─The Holy tragedy─
＜XV＞
その時、藍がまず感じたのは臭いだ。鵺引はいつも、己の体臭を隠匿するかのように、動物性の脂をたっぷり練り込んだ香料を身体や髪に付けていた。自分の居場所を捕食者に覚られぬよう、他の動物の排泄物を全身に塗りたくる野性の草食動物を想わせる習性だなと、藍は秘かに嗤っていたのだ。
そして今。闇に隠されその姿は見えなかったが、臭いで分かった。いつもより強烈なそれは、鵺引自身の高揚を表しているのだろう。体温が上昇して脂が融け、臭気を発散しているのだ。
「臭えな」
緋魅も不快げに鼻を鳴らしたが、それだけだった。まるで鵺引の存在など眼中にないと言わんばかりに、藍を抱き起こす。
「この身体じゃ立てねえか。全く、手のかかるクソ使用人だ」
そして普段と変わらぬ不遜な口調でぼやきつつ、藍の身体を抱き上げた。緋魅に抱き上げられるなんて初めてのことで、藍は勝手に体温が上昇するのを感じつつ、ぎこちない動きで緋魅の首に腕を回した。
「この体勢で飛ぶからな。途中で落ちたら死ぬぞ。ちゃんと掴まってろ」
緋魅は淡々と命じて、ようやく鵺引たちの方に向き直った。そして一歩、二歩と進み、
「邪魔だ。どけ」
研ぎ澄まされた刃が閃くかのような短い命令。武器を携えた私兵たちの中には、それに従って思わず脇へ避ける者もいたが、それを滑稽だと嗤うことは藍にはできなかった。
彼らの気持ちはよく解る。緋魅の命令は、階級でも立場でも爵位でもない、“上位種”からの強制なのだ。無意識に従ってしまうのは、人間としての本能なのだろう。
しかし本能が壊れている人間もいる。再び雲間から現れた皓月に照らされた鵺引は、威嚇するようにぐいと胸を張り、緋魅を真っ直ぐ見返す。その姿勢だけならば威厳もあっただろうが、首から上が全てをぶち壊していた。
脂ぎった顔に、ぶよんと濁った眼球。だらしなく半開きになった口からは、獣めいた浅い呼吸音が漏れている。まるで、餌を前にして涎を垂れ流す畜生そのものだ。
「緋魅公爵ぅ……私はこの時を、ずっとずっと待っていた……嗚呼、あなたを、あなたをこの手に……」
藍は思わずぞっとした。鵺引の表情や声に、飢えとは違う生臭さを感じたからだ。それは紛れもない情欲。彼は飢えた畜生ではなく、発情した畜生だったのだ。
「あなたが私を蔑んでいるのは分かっていた……。その蔑みが私を昂らせる。もっと高慢に、もっと気高く！ 高みに昇れば昇るほど、引きずり下ろす享楽が増すのだ！ この美と快楽が支配するエリュシオンの頂で、全てを見下す王を、私が人形として飼う悦びが……！」
「ま…さか……」
藍は絶句した。まさかこの男、緋魅を人形に改造して所有するつもりなのか。藍の思考を読んだのか、鵺引はにたりと笑い、
「そう、その通り。愛しの緋魅公爵を、エリュシオンをただ美のみで統べる真緋の君を、我が手で生きた人形に造り変え愛玩する」
「ふ、ふざけるなッ！ お前みたいな醜い下等生物が緋魅を人形にするなんて、その思考すら罪悪だッ」
驚愕は一瞬で怒りに変わり、藍は噛み付くように吼えた。しかし鵺引は愉快げに笑い、
「ハハハッ、思考すら罪悪か。面白い。その通り。エリュシオンの王、否、神を所有するのだ。これ以上の罪があるだろうか。罪や禁忌は犯すためにある。許されていることを為すことに、どれほどの価値があるのかね。許されぬことを、奸計をもってやり遂げるからこそ価値がある、快楽がある。違うかね？」
「黙れ！ この───」
「君には感謝している。逃げられた時は哀しかったが、緋魅公爵に拾われたと知った時、我が視界に光明が射したのだ。これはまたとない好機かもしれん、と」
藍は罵倒の形に口を開けたまま、呼吸を忘れた。その代わり、頭の中で言葉が渦巻く。
ソレジャ、マサカ、オレハ……。
「公爵が連れ戻しにくる確率は五分五分。いや、もっと低いと思っていた。分の悪い賭けだったが、どうやら私は賭けに勝ったようだ」
得意気に勝利を宣言し、ぐいと胸を張る。藍に、それをはね付けるだけの気力はもはや残っていなかった。
「俺は……餌だったってわけか」
「そういうことだ。公爵が君を見捨てた時は、当初の予定通り君を人形にしてあげればいいのだから。きっと見捨てるだろうと早合点して、足を一本切り落としてしまったがね！ はは、失敬。しかしこうして緋魅公爵は訪れた。しかもたった一人で。自ら鳥籠に飛び込んでくれたのだ！」
「だから緋魅を好きにできるとでもいうのか？ 相手は俺みたいに親に売られたガキじゃない、公爵だぞ！ お前の犯罪行為なんてすぐに───」
「はは、ここをどこだと思っている。ここはエリュシオン。警察も官憲も軍も介入できない快楽の園だ。私の犯罪行為とやらを一体誰が捜査する？ 誰が裁く？」
答えに窮した藍は、ぎゅっと唇を噛み締めた。するとそれを敗北の証と受け取ったのか、鵺引はゆっくりと近づいてきた。
それに連動するように、私兵たちもじりじりと詰め寄ってくる。幾重にも張り巡らされた見えない糸が、今にも不協和音を奏でそうな緊迫感。それが頂点に達した時だった。緋魅が口を開いた。
「おい、もうお喋りは終わったか？ ずっと抱き上げたままでいい加減疲れた。そろそろ帰るぞ」
自分は部外者と言わんばかりの緊張の欠片もない言葉に、藍は一瞬だが状況も忘れ本気で呆れた。
「なに呑気なこと言ってんだよッ。こいつは緋魅のことを───」
「耳元でわめくな。うるさい。クソブタの言ってることをいちいち真に受けるんじゃねえよ」
緋魅はそう言って、実際に全く気にしていないとばかりに部屋の出口へ向かった。当然ながら、黒ずくめの私兵たちが素早く動いて行く手を遮る。緋魅はうんざりしたような口調で、
「どけ、と言ってもどかねえだろうな」
無言を貫く私兵に代わって、鵺引が嬉々として答えた。
「彼らには、多少荒っぽくなってもいいからあなたを捕えるように命じてある。そういえば以前、藍を連れ戻すために私が差し向けた追っ手をあっさり倒したとか。大したものだが、この数相手では多勢に無勢。どうにもなるまい」
唇が吊り上がり、頬が痙攣を見せる。激しい歓喜に、顔の筋肉が追いつかないようだ。
「いずれ四肢を切り落とし、最高級の象牙で芸術的な義肢を作ってあげよう。だから今ここで、その腕や脚を傷つけることに躊躇はしない。顔さえ無傷ならいい。お分かりだろう？ 抵抗すればどうなるか……」
鵺引の粘着質な勝利宣言に対し、緋魅は乾いた溜め息で応酬した。
「ったく、脳みそもブタ並みか。藍、今後悪夢にうなされたくなかったら、目ぇ閉じて耳塞いでろ」
藍はすぐさま言われた通りにした。目を閉じ耳を両手で覆って塞ぎ、緋魅の肩口に顔を押し付ける。すると緋魅が動いた。と同時に、それまで緊張を孕んだ凪を保っていた空気がざわりと騒ぐのが感じられた。
それはすぐさま小さな棘となり、藍の肌をぴりぴりと突き刺した。藍はすぐに分かった。それは加虐の欲望であると。そう、鵺引はもちろん私兵たちも、この美しい獲物をいたぶりたくて仕方ないのだ。
しかし藍にはどうすることもできない。最前に言われた通り、目を閉じ耳を塞いだまま震えるだけだ。緋魅を信じるだけだ。
「………」
耳を塞いでも、無音の静寂が望めるわけではない。輪郭こそ明瞭ではないものの、怒声や叫喚、呻き声、床を踏み鳴らす音、不吉な金属音などが鼓膜に入り込んでくる。
「……んだこのっ……ばけも……」
「まさ…か……きさま…はっ……」
途切れ途切れに聞こえる男たちの言葉には明らかな驚きと、それ以上の怯え、震懼があった。対照的に、緋魅の動きに激しさはない。時折、ふわっと身体が持ち上がるような感覚になるが、両手は藍の身体を支えたまま。
彼がどうやって“戦って”いるのか見当もつかない。いつかのように、あの黒い爪で身体を引き裂いているのか、あるいは、それとも───
「ぁ……」
悪夢への怯えより好奇心がまさった藍は、薄目を開けてみた。床に仰向けで倒れ、でっぷりと突き出た腹をびくびく蠢かせているのは、鵺引で間違いない。ただしその身体には、四肢と両目がなかった。
彼は人形を愛する余り、ついに自分を人形にしたのでした───などと出来の悪い怪奇譚の結末のようだが、それは人形というより巨大な芋虫のようで、恐怖より生理的嫌悪を誘発する。
藍は鳩尾の辺りから不快な塊が込み上げるのを感じたが、必死に押し戻した。そして激しく後悔しつつ再び目を閉じる。さらに、徐々に濃度を増す血臭から逃れるため、努めて口で呼吸をした。
すると、舌が血の味を感じたような気がして、藍は思わず喉を鳴らす。自分が、緋魅と同じ魔の眷属になったような錯覚にほんのひとときだが酔い痴れた。
血臭が増すのに反比例するように、殺気立った空気は徐々に静まっていった。やがて、完全な静寂に。それでも藍は先刻の教訓もあり、まだ頑なに目と耳を閉ざしていた。すると、
「藍、もういいぞ」
その声にはたと我に返り、おそるおそる両手を離し目を開ける。見えるのは、闇。聞こえるのは澄んだ跫音。何がどうなったのか状況を知るため、藍は必死に感覚を尖らせた。緋魅に訊ねてもどうせまともに答えてはくれないと分かっていたから。
どうやらまだ鵺引の屋敷の中らしい。歩いているのは長い廊下。灯りはともされていなかったが、小さな窓から月の光が差し込んで、部分的に明るくなっていた。闇に張られた優雅な罠の如く。
緋魅の歩みに、普段と変わったところはない。早くここから脱出したいと、焦る様子も見られない。どんな状況も、彼から王者然たる振る舞いを奪うことはできないのだ。
「なあ、緋魅。俺って……人形にする価値もなかったみたいだな」
「ああ、そのようだな」
藍は思わず笑った。木の枝が鳴るような、乾ききった笑い声だったが。
「否定しないんだ。さすが緋魅だ」
そして、包帯でぐるぐる巻きにされた左足の切断面に、悲愴な眼差しを送る。しかしふっと表情を和らげ、
「……でもいいんだ。弟がこんな目に遭わなかったんだから。それだけでもう十分だ」
これは、藍の本心だった。左足がなくなってしまったのはもちろん哀しい。でも自分がここに来なかったら、幸希の足が切り落とされていたのだ。それを知ったら、両親がどれほど嘆くだろうか。
「お前、そんなに弟のことが大事なのか」
緋魅にしては珍しい類いの質問だ。藍は戸惑いつつも大きく頷いた。
「う、うん。もちろん大事だよ。あいつ、成長して口は悪くなったけど、小さい頃は俺のこと兄ちゃん兄ちゃんって言って慕ってくれたんだ。だから───」
緋魅がいきなり立ち止まった。その理由は明白だ。前方に突然、幸希が現れたのだ。まるで、二人の会話が引き寄せたかのように。
「幸希！ お前はもう、ここにいる必要はないんだ。早く父ちゃんと母ちゃんの所に……」
藍は途中で言葉を呑み込んだ。眼窩からこぼれ落ちそうなほどせり出した幸希の目は血走って、藍を睨んでいる。そこにあるのは、煮詰められた怨憎の情のみ。藍は何がなんだか分からぬながらも、身体が芯からすぅっと冷えてゆく感覚を味わった。
「なんでお前みたいな出来損ないのグズが、緋魅様の傍にいるんだよ」
「幸…希……」
「肉人形になって、鵺引の慰み物になって、飽きられて豚の餌になる。それが兄さんに相応しい。父さんも母さんもそう思ってたからこそ売ったんだ」
分かってる。自分にその程度の価値しかないことは分かっている。けれど……。
「あ……あ……」
気付けば、全身がガタガタ震えていた。初めて遭遇する純粋な憎悪、純粋な悪意。その凄まじいまでの負の力に、身体が勝手に白旗を挙げたのだ。突如として剥き出しになった弟の本性に、藍は哀しいとかショックだとか感じる前にただ怯えた。
「おい、豚の餌以下」
それが、緋魅から幸希に対して投げられた言葉だと気づくのに、少し時間を要した。
「ここから出ていけと忠告したはずだ。まあちょうどいい。お前、こいつの切られた足がどこにあるか知ってるだろ？ 場所を教えろ」
「……切られた足なんか捜して、どうするつもりですか」
「すぐに接合すれば間に合うかもしれない。それは無理でも、義肢を作るための型を取るのに使える」
硬いものをこすり合わせるような、嫌な音がした。見れば幸希が、片側の頬を引きつらせ奥歯を噛み締めている。が、すぐに表情が変わった。ニタリと笑うその顔に、嘗ての“天使の微笑み”は影すらない。
「足ぃ？ そんなの、とうに処分しちゃったよ」
「幸希……」
「言っただろ？ 最後は豚の餌になるってさ。だからくれてやった。たぶん骨も残ってないよ。旨そうにバキバキ喰ってたからさぁ！ あはははははっ………」
藍は咄嗟に耳を覆った。もう、何も聞きたくなかった。これ以上、憎悪という名の酸を浴びていたら、心も身体も腐敗してしまう。
「も……いやだ……いやだぁぁ………ッ」
頼ってはいけないと分かっている。しかし藍にはもう、緋魅しかすがるものがなかった。首にしっかと抱き着き、消え入りそうな声で「たすけて…」と乞うた。
「まったく、手のかかる使用人だ」
緋魅は普段と同じ口調でそう言うと、再び歩き出した。その瞬間、突如天井が炎に包まれた。火種などどこにもないというのに。
いや、緋魅こそ火種なのだ。この世の穢れや醜悪を浄化する、神聖なる魔の炎。呪も術も必要ない。ただ彼が望むだけで、そこに炎が顕現する。嬉々として、赫々と。
あっという間に周囲は緋の幕で覆われた。あらゆるものを焼き尽くす轟音はまるで、獣の咆哮のようだ。
その隙間から、断末魔の叫びが聞こえた。それは聞き覚えのある、というよりつい先刻まで聞いていた声のような気がしたが、傷悴しきった藍にはもはや、何かを考える力は残されていなかった。
「帰るぞ」
緋魅の言葉に力なく頷き、藍は静かに目を閉じた。
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