─The Holy tragedy─
＜II＞
「あの女、お前に惚れてるようだな」
劇場からの帰途。後部座席から届いた意外な指摘に、藍は革のハンドルを握ったまま聞き返した。
「あの女って、鷺沢夫人のことか？」
「お前が助けた女だよ、隻眼の騎士様」
緋魅のからかいに、藍の眉間は自然と寄る。
「やめてくれ、恥ずかしい」
「みんなそう呼んでるじゃねえか。俺もこれからは、隻眼の騎士と呼んでやろうか？」
「うう……」
緋魅が面白がって言っていることは分かっているのだが、つい苦々しい顔つきになってしまう。ちらと目線を上げてルームミラーを見ると、にやにや笑っている緋魅と目が合った。藍は憮然と視線を戻す。
「にしても、女ってのはなんでああもくだらねえあだ名を付けたがるんだろうな」
緋魅の言葉に同意しそうになったが、三年前を思い出し反論した。
「緋魅だって昔、俺に『片目』とか『チビ猿』とか付けようとしただろ」
「あれは、自分に新しい名前付けてくれってお前が懇願したからだ」
「まったく、ああ言えばこう言う……」
藍は溜め息混じりにぼやき、話を戻した。
「で、鷺沢夫人が俺に惚れてると？ そんなわけない。貴族のご夫人が、俺みたいな何の取り柄もないガキのどこに惚れるっていうんだ」
「さあな、知らねえよ。でもあの女から発情したメスの臭いがした」
藍はハンドル操作を誤りそうになり、慌ててしっかと握り直した。
「発情したメスって！ 失礼だぞ、レディに向かって───」
「は？ レディ？ 毎日毎日飽きもせず男漁りするメスがレディか。面白え」
「身も蓋もない言い方するなよ……」
藍は呆れた口調で言い返したが、緋魅の言うことにも確かに一理あるなと思った。もちろん、口には出さなかったが。
「暴漢から守ってくれたお前に、理想の男性像でも重ねてるんじゃねえか？ 実に女らしい浅慮だな。だが、うまく利用すれば後釜につけるかもしれねえぞ。そうすりゃお前も鷺沢伯爵。めでたくお貴族様の仲間入りだ」
「馬鹿なことを」
緋魅が本気で言っているとは思っていないが、藍は表情が曇るのを抑えられなかった。
「馬鹿なことじゃねえよ。成り上がる絶好の機会だってことだ」
藍はこれ以上何も言いたくないとばかりに、唇をぎゅっと噛み締めた。もしかして緋魅は、本気で言っているのだろうか。自分が鷺沢夫人とうまくいけばいいと思っているのだろうか。そのために緋魅の元を去ることになっても構わないと。
車内に重苦しい沈黙が満ちる。もちろん、“重苦しい”と感じているのは自分だけで、緋魅が何とも思っていないのは明白だったが。
そうして暫く車を走らせていると、かすかな爆音が聞こえた。藍は思わずブレーキを踏み、窓を開ける。すると先刻よりさらにはっきりと、空気の不穏な振動が鼓膜に伝わった。
「まただ。最近多いな……」
外の世界では、相変わらず戦争が続いているらしい。藍がエリュシオンに“入国”した三年前と比べて、戦況がどうなっているのか、良くなっているのか悪くなっているのか、平和が近づいているのか遠のいているのか分からない。外の世界に関する情報は微々たるもので、エリュシオンの住人たちはみな無関心だった。
いや、無関心を装っているのだろう。不安は容易に伝染する。そして人々の心をあっという間に蝕んでゆく。それが先験的に分かっていたから、努めて目を逸らしているのだ。
遅かれ早かれ、崩壊の時は訪れる。だから持てる限りの富を蕩尽し、美食と快楽に溺れ“その時”を待つ。
『愉しく過ごせ。ただ一瞬（ひととき）の命を』
ペルシアの詩人、オマル・ハイヤームの詞（ことば）を実践するかの如く。
藍は窓を閉め、再び車を走らせた。確かにまだ、エリュシオンは無関心を貫いている。しかし情報を完全に遮断することは不可能だ。聞きたくないと耳を塞いでも入り込んでくる。すでに外の世界では本土決戦の最終局面に及んでいるようで、上陸した敵国兵がエリュシオンを標的にするのも時間の問題だ、と。
あからさまに話題にのぼることはなかったが、徐々に近づきつつある戦渦が人々の心に不安の翳を落とし始めていることは否定できなかった。
また最近は、エリュシオン自体の治安も悪化の一途を辿っていた。入国審査の検問を暴力的な方法で突破して、堂々と密入国する輩が増えているという。
そういった暴徒が、貴族の屋敷で真面目に働こうと考えるはずもなく、強盗や窃盗で手っ取り早く大金を手に入れようとする。貴族が雇っている私兵たちに見つかればその場で殺されるが、外の世界にいてもいつ爆撃の餌食になるかもしれないのだから、一か八かの賭けに出るのは悪い算段ではない。
鷺沢夫人を襲った暴漢も、そういった密入国者の一人だろう。もはや、外の世界の荒廃を他人事と見なすことはできなかった。
藍が格闘術を学び始めたのも、そんな荒んだ空気を敏感に感じ取ったからだ。せめて、自分の身は自分で守れるようにならなければと考えた。それが今回、鷺沢夫人を救うことになったのだが。
「……そろそろ、潮時かもしれねえな」
「えっ、何がだ？」
緋魅の唐突な独白に、藍は勢い込んで聞き返した。すると緋魅はちらと肩をすくめ、
「ここを引き払って、別の土地に移ることを真剣に考えねえとな」
「別の土地ってどこだ？ エリュシオンを出るってことか？」
「エリュシオンを出ただけじゃ意味ねえよ。外では相変わらずドンパチやってんだろ？ 下等な猿同士の喧嘩に巻き込まれるなんざ冗談じゃない。移住するとしたら、戦火の届かない外国だな」
「外国……」
緋魅も、エリュシオンにたちこめる戦雲を察知していたのだ。あらゆる感覚が人間より鋭敏な吸血鬼なのだから、当然のことだ。
「ああ、外国だ。ま、このご時勢、戦争に無関係な国はかなり限られるだろうけどな」
「………」
黙り込む藍の心中は、緋魅にはお見通しだった。
「家族のいる日本からは、離れたくねえか」
「あ、いや。俺は別に───」
「お前もおかしな奴だな。自分を売った親に毎月金を送るとは」
緋魅の言う通り、藍は給金のほとんどを家族の元に送っていた。しかし、三年前に売られてからは一度も家族の元に帰っていない。送金は親に対する愛情がゆえではなく、意地とプライドだと藍は冷静に自己分析していた。
「嫌なら、ここに残ればいい。強制はしない」
「嫌なんて言っていない！」
「無理すんな。一度日本を出たら、おそらく死ぬまで戻ってこれない」
「俺は、緋魅に付いていく。何があっても」
「別にどちらでも構わない。好きにすればいい。ま、ここに残るならあの屋敷はくれてやるよ。お前が緋魅公爵を名乗ったっていい」
こんな重大なことを軽い口調に乗せる緋魅が、藍は恨めしかった。お前なんていてもいなくても変わらない、はっきりそう言われているようで。
三年前、初めて緋魅から吸血の洗礼を受けた藍は、ようやく自分が生きていてもいい理由を、存在する価値を得ることができたと歓喜した。
神に背いた堕天使の直系に連なる純血の吸血鬼にして、美と富と快楽の園エリュシオンに君臨する真緋の王。そんな彼の生命の、たとえわずかでも糧になれたのだ。片目と片足を失ったが、それらを補って余りあるレゾンデートルを手に入れた、藍はそう思った。
しかしあれから三年。その間に緋魅が藍の血を吸ったのはほんの数回。片手で足るほどだ。吸血の回数は黒曜の方が圧倒的に多かった。
それに最近、先刻のように突き放したようなことをよく言うようになった。無理してここにいることはない、好きにしろと。
もちろん緋魅が、俺の傍にいろとかどこにも行くなとか、甘い感傷滴る言葉を口にするとは思っていない。それでも以前はもう少し、心を開いてくれていたような気がする。藍という存在を受け入れてくれていたような気がする。
悶々と陰鬱な考えを巡らせているうちに、屋敷に到着した。藍は素早く運転席から降りて、緋魅のためにドアを開けようとしたが、緋魅は自分でさっさと降りてしまった。
「緋魅、あの───」
藍は慌てて呼び止めたが、いざ緋魅に「何だ」と訊かれると答えられず、力なく首を振って車に戻った。そしてガレージに車を収めると、自分の部屋に戻ろうとした。しかし足は自然と緋魅の部屋に向かってしまう。緋魅は上着を脱いで襟元を緩め、長椅子に身体を預けていた。
ただ座っているだけなのに、今夜の舞台で照明を浴びつつ優雅に堕落する美青年を演じた俳優が見せた、どの所作よりも美しい。そう、彼は美しくないことができない人間、もとい被創造物なのだ。
「何の用だ」
斜め下から突き刺すように問われ、藍は口ごもりつつ答えとは言えない答えを返す。
「用というわけではない。ただその……」
しかし緋魅は、その答えの態をなしていない答えから、藍の心情を察してしまったようだ。凪いだ双眸に、淫蕩な漣が生じる。いかにも気怠げに立ち上がり、藍の顔を正面から見据え、
「なんだお前。抱いてほしいのか」
その通りなのだが、正面切って言われると羞恥で答えに窮してしまう。
「い、いや。その……」
「違うのか。じゃあなんだ」
「……違わない」
仕方なく正直に応じたが、目を合わせることができず俯く。すると微かな靴音とともに、やや重めで艶やかなアンバーローズがふわっと漂った。
それは、緋魅のまといし香りの帯。もちろん、人工の香料などではない。彼の肌から立ちのぼり、吐息に混じって漂う芳気の粒子。それは媚薬的効果を対峙する者に与える。
吸い上げた血が体内で蒸留され、この得もいわれぬ芳香を放つのだろうか。そのメカニズムはあまりに神秘的で、想像も及ばない。そもそも、人間ごときの知性で緋魅を理解しようというのが笑止なのだ。確かなのは、緋魅が五感を揺さぶる存在であるということだ。
「なんだお前、溜まってんのか。だったらあの女でも誘ってみろよ。きっと二つ返事で応じるぞ。隻眼、隻足の騎士様」
ああ、まただ。またこんな突き放したようなことを言う。本気なのだろうか。それとも、藍がそんなことをするはずないと分かった上で、からかっているだけなのだろうか。緋魅の表情や口調から推し量ることはできない。
いや、もしかしたら緋魅自身も分かっていないのかもしれないが。
「緋魅にその気がないならいい。俺は性欲の捌け口を探してるわけじゃない」
誰でもいいわけではないと、翻せば緋魅と愛し合いたいんだと暗に伝えたが、緋魅に冷笑を浮かばせただけだった。
「生意気なこと言いやがって」
そう言っただけでくるりと背中を向け、さっさと奥の部屋へ消えた。拒絶なのか或いは秘めやかな誘いなのか判断がつかぬまま、優美な残像に引き寄せられるようにその後を追う。
「緋魅、待っ───」
琥珀色の濃密な陰翳がまとわりつく淫靡な部屋。そこに緋魅を追って飛び込むと同時に凄い力で腕を掴まれ、そのまま壁に背中を押し付けられた。次の瞬間、
「んッ、ぅ……ン……」
あらゆる困惑も迷いも霧消させるほどの激しさで、唇を塞がれた。
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