのだよ。加えて吸血鬼は本来、同族意識が非常に強い。一族で群れをなし、行動を共にする。それゆえ、他の一族と利害がぶつかり抗争が勃発することも多い。しかし彼は独りだ。統べる民のいない孤独な王」
「違う。緋魅は孤独なのではなく孤高なのです」
咄嗟に口をついて出た言葉に、使徒ザインは思いのほか激しい反応を示した。両目を見開いて噛み付くように藍を睨む。その視線を支配するのは、紛れもない嫉妬の情だった。
藍は訳が分からぬまま、視線の強さに圧されて後ずさる。するとザインは頬をかすかに引き攣らせ、「は、は、」と笑った。目は依然として、熱く滾っていたが。
「なるほど。君は彼のことをよく理解しているようだ。しかし彼も無実ではない。人を殺している」
「それは……承知しています」
「君が知っているというのは、鵺引とかいう豚のことだろう？ それではない。彼は、自分を慕っていた無辜の少女を手に掛けている」
「少女を？ まさか……」
倫理でも情でもない。殺人という行為の過剰な醜悪さゆえに、緋魅は決してその行為に手を染めることはない、藍はそう思っていた。そう、緋魅が緋魅であるがゆえに。しかし、
「残念ながら事実だ。私はこの目で見ているのだから。彼が、うら若き乙女を手に掛けているその光景を」
「若い女性を……」
そう言われてもまだ、藍の理性が信じることを拒絶していた。
「その光景を見ていたと仰るのですか？ それは一体どんな───」
勢い込んで訊ねる藍を軽くかわし、使徒ザインは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「情報は等価交換が原則だ。私は君の質問に全て答えた。次は君の番だ。私の質問に答えてもらおう」
藍は全身が硬直するのを感じた。
「おや、藍。遅かったですね。最後まであの会議に出席していたのですか。律儀ですねえ」
「あ、ああ。まあ、ね。緋魅は？」
「旦那様なら、つい先ほどお目覚めになりましたよ。報告なら、もう少し後の方がいいかと」
「そうする。起きてすぐは機嫌悪いからな」
藍は肩をすくめて答えると、黒曜と別れて自室に戻った。ベッドの端に浅く腰を下ろし、肩を落として項垂れる。身体より心神の消耗が激しかった。
「あの男は何者なんだ……」
自問の言葉をこぼしながら、使徒ザインとの会話を思い出す。今度は質問に答えてもらおうと言われた時、藍は身構えた。きっと、緋魅の行動パターンなどを細かく聞かれると思ったからだ。そこから緋魅の弱点を探ろうという魂胆に違いないと。
しかし、藍の思惑は外れた。あの老いた使徒は緋魅よりむしろ藍に興味を持ったのか、藍の生い立ちや緋魅に拾われるに至った経緯などを知りたがった。
さらには、緋魅に雇われてからの生活についても。藍は乞われるまま話したが、その中で彼が最も反応を示したのは、吸血に関するエピソードだった。
初めはなかなか血を吸ってもらえず、何度も何度も懇願して、自我の崩壊寸前のところでやっと望みを叶えてもらえたと話すと、たるんだ瞼に埋もれた眸が炯々と輝き出して藍を戸惑わせた。
一体この話のどこに、それほどの高揚を喚起する要素があったのかまるで分からない。しかし彼、老残の使徒は確かに、藍の話に何かを感じたのだ。重大な何かを。
何か、まずいことを言っただろうか。緋魅に不利になるような、緋魅の弱点に繋がるようなことを。しかし記憶を辿っても思い当たるようなことはない。
大丈夫、考えすぎだと藍は自分を宥めた。そして言い聞かせる。とにかくもう、あの男と話すのはやめよう。自分の知らない緋魅の過去についてもう少し知りたいという欲求はあるが、何を考えているのか分からない不気味さが拭えない。これ以上接触するのはリスクが大きい。
それより、今日のことを一刻も早く緋魅に報告して、どう対処すべきか判断を仰ぎたかった。いや、藍が何より欲しているのは緋魅の判断ではなかった。いつもと変わらぬ不遜な口調で、王者の笑みを浮かべたままこう言って欲しかったのだ。
気にすんな、教会だろうが何だろうが、所詮は下等生物だ、この俺には通用しねえよ、と。
「よし、そろそろいいか」
藍は立ち上がって部屋を出た。寝起きの緋魅は常に不機嫌で、藍たち使用人に当り散らすようなことはなかったが、何を言っても懶げな溜め息とともに「うるせえよ」としか返ってこないのだからどうしようもない。取り付く島もない、というやつだ。長椅子に気怠そうに身体を預けている姿は、それはそれでぞっとするほど艶美なのだが。
しかし、緋魅の書斎に足を向けようとした時だった。玄関ホールから藍や黒曜を呼ぶ声が聞こえた。声の主は翠円だろうが、いつも飄々としている彼らしくない強張りが感じられた。藍は踵を返して声のした方へ向かった。
「翠円、どうした」
声を聞きつけた黒曜もすでにいた。翠円は二人の姿を認めると顎をしゃくり、玄関の外に移動する。そして視線を足下に落とす。
一体何だと問うまでもなかった。生理的な嫌悪に、自然と眉根が険しく寄る。
「これは……双頭の鴉、でしょうか」
黒曜は膝をついて屈み込み、その黒い物体を間近で観察する。藍もそれに倣ったが、黒曜ほど冷静な声は出せなかった。何故なら、
「ちがう……確かに双頭の鴉だが、切り取った別の鴉の頭を縫い付けているだけだ」
藍の指摘に、黒曜と翠円は同時に息を呑む。そして眉をひそめた。
「坊主の言う通りじゃな。つまらん悪戯だ」
翠円は今でも藍のことを『坊主』と呼ぶ。そろそろ坊主はやめてくれないかと日ごろ懇願しているのだが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「ええ、全くです。にしても翠円、これは一体……」
“双頭”の鴉は、縫い付けられた頭はもちろんだが、ここに来るまでに力を使い果たしてしまったのか、本体の方も虫の息だった。横たわったまま、時折翼が痙攣めいた動きを見せる。
「バサッと大きな落下音がしたから来てみたら、ここでもがいていた」
「そうですか……あれ？ 足を見てください。これはもしかして……」
黒曜に促されて鴉の足を見ると、小さな巻物のようなものが括り付けられていた。つまり、
「これは伝書鳩ということか？」
「ええ。かなり悪趣味な伝書鳩ですが」
藍と黒曜は顔を見合わせ、相手の目が不安で濁るのをお互いに認めた。とはいえ、このまま放置しておくわけにもいかない。藍はそっと手を伸ばし、白い巻物を外した。その時、背後から揶揄めかした声が。
「おい、三人で密談か？ 給金上げて欲しいなら堂々と言えよ」
しかし、緋魅の軽口に応える余裕はなかった。藍は立ち上がって瀕死の鴉を指差し、
「あの可哀想な伝書鳩が、こんな紙片を届けてきた」
努めて冷静な声でそう言って、小さな巻物を緋魅に手渡した。受け取った緋魅はまず、双頭の鴉にちらと一瞥を投げる。と同時に、不快の澱が結晶の面てを覆った。
それは残虐性に対する嫌悪ではなく、双頭の鴉が意味するものに対する嫌悪だった。そう、緋魅は瞬時に悟ったのだ。これを送ってきたのが誰なのかを。
「………」
緋魅は紙片を広げてさっと目を通すと、無言のまま紙を握り潰した。そして、
「お前ら、俺以外の吸血鬼なんて遭ったことねえよな」
藍は驚きに息を呑んだ。まさか、使徒ザインと同じことを緋魅に聞かれるなんて。
「もちろん、ありません。もしや、その手紙は……」
黒曜が答えると、緋魅は陰気に嗤った。
「察しがいいな。招かれざる客だ。エリュシオンの噂は聞いている、一度訪ねてみたいと思っていたから暫く滞在させてくれ、だとよ」
緋魅以外の吸血鬼、それは藍たち三人にとって全くの未知なる存在だった。黒曜は不安を押し殺した声で、
「どうされるおつもりですか？ もちろん、旦那様がご招待したいということでしたら、我々は心尽くしのおもてなしを致しますが」
「あん？ 招待したいわけねえだろ。こんな下品な信書送ってくる輩を屋敷に入れるなんざ真っ平だ」
「では、丁重なお断りの手紙を───」
「いや、もう遅い」
「え？」
その瞬間、藍の背中に悪寒が走った。まさか───
「もう、来てる」
緋魅が素っ気なく言い放つと同時に、背後で鋭く風が鳴った。
風は、血溜まりの臭いがした。
BACK TOP 真緋の王INDEX NEXT