─The Holy tragedy─
＜X＞
「危険、ですか？ それは一体どのような……」
藍は一瞬、神聖教会の使徒のことを彼らは言っているのかと思った。しかしすぐに考えを改める。使徒は彼らにとっても天敵なのだ。ならば緋魅公爵に危険が迫っている、という言い方はおかしい。
闇翅は表情を曇らせ、重い溜め息をついた。緋魅の身を案じているように見えなくもないが、若干のわざとらしさも否めない。
しかし、彼らの存在自体がゴシックロマン、ファンタジー劇なのだ。仕草や振る舞いが芝居がかって見えてしまうのは、仕方ないのかもしれない。
「吸血鬼の社会は人間のそれより狭いが、それでも様々な考えを持つ者がいる。もちろん、異なる考えを持つ者同士で諍いが起きることもある」
どうやら、緋魅に迫っている危機がどのようなものかすぐには教えてもらえないようだ。藍は急かしたくなる気持ちを抑えて、彼の話に大人しく耳を傾けた。
「そして今、最も大きな争点となっているのが、他ならぬ緋魅公爵の処遇についてだ」
「処遇、ですか？」
「そうだ。具体的に言えば、緋魅公爵を殺すか生かすか、ということだ」
唐突に出てきた物騒な言葉が、藍から冷静さや慎重さを剥ぎ取った。
「待ってください！ なんでいきなりそんな話になるのですか。緋魅が一体何をしたと」
闇翅は眉を持ち上げ、“おやおや”と揶揄混じりの驚きを露わにした。藍が『緋魅』と呼び捨てにしたことに対する驚きだったが、肝心の藍はそのことに気付いてもいなかった。
「藍ちゃんは知らないだろうけどね、いわゆる平民の吸血鬼は多かれ少なかれ、直系に対して怖れを抱いているものなんだよ。そういう潜在的な恐怖は、ちょっとしたことで一気に表面化してしまうんだ」
夜爪の答えは、藍の疑問の半分しか解決してくれない。藍は勢い込んで訊ねた。
「潜在的な恐怖が表面化するようなことがあったのですか？」
「三年前のちょうど今ごろかな、緋魅公爵は魔力を使ったね。かなり強力なヤツ。こっちまでビリビリ伝わってきたよ。それでみんな騒然としちゃってね。純血の凄さを再認識させられたっていうか」
「三年前……」
「そう。その頃って、藍ちゃんはもうこのお屋敷で働いていたのかな」
「働いて……ました。というか、その魔力ってまさか、俺を連れ戻す時に使った……」
三年前といえば、あれしかないだろう。生きることに絶望し、生き人形になる悲壮な決意を携えて、鵺引が用意した檻に自ら飛び込んだ藍を、緋魅は連れ戻しにきた。
その時、鵺引が揃えた屈強な私兵たちを、方法は分からぬながらもあっという間に倒し、闇より炎を召喚して屋敷を焼き払ったのだ。
藍の呟きに、夜爪は身を乗り出し、
「えっ？ もしかして彼は、藍ちゃんのために魔力を行使したの？」
「あ、はい。たぶん……いえ、間違いなくあの時だと思います。囚われた俺を連れ戻すために……」
その時、夜爪は兄弟二人と素早く目配せを交わしたが、自分の考えをまとめるので精いっぱいの藍は気付かなかった。
ということは、俺の軽率な行動のせいで、結果的に緋魅の立場を危うくしてしまったのか───
「でもっ、凄い力を持っているから殺すなんて暴挙も甚だしいではありませんか。しかも同じ吸血鬼同士で」
必死に主張する藍に、夜爪は共感の眼差しを向けた。しかし残念ながら、出てきた言葉は藍に同意するものではなかった。
「吸血鬼っていうのはね、一見豪胆に見えるけど実は臆病で小心者が多いんだよ。おまけにプライドが無闇に高いから、うちの兄弟を見ても分かると思うけど、自分より強い者、高貴な血を持つ者を警戒し、憎んでいる。ねえ、藍ちゃんはさ、なんで直系は緋魅公爵一人しか残ってないか、知ってる？」
「いいえ、知りません」
「単純さ。殺されたんだよ、全員」
「そ、それは使徒に、ですか？」
「違うよ。吸血鬼に、同族に殺されたんだ」
「まっ……」
まさか、嘘だ、信じられない。否定的な言葉はしかし、口から出てくることはなかった。藍は直感的に分かったのだ、これは真実だ、と。
「信じられない？ でも事実だよ。その辺りのことは、物知りな弟が話してくれるから。なんかたくさん喋って疲れちゃった。後はよろしくぅ」
いきなりバトンを渡された蒼牙は、いかにも神経質そうに眉をひくつかせたが、素直に話を引き取った。
「堕天使イブリースに連なる直系の一族は、嘗ては七つあった。そのうちのひとつが、真緋の一族。緋魅公爵の一族だ」
「だから緋魅を真緋の王と……」
「そうだ。そういえば、彼はここエリュシオンでも真緋の君と呼ばれているらしいな。彼の出自など知るはずもない人間が、同じ呼称を使っているなんて不思議なものだ」
「うん。人間てたまに、僕らの想像を超えたことをやったりするよね～。って、ごめんごめん、先をどうぞ」
夜爪の茶々に不快な表情を見せた蒼牙だったが、そのまま続けた。
「さっきも夜爪が言ったが、吸血鬼は臆病で小心者が多い。圧倒的な力を持つ純血種は目障りな存在でしかない。それゆえ混血種たちはたびたび手を組み、純血種たちを粛清していった。個人の能力では劣っていても、数の力で何とかなる。多勢に無勢。純血種たちは次々と殺され、最後に残ったのは真緋の一族だった」
いつの時代も愚かな多数派が正義を形成する、緋魅が以前言った言葉が思い出される。もしかしたら、この純血種に対する暴虐の記憶が念頭にあったのかもしれない。
明らかになろうとしている緋魅の過去に、藍は昏い戦慄を覚えずにはいられなかった。それは、避けがたい運命を暗示しているようにも思えた。聞いてしまったらもう戻れないぞ、と。
それでも藍は問いを差し出す。もう戻れない、上等だ。すでに腹は括った。緋魅の全てを受け入れるのだ。
「それで、真緋の一族はどうなったのですか？」
「真緋の一族をどう扱うべきか、すぐに結論は出なかった。さすがに、純血種を全て殺してしまうのはいかがなものかという意見も多かった。しかし、長老派と呼ばれるとりわけ保守的で臆病な一派が強硬に粛清を主張し、結局は他の一族と同じ運命を辿ることになった」
「でも、緋魅は生きている」
藍の指摘に、蒼牙は恬淡と頷く。
「粛清が行われた当時、緋魅公爵はまだ幼かった。そうだな、人間の年齢でいえば十二、三歳というところだろう。そこで長老派は、彼を生かすことにしたんだ」
藍はほっと息をついた。やはり、子供に手をかけるのはためらわれたのだろう。すると闇翅が口を挟んだ。
「正確には生かす、ではなく“飼う”だな」
「……え？」
思わず聞き返した藍に、闇翅は淫蕩な笑みで応えた。黙っていれば端整な顔立ちをしているだけに、その落差にはぞっとさせられるものがある。
「言葉の通りだ。長老派の連中は、彼の美しさに惑わされたんだよ。まだ幼いとはいえ、当時から彼の美貌は群を抜いていた。観る者全てを蠱惑の蜜沼に引きずり込み、理性を麻痺させてしまう。長老派の男たちは、彼を殺すのが惜しくなった。だから飼うことにした」
藍は声に出さず、わからない、と呟いた。何を言っているのかわからない、と。しかし本当は分かっていた。何もかも分かっていたのだ。『飼う』という言葉が含有するおぞましさの全てを。ただ、分からない振りをしないと理性が保てなかったのだ。
「彼は生かされ、地下牢に幽閉の身となった。長老派の連中はうんざりするほど用心深い。彼が抵抗することのないよう、お前は人質なのだと言い含めた。つまり、大人しく言う通りにしていないと、家族の命を危険に晒すことになるぞ、ということだ」
蒼牙の説明に、藍は腹の底がふつふつと煮え立つのを感じた。顔が怒りに歪み、凶悪な陰翳が刻まれてゆく。
「疾うに殺しているのに、生きていると思い込ませたのか」
「そういうことだ。さらに長老派は、彼を極限まで飢えさせた。吸血鬼の飢えは、いわば神の罰だ。僕は幸い経験がないが、身体を内側から灼かれるような、内臓を握り潰されるような苦痛らしい。生き地獄だな。しかも彼は純血種だ。吸血鬼の血が濃い分、苦痛も激しい」
「それも……緋魅の抵抗を削ぐためか」
「そうだ。そうしてぎりぎりまで飢えさせた挙げ句、餓死の一歩手前で僅かな食糧を与える。それを繰り返すことで飼い馴らしていったんだよ」
「飼い……馴らす……」
信じられなかった。あの緋魅を、何ものにも囚われず闇の頂点に君臨する孤高の王を“飼い馴らす”だなんて、神を跪かせる以上の不可能事ではないのか。そんな藍の疑念を敏く察したのか、闇翅はそっと身を乗り出し、
「君は吸血鬼の飢えというものを知らないだろう。理性はもちろんだが、感情も意識も剥ぎ取ってしまう。君は、緋魅公爵の腕を見たことがあるか？」
「腕、ですか？ いえ、ありません」
「飢餓感が高じて意識が混濁すると、自他の区別がつかなくなり、自らの身体に噛み付いて肉を食み血を啜る。緋魅公爵の腕には、当時の傷痕がまだ残っているはずだ」
「傷痕ってまさか、自分の腕に噛み付いて……」
「そういうことだ。それこそ、餓死寸前の吸血鬼の断末魔だ。話を続けよう。彼は常に飢餓感で朦朧としながら、長老派の男たちから毎夜陵辱を受けた。まさに性奴隷だ。男たちは嬉々として彼の柔らかな尻を犯し、泣き喚き許しを乞う美貌に生臭い精を浴びせる。もちろん、彼らがそんなノーマルな行為で満足するはずもない。時には爪を剥ぎ、肉を削ぎ、絶叫に恍惚と耳を傾けながら射精する」
ぐぼ、と喉の奥から嫌な音がした。苦くて熱い塊が這い上がってくる。藍は咄嗟に手で口を塞ぎ、何とか押し戻した。右目に生理的な涙がにじむ。そして肩で息をしながら「嘘だ」と搾り出した。
「信じたくないならけっこうだ。人間はそうやって真実から目を背け、見たいものしか見ようとしない。実に愚かだな。哀れみすら覚える」
蒼牙が蔑みの言葉を投げつけてきたが、痛くも痒くもない。何とでも言えばいい。こんな“戯言”を信じるくらいなら、自分は喜んで愚者となろう。そうするしか正気を保つ術はないと、藍は分かっていたのだ。
「……君は、ここの地下室を見たことがあるか？」
唐突な闇翅の問いかけに、藍は逸らしていた視線を戻して「いいえ」と端的に答えた。太陽の出ている間、緋魅が睡眠をとる地下室には、黒曜も足を踏み入れたことがないという。もちろん藍もだ。
緋魅の眠りを護り、心地よい静寂と闇を捧げる地下の寝室は、なんぴとたりとも穢すことの許されぬ神聖で私的な、或いは詩的な空間なのだから。しかし。
「そうか、一度覗いてみるといい。あれこそまさに、彼が幽閉されていた地下牢そのものだ。石が剥き出しになった薄汚い壁に囲まれ、黴臭く湿った空気が充満している。あそこで彼は身体を小さく丸め、束の間の安らぎに憩うのだろう。嘗てそうだったように」
「ほんと、びっくりしたよね～。よくあんなところで寝れるなあって」
夜爪が感嘆混じりに同意する。藍は困惑を隠せず、
「ちょっと待ってください。それは一体どういうことですか？ 緋魅が、地下牢のような場所で眠っていると？」
「さっきからそう言っている。どのような心理作用によるのか推測するしかないが、おそらく睡眠時退行の一種なのだろう。本来ならば、蓋をして鍵を掛けて、なかったことにしたいはずの記憶だ。しかし、そこへ否応なく引き戻されてしまう。裏を返せば、それほど苛烈な体験だったということだ」
「そんな……」
地下の寝室。そこは彼の美的感覚で厳しく選定された調度品や寝具で整えられ、ある意味この屋敷で最も贅沢な、最も快適な空間であるに違いないと思っていた。緋魅による緋魅のためだけの、眠りの王国。ゆえに、自分たち下等な人間の立ち入りを禁じているのだと。
「君が信じようと信じまいと、これが真実だ。さて、どうするかね？ 大事な話はここからなのだが。これ以上は聞きたくないと耳を塞ぐか。それとも……」
藍は両手で顔を覆い、深く項垂れた。そうだ、彼らは緋魅に危機が迫っていると言っていた。そして自分は、緋魅の全てを受け入れると腹を括ったはずではなかったか。
「……聞きます。聞かせてください」
「我々の話を信じるかね？」
「はい、信じます」
「よろしい。では続けよう」
蜘蛛の糸はすでに、藍の四肢を搦め捕っていた。
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