─The Holy tragedy─
＜XII＞
「そっ……か……」
藍は、いつか見た夢を思い出した。そう、緋魅の屋敷に来て間もない頃、高熱を出して倒れた時だ。声を潜めて話す両親の夢。母は確かこう言った。『役立たずは役立たず。食い扶持も減らせるし、ちょうどいいじゃない』と。
これは夢ではなく、藍が実際に耳にした言葉なのだろう。かつて住んでいた狭い家は、密談には向いていない。両親のひそひそ話をつい聞いてしまうことはよくあった。
当時の藍には意味の分からない言葉だったが、ずっと頭の片隅に残っていたということは、心のどこかでは気付いていたのかもしれない。自分はいずれ捨てられるだろう、と。
「うん、そっか……。確かに俺、人形になるくらいしか使い道なかったもんな」
自虐的になってしまうのも無理はなかった。親にまで要らないと言われた人間に、一体どんな価値があるというのか。
このエリュシオンで緋魅に拾われ、居場所を見つけることができたと思った。多少は役に立つ人間になれたと思った。
でも根本は何も変わっていない。何の価値もない、道端の石ころ同然の人間だ。その揺るぎない事実を、あらためて突き付けられた。いや、思い出させられたのだ。
「分かってるなら、なんで逃げたんだよ。兄さんが逃げなかったら、緋魅公爵に仕えたのは僕の方だったのかもしれないのに。いや、きっとそうだ。兄さんなんかより僕の方がずっと綺麗なんだから、緋魅様だって僕の方を選んでくれたはずだ！」
「それは……」
反論の言葉は出てこなかった。緋魅が幸希を雇ったかどうかはともかく、少なくとも鵺引よりまともな主人に仕えることはできただろう。幸希ほどの容姿ならばきっと、貴族からも引く手数多だったに違いない。
藍は許しを乞うように深く項垂れた。すると、いきなり背後から肩を掴まれ、びくっと身じろいで振り向いた。するとそこには、二度と見たくなかった顔が。
「鵺引伯爵……」
緋魅が、夜会に藍を伴わなかった理由はこれだったのだ。鵺引も招かれているのを知っていたから、藍と顔を合わせないよう配慮したに違いない。
鵺引は、相変わらず醜かった。たるんだ顎の肉が、襟の上に乗って波打っている。小さな目は濁り、真っ黒に染めた髪はゴキブリの翅のようにてらてら光っていた。
ある意味これも人外だなと思いつつ、藍は身構えた。逃げたことを罵倒されるに違いないと思ったのだ。しかし、
「おお、おお。なんと愛らしいサファイアの瞳。とてもよく似合っているよ、My Doll。まるで、宝石の国の王子様のようだ」
鵺引は罵倒どころか嬉しそうに顔を緩め、大仰な口調で藍を褒め称えた。
「ご無沙汰しております……鵺引伯爵」
藍も礼を失しない程度に挨拶をした。この制服を着ている以上、緋魅家の人間として振る舞わねばならない。感情に任せて緋魅の名を汚すような真似はできない。
「そんな他人行儀な挨拶は要らんよ。それより、ちょっと話したいことがある」
鵺引はそう言って藍の肩を抱き、部屋の隅に移動した。幸希も付いてこようとしたが、「お前はいいから下がってろ」と冷たくはね付けた。
「お話とは何でしょうか。主人に渡さなくてはならないものがあるので」
暗に時間がない、急いでいると伝えると、鵺引はうっすら笑って、
「今は藍という名前らしいな。ご婦人方がお前の噂をしているのを、よく耳にするよ。すっかり人気者ではないか。緋魅公爵には、可愛がってもらってるのか？」
“可愛がる”の意味が正確には分からないものの、その下卑た表情と口調は、藍の嫌悪を誘発するには十分だった。
「はい。とてもよくして頂いてます」
藍は簡潔に答えて、この場から逃れようとした。しかし鵺引は、藍の肩を掴んだ手にさらに力を入れて、
「それはそれは。しかしな、お前は元々、私の人形になるためにこのエリュシオンに来たのだ。左目のサファイアがその動かぬ証拠。それは分かっているな？」
「……分かっています。でも俺はっ───」
「なのにお前は緋魅公爵のものになってしまった。私がどれほど嘆き悲しんだか分かるか？」
藍に反論する隙を与えず、鵺引は自分の言葉を続ける。藍が黙り込むと、鵺引は満足げに頷き、
「左目に輝くコーンフラワーブルーサファイア。この最高級の宝石を贈ったのは、お前が特別だからだ。私は、お前が大層気に入ったんだよ。きっと素敵なDollになると確信している」
鵺引の言葉も思考も確かに狂っている。しかしその熱意は本物だった。
「少年から青年への過渡期こそ、人間が最も輝く黄金期。なのにそれはあっという間に過ぎて、みんなさっさと大人になってしまう。私はそれが淋しくて残念でならないのだよ。だからこれ以上成長しないよう、最も美しく輝いている状態で時間を止める。それこそが生き人形の哲学なのだ」
鵺引の熱弁にあてられた藍は立ち尽くすばかり。すると鵺引はすぅっと顔を近づけ、藍の耳に口を寄せ、
「……しかしまあ、お前がどうしても嫌だと言うなら仕方ない。代わりに弟に、人形になってもらおう」
「幸希に……」
「そう。お前の身代わりだ」
「そんなっ……弟は関係ない！」
震える声で訴える藍に、鵺引は笑顔で頷いた。
「そう、本来ならば弟は無関係のはずだ。それを結果的に引きずり込むことになってしまったのは、誰のせいかな？」
「俺の……せい……」
「そういうことだ。少し考えてみるといい。そもそも、親に売られたのは誰だったのか。決められた運命から逃げるという罪を犯したのは誰だったのか。そうすれば自ずと、選ぶべき道が見えてくるはずだ。決断は、なるべく早い方がいい。ぐずぐずしていると、弟が人形にされてしまうぞ」
鵺引はようやく藍を解放した。そして落ちていた黒い眼帯を拾い上げ、藍に手渡した。
「安心しなさい。お前が人形になったら、うんと可愛がってあげよう。緋魅公爵よりも、な」
そう言い残して立ち去る鵺引の後を、幸希が慌てて追いかける。二人の姿が見えなくなるまで、藍はその場に立ち尽くし見送った。
自分はどうすべきなのか。藍は帰りの車を運転しながら考えた。いや、論理立てて考えるというより、ふわふわした思考の断片を追いかけると言った方が正しい。まともに頭を働かせることができる精神状態ではなかったのだ。
エリュシオンに来るずっと前から、父と母は藍を売るつもりでブローカーとコンタクトを取っていた。売られた先で藍がどんな目に遭うかも分かった上で、契約を進めていたのだ。
───俺、ほんとに要らない子供だったんだなあ。
両親はよく、エリュシオンでの新しい生活について子供たちに話した。向こうで仕事を見つけたら小さな家を借りて、また家族みんなで仲良く暮らそう。すぐに裕福になるわけではないけれど、今のこのどん底からは抜け出すことができる。ご飯をお腹いっぱい食べて、ふかふかのベッドで寝ることも、きっとできるようになるだろう、と。
貧しさに慣れてしまった藍には、そんな両親の言葉は夢物語にしか聞こえなかった。それでも、家族みんなで明るい未来に向かって進んでいくんだという前向きな気持ちと、そして幾許かの期待感は持っていた。
まさか、両親の描く未来図に自分が入っていないなんて、思ってもいなかったのだ。
藍は運転しながら、幾度か右目を拭ってみた。しかし涙が付着することはなかった。まるで、右目までも抉り取られて宝石を嵌め込まれてしまったかのようだ。弟がもたらした残酷な真実は、藍の心に哀しみではなく無感動（アパシー）を植え付けたようだ。
結論は出せないまま、屋敷に戻ってきた。藍は素早く降車して、緋魅のためにドアを開ける。彼が音もなく降り立つと、闇が畏怖するかのようにぎゅっと引き締まるのが感じられた。懐中時計にちらと視線を落とし、
「もうこんな時間か。思いのほか長居しちまったな」
忌々しげに呟いて、さらりと前髪をかき上げた。
「食事はしたのか？」
藍の問いかけに、緋魅は軽く肩をすくめ、
「ま、それが目的だからな」
「それじゃ、もう満腹？」
藍が続けて訊ねると、緋魅はあからさまな嘲りを唇に乗せた。
「満腹になるまで食うという醜態をさらすのは、人間と家畜だけだ。適度な飢えは、知性と感性を清浄に保つ」
つまり、彼は今も適度な飢餓状態にあるということだ。藍は両の拳を握り締め、深呼吸をした。そして挑みかかるように見上げ、
「緋魅、これが最後だ。俺の血を吸ってくれ」
“最後”の言葉に相応の覚悟を込めたつもりだったが、緋魅の返答にはいささかの迷いもぶれもなかった。
「断る」
「お願いだ。もう……これしかないんだ」
この身体に流れる血。生命の源。これを緋魅が生の糧としてくれるのなら、まだ自分にも価値はあると思うことができた。でも、
「要らねえって言ってるだろ。こっちにだって選ぶ権利はある」
「つまり俺には、血を吸う価値もないってことなのか？」
「なんで俺が、お前の価値とやらを保証してやらなくちゃならないんだよ。お前みたいなただのクソガキの価値を」
「……吸ってくれないなら、俺、この屋敷から出ていく。そう言っても駄目か？」
本当に、これが最後だった。これで拒否されたら、もう藍に言うべき言葉は何もなかった。退路を断って訴えた藍だったが、それも緋魅に冷笑を浮かべさせただけだった。
「吸ってくれないなら出ていく？ お前、サルの分際で俺を脅迫しようっていうのか。呆れた大馬鹿だな。出ていくなら勝手にしろ」
「緋魅、俺っ……」
全身から力が抜けていく。自らを鼓舞するように握り締めていた拳はだらりと弛緩し、首はがくんと項垂れた。
自分の身体なのに、思うように動かすことができない。ああそうか。これは自分を待ち受ける運命の予兆なのか。四肢を自由に動かすことのできない人形。結局、遅かれ早かれそこに行き着く運命だったのだ。両親に売られた時から。
「俺……」
鵺引の人形になるよ。動かぬ舌に別れの言葉を乗せて、藍は静かに決意した。
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