─The Holy tragedy─
＜XIII＞
『反秩序の王』───十五、六世紀のイングランドにおける宮廷や貴族の邸宅で祝祭の饗宴や余興を行う際、無礼講の主催者として選ばれる人物をこう呼んだという。しかしこれはあくまで書物からの知識。彼らが緋魅にそんな役割を求めているのではないとは、藍も分かっている。
「あなた達は一体、緋魅に何をさせようと考えているのですか」
すると夜爪は、難しい話はカンベンとばかりに蒼牙に説明を譲った。蒼牙はしぶしぶ口を開く。
「我々は長らく、長老派と対立している。彼らはプライドが高いくせに人間に対する考え方は保守的で、餌として見下しながらも、彼我の領域は侵犯すべきではないと主張してきた。それそれが、吸血鬼社会のスタンダードだった。ただし、これまでは」
「あなた達は、そのスタンダードに反旗を翻したと？」
「そうだ。我々は自らを革新派と呼び、愚かで脆弱な劣等種である人間を支配する世界こそ理想とすべきと主張している。現在の秩序を転覆させた反秩序の世界。反創世（ネガ・ジェネシス）。それを実現するためには、革新派を統べる強大な力が必要だ。真緋の王をおいて、他にはいない」
藍はゆるりと頭を振った。吸血鬼が支配する世界という誇大妄想の是非は取り敢えず置いておこう。それよりまず、あの緋魅が、そんな道化の王みたいな役割を引き受けるはずがない。
知るかよ、勝手にやってろ。冷ややかにそう吐き捨てて、容赦ない蔑みの眼差しを向けるだけだ。果たして、そんな藍の推測は間違っていなかった。
「で、緋魅はその要請について何と？」
「取り付く島もないってやつ？ 勝手にやれ、俺には関係ない、だって」
夜爪の答えに、思わず笑みがこぼれる。
「でしょうね」
すると蒼牙がガチガチと歯を鳴らし、
「何が可笑しい」
「これは、失礼しました。いえ、実に彼らしいと思ったので。あなた達も緋魅という人間、もとい、吸血鬼についてもっとよく知っていたら、彼が受け入れるはずがないと分かりますよ」
「人間風情が。貴様に吸血鬼の何が分かる」
「吸血鬼のことは分かりませんが、緋魅のことはそれなりに理解しているつもりです。自ら王となって派閥を率い、長老派と対決する……天地がひっくり返ってもあり得ません」
「なんで言い切れるのさ」
夜爪はあとの二人と違って、面白がっているようだ。興味津々に訊ねる。藍は即答を返した。
「なぜって、それが緋魅だからです。彼は吸血鬼である以前に、緋魅公爵という被創造物なんです」
「緋魅公爵であるがゆえに、孤高を選ぶと？」
「その通りです」
藍の自信に満ちた物言いが気に障ったのか、闇翅は表情を尖らせ「くだらん」と吐き捨てた。しかし、
「でも結局、藍ちゃんの方が正しかったよ。緋魅公爵は、僕らが何を言っても聞く耳持たなかった。仇怨深い長老派を一掃できる、今こそ一族の怨みを晴らす時だと言っても鼻で笑ってたし。吸血鬼は人間を支配し、その吸血鬼をあなたが支配するのだと言ってもやっぱり同じ」
夜爪の指摘に、闇翅は返す言葉がないようだ。尖った表情のまま黙り込む。
「緋魅公爵のことは、僕らより藍ちゃんの方が分かってるってことだね。さて、ここまで話したらもう気付いたでしょ？ 藍ちゃんが人質になった理由」
「まさか、緋魅に要求を呑ませるために……」
「そういうこと。僕らも最初は、こんな方法思い付きもしなかったんだ。だって人質って、脅迫する相手にとってそれなりに価値がないと、人質として成立しないもんね。純血種の吸血鬼に、人間の人質が通用するわけないし、って。でも……」
夜爪の濁った眸に、一瞬だが透徹した輝きが宿った。
「あの時、緋魅公爵は藍ちゃんを助けにきた」
「あれは……単なる気まぐれで……」
「違うね。吸血鬼っていうのはそもそも、怠惰な生き物なんだ。自分を利する行為ならまだしも、他人のために、それもただの使用人のために行動するなんて考えられない。ほんと、信じられなかったよ。もしかしたら、この世に生を受けて一番驚いたかもしれない」
「だから、俺を人質に？」
「うん。まあ正直僕らも、半信半疑ではあるけどね。緋魅公爵は藍ちゃんを助けに来るのか。そして取引に応じるのか」
藍は拳を握り締めた。そこに凝結せるは、怒りと苛立ちだ。彼らは少しも分かっていない。
「あなた達はやり方を誤った。こういう卑劣な手口は、緋魅が最も嫌う“醜さ”を孕んでいる。それこそ、天地がひっくり返ったって緋魅が取引に応じることはない」
「てことは、藍ちゃんが見殺しにされるってことだよ。それでもいいの？」
「………」
さすがに即答を返すことはできなかった。夜爪はにたりと笑い、
「まあまあ、性急に答えを出さなくてもいいじゃん。どうせ、数時間後には分かるんだから。この屋敷の周囲には、吸血鬼が得意な“闇の探索”を阻む結界を巡らせてある。でも緋魅公爵のことだから、数時間あれば探し当てることは可能なはず」
そう言って立ち上がり、開いていた窓をぴたりと閉めた。そして、芝居がかった緩慢さで振り向く。
「さて。その数時間を、お茶を飲みながら待ってるのももったいない。時間は限りあるものだからね。有意義に使わないと。ところで藍ちゃん。なんでこんな、エリュシオンの外れにぽつんと建ってるお屋敷を僕らが、特に僕が選んだと思う？」
気付けば、藍は首を振っていた。それが何かの意思表示なのか、動物的な本能がとにかく否定しろと囁いた結果なのか分からない。ただひとつ確かなのは───
「だって、窓をぴったり閉めても声は漏れちゃうからねえ。特に、悲鳴とか絶叫はさ」
どんなに拒絶しても否定しても、逃げることはできないということだった。
「僕ねえ、いつか実験してみたいって思ってたんだぁ。極限の快楽と苦痛を同時に与えられたら、人間はどちらにより反応するのか」
夜爪はその中性的な容姿には似合わぬ巨大な陰物で藍のアナルをこすり上げながら、愉しげに語った。そして、
「もう一回試してみよ。蒼牙、いい？」
蒼牙はさも興味ないと言わんばかりに頷いたが、その股間は激しく隆起し凶暴な飢えを晒していた。夜爪は笑み崩れた顔をさらに淫蕩に歪め、藍の奥処にある疼点を狙って突き上げる。それと同時に、蒼牙は藍の手の爪を一枚剥がした。
「きぃぃぃぃッッ」
疾うに潰れた声帯から、まともな悲鳴は出てこない。藍は口から血が混じった泡を吹き、金属同士がこすれ合うような音を発した。それはもはや、“声”ではなかった。
「あ、また射精した。やっぱり快楽の方が強いんだ。人間て浅ましいなあ。それとも、苦痛が足りないのかな」
吸血鬼の体液には媚薬の効果がある。夜爪はそれをたっぷり与えつつ藍を犯し、と同時に拷問を加えた。これが、究極の快楽と苦痛の実験ということらしい。
「でも、人間て脆いから、これ以上やったら死んじゃうし」
「指を一本潰してみたらどうだ」
蒼牙の提案に頷き、
「そうだね。指くらいなら、緋魅公爵も見逃してくれるかな」
すでに二本の指で、爪が剥がされている。生まれたままの姿で両手はベッドヘッドに括り付けられ、足は天井から下がった紐で、大きく開くように吊られている。
足の甲には、太い釘のような金属の棒が貫通し、足首からふくらはぎ、太股にまで滴る血の筋が、淫らな紋様のように肌を飾っていた。
その上にまたがって、時に突き刺すように、時に掻き回すように自在に腰を動かす夜爪。己の優位を強調する意図なのか、ニタニタ笑いながら「締まりがいいじゃん」などと嘯いているが、すでに藍の中に幾度も放っていた。藍の身体が与える快楽は、思いのほか深かったようだ。
ただ闇翅だけは藍に興味がないらしく、つまらなそうに窓の外を眺めている。彼の関心はただ、緋魅だけに注がれていたのだ。
もし緋魅に対しこの人質が有効であるなら、これを楯に関係を迫れるかもしれない。純血種最後の一人を手酷く犯し、あの玲瓏たる美貌が快楽に歪むさまを想うだけで、全身が媚薬に浸されるかのような愉悦が湧き上がった。
「どの指がいいか」
「ゆ…るじ…で……」
鉄鎚をかざす蒼牙に、藍は血と涎に濡れた口を動かして懇願する。すると夜爪は、霊妙なシンフォニーに微睡むかのようにうっとり目を細めた。
「やっぱりいいなあ、藍ちゃん。その表情も声も、下品に堕していない。昨夜の何とか侯爵夫妻なんて、哀願する時の醜さは見られたもんじゃなかったよ。何が望みだ、金ならいくらでもやる、だって。人間の貴族なんて、所詮あんなものさ」
「こう…しゃく……」
その瞬間、哀願と恐怖に潤んでいた藍の双眸が険しく透き通った。怒りだ。
「あさぎ……こうしゃくを……ゆるさ、ない……」
夜爪は両目を見開いた。素直に驚いたようだ。
「はっ？ 何それ。藍ちゃん、義憤に駆られてる場合じゃないでしょ」
「おまえ…たち……ゆるさ、ない」
夜爪の顔に、凶悪な翳が差した。快楽と苦痛が、それ以外の感情に駆逐されたのが気に入らなかったのだ。
「……蒼牙、もっとでかい鉄鎚貸して。指、いっぺんに潰してやる」
蒼牙は言われた通り、さらに大きくで重量のあるハンマーを手渡した。夜爪は受け取ると、藍の右手に照準を合わせて振り上げた。
「藍ちゃぁん、今の君が感じていいのは、苦痛と快楽だけだよ。お仕置きしようね。右手ごと潰しちゃう。せーの」
ベッドの背に括り付けられている藍の右手めがけて振り下ろされるはずのハンマーが、消えた。それを握っていた夜爪の腕とともに。
「あ、あれ？ なに、これ」
鮮血を吹き上げる切り口を、夜爪は呆然と見つめる。肘から先がなくなっていたが、それは消えたのではない。どすん、と重量級の音を響かせて、床に落下していた。
それは何の先触れもなく、あまりに唐突だった。闇の脅威の、訪い。
「まさか、こんなに早くっ……」
冷たく乾いた夜風が、血臭に膿んだ室内の空気を一掃した。いつの間にか大きく開け放たれたフランス窓。その向こうには、豪奢な欄干で縁取られたヴェランダが広がる。それはさながら、闇黒を背景にした舞台。誰のための舞台なのかはもはや、言うまでもない。
「これはこれは真緋の王。取引の場へようこそ」
予想外の展開に浮き足立つ夜爪と蒼牙をおいて、闇翅は悠然と立ち上がった。そして、弟たちにさっと視線を走らせる。
夜爪の出血はすでに止まっていた。切り落とされた腕などは、後でどうにでもなる。蒼牙も、早々に冷静さを取り戻したようだ。
「弟たちの無礼は、お許し願います。ちょっとした遊びのはずが、エスカレートしてしまったようで」
「………」
緋魅は、黙したまま。黒い外套で頭から全身を覆い、ヴェランダの奥に立っている。その姿はまるで、邪悪な繭のようだ。当然、その顔も見えず表情を窺うこともできない。
「ともかく、中にお入りください。話はゆっくりと……」
闇翅は紳士的な態度を保ったまま、ヴェランダに近づいた。が、見えない何かに弾かれるかのように素早く後ずさった。彼はいち早く気付いたのだ。自分たちの過ちに。しかし、
「もう遅い……のか？」
闇翅の絶望的な問いに、応える者などいるはずもなかった。
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