Special Present for Z
僕たちは、週に一回外出する。薬品の匂いがたちこめる白い部屋を出て、外の世界へ。柘榴氏はまず、献血所へ向かう。唯一の食糧である血液を受け取るためだ。
もちろん僕は付いていかず、カフェや公園など適当な場所で待っている。受け取ったという“食糧”を見せてもらうこともしない。その必要はないからだ。
僕が彼とともに生きると決めた世界では、柘榴氏が『吸血人』であること、そして人の血を生きる糧としていることは自明の理なのだから。
それから僕らは、好きな場所へ向かう。決められた時間内に戻ってくれば、行動に制約はない。どこへ行っても何をしても構わない。その日の気分や天気によって、何をするか決めるのだ。
とはいえ、僕も柘榴氏も人ごみが苦手だったから、必然、繁華街は避けて人気のない公園とか、マイナーな現代アートの展覧会へ足を運ぶことが多かった。
そして夜は僕の部屋で晩餐。供されるのは僕の生き血だが、もちろん柘榴氏は、いきなり首筋に咬み付くような無粋な真似はしない。それは、快楽の何たるかを知らない野蛮な吸血人のすることだ。
食欲という最も原始的な欲望を練磨し、洗練された快楽と為す術を心得ている柘榴氏は、素材の下ごしらえを忘れない。丁寧な愛撫で僕の身体を快楽という蜜に漬け込み、心身ともにとろけさせてから、ゆっくりと味わうのだ。
食欲と性欲は、生命維持という根で繋がっている。だから、それらを同時に満たそうとする柘榴氏はとても賢明だと思う。
それに、この二つの欲望は根幹で繋がっているだけではなく、互いに干渉し合うことで、より深く濃密な充足感を得ることができる。性欲は食欲を亢進させ、食欲は性欲を増幅させるのだ。
柘榴氏の細く長い牙が僕の頸をつぷりと裂いた瞬間、後孔の奥深くに突き刺さっていた逸物が暴発することがしばしばあった。血の匂いと精の匂いが充満する中、なおも腰を揺らして僕を貪ろうとする柘榴氏が、愛しくて愛しくてたまらなかった。
捕食者へ注がれる生餌の愛。それこそ、この世で最も美しく純粋で、崇高な愛ではなかろうか。僕はまさに、その至高の愛の体現者なのだ。
そうして、僕たちの日常は平穏に過ぎていった。柘榴氏が構築した精緻な虚構世界は、僕という新たな住人を迎え入れたことでさらに安定し、色彩豊かなものになった。
なるほど、僕たちは狂っているのかもしれない。異常なのかもしれない。しかし僕たちから見れば、細分化した欲望と洪水のような情報に踊らされている“外の世界”の方が異常だった。
外の狂躁を、薄い膜を隔てたこちら側から傍観しつつ、僕たちは僕たちの世界にゆったり微睡む。かすかな血臭を漂わせながら。
「あ。そういえばもうすぐバレンタインですね」
週に一度の外出日。僕たちは珍しく繁華街を歩いていた。道行く人はみな、老若男女問わず柘榴氏の白皙の美貌に目を留めたが、平均に馴らされた凡庸な感性は行き過ぎた美を怖れるのだろう、みな溺れる直前で慌てて顔を背けた。
もちろん柘榴氏が、そんな“外部”のことを気に留めるはずがない。僕の言葉に「そのようですね」といつもの冷ややかさと優雅さが溶け合った声で応えたが、珍しくその直後に溜め息をついた。
「どうしたのですか？ 溜め息なんて」
「ああ、失礼しました。バレンタインには苦い思い出しかないもので。それで、つい」
僕は、自分の声が自然と低くなるのを感じた。
「どんな思い出ですか？」
そんな声の変化を敏く察知した柘榴氏は、取り成すような笑みを浮かべ、
「くだらない話ですよ。取り立ててお話しするようなことでは……」
「僕には言えないような思い出？」
さらに追及すると、柘榴氏は笑みを深めて僕の頬を撫でた。二月の外気を凌ぐほど冷たく乾いた指先の感触に、僕のざわつく心がすぅっと静まる。
「もしかして月深さん、妬いているのですか？」
問う声に面白がるような響きを聞きつけ、僕は少しムッとして答えた。
「当然です。僕は柘榴さんの過去全てに嫉妬しています。特に、これまであなたの糧となったことのある人間には」
「月深さんほど深く濃密な関係を築いた人はいませんよ。肉体的にも精神的にも食糧的にも」
「それは分かってます。それでも、です」
言ってしまってから僕はおそるおそる訊ねた。
「呆れましたか？ こんな嫉妬深くて」
「いいえ。嫉妬は血を濃くすると言います。今夜の晩餐が楽しみだ」
冗談なのか本気なのか分からぬ彼のこうした言葉が、僕は好きだった。自然と綻ぶ唇から、拗ねたような甘えたような抗議がこぼれる。
「柘榴さんの意地悪」
すると彼は、絶妙の曲線を描く薄い唇をついと吊り上げて笑った。隙間から覗く白い犬歯に、僕の鼓動は自然と速まる。おかしな感覚かもしれないが、それは僕にとっては性器にも等しい秘部なのだ。
あの牙が僕の頸に突き立てられ、ゆっくりと皮膚に沈み込んでゆく。それこそ、性器の交わりにも劣らぬ淫らで神秘的な交合だった。
「おや？ 頬が赤くなってる。体温も少し上がったようですね。どうされましたか？」
「別に、どうもしません」
柘榴氏は、血流の変化に伴う身体の変容に敏感だった。肌の色や熱、湿り気はもちろん、呼吸や鼓動、瞳の潤みなどを見逃さない。案の定、耳元で囁かれた。
「私の目は誤魔化せませんよ。ほうら、肌の下から血色が透けて見える。とても綺麗で、美味しそうだ。肌の匂いも、さっきよりずっと甘い。もしかして、これに欲情しましたか？」
ニッと唇を上げて犬歯を露わにする柘榴氏は、休日の繁華街には相応しくない魔の瘴気をまとい妖しく輝く。
僕はさらに血流が激しくなるのを感じたが、これ以上やると自身が飢えを抑えられなくなると判断したのだろう、柘榴氏は「失礼しました」と穏やかに微笑んで、魔の仮面から紳士の仮面に戻した。
「先ほどの話ですが、本当に大した思い出ではないのです。バレンタインデーになると、それまで粛々と血を吸わせてくれた提供者たちが、ここぞとばかりにチョコレートをくれることが多かったもので。愛の証だからぜひ食べてほしいと言われても、私は人の血しか受け付けない身体であることは分かっているはず。愛や誠意を持ち出されても、無理なものは無理なのにと、不思議でなりませんでした」
なるほど、それは確かに不思議ですねと答えながら、僕はひそかにほくそ笑んだ。まったく、愚かな女たちだ。柘榴氏の“妄想”に呑まれたふりをしながら、いつか自分の“深い愛”で彼を虚構の世界から救い出そうと、その機会を耽々と窺っていたのだろう。
聖なるバレンタインに手作りチョコレートを用意し、これ私が一生懸命作ったの、だからお願い食べて、吸血人などという悪夢から目覚めて、私を餌ではなく恋人として愛して───などと懇願したに違いない。
そいつらは何も分かっていない。柘榴氏を自分のものにするには、自ら虚構の世界に飛び込んで、より深く深く引きずり込むしかない。そしてそれは、柘榴氏にとっての救いでもあるのだ。
その覚悟もないくせに、生半可な気持ちで近づいて『愛』を振りかざすなんて、愚か以上に卑しいと言わざるを得ない。でも、
「バレンタイン、かあ……」
だからと言って、自分たちにとってイベントが無意味なものだと断じるのも早いのではないか。イベントなんて所詮、どんな神聖なものであっても利用してなんぼのものだ。この機会を利用して、チョコレートのように甘くとろける愛を柘榴氏に伝えることができるはずだ。
かつて、愚かな餌たちができなかったことを、僕が鮮やかにやってみせようじゃないか。
「楽しみだな」
「え？ なんですか？」
「あ、いいえ。なんでもありません。さ、早く僕の部屋へ行きましょう。柘榴さんも、お腹すいてきたでしょう？」
含蓄込めた僕の問いかけに、柘榴氏は優雅に頷いてから紅い舌でちらと唇を舐めた。
その一週間後。血の晩餐日は奇しくもバレンタインデー当日だった。僕はいつもより少し早い時間に柘榴氏を自宅に招いた。今夜の晩餐は、ゆっくり味わってもらいたかったからだ。
部屋に入るなり、柘榴氏は鼻を軽くひくつかせた。そして何だか甘い匂いがしますねと言って首を傾げる。僕は笑って頷き、
「ええ、そうでしょうとも。今日はバレンタインデーですから」
僕の言葉に、柘榴氏は美しい額をかすかに曇らせた。過去の嫌な思い出が蘇ったのだろうか。それとも、僕がこんなイベントにこだわることに不審を覚えたのだろうか。まあどちらでも構わない。そんなものすぐに、僕が消し去ってあげる。
「バレンタインに相応しい贈り物を用意しました。受け取ってくれますか？」
そう言ってゆっくり近づくと、柘榴氏は憂愁と憐憫の混じり合った眼差しを向けてそっと後ずさった。そして疲れたような声で、
「あなたまで、そんなことを仰るのですか」
きっと彼の頭の中では、チョコレート色の憂鬱な思い出が走馬灯のように駆け巡っているに違いない。冗談じゃない、僕をそんなバカ女たちと一緒にしないでほしい。
「吸血人のあなたにお菓子を贈るような愚かな真似を、僕がするとでも？」
僕は問いを返しつつ、シャツのボタンを外して頸を露わにした。そこには、贈り物の証である赤いリボンが結んである。そこに真っ直ぐ注がれる柘榴氏の視線は、あからさまな飢えと情欲で沸き立ち、その熱さで肌が灼けそうだった。
僕は体内の熱を吐き出すため、深く息をついた。そして柘榴氏を見返し、
「僕は昨日一日、チョコレートだけを食べて過ごしました。朝、昼、晩の食事全てをチョコレートにしたのです。それらは今ごろ、僕の血になって体内を巡っているはず。ね、バレンタインに相応しいと思いませんか？」
柘榴氏の柘榴色の虹彩が、驚きに一瞬収縮する。しかしすぐに花開くようにふわっと広がった。そして真っ直ぐ僕に近づき、頸に結ばれたリボンをするりとほどく。と同時に、唾液を嚥下する野卑な音が聞こえた。普段は周到に隠している柘榴氏の獣性が、その音と喉仏の動きに表れていた。
ああ、早く、早く味わって。突き刺して吸い上げて飲み干して。声にならぬ請願が、全身を駆け巡る。それに応えるように温かく湿った息が首筋にかかり、次の瞬間待ち焦がれていた灼熱の痛みが訪れた。
「あ……あ……」
一週間分の飢えを漲らせた牙が、ゆっくりと肌にめり込んでゆく。白く研ぎ澄まされたそれはあっという間に鮮血に染まり、ぬらぬらと獣めいた輝きを見せる。視界に入らぬその光景が、僕の目にははっきり見えた。
「は、ふぅ……」
下着の中はすでにぐっしょり濡れている。吸血行為はする側だけでなくされる側にも、性的高揚をもたらすのだ。
絶頂とは異なる緩く引き伸ばされた快感に微睡んでいると、再び首筋に痛みがともった。牙が抜かれたのだろう。濃厚な血臭に、鼻がひくつく。
「……確かに、いつもより少し甘いですね。とても美味だ」
血の装飾という頽廃美をまとった唇で、散文的な感想を述べる柘榴氏が可笑しかった。くすりと笑うと、それに連動して吸血痕からとろりと血が溢れた。柘榴氏はすかさず舌を這わせ、丁寧に舐め取る。そしてしみじみ味わい、
「素晴らしい贈り物でした。月深さん、ありがとう」
「喜んでもらえてよかった。これでもう、バレンタインデーに憂鬱な思いをしなくて済むでしょう？」
「はい。むしろ、楽しみなイベントになりました」
そう言って微笑む柘榴氏は無邪気な少年のようで、僕は込み上げる愛しさを噛み締めた。
（Fin）
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