─The Holy tragedy─
＜XI＞
「幽閉生活の終わりは突然訪れた。己の優位性に酔った愚かな男が、口を滑らせたのだ」
闇翅の言葉に、藍はのろのろと顔を上げた。
「口を……？」
「そう。飢えと暴力という鞭を振るい、彼を飼い馴らすことに成功したと過信してしまったのだろう。純血種など怖るるに足りないとの軽薄な思い込みから、彼を“真緋の王”と呼んでからかったのだ。統べる一族のいない、孤独で哀れな真緋の王、とな」
『これからお前を真緋の王と呼んでやろう』
『俺は王ではない。真緋の一族を率いているのは父だ』
『父ぃ？ はは、そんなの疾うにいないさ。哀れだな。真緋の一族はもはやお前しか残っていない』
『……それはどういう意味だ』
『そのままの意味だ。お前以外はみな殺された。だからお前が唯一残った真緋の一族。統べる者のいない孤独で哀れな王だ』
藍は全身がざわざわと粟立つのを感じた。この瞬間、緋魅を襲った絶望を思うと言葉もない。これまで苦痛と辱めに耐えてきたのは、一体何のためだったのか。耐えることで守ろうとしてきた大切な人たちの生命や尊厳など、最初から存在しなかったのだ！
「それを知った緋魅は……」
ただ絶望しただけで終わるはずがない。瞬間的に凝縮され高密度になった感情は、あっという間に臨界点を迎え暴発する。緋魅が制御できぬ怒りに囚われたであろうことは、想像に難くない。
「……我々吸血鬼には、三段階の心身変容があり、段階が進むにつれて魔力も増幅される。しかし変容はいずれも感情の高揚によってもたらされるもので、意識的にコントロールすることはできない」
闇翅の話を引き取ったのは蒼牙だった。起伏に乏しい淡々とした口調は、まるで講義のようだ。
「第一段階は黒化（ニグレド）。第二段階は白化（アルベド）。ここまでは珍しくない。引き鉄は激しい怒りや哀しみだからだ。しかし最終段階の赤化（ルベド）に至るのは容易ではない」
「ニグレド、アルベド、ルベドは錬金術の……」
蒼牙は意外だと言わんばかりに眉をひくつかせたが、頷いて話を続けた。
「そうだ。錬金術で言う大いなる業（マグヌム・オプス）の諸段階になぞらえている。ルベドは神人合一の境地。吸血鬼にとってはある意味、最も始祖に近い状態といえる」
「始祖というのは堕天使イブリースですね」
「その通り。しかしこの最終段階に達するには、怒りや哀しみだけでは足りない。もうひとつ、不可欠の要素がある」
「それは何ですか？」
勢い込んで訊ねる藍に、蒼牙は吐き捨てるように答えた。
「愛だ」
「愛……」
余りに意外で、呆然と同じ言葉をなぞる藍に、蒼牙は乾いた自嘲で応えた。
「それも、純粋に他者へ向けられた愛だ。自己を顧みず、一心に他者へ注がれる愛が飽和状態となった時、変容の最終段階に到達する。これは、我々吸血鬼に神が唯一与えた良心だと言う者もいる。しかし吸血鬼は恐ろしく自己愛の強い生き物だ。純粋に他者へ向けられた愛など、虚構の域を出ない」
「でも、緋魅にはそれがあった。そしてルベドに到った。そうですね？」
認めたくないのか、蒼牙は顔を背け黙りこんでしまった。しかし返答は必要なかった。藍の想像通りだろう。
家族や一族の命を救うため、緋魅は自らを犠牲にした。そして騙されていたと分かった瞬間、沸騰したのは怒りだけではなかった。そこには、家族や一族への愛があった。もう二度と会えない愛しい人たちへの純粋な想い。それこそが、神が唯一与えた良心、ルベドへと導いたのだ。
「そうだよ。純粋な愛、他を利する愛。美しくて反吐が出るよねえ」
夜爪の小馬鹿にしたような相槌に、藍は穏やかに笑って頷いた。
「ええ、本当に。あなた方には決して手に入れることのできない、美しいものです」
藍ははっきりと哀れみを込めて返した。三人は同時に顔色を変えたが、藍が臆することはなかった。真っ直ぐ見返し、
「ルベドの状態に覚醒した緋魅は、その口を滑らせた男を殺し、地下牢から脱出したのですね」
藍の問いに答えたのは、闇翅だった。
「……そうだ。もちろん、それで終わりではない。そこは長老派が多く居を構えるいわば吸血鬼社会の中心部だったが、長老派は彼を捕えるどころか返り討ちに遭い、次々と殺されていった。純血種のルベドが一体どれほどの魔力を発揮するものなのか、その時初めて知ったのだろう。堕天使の力を得た若き真緋の王を止められる者などいなかった。彼は体力の限界を超えるまで殺戮を続け、実に長老派の三分の一が命を落とした。その夜は月が赤みを帯びていたことから、我々の世界では『焔月の虐殺』とも呼ばれ、純血種がいかに強大で触れてはならぬ存在であるかを象徴する出来事として語り継がれている」
「それで……緋魅はその後どうしたのでしょう」
「吸血鬼の世界から離れ、人間社会に紛れて暮らし続けてきた。恐らく、我々同族と遭遇することも滅多になかっただろう」
藍はふうっと息を吐き、大きく頷いた。
「緋魅が長老派にとって畏怖の対象となっている理由は分かりました。でも虐殺事件は昔の話だ。それ以来は衝突もなく、お互いの領域を侵すこともなかったのでしょう？」
「さっきも言ったけど、長老派の連中は特に臆病で保身的なんだよ。三年前の凄まじい魔力の放出に、怯えきってしまったんだ。虐殺事件の生き残りもまだけっこういて、当時の悪夢を思い出したと言ってぶるぶる震えてたよ」
「だから殺してしまえと？」
「うん。もちろん吸血鬼のみんながみんな、そういう意見を持ってるわけじゃない。僕らみたいな穏健派もいてずっと話し合ってたんだけど、最近こっちの旗色が悪くなってきちゃってね」
夜爪の説明によると、彼ら三兄弟は味方のようだ。確かに、緋魅に対して過度な怖れを抱いているようには見えない。
「僕らだって、緋魅公爵が可哀想だから、なんて理由で殺すのに反対してるワケじゃない。そこまで善人ぶる気はないから」
「ではなぜ反対しているのですか？」
「まあ何のかんの言って純血種の力ってのは相当なものだから。最近、神聖教会が勢力を伸ばしてきてるんだ。あ、神聖教会については知ってるよね。神の名において吸血鬼を狩ることを存在理由としているならず者集団。いずれ、全面戦争が起こるかもしれない。そんな時、純血種の力はやはり頼りになる。敵対するのではなく、いざという時に共闘するため手を組んでおく方が賢明でないか。それが僕ら穏健派の考え方だよ」
神聖教会と吸血鬼の全面戦争なんてファンタジーじみているし、そもそも緋魅が手を貸すとは思えない。知らねえよ勝手にやってろと冷ややかに突き放して、見向きもしないのではないかと思ったが、もちろん口には出さなかった。代わりに、「なるほど確かに賢明ですね」と答えておいた。
「でしょ？ でも長老派の連中はなかなか納得しなくってさ。目先の恐怖に囚われてるっていうか。脅威の芽は早く摘んでおきたいって言うんだ。そこで僕ら黒鴉の三兄弟が、特命を携えてやってきたというわけさ」
「特命、ですか？」
「そう。要は、緋魅公爵に反逆の意思がないってことが分かればいいんだ。もうあれから百年以上経ってることだし、和解は可能だろ？ だから、その和解の場にぜひとも赴いて欲しいと頼みに来たんだよ。そこで話し合い、お互い過去のことは水に流して、何かあった時は協力して対処すると誓約を交わす。実に平和的だと思わない？ なのに緋魅公爵は───」
「断った、のですか？」
「うん。取り付く島もない、って感じ。何で高貴な純血種の自分が頭を下げなくちゃならないんだ。過去のことはそもそも長老派が悪いんだから、そっちが頭を下げるべきだろって。ほんと、分かっちゃいたけど純血種ってプライド高いよね～」
藍は眉をひそめた。どっちが頭を下げるべきだとか、今さら過去のことを持ち出すとか、緋魅らしくない言い種だと思ったからだ。
緋魅ならば、長老派とか穏健派とか吸血鬼社会のごたごたなんて自分には関係ない、うざい、馬鹿らしいという理由ではね付けるのではないか。
緋魅は確かにプライドは高いが、高慢ではない。何かといちいち比較をして自分の方が上だと自惚れるのではなく、あらゆるものが足下にある静謐な高みにいることを、生まれながらに宿命づけられている。だから高慢ではなく孤高なのだ。
そんな彼が、自分は高貴な純血種だから劣等種に頭を下げるのはプライドが許さない、なんて考えるだろうか。しかし、彼らが嘘をつく理由もない。藍は留保付きで信じることにした。
「でもそれでは、長老派を宥めることはできませんね」
藍の神妙な言葉に、闇翅は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「そこで、だ。ぜひとも君に頼みたい」
「俺……ですか？」
「君は緋魅公爵の腹心で、彼が最も信を置いている者のようだ。だから我々と一緒に和解の場に来て、長老派に説明してもらえないだろうか。緋魅公爵に、吸血鬼社会を害する意思はないということを」
藍は納得した。彼らが急に愛想よくなったのは、これを頼むためだったのだ。考え込む藍に、闇翅は共感するように頷き、
「吸血鬼が集結する場に唯一の人間として乗り込むのだ。不安や怖れは当然だろう。しかし君の命は我々が保証する」
「いえ、それよりも、その、長老派の方たちは人間の言葉に耳を傾けてくれるのでしょうか」
「それは正直なところ何とも言えん。君の熱意にかかっていると言ってもいいだろう」
「俺の……熱意」
「吸血鬼には理性も感情もある。感受性は人間より強い。君が緋魅公爵のために危険も顧みず赴き、必死に言葉を尽くして弁明するさまを見れば、きっと心が動かされるはずだ。彼らだって、無駄な血を流したいとは思っていまい。自分たちの身の安全が確信できれば、敢えて仕掛けてくるような愚かな真似はしないだろう。万が一それでも和解はできないと言われたら、きっと緋魅公爵本人が来ても無駄だったろうと諦めるより他あるまい」
闇翅の言うことは尤もだと藍は思った。彼らは緋魅を怖れている。そのほとんど盲目的な恐怖が、攻撃性に油を注いでいるのだ。冷静になれば、戦わずに済むのが一番だと分かるだろう。自分が為すべきは、その盲目的な恐怖を取り除いてやることだ。
「藍ちゃん、どうする？ 怖いからやめとく？」
夜爪の揶揄めいた問いに、藍ははっきり首を振った。もとより、引き受ける以外の選択など考えていなかった。
緋魅が長老派たちに目を付けられるきっかけとなった魔力の放出は、自分のせいなのだ。いや、そういった負い目がなかったとしても、藍は進んで己の役目を全うしただろう。緋魅のためにできることが自分にもある、それは藍にとって無条件の喜び、この上ない幸せなのだ。
「俺の方からお願いします。長老派たちの説得、俺にやらせてください」
「さすがぁ。藍ちゃんはご主人様想いだなあ」
「全くだ。こんな使用人を持てて緋魅公爵は幸せだな」
「人間にも、気概のある奴がいるんだな」
三兄弟の賛辞に、藍がのぼせ上がることはなかった。寧ろ、緋魅の危機を救うという重大な使命に身が竦む思いだった。
「俺は……どこへ行けばいいのですか？」
藍の悲壮感漂う問いかけに、夜爪は軽い口調で答えた。
「だいじょうぶ、僕らがちゃんと案内するから。藍ちゃんは黙って僕らに委ねてくれたらいいんだよ。全てをね」
そして顔を見合わせて微笑を交わす三兄弟に、藍は初めて明瞭な不安を覚えた。これでよかったのだろうか。もしかしたら自分は、大きな過ちを犯そうとしているのではないか、と。
しかしすぐに重大な使命を思い出し、不安を力づくで抑え込んだのだった。
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